夜に融ける
団地裏の駐車場に車を停めると、九月の午後の、まだ居座っている夏の大気の中に、あの臭い―― 禍々しくも物哀しい、一生嗅がずに済むに越したことのない悪臭―― が漂っていた。
アロハのシャツと短パン姿でステーションワゴンの運転席から降りた田辺義之は、その場で、ガスマスクとゴーグル付きのディスポーザブル防護服を手早く着込んだ。田辺に続いて、助手席から降りた森南雲も、同じように手際よくユニフォームを着た。その防護服のユニフォームを普段彼らは宇宙服と呼んでいる。
蒸し暑さが全身を包む。
田辺が車のハッチを開け、台車と、業務用オゾン発生器とサーキュレーターを三個づつ下ろした。森がオゾン発生器を慎重に台車に積み上げ、その上にサーキュレーターを一個載せる。残りのサーキュレーターを両手に一個ずつ下げた田辺が足早に歩きだした。台車を押した森が無言で続く。
団地の正面に回ると、マスクをつけた初老の管理人が、三号棟の入り口に立っているのが見えた。ハピネスさくら、と書かれたプレートが玄関脇に付けられている。
「いや、どうもどうも」
到着した二人に向かって、管理人が片手を挙げた。
「お陰様で、臭いは今朝よりは少しましになりました」
そう言う管理人に向かって、田辺は頭を小さく下げ、特殊清掃の作業代金見積書と契約書を差し出した。
午前中に警察から遺体搬出完了の連絡を受けた直後、現場の確認と作業料金の見積もりのために先刻ここに来た時は、確かに、もっと暴力的な臭気が充満していた。立ち会った管理人はえづきそうになり、一分と室内に居られずに出て行ってしまった。二人でサッシの隙間と換気口を養生テープで覆い、脱臭剤を置いたうえで一旦帰社して契約書類を作り、道具を積み込んで、出直して来たのだった。
「今年に入って二回目ですよ。前回は冬だったんでまだましだったけど、今回はちょっと」
「そうでしたか」
「いや、ほんと参りました。亡くなった人に文句なんか言えませんけど、はっきり言って大迷惑ですよ」管理人はぼやきながら、サインをした書類を田辺に返し、作業の着手金を支払った。田辺が領収書を渡す。
「お二人は慣れてらっしゃるでしょうけど」
「まあ。仕事ですから」
田辺の横で、森も黙って頷きはしたものの、二人とて慣れているから平気だというわけでは決してない。視覚や嗅覚と、感情を喚起する脳との回路を遮断する技を、普通の人間より多少会得しているだけだ。
管理人がサーキュレーターを三個とも抱えて持ってくれたので、田辺と森はオゾン発生器を両手に持ち、三人で階段を上った。二階の外廊下の突き当りの部屋のドアの前に立ち、腰を痛めないように気をつけながら荷物を下ろす。
プラスチックの室名札に嵌め込まれた厚紙には二〇五号という番号と、阿曽浩二というフルネームの名前がマーカーの太字で書かれていた。
「失礼します」
玄関前で田辺と森が手を合わせて頭を下げた。つられて管理人も同じように手を合わせ、そのまま二人に向かって、じゃ、と頭を下げた。
「鍵は開いてますんで、あとはよろしく。私、二号棟一階の管理人室にいますので、何かありましたら」と早口で言って背中を向けた。
ドアを開けた田辺と森が素早く中に入ると、ガスマスクを透過して臭気が鼻腔に入ってきた。確かに先程よりは幾分ましとはいえ、それでも排泄物と腐った卵と玉ねぎとを一緒に煮込んで濃縮したような臭気はまだまだ凄まじい。蠅が飛び、ゴキブリが床を這っていた。
隆盛をきわめる虫の王国の背後に、人間がひっそりと暮らしていた痕跡があった。玄関には破れて穴の開いたスニーカーが一足。キッチンの蛍光灯は点けっぱなし。田辺の後に続いて、靴を履いたまま玄関に入った森の視線が、靴箱の上に置かれた小皿にとまった。橡の実が二個、帽子をかぶったクヌギの実が一個、皿に入っていた。昨年のものだろうか。近所を散歩をした阿曽という住人が拾って持ち帰ったのだろう。
「どうした」と田辺が板の間から振り返って言う。
「いえ、何でもないです」
「何か気になるものがあれば言ってくれ」
「はい」
玄関から続く板の間のキッチンは、左手に小さなシンクと水道、白い小型冷蔵庫が据えられ、左手のドアはバスルーム。その先に続くフローリングの部屋はカーテンが閉められていて薄暗い。部屋の左隅に敷かれた布団が少し窪んでいる。そしてその窪んだ部分が人間の形通りに、段ボール色の染みになっている。染みの上にびっしり散った黒い斑点は、無数の蠅の死骸だ。
「じゃ、始めよか」
田辺の言葉を合図に作業が開始される。二人は、噴霧器に入った次亜塩素酸の消毒液を部屋中に散布していく。これでまず有害な細菌やウィルスを除菌するのだ。
森が板の間、田辺がリビングを担当した。靴箱、食器棚。そしてその中の食器類。森は淡々と噴霧作業を進めた。自分が使っているのと似たデザインの茶碗にちらりと視線がとまる。
シンクに置かれた未開封のカップラーメン。黒く変色したバナナの房。全てにノズルを向ける。一方、田辺は、まず遺体の体液がしみ込んだ布団や床に満遍なく噴霧し、そこから服、家具、カーテン、床に積み上げられた大量の本とを薬液で濡らしていった。
部屋の隅にくたびれた黒いリュックが置かれている。ファスナーを小さく開けてみると紙の束が大量に入っているのが見えたが、田辺はそのままファスナーを締めた。現金や通帳印鑑、貴金属などでも出てこない限りそのまま捨てるだけだ。生活保護を受けている部屋の主が、そういったものをリュックに入れている可能性はまずなさそうだった。
一通りの薬液散布を終え、水分補給のために田辺と森はそろって部屋の外に出た。ユニフォームのファスナーを開けて、汗拭きシートで流れる汗を拭い、二人はペットボトルの蓋を開けた。
田辺と森は、かれこれ六年の付き合いになる。
W大三年生の田辺が部長をしていたBSS( 文芸創作集団の頭文字を取って並べただけという、呆れるほど安直なネーミングだ) というサークルに、その年入った二人の新入生部員のうちの一人が森だった。そして田辺が大学を卒業して就職をせずに、星野というサークルの友人と二人で立ち上げた特殊清掃グリーンサービス社に、今度は初めての大卒新入社員として森が勤め始めてから二年目になる。創業メンバーの星野が昨年、突然机の上に辞表一通置いたまま、国外へと放浪の旅に出てしまったのと入れ替わりに、事務と経理担当の中村さんという四十歳の女性が加わり、現在は三人態勢でやっている。中村さんは非常に謎めいた人で、美人だし仕事は文句なしに有能といえるのだけれど、いつも伏し目がちで、必要最低限のこと以外ほとんど喋らない。
お互いの私生活には干渉しないというのが暗黙の了解のようになっていて、仕事の後に飲みに行ったりすることは基本的にない。森が入社した時の歓迎会、昨年末の忘年会、中村さんの歓迎会。森が入社して以来、飲み会はその三回だけだ。場所はいつも新宿百人町の、カウンターだけの狭い飲み屋。星野がまだいた時の森の歓迎会を除いての二回は、田辺と森のさし飲みだった。中村さんの歓迎会のとき、急にお腹が痛くなった、という子供のような言い訳をして、当の中村さんは来なかった。明らかなコミュ障である中村さんという女性にどう接するか、いささかの不安を抱いていた田辺と森は「さすがにこれ、あり得ないでしょう」「全くだよ」と呆れながらも安堵した。
中村さんにすっぽかされたその晩、質問、何でもいいぞ、とグラスにビールを注いでくる田辺に促されて、森は訊いた。
「何で会社を立ち上げたんですか」
「そりゃ、これからずっと多死社会だしな。需要が見込めるからだよ」
「先輩、その答えつまんないです」酔っていた森はそう返した。
「じゃ、お前こそ、何で俺んとこなんかに就職したの? 他にいくらでも就職先はあっただろうに」
田辺はビールをぐいと呷った。
「受けた全部の会社に、面接で落とされて腐っていたところに、先輩が声をかけてくれたからですよ」
「それこそつまんねえ答えだな」
田辺はカウンターの上についていた両肘を伸ばし、身体ごと森の方を向いた。
「本音を言えよ。お前、この仕事、ひょっとして小説のネタに使えないか、くらいに考えてたんじゃねえのか。取材のつもりで就職したんだろ」
森はぎくりとした。図星だった。
「いや、それでいいんだ。それでこそBSSの名に恥じない。実はな、俺も考えてたんだ。この仕事で人の終焉の有様を見る。そこにある現実を自分の中で料理して、何かの物語の形にしてみようとな」
「そうだったんですか」
「南木佳士みたいな、透徹した目で死を見つめる静謐な作品がずっと書きたかったんだよ。ダイヤモンド・ダスト素晴らしいぞ。読んだか?」
「芥川賞作品は全部読んでますよ。でも先輩はもっと、何というか、活力系というか、溢れ出た生命力がギラギラ零れ落ちそうな作品の方が似合いそうだけど」
「俺はな、行動はイケイケなんだけどさ、思考は内省的なの」
「なんか分裂してますね」
「まあ、いいだろ。とにかくぶっちゃけ、死というのは最大のテーマだからな。少しでもそこに近づける仕事をしたかったのよ。なら医者か戦場ジャーナリスト、葬儀屋、それかこういう仕事だろってことで」
森は小さく頷いた。
「星野も同じだった。でも甘かった。俺も星野も、半年もしないうちに思い知ったよ。この仕事、とてもじゃないけど、そんな動機で続けられる性質のもんじゃないってさ。星野が辞めたのは仕方なかった」
「わかります」
「この仕事、俺たちに礼を言ってくれるのは、まあ事故物件のオーナーくらいのもんだ。でもさ、俺には、一人ぼっちで死んだ人間の、声にならない感謝の声がようやく聞こえるようになった気がするんだよ。自分で整理できなかった余計なものを片づけてくれてありがとうございます、って。そう、大事なんだ、後片づけって。この世に残った痕跡を消し去る。何も残さない。死んだら全部消してさっぱり片づけた方がいいんだ。その方が、記憶は浄化されて誰かの中に残る。そんなことを考えるようになって、なんだか妙なんだけど、創作の方がいつの間にかどうでもよくなっちゃったわけ。産み出しあぐねる一方で、仕事で消してばかりいるうちに創ることが虚しくなったっていうか。どうも上手く説明できんのだがな。悟った、なんてもんでもないんだろうけど。まあとにかく、今の俺は自分の創作なんかのためじゃなくて、ただ、純粋に死者のためにこの仕事を続けてる」
田辺が空になったビールのグラスを差し出した。森はビールを注ぎ、自分のグラスにも手酌で注ごうとし、田辺がそれを奪い取って注ぎ返した。二人は何回目か分からなくなった乾杯をした。
体調が悪い。食欲は全くわかないし、全身の倦怠感が酷い。春から比べるとはっきりと痩せたのが自分でもわかる。エアコンが故障していて部屋の中は耐えがたく暑い。全身じっとりと汗ばんでいる。かといって近くの喫茶店に行く金もない。図書館は歩いていくには遠すぎる。
耐えがたくなった尿意に背中を押され、のろのろと身を起こした。自分の太腿に手を付いてようやく立ち上がり、よろめきながらトイレに向かった。
何日か前、スーパーの半額シールが貼られた総菜の唐揚げを食べていて、うっかり骨を噛んだ。左上の奥歯に激痛が走って、それ以来物が噛めなくなった。生活保護だから医療費の自己負担はゼロだ。だが近所の歯医者にはもう二度と行きたくない。
昨年受診したときの、嫌な記憶が蘇る。
治療ユニット脇のキャビネットの上、人目に触れやすい場所に置かれたカルテには、赤い大きな文字で生保、とスタンプが押されていた。横柄な若い歯科医師に口の中を調べられ、虫歯多いねえ、とか、歯石が相当たまってますよ、などと、衛生士の前で無遠慮に言われたのもいたたまれなかった。乱暴な手つきで麻酔を打たれたときは、びくりと身体が跳ねたほどにも痛かった。そのまま右上の奥歯を何の説明も無しに抜かれた。地獄の痛みとはあのときのことを言うのだろう。思い出すだけで身体が震える。あれは拷問そのものだった。涙が出た。それを見た歯科医師は衛生士と顔を見合わせながら笑っていた。だが抗議する気力も無かった。
思えば物心ついた頃から、歯がしょっちゅう痛かった。
小学生の頃、共働きの両親は、どちらも早朝から夜遅くまで家におらず、たまにいる時はずっと口論だけをしていた。朝起きたらテーブルの上に置いてあるパンを食べ、昼は給食、夜はカップラーメン。父親も母親も身勝手で理不尽で、どうしようもない人間だった。うまくいかないことがあると、二人とも必ず相手の、あるいはそれ以外の他人のせいにした。ごくたまに、子供心にもこれはさすがにおかしいだろうと思ったことに対し意見をしたり、言い返したりすると、途端に彼らは大声で、誰に食わせてもらってるんだと怒鳴り、時には手を出してきた。ある日珍しく家族三人で食卓を囲んでいたとき、手にとまった蠅を自分が払いのけたというだけのことで父親が怒り出し、母親が喚いて、食事が滅茶苦茶になったこともある。
中一で両親が離婚してから預けられた伯父の家でも、他に行き場のない子供の面倒をみてくれる人間は誰もいなかった。歯磨きをした記憶さえないのだから、歯がぼろぼろになって当然だろう。学校でも友達はおらず、休み時間は誰とも遊ばずに、いつも図書館に行っていた。学校から帰宅すれば家中の掃除や炊事、食器洗いをさせられ、勉強をした記憶もない。それでも図書館で、気に入った何冊かの本を飽きず繰り返し読んでいたおかげなのか、何故か成績だけは良かった。高校は公立の進学校に受かった。その高校の先生からは、大学もまずそこそこのところは大丈夫だろうと言われた。だが伯父も伯母も進路を決める三者面談に来なかった。うちは金ないから、と伯母にあっさり言われたし、自分自身、二人に学費を払わせてまで大学に行きたいという気持ちは毛頭なかった。
高校を出て、家を出て、水商売や日雇い、派遣を転々とした。
新宿のラブホテルの従業員をしていたときのことだ。篠崎さんという、いかつい坊主頭の社長が、ある日突然、控室に見回りに入ってきた。休憩時間で、自分は文庫本を読んでいた。古本屋で買って持ち歩いていた芥川龍之介の短編集。蜘蛛の糸とか、トロッコとかが入っていて、もう何度も繰り返し読んだせいで表紙は半分破れていた。篠崎さんはこちらをじっと見てから、何読んでるの、と覗き込み、へえ、と言った。それからポーチの中から一冊の本を取り出して、ぽいと投げて寄こした。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」という本だった。
「これ、お前にやるわ」
驚いて言葉が出て来ず、ただ黙って頭を下げた。
「俺はさ、強くなるために、たくさん本を読むようにしてんのよ」
「強く……なるため?」
「昔は本なんて読んだこと無かったからさ、そんな俺がこういうこと言うのもおかしいけどよ。十年くらい前、あっちに入ってたとき本読むようになってさ。今は柄にもなく結構読むんだよ。本はいいよな。俺ももっと若いうちからたくさん読んどきゃよかったな、って思ってんのよ」
篠崎さんは、そう言って、へっと笑い、欠けた左手小指のつるりとした断端を右手で撫でた。
「本が好きなんだろ。いいことよ。なら一冊でも多く読めよ。本を読めば、その中で沢山のありえない経験をするだろ。馬鹿なやつが成功するし、賢い奴が破滅する。信じた人に裏切られ、裏切られた人に助けられる。そうしているうちに、この世の中の不条理に動じない精神の強さってもんが身に着く。そうしたら本当に強くなれんだよ」
篠崎さんのいう強さが、どんな種類のものを指すのかよく分からなかったし、別に強くなどならなくてよいけれど、その言葉は信じてみようと思った。好きな本を繰り返し、だけではなく、もっとたくさんの本を読んでみよう、と。
新宿図書館から本を借りて、仕事の合間にむさぼるように手あたり次第に読んだ。手元に置いて何度も読み返したくなった本は、食費を切り詰めて本屋で買った。特に好きだったのは中上健次とフラナリー・オコーナー。どちらも、ぞわぞわする感じが好きだった。
読んでいるうちに、自分の中に言葉が溜まって膨れ上がっていく気分になってきた。それらを吐きだしたくなり、自分でも書いてみようと思いついた。まず大学ノートに鉛筆で書き始めた。それから原稿用紙に書くように。その後、中古のノートパソコンを入手し、それで書いていた時期もあったが、誤ってコーヒーをこぼしたせいで故障して使えなくなった。パソコンの修理代が払えず、手書きの原稿用紙に戻った。生活を維持するためだけの労働の時間が惜しかった。休日はアパートに籠って朝から晩まで書いた。腰の痛みのせいで座っていられなくなると、台所で立って書いた。書きたいことはいくらでもあった。
「物が少ないですね」
ペットボトルのお茶を半分ほど飲んだところで森が言った。田辺が頷く。
「確かに、最小限の物しかない。ただ本だけはやたら多いな。それもなかなかのものが床に積み上げてある」
警察からの情報では、阿曽浩二という人物は、五十六歳、無職、家族や身寄りは無いとのことだった。
「有里とは仲良くやってるの? 」
急に話題を変えた田辺に、森は首を振った。
「だいぶ前に別れました。先輩が卒業した年です」
「何で? 」
「何というか、合わなかったというか」
「そうか」
「もう今では人妻です」
「ふん。有里らしいよ、全く」
田辺はため息を吐いた。
「俺もなつみと一週間前に別れた」
「マジですか。知りませんでした。何でですか?」
「何というか、合わなかった」
森と田辺は顔を見合わせて笑った。
橘有里は、中学一年のときに、九州の地方新聞社が主催した文芸賞を、史上最年少で受賞した。彼女の作品はその新聞の紙面に全文が掲載され、少部数ながら単行本化もされた。しかしその文芸賞は地味なものだったし、本も地元の書店以外ではあまり取り扱いがなされなかったために、首都圏で話題になることはほとんどなかった。ただ、その作品はほんの短期間だが意外な脚光を浴びもした。一部のミソジニストやネット右翼のコミュニティに属する者たちからの激しいバッシングを受けたのである。それはすぐ鎮静化した。文芸マニアの田辺はその作品を読んで驚愕し、彼女の名前を記憶していた。その彼女が自分たちの大学に入学したという情報をネットで知った田辺は、入学式の会場に侵入して本人を探し出し、無理やり一号館地下のBSS部室へと連れ込んだ。傍目には強引なナンパにしか見えなかった。その時たまたま近くにいて、名前も知らない同級生の華奢な女の子が、怪しげなロン毛で長身の先輩に肩を抱かれるようにして連れ去られたのを目撃し、後をつけて来たのが森である。「こんな強引な勧誘、よくないと思います。勧誘ハラスメントです」と森は勇気を奮って先輩を咎めた。それなのに当の有里は「仕方ないですね。これもご縁ですし」とさしたる抵抗もせず、あっさり入部を承諾してしまった。自分の放った勇ましい言葉が完全な空回りに終わり、内心途方に暮れていた森に対して、田辺は「いやいや、ほら、彼女は入ってくれたし、ここまで来てくれた以上、君もBSSに入るんだよ、彼女は君のイデアなんだから、当然、君はそうするべきだと思わないか?」と意味不明の論を展開し、あっけにとられているうちに森も半ば強引に一緒に入部させられる羽目になった。
森は元々読書は好きではあったが文芸創作に興味はなかった。テニスか旅行などの気楽なサークルに入るつもりでいたのだ。そこで友人をつくっておけばテストの情報交換などで困らないだろうという程度にしか考えていなかった。だがこの日の、田辺と有里との出会いが、森の学生生活を意図しない方向へと押し流した。
美人で、小柄で、長い黒髪を腰まで伸ばし、前髪をきれいに切りそろえている有里は、実績からして創作活動の中心、BSSの看板になると期待された。だが有里は入部早々あっさりと、書くのはもう飽きたからやめた、と宣言した。実際、BSSメンバーの中で彼女だけがただ一人、短編一つさえ書こうとはしなかった。その代わり、批評担当として、有里は無くてはならない存在となった。合評会での中心は常に有里だった。彼女は柔らかく透き通る声で、作品の本質をとらえた的確で鋭い指摘を淀みなく口にした。情け容赦無く作者を打ちのめしてから、彼女はよく「書く人はやっぱり偉い。書き続ける人を私は尊敬する」と付け加えた。そのくせ「じゃあ、有里もいい加減そろそろ書いてよ」と言われると「やだ、無理」とにべもなく拒否した。
自分が小説を書くことになるなどとは、森はそれまで一度も考えたことは無かった。しかしなりゆきとはいえBSSに入部した以上、書かないわけにはいかない。有里のように実績があって我儘を聞き入れてもらえる立場でもない。田辺と有里に催促され、とりあえず筒井康隆を模倣して、二十枚ほどのシュールな短編小説を見よう見まねで書いてみた。有里の評価は「やるじゃん。面白い。才能あるかも」だった。厳しい有里から、処女作が意外に好意的な評価をもらえたことで、森は有頂天になった。どうやら自分の中には、小説を書きたい欲望が隠れていたらしい。小説家という巨大な未踏峰が忽然と姿を現して、自分を手招きしているように思えた。実のところ、批評されたショックで森がBSSをやめたら困るから、と田辺にこっそり指示されて、有里は大いに手加減、というよりも単に森をおだてただけではあったが。ともかくこうして森の創作本能に火が点った。それに何より、森はいいものを書いて、少しでも有里の気を惹きたかった。彼女は君のイデア。田辺のその言葉が意識の中で膨らんで、気がつくと森はすっかり有里に心を奪われていた。
だから二か月後、田辺が新入部員の橘有里を口説き落として恋人にしたことで、森は絶望のどん底に叩き落とされた。一時期、森の足はBSSの部室から遠ざかりかけたが、そんな森の気持ちを無視して、有里から、誘いの電話が、週に一度くらい近くの雀荘からかかってくるのだった。有里は麻雀の経験が全くなかったが、田辺に手ほどきを受け、すぐに田辺を凌ぐ雀士になった。
「メンツ足りないの。来てよ」
「他のメンツは?」
「可愛い子二人」
行ってみると大概残りのメンツは男二人で、そのうち一人は田辺だった。有里は覚えたてだというのに無類に強く、ほとんど田辺と有里で毎回トップを取り合っていた。森はからきし弱く、いつも二人にカモにされていたが、一度だけ、親で国士無双の天和という奇跡のダブル役満を上がって、有里と田辺をハコテンにし、それでようやく二人に対する鬱憤を晴らした。
有里と田辺の交際は長くは続かなかった。有里はその清楚な外見からは全く想像できないほど自由奔放だった。キャンパスを歩く有里の横にはほぼ常に日替わりの男がくっついていた。田辺は先輩の余裕を見せて最初こそ鷹揚に構えていたが、半年後には音を上げた。有里の浮気に振り回された田辺は、男の意地とばかりに有里に自分から別れを通告し、交際開始から一年持たずに二人の仲は破局したのだった。その後、自分の方から接近してきた有里にあっさりと陥落し、三年後に一方的に振られるまで、森は彼女と付き合うことになり、彼女に翻弄されるジェットコースターのような青春を謳歌した。下世話な表現をするならば、田辺と森はめでたく兄弟になったというわけである。BSSには一年生から留年中の六年生まで、田辺、森も合わせて男性部員が七人いたが、有里が卒業するまでの間に、うち五人が彼女をめぐって兄弟の契りを結んだ。他にもアルバイト先の店長、掛け持ちしているインカレサークルの他大学の学生、旅行先で知り合った社会人、街頭でナンパしてきた男などなど、ほとんど行きずりの関係みたいなものも合わせると、大学在学中に彼女が寝た男の数は三桁には届かないまでも、それに近いという噂だった。
ちなみに、有里と別れた後に、田辺が付き合い始めた神沢なつみは、御三家と言われる有名女子私立校で有里と同級生だった。この子彼氏募集中だから、と自分の代役のようになつみを田辺に紹介したのも有里である。有里と並ぶと姉妹のように見えるなつみは、神奈川の国立大に半年だけ通って退学し、その後は新宿ゴールデン街の小さな店で働いていた。
今日の先輩は、いつもより饒舌だな、と森は思った。きっと我儘な彼女から解放されてほっとしているところに加えて、前日大谷翔平が完封し、自らのホームランで勝利を決めたからだろう。
「なつみのやつ、俺から誕生日のプレゼント貰った翌週に別れを切り出してきやがったんだぜ。酷すぎると思わねえか? 」
「プレゼントって何です」
「シャネルの財布。小さいのに二十万もしてさ。流石に返させた」
「手切れ金代わりにくれてやればよかったのに」、
「そんなに心広くねえよ俺は。ネットで売るわ」
「何で別れたんです? 」
「あいつに男ができたんだよ。ホストみたいなチャラ男でさ。美容外科の医者らしいけど」
「そんなら俺と同じですね。俺も浮気された挙句に振られました。有里の相手は普通のサラリーマンでしたけど」
「そうか。有里ならそれは仕方ねえ。まあ、俺らがそうなら、なつみも有里も似た者同士なんだろうよ。あいつら高校時代に夜の街で一緒に補導されたこともあるらしいし。そのあたりのこと、有里から聞いてないか」
「聞いてませんよ、そんなの。それと、俺は先輩と似た者同士じゃないです」
「女に裏切られたところは似た者同士だろ。違うか?」
「そこだけです。先輩みたいに面の皮厚くもないし器用でもないです」
「言うね。お前」
「褒めてるんですよ」
「とにかくまあ、我々は女たちの前菜だったってことか」
「そんな上等なもんですか。スーパーの試食用の小皿に載ったお総菜ですよ」
二人はペットボトルのお茶で乾杯した。
休憩時間を挟んで、作業用具一式を入れた箱をワゴン車から取ってくると、二人は部屋に戻った。消臭剤に加えて、散布した次亜塩素酸のおかげで死臭はだいぶ和らいでいる代わりにカルキ臭い。窓を閉め切って作業しないとならないので蒸し暑さも変わらない。
ゴミ捨てに取りかかる。噴霧の時とは逆に、田辺が板の間、森はリビングから作業を開始した。可燃と不燃とで分けて、それぞれ大きなビニール袋に手あたり次第放り込んでいく。
森がちらりと見ると、木の実入りの小皿が、田辺の手に取られて何の躊躇もなく捨てられるところだった。
リビングの床には本が山積みになっていた。森の足元にあるのはバートン版千夜一夜物語十三巻全巻揃い。その後ろには国書刊行会や白水社の翻訳シリーズ。他にも海外や邦人作家の全集や単行本、文庫本が無造作に積み重ねられたまま、消毒液にじっとりと濡れている。
「阿曽さんという人、すごい読書家ですね」
リビングから森が声をかけると、音を立てて食器をビニール袋に入れていた田辺が笑った。
「積ん読だったのかも」
「でも生活保護なのにこんなに本にお金をかけて。食べることより読むことを優先していたんですかね」
「ま、人の価値観はそれぞれだからな」
「捨てるのが惜しい本がたくさんあります」
「なら選んで持って帰れ」
正直、消毒液で濡れていなければ実際に持ち帰りたかった。森はそれらの本を敢えて無造作に袋に投げ込んでいった。本をあらかた片付けたところで、部屋の隅の黒いリュックに目が留まった。ファスナーを開けて見ると中に紙の束が詰まっているのが見える。原稿用紙だということは一目で分かった。
「田辺さん、これ」
「何書かれているか、一応チェックしてみて」
田辺の言葉に、森は腰をかがめて、原稿用紙の束を一つ取り出した。
《夜に融ける》というタイトルと、阿曽浩という名前、そして手書きの几帳面な字でぎっしりと文字が書かれている。本名の阿曽浩二から一字削っているのは、それがペンネームなのだろう。
「他には何かあるか? 」
「いえ、原稿用紙の束だけです。相当な枚数あります。今時手書きなんて。この人、作家なのかも」
「どうだろうな」
「これ、どこかから依頼を受けて書いていた作品だとしたら、一応確認しておいた方がいいんじゃないですか」
「どうやって確認するんだよ。それにこの人、物書きで食っていたら生活保護なんか受けてないだろ」
「それもそうですね」
森は原稿用紙の束を掴みだして、廃棄袋に入れようとしたが、ふと手を止めた。
「念の為、ちょっと調べてみます」
森は宇宙服のポケットからスマホを取り出した。阿曽浩で検索してみる。驚いたことに、それはあっさりと見つかった。文学界新人賞の受賞者一覧表のなかにその名前があった。確かに、阿曽は二十六年前に新人賞を受賞していた。
「へえ、俺としたことが、知らなかった」田辺が感嘆した声で言った。
「驚きましたね」
「文学界、俺は大学二年のとき出したことがあるけど、一次選考を通過しなかった」
「俺も去年出しました。もちろん駄目でした」
森はしばらく逡巡してから、田辺におずおずと尋ねた。
「田辺さん、この原稿用紙、持って帰っていいですか? 」
「どうするんだよ」
「いや、読んでみたいだけです」
「そうか」
田辺はしばらく考えこんでから言った。
「ま、でも、それが一番の供養になるかもな」
森はほっとした。もし許可がもらえなかったら田辺の目を盗んで服の下に隠して一部だけでも持って帰るつもりだった。
「田辺さんも読みますか」
「俺はいいよ。もう今は全然読まなくなった。ユーチューブと漫画で満足してる」
「元BSS部長の肩書が泣きますよ」
「馬鹿。目が覚めたんだよ。この阿曽さんみたいになる前にな」
「こっちはまだ当分、目が覚めそうにないです」と森は自嘲気味に言った。そして、俺を引きずり込んだくせに先抜けするなんてずるいですよ先輩、と心の中で付け加えた。
「床板、そろそろいくぞ」
「了解」
二人は作業を再開した。布団が敷いてあった真下の床板は、布団が吸収しきれずに下に漏れだした体液を吸って茶色く変色している。その板と板の継ぎ目に沿って電動丸鋸で切れ込みを入れ、バールを垂直にあてがい、金づちで叩いて打ち込む。そのバールを少し傾けてから、また金づちで叩くと、バキと音がして床板が剥がれていく。剥したらその隣、と一枚ずつ剥し、バールで釘を抜き、袋が破れないように慎重に重ねてゴミ袋に入れた。作業が一段落すると、二人はゴミ袋を玄関の外に出し、ワゴンまで運んで荷台に積み込んだ。全ての袋を積み終わると、今度はドアの前に置いてあったオゾン発生装置とサーキュレーターを室内に運び入れた。それらを部屋の四隅に配置し、スイッチを入れた。オゾンを循環させて、強力な酸化力でアンモニアや硫化水素を、水と二酸化炭素に変えて無臭化するのだ。空気より重いオゾンが充満する前に二人は部屋を出た。宇宙服を着たままの重労働に全身汗まみれになっていた。
ワゴン車に戻ると、どっと疲労が押し寄せた。
シートを倒して休憩する。ラジオから、最近の人気アニメ映画のエンディングテーマが流れている。森はぼんやりと耳を傾けた。米津玄師と宇多田ヒカルがデュエットしている。ずいぶんと仄暗く切ないメロディだと思った。スマホで検索してみたら、ジェーン・ドゥというそのタイトルは、身元不明の女性の遺体に仮につける名前というような意味らしい。隣では田辺が軽い鼾をかいている。仕事はまだ終わっていない。少し寝かせてから田辺を起こそうと思い、森はスマホのアラームをセットした。後は二時間のオゾン脱臭後、三十分の換気を行い、道具や装置を車に戻して撤収。ゴミ袋を市の指定する焼却所に運んで終了だ。明日は朝から脱臭作業の続きである。
帰宅したのは夜の九時過ぎだった。リュックのベルトが肩に食い込んで痛かった。森は、両手をふさいでいたコンビニのビニール袋を玄関に投げるように置き、リュックを下ろした。水道の水を蛇口から直接飲んで一息ついてから、阿曽浩の作品をリュックから出してワンルームマンションのダイニングテーブルの上に並べた。
作品は全部で十作あり、その中の一作は千枚を優に超えていそうな長編だった。ハピネスさくらで冒頭部分だけをちらりと読んだ《夜に融ける》という作品がそれだった。分厚い原稿用紙の束を手に取った。しみついた腐臭が少し気になったが、我慢できないこともなかった。この嗅覚の鈍化は紛れもない職業病だな、と思いながら、森は原稿用紙を捲った。
左頬にそっと触れると、腫れて熱をもっている。頬越しに歯茎を押してみると痛みで飛び上がりそうになった。つまらないプライドなど捨てて、歯医者で最後まできちんと治療を受けていれば、こんなことにはならなかったはずだ。無職で、五十六歳にして歯がボロボロの生活保護の人間に、持つべきプライドなど無い。
いや、ある。一つだけ。
二千の応募作の中から、自分が書いた《雲の図鑑》が選ばれて、文学界新人賞を獲った。二十六年前。ちょうど三十歳のときだ。三回目の応募だった。一作目で一次選考を通過し、二作目は駄目だったが、三作目が二次、三次選考と、とんとん拍子で上に上がり、最終選考にまで残ったことに驚いておろおろしていたら、何と受賞した。
受賞作はハードカバーの立派な単行本になって、本屋に並んだ。カバー写真は白い雲が浮かぶ青空。あの美しいブルーのカバーは書店でよく目立った。
あの歯医者に向かって、こんなの書いてるんです、よろしければ差し上げますよ、と自分が書いたあの本を差し出してみたら、どんな顔をするだろうか。あの本はもう今は手元に一冊も残っていない。もちろんとっくの昔に絶版になっているから、作者本人でも入手はできない。
本は結局、発行された初版五千部のうち半分くらいしか売れなかった。増刷もされなかったし、もちろん文庫本にもならなかった。
四年前にタクシー会社を首になった。腰が痛くて仕事ができず、欠勤が重なったからだ。
仕事をやめても腰は良くならなかった。整形外科病院に行ったら、内科にも行けと言われた。渋々足を運んだ内科では糖尿病と診断された。放っておけば失明、手足切断、透析の生活になると言われた。糖尿病になるほど贅沢な食生活してないですけどね、と医師に言ったら、贅沢じゃなくて逆に貧しくて偏った食生活のせいだと言われた。新しい仕事は見つからず、三年前からは生活保護で食べている。
だが書くのは止めていない。篠崎社長に教えられた「人生の不条理に動じない精神の強さ」だけで、かろうじて踏みとどまってはいる。
そういえば、文学界新人賞を受賞した当時も、ちょうど先輩社員と衝突して印刷工場を辞めたばかりで、今と同じように無職だった。そんなタイミングであの受賞の知らせはまさに青天の霹靂だった。ああ助かった。認められた。文学というまばゆい光に満ちた世界の中で生きてゆく場所を手に入れた、と思った。だがその直後、もう名前も思い出せない編集者からかけられた言葉を思い出す。
「ちゃんと職を探してください。生活を安定させないと、書く気力も失いますよ」
彼が言う、職、というのはもちろん書くことではなかった。その一言で現実に引き戻された。君には作家として独り立ちできる才能なんか、はなからないんだよ、と宣告されたのと同じだった。
「新人賞でデビューしても、五年で九割以上の人は消えます」と、彼は言葉を続けた。
「だから、五年間この世界で生き残ってから、堂々と胸を張って、私は作家ですと名乗ってください」とも。
なにくそと思ったが、実際、彼の言うとおりになった。受賞作の後が続かなかった。担当編集者を外され、原稿の依頼も全く無くなった。職を転々とし、タクシーの運転手に落ち着いた。自分の不注意で物損事故を一度起こし、借金を抱えた。それでも腰痛と闘いながら気力を振り絞って毎日書いてきた。まるで脱水でふらふらになったマラソンランナーだ。勝負はとうに放棄した。だが完走は諦めていない。途中からは歩いてゴールを目指し、そしてそのゴールにはもう誰一人待っている人などいない。
しかし、ゴールゲートは、朽ち果てながら、まだそこにあった。
そう。ようやく昨日、長編《夜に融ける》が完成した。八年かけたこの長編だけで百回は書き直した。他には短編五つ、中編が四つ。二十六年前の受賞作を含めても、それが書いたものの全て。お話にならない。そしてもうこれ以上は書けそうにない。書くのは早いが、徹底的に直さないと気が済まない癖があり、どうしても寡作になる。受賞作となった《雲の図鑑》など、単行本になってからさえ、納得いかない箇所を見つけて数回書き直した。長編は遺作になるのかもしれない。だが発表の場はない。賞に応募しようとも思うが、同時に、どうにもやり場のない虚しさに襲われる。文学賞への応募は過去四回。《雲の図鑑》の他に、群像新人賞に一回、すばる文学賞に一回、新潮新人賞に一回。《海へ》という中編の一作が新潮の第二次選考まで、もう一つが群像の一次選考を通過したが、どちらもあえなく次の選考で落ちた。それ以外の二作は一次選考を通らなかった。
昨日完成させた長編に、もうこれ以上書き直す箇所はない。とうとう力を使い果たした。これで駄目ならもう何も無い。そして、万一受賞したところで同じ。これ以上書けないのだから。終わりであることには変わりがないのだ。
エアコンは沈黙したままだし、団扇であおぐ気力もわかない。が、暑さももう気にならない。
胸が締め付けられるように痛い。脂汗が出てくる。歯は、神経が死んだのか、腫れは相変わらずだが痛みは治まってきている。歯茎を押さえなければ痛みは無い。痛みが消えたというよりも、感覚が鈍くなって痛みを感じなくなっただけのような気がする。そういえばこの三日間は飴玉を舐める他は食べていないが空腹感もない。指先の感覚もない。そのためか、原稿をバッグに詰め、ファスナーを締めるだけの作業に三十分もかかる始末だ。情けない。
そもそも応募などもう物理的に無理だろう。原稿を詰めたこのバッグを持って郵便局に辿り着くことさえもできそうもない。
もし奇跡が起こって、この原稿が誰かの目にとまることがあれば。その誰かが、書いた人間のことをちらりとでも想像してくれれば、それで十分だ。
作品が日の目を見るかどうかは、もうどうでもいい。
森は、最初に読んだ中編《雲の図鑑》、と次に読んだ二つの短編《海へ》《森へ》、その後一週間かけて読み終えた長編《夜に融ける》の原稿をとんとんと揃えてクリアファイルに入れ、本棚に仕舞った。
疲弊していた。まだ読んでいないものが残っているが、ここで一息入れたいと思った。阿曽浩の世界から少し離れないと、このままどこまでも没入し続けて現実世界に戻れなくなりそうな気がした。長編は序盤、読むのに苦労したが、やがて、渦を巻いてゆく物語の海に飲み込まれた。うねりが高まり、終盤は文字通り鳥肌が立ち通しだった。奇怪で幻想的で錯綜していて、それなのにリアルで明晰な物語だった。長編にも短編にも、独特の幻想性とリアリティが同居している。マジックリアリズムというのでもない。これはいったい何なのだろう。感想が思いつかない。ただ、読んだ作品に共通するのは、闇の中に灯る救いの暗示だ。
ノートパソコンを開き、文芸同人誌〈荒野〉のサイトを開いた。
〈荒野〉は純文学、ミステリー、SF 、ホラー、ファンタジーと、なんでも受け入れてくれる裾野の広い同人誌だ。比率としてはSF が三割くらい、あとは純文学とホラーが多い。主催者の阿部雄之助は四十代後半、本職はIT企業の管理職で、某大手ネット文芸サークルで熱狂的なファンを持つSFの書き手として知られた存在だった。そのため彼を慕って参加した若いメンバーが多い。参加者の平均年齢は三十前後だろうか。
この同人誌に参加して二年になる。大学三年生の秋、晴海のビッグサイトで開催された文学フリマに、有里を誘って二人で足を運んだ。〈荒野〉のブースで目にしたメンバー募集という告知に一緒に応募しようと有里を誘ったのだが、あっさり断られた。
「書く方に回りたいとは、どうしても思えない」
有里は広い会場の太い柱にもたれて言った。
「私さ、分不相応な年齢で、賞貰っちゃったでしょ。大した賞じゃなかったけどさ、それでも結構反響大きかったんだよね」
「だろうね」
「もちろん褒めてくれる人もいっぱいいたけどさ」
有里は視線を床に落とした。
「好意的な言葉や記事なんかよりも、意味わかんないやっかみとか、中傷とか、罵倒とか、実はそっちの方がずっと多かったんだよね。パクりだとか、大人に書かせてるとかなんて、散々言われたよ。私のことを異常者だなんて言ってくる奴もいたし、センセイってあだ名付けられていじめられたし」
「酷いな」
「うん。それでね。何のために小説書いたんだろうって、馬鹿馬鹿しくなっちゃって」
「それは分かる気がする」
「書くことって、箍を外すことなんだ」
「箍、か」
「そう。いったん嵌めてしまったそれを外すの、今の私にはしんどいんだよね」
「なるほどね。でも箍なんて言葉、有里には全然似合わないな」
「どういう意味よ、それ? 」
「いや、ごめん。でも有里って、書くことは別にして、結構箍外して生きてる方かと思ってたから」
「何それ?」
「だってほら、有里、一年生の頃には田辺先輩と付き合ってただろ。でも君はすぐ別の男と付き合い始めて、先輩とは別れた。で、そいつともまた別れて、今度は俺とくっついたわけじゃん。まあ、俺は嬉しかったけどさ。でも実のところ、田辺さんにはちょっと気を使ったりもしたんだよね。有里ってあんまりそういうの、気にしないだろ」
「しないね。それは箍外してるのとは違うもん。恋愛なんて所詮本能じゃん。外す以前に、本能には箍なんか嵌めてないし、もともと嵌ってないし。私ってそういう人間だから」
「ふうん」
「もし私が結婚して子供を産んだら、夫以外の男性と恋愛したい欲望に箍を嵌めるかもしれないけど。でもそれは子供が自分よりも大切な存在で、それを守りたいからそうするだけよ。今の私は若いし独身だし、自由だし。何に縛られることもない。恋愛に箍を嵌める必要なんて全く感じない」
「俺との恋愛中もそうなんだ」
「あ、でも今は南雲のことだけが好きだから、そこは南雲、気にするところじゃない」
「気になるけどな」
有里は肩をすくめた。森はため息をついた。
「いいよ。分かってる。有里はいつでも自由だよ。だったら書くことにだって箍なんか」
「自分でも分かってるんだよ。無意味だって。でもそこだけはどうしても箍を外せないの」
「…… 」
「端的に言って、書くのが恥ずかしいんだよ。今の私には。例えば誰に後ろ指指されようが、恋愛の方は別に恥ずかしいなんて全く思わないんだけどさ。変だよね」
「書くのが恥ずかしい?」
「うん。そう感じるようになって私、自分がやっと大人になったんだって思ってる。立派で、正常で、つまらない大人にね」
森は黙った。有里はもたれていた柱から身体を離し、背伸びをして細い腕を森の肩に回して、ぽんぽんと軽く背中を叩いた。
そんな有里とのやりとりを、森は、今もはっきり覚えている。有里は書きたくないのではなくて、書けなくなったのだということは理解できた。だが書くのが恥ずかしいと感じるようになったことで自分は大人になったのだという彼女の言葉は、意味が分からなかった。自分と有里とはどこが違うのだろう。つまり自分は大人になりきれていないのだろうか。箍という言葉を有里は使った。自分の考えている箍とは単純に、自由の束縛だ。就職活動が嫌で嫌でたまらないのは、就職で箍を嵌められる気がするからだ。いや、気がつかないうちに既に嵌められてしまった箍を、成長とともに少しずつ太いものへと代えられてきた。それを、自力では外すことのできない決定的に強固なものと交換するのが就職、そして結婚なのだという気がする。そんなものを外せるものなら、いやいっそ壊してしまえるものなら、と思う。
〈荒野〉の同人になって最初の一年は、他人の作品を読むだけだったが、次の一年で、短編を二つ書いた。BSSでいくつか書いてはいたが、簡単な製本で薄い雑誌をつくって内輪の人間だけで回し読みしていただけだったので、会ったことのない読者を想定して書いたのは初めてだった。〈荒野〉へ投稿される作品は、主催者と一部の幹部たちで構成されている選考会にかけられる。高い評価を得られれば、提携先の出版社で出しているアンソロジーに収録され、一部は書店にも並ぶ。だから気合いを入れて書いた。作品は二つとも選ばれなかったが、主催者の阿部は、森の作品を、筋がいい、よくまとまっている、と評してくれた。自分の作品が褒められるのは処女作を有里に褒められて以来だった。素直に嬉しかった。たとえ選考に落ちても、誰かから「良い」と言ってもらえるならそれでいい。それからはBSS時代とは別人のように、森は書き続けた。就職活動には全く気乗りがしなかった。結果、最終面接まで漕ぎつけた会社はゼロだった。それこそネタになると思えた一点だけで、田辺の特殊清掃会社に就職するほどには、書くことに憑りつかれていた。
三年間付き合ってきた有里とは、文学フリマの一週間後に、些細な口論がきっかけで別れてしまった。その頃既に、彼女はマッチングアプリで知り合った外資系投資銀行のサラリーマンと森とで二股をかけていたのだということを、別れ際に彼女から告白されたが、その時は不思議と腹が立たなかった。その日帰宅してシャワーを浴びている時、今は南雲のことだけが好きだから、と甘い言葉を並べたときの文学フリマ会場での彼女の表情を思い出して、ようやく熾火のような怒りが湧いた。だが、いいよ、分かってる、とその時自分も答えたではないか。そう思うと、森の心は急速に凪いだ。
有里は、大学卒業と同時に、同期の先陣を切ってその銀行員とあっさり結婚し、望んでか望まれてかどうかは分からないが専業主婦になった。有里とのあれこれを思い出しながら、サイトをスクロールしていると、先月アップした自作に、阿部からのコメントがついていた。森は緊張しながらコメント表示のアイコンをクリックした。
「ナグさんの新作ホラーSF、映像的印象の強い作品でした。生々しい描写力があります。特に、奈美が兄の遺体を発見したシーンのリアリティが凄い。ただ、偶然と必然の対比を強調しすぎている点は、まだこなれていないと感じます」
微妙なコメントだったが、描写力を褒められたのは嬉しかった。グリーンサービスでの経験が生きたのは間違いない。主人公のモデルは田辺である。そういえば〈荒野〉に参加したことは田辺には言っていなかった。有里にも、家族、友人知人の誰にも。作家として芽が出るまでは隠しておくつもりだ。森の目から見て、同人の他のメンバーの作品には、プロの作品と言われてもおかしくない、完成度の高いものが少なからずあった。特に主催者の阿部雄之助の作品は圧倒的に面白く、書店に平積みされている本の中にそれがあったとしても不思議ではないと思えた。しかし、そんな阿部でさえ、早川SF大賞の最終選考に一度残ったことがあるだけで、受賞歴無し。大方は二次選考止まりなのだ。
この俺に、芽など出るのだろうか。地中に埋まった種は発芽せず、そのまま腐って土に還るだけなのではないか。
森はノートパソコンを閉じ《夜に融ける》の入った分厚い、クリアファイルを再び本棚から取り出した。
最近では、インプット強化のために、新しいものも古いものも、国内外も問わず、片端からむさぼり読んでいる。しかし過去に阿曽作品と似たようなものを読んだことはなかった。
供養。森はふと田辺の言葉を思い出した。この作品を読むことが一番の供養になるかも、と彼は言った。それだけでいいのだろうか。この作品を世に出すことこそが本当の供養になるのではないか。更にいえば、この作品を世に出すことで、実現しなかった彼の夢を、彼に代わって別の人間が果たすとしたら、それは供養にはならないだろうか。
《夜に融ける》は一読しただけでは全貌がつかみきれなかった。二度目はもう少し早く読み終えることができるだろう。プロローグからまた再読を始める前に、コーヒーを準備した。いつもはインスタントコーヒーだが、その晩は時間をかけてドリップで淹れた。
記録的といわれた猛暑の夏が急に失速するように勢いを失い、いきなり肌寒くなった十月のその日、杉並区の戸建て住宅で独居していた七十八歳の元大学教授の老人が、離婚した妻に電話をかけ、これから死ぬと宣言した。あらかじめトイレットペーパーの芯を使って何度か練習をしたうえで、包丁を逆手に持って胸に当て、布団の上で、膝立ちの状態から前にうつ伏せに倒れた。元妻が現場に駆け付けた時、老人は血の海の中でこと切れていた。
田辺と森はいつもの宇宙服を身に着け、合掌して室内に入った。遺体の発見と搬出が早く、血液の大部分を布団が吸っていたおかげで、仕事はさほど困難ではなかった。
毎回の手順通り、二人で室内に消毒液を散布する。茶色く変色した布団に消毒液を散布していた森は、ふと違和感を覚えた。敷布団の柄が、奇妙に鮮やかに浮き上がっている。
布団の上に横たわっている人の姿が見える。
森は目をしばたいた。まただ。
布団から無理に視線を剥がした。田辺がきびきびと散布をしている姿が見える。自分も仕事の手を動かそうと思うが、金縛りにあっているように動かない。再び布団に視線が引き寄せられる。森は目を見開く。叫びそうになり思わず口を押さえようとして出した手がガスマスクに当たり、我に返った。
滞りなく三時間で仕事を終えた。再び合掌し、ワゴン車に乗り込んだ。
「田辺さん」助手席の森は言った。
「ん、何だ」
「どうもおかしいです。俺」
「何が」
「ハピネスさくらの現場以来、時々見るんです」
「何をだよ。まさか幽霊とか言うなよ」
「幽霊です」
「おい、マジ勘弁してくれよ」
「いや冗談です。幽霊じゃないです」
「……お前なあ」
「いや、幽霊じゃなくて。白昼夢というか、変な幻覚を見るんですよ」
「幻覚?」
「仕事で現場に行くと、遺体の横たわっていた場所に自分の遺体があるんです。それを仕事中の自分が見ているんです」
田辺は息を吐いた。
「お前は自分で気が付かないうちに、だいぶ疲れてるんだよ。この仕事は思った以上に精神的負担が大きいからな。似てるような夢、俺も見たりするよ」
「どんな夢ですか」
「連絡受けて行った先の現場が自分の家ってパターン」
「それもきついですね」
「心療内科に行くか、カウンセリングでも受けろ。俺の心理カウンセラーはなかなかいいぞ。ただし保険は効かない。一回一時間七千円。まあちょっと高いけどな。紹介してやろうか」
「お願いします」
田辺は車を路肩に停め、財布から診察券を出した。青澤心理相談室と書いてある。森はそれをスマホで写真に撮った。
「ここ、長く通ってるんですか」
「いや、それほどでもない。この夏から月に一回通ってる。先生の専門は認知行動療法だけど、あらゆる悩みに対応してくれる。それよりな、気分転換に格好の情報がひとつあるんだ」
「何ですか」
「事務の中村さん、パンクバンドでボーカルやってんだよ。知ってたか」
「マジすか」
「動画に出てるんだこれが。偶然見つけたときはビビった。ちょっと見せるわ」
田辺はスマホの画面を森に見せた。どぎついメイクだが、それは確かに中村さんだった。
職場ではじっと動かないイグアナのような彼女が、髑髏の絵柄がプリントされた黒いTシャツ、黒いジャンバー、鋲付きのベルトに、裾が引きちぎられたようなスカートを身に着け、黒いブーツを履いていた。画面の中で頭を大きく振り、髪を振り乱して絶叫していた。
「どうよ」
「頭のネジぶっ飛んでますね」
「歌詞、何言ってんのか全然聴き取れんわ」
「ほとけさま、とか、じょうぶつ、って聴こえましたよ」
「ひょっとして、仕事のことネタにして曲作ってたりしてな」
「いや間違いなくしてるでしょ、これ。いいんですか? 」
「いいんじゃねえか。表現活動は自由だ」
「いっそ、うちの会社の宣伝ソング歌ってもらいますか」
「無理に決まってるだろ。ちなみにこれ、本人がカミングアウトするまで秘密な」
「もちろんです」
「元気でたか」
「はい。いやもう最高ですね、これ」
田辺が今日はもう直帰していいと言うので、森は新宿の紀伊国屋書店の前でワゴン車から下ろしてもらった。
一階の新刊本コーナーをうろうろして目当ての本を見つけた。手に取りレジに並ぼうとした森の目に、見覚えのあるベージュのワンピースが映った。新書コーナーの本棚の前で一冊を手に取り、真剣な表情で読んでいる。いつもなら気がつかないふりをしてその場を離れただろう。しかしそのときは中村さんの動画のせいで、いつになく気分が高揚していた。
三十分後、近くの喫茶店で、森は有里と向かい合って座っていた。
「まさか新宿で会うとはね」
「ほんと。びっくりした」
「紀伊国屋、よく行くの? 」
「近くの保険会社で事務をやってるのよ」と、コーヒーを一口飲んで有里は言った。
「あれ、専業主婦止めたの? 」
「うん。退屈で。旦那ともうまくいってないし」
「何で?」
「もともと大して好きでもなかったのに、勢いで結婚しちゃったから」
有里は自嘲気味に言った。
「前にさ、箍、って言ってたよね。有里」
「うん」
「それって外すものじゃなくて、外れてしまうものなんじゃないか」
「なるほど」
森はそう言ったきり黙っている。しばらく有里はコーヒーカップを見つめた。それから言った。
「そういえば恋愛には箍なんか嵌ってないとか、私、なんだか笑っちゃうくらい格好のいいこと言ってたけどさ。結婚した時思ったんだ。そんなものとっくに嵌ってんだって。それに鍵をかけて、相手に渡しちゃったんだ、って」
有里は寂しげに笑った。そして森の目を見て言った。
「で、私に話したいことって、何?」
森は、おもむろにカバンの中から紙の束を入れたクリアファイルを取り出して、有里の前に置いた。
「ごめん。これ、ちょっと読んでみて」
「何これ」
「何って、小説」
「南雲が書いたの?」
「まあね」
有里がそれに目を通している間、森は一言も口をきかず、ぼんやりと窓の外の薄曇りの景色を眺めていた。
三十分ほどで読み終えた有里が、ふう、と息を吐いてから言った。
「南雲ってこんなの書く人だったんだ。マジ箍外れてるじゃん、そっちこそ」
「それって褒めてる?」
有里は曖昧な表情で、両の口角を少し挙げた。
「南雲どうしたの? 何があったの?」
森はテーブルに肘をついて、両手の指を組み合わせ、その手の甲を俯いた額に黙って押し当てた。それからしばらくして顔を上げて言った。
「それ、実は、俺が書いたんじゃない」
「え?」
「正確に言うと、ゼロから俺が書いたんじゃない。別の人が書いた原作の一部に俺が手を入れて、ちょっとだけ書き直した」
「ふうん」
有里は少しの間考えこんでから、少し低くなった声で言った。
「パスティシュっていうこと? それとも共同執筆?」
「共同執筆ではない。原作者の了解をとったわけじゃないから」
「なるほど。で、どうするの」
「どうするのがいいと思う?」
「原作者本人と話し合えばいいじゃない。なぜ私にそれを訊くの」
「その人、もう死んでるんだよ」
有里は眉をひそめた。
ふう、と息を吐いてから森は言葉を続けた。
「先月、その人が住んでたアパートに行った」
ああ、と有里は合点がいった顔をした。
「田辺先輩とやってる、あの仕事ね」
森は頷いた。
「その人、生活保護を受けて暮らしてた。孤独死して二週間たって発見された。先月はまだ暑かったからね。酷かったよ」
「身寄りもいなかったのね」
「一人でその人、こつこつ書いてたんだ。ゴミとして捨てられるところを、俺が持ち出したんだよ。だから今、原稿は俺のところにある」
「それって」有里は絶句した。
「あのさ」
森は言いかけて、やめた。箍なんてもうとっくに外れてる。阿曽浩の作品を読んでしまった。俺はもう引き返せない。阿曽自身がそうだったんだよ。箍が外れた同士が出会ってしまった。これはもう呪いなんだよ、と、彼は心の中で呟いた。
「南雲の言いたいことわかるけどね。聞かないでおいてあげる」有里が言った。
マンションに帰り、缶ビールを飲んでいると、テーブルに置いたスマホが震えた。開いてみると二年ぶりに有里からLINEが来ていた。
「書く人にとっては自分が書きたくて書いたものだけが全て。私は書きたいものがないから、絶対に書く人にはなれない」
絵文字もないそっけない文面が有里らしい、と思った。
阿曽作品の力はどれもが圧倒的で、それは何かの賞に値するかどうか、などという次元とはもはや関係ないことに思えた。あの小説群は、どれも阿曽浩が心底書きたくて書いた。阿曽浩という人間の魂を乗っ取って、物語自身がそれを書かせたのかもしれない。だからこそ、どの作品も書かれたままの形で読まれるべきものだ。自分になりかわった他人に一文字でも書き直されるくらいなら、阿曽はそれらを破棄するだろう。
阿曽浩は読むことと書くこと以外はしなかった。いやできなかった。作品は、阿曽浩が自分の生命と引き換えに書いたものだ。
長大な作品《夜に融ける》は錯綜した幾つかのエピソードから成り立っている。その中の一つが独立したかたちの中編となっている作品が《海へ》だ。喫茶店で有里に読ませたのはそれだった。書かれた当時からの時間の経過でそぐわなくなった表現は変えたが、内容はほとんど原作のままだ。箍の外れた自分がこれから彼の全作品を読んだとき、自分は彼の世界に深く取り込まれるだろう。その後に箍の外れた自分がどうするかは分かり切っている。
有里のように、あるいは田辺のように、もう書くことをやめる、書く側には戻らない、という決心をするならば、読むことも許されるのかもしれない。
森は阿曽浩の全ての作品の束を本棚から抜き取り、手元にあった手提げの紙袋二つに分けて入れた。それからカバンから有里に読ませた原稿を取り出し、それも紙袋の中に入れた。明日は可燃ごみの収集日だから、朝一番でこれを出す。
供養など所詮、死んだ本人にとっては無意味だ。阿曽浩の作品は、自分と有里の二人が既に読んだ《海へ》、そして自分だけが読んだ《森へ》と中編《雲の図鑑》、長編《夜に融ける》の四作品を除いて、誰に読まれることもなくこの世界から消え去る。人型に窪んで段ボール色の染みがついた布団。たくさんの本、小皿に入れた木の実たち。彼がこの世に残したそれらものと同じく。
あの白昼夢が、いつか現実のものになるならそれでいい。自分は原稿用紙など使わない。書いたものはパソコンに入れて、誰に読まれる心配もないのにパスワードをかけている。いつか自分が部屋で倒れたら、ファイルを開かれることもないまま、パソコンは粗大ごみとして業者に廃棄されて終わり。それで無に帰る。阿曽の作品をこの世から葬り去る人間が、それを拒否する資格などない。
森は目を閉じ合掌した。
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