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にもでもならのにも

曾根崎十三

古賀コン10「ぼくにもできそう」応募作品。アイキャッチ画像は「PhotoAC」から。

小説

4,728文字

誰にも知って欲しくないけど誰かに知って欲しい。古のブログとか、大型掲示板の書き込みとか、誰とも繋がらずに始めたSNSとか、雑踏の中でぼやいた独り言とか、ボトルメールみたいな。そういうどこかに紛れてしまう誰にも届かないかもしれないような、でも誰かに届くかもしれないという期待を捨てきれない言葉であってほしい。たぶん、そういう気持ちで僕はこれを書いて、インターネットに放り出した。自分のことなのに、たぶん、なんて言うのは変だけど、自分のことなんて自分が一番分かってない。

なんで今さらこんなことを書こうと思ったんだろう。きっかけははっきり分からない。分からないけど、多分あれのせいだ、というのはある。検索に引っかかりそうだから名前は伏せるけど、とある小説のコンテストのお題が「僕にもできそう」だったから。「僕でも」なんて卑屈でもなく、「僕なら」なんてプレッシャーもない。「できる」なんて断言もしない。ただ「できそう」なだけ。「『僕にも』できそう」というそれは、ひどく優しく見えた。僕にもできそう。書くくらいなら、僕にもできそう、と思った、そんな気もする。理由なんて大抵後付けで、自称しているうちにだんだんそんな気がしてくるだけだ。

まだXがTwitterという名前だったとき、君は「ゆゆゆゆゆ。」と名乗っていた。どこに住んでいるのか性別も年齢も分からなかった。でも、君はゆゆゆゆゆ。だったし、ゆゆゆゆゆ。はゆゆゆゆゆ。だった。名前の由来はひらがなの中で「ゆ」が一番好きで、「ゆ」や「ゆゆ」や「ゆゆゆ」だと他の人や物と被ってしまう可能性があるから、ゆゆゆゆゆ。にしたらしい。

君は基本的に荒らし行為ばかりしていた。炎上しているツイートに対して「親失格ww」とか「日本終わったな」とか引用や返信で悪口ばかり書いていた。僕はというと、巷にあふれる炎上ツイートを自ら見ては「何もここまで言わなくても良いのに。こんなひどいことを言う奴がいるのか」と心を痛めて安心していた。炎上ツイートにむらがるという点では僕らは大差なかった。こう書くとすごく性格が悪そうだけど、逆に皆はやってないのだろうかと思う。え、皆やってるよね? ほんとに僕だけ? 悪い奴をわざわざ見に行っては「悪い奴だな」と思うだけで、何もしない。自分は善人だと確認するために、善悪のものさしを確認して善の方に自分がいるのだ、という確認作業。そうだって気付いていないだけで、皆やっているでしょう?

そんな確認作業の中で「ゆゆゆゆゆ。」の名前はよく見かけたので何となく存在を認知してしまった。君のツイートは基本的に悪口ばかりだったが一度「電車で座って寝る時って上と下どっち向く人が多いんだろう。自分は上を向く」と呟いたことがあった。僕は何となく興味がわいて、ほとんどROM専として使っていたアカウントでそのツイートに返信した。

「僕は下を向きます。寝顔を見られるのが恥ずかしいので」

そしたら君は「そうなんですね。自分は目を開けた時に死んだ顔で吊革を握っている人と目が合って気まずくなるので上を向きます」と返信してきた。気まずくなるのに上を向くとは?と、意味が分からなかったものの、いきなり攻撃してこないあたり意外と常識人なのかもしれないな、と思った。 「吊革を握っている人がいない時はどうですか?」と興味本位で返信してみたところ「吊革が絞首台みたいだな、と思って眺めてます」と返ってきた。中二病なんだろうか。「初カキコども…俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは」的なやつだろうか。まだ子供なのかもしれない。そう思ったものの、僕は次の日に電車に乗った時、言われて見れば、吊革って首をくくれそうだな、と思ってしまった。実際にあの小さな輪っかに首なんて通せるはずもないのだが、あの輪っかにだらんと縊死体が大勢ぶらさがっているような気がして、ホロコーストの写真で見たような光景を想像してぞっとしてしまった。ますます僕は縮こまって下を向いた。

帰り道、僕はフォロー0の自分のアカウントで「吊り輪が絞首台に見えて怖かった。ますます下を向いてしまった」と思わず呟いた。その空リプに君は直接リプを付けて反応してきた。「そうですよね。自分も嫌いなんです」君は嫌いな物にわざと向き合おうとする。わざと嫌いな物に近づいていく。嫌いな物を倒そうとする。「老害」「マーンさん笑」「それくらいパッシングされて当然だろ。タヒね」強い言葉で殴る。「悪い奴」とされている人を殴る。君の卑怯なところは、率先して叩くほどの勇気はないところだ。既にいろんな人がバッシングをしているところに重ねてバッシングをする。いじめっ子の腰巾着みたいな。

あの日、僕の空リプに君が反応してくれた時、ほぼ同時に君は僕をフォローしてくれた。僕も君をフォローした。僕のフォロワーは怪しい業者みたいな奴しかいなかったけれど、その中に君一人、人間が加わった。怪しいアカウントも裏には人間がいるのだろうけど。でも「ちゃんとした人間」は君だけだった。「ちゃんとした人間」とは? そのへんの話は長くなるので一旦置いてくとする。

僕は相変わらず空リプを呟いていたが、君はすかさずそれを拾ってくれる。そこから徐々に、僕と君は空リプではなく直接リプライをやりとりする仲になった。いつまでも僕と君は敬語のままだった。「疲れますよね」とか「嫌ですよね」みたいなネガティブなことを共感するだけの仲で、せいぜい、電車に毎日乗っていることと、真夜中につぶやくことが多いこと、家にベランダがあること、毎日通っている先では理不尽なこともあること、低気圧だと頭が痛くなること、くらいしか分からなかった。君がどこの誰なのかなんて別に知らなくて良いし、知る必要もないのだけど、今となっては知りたかったな、なんて思っている。君はきっと教えてくれないだろうけど。

生きていると「できる」と「できないの」間に何百もの何千もの「がんばればできる」がある。がんばればできる、は、がんばってやっているうちにだんだん「できる」になってくることもある。それは僕の経験則でも証明されているし、努力が勝利する世界中の成功譚でも証明されている。できる前に諦めれば失敗。できるまでがんばれば成功。がんばればできることは、がんばればできるけど、疲れる。でも疲れていたら置いていかれてしまう。みんなに、社会に、ついていけなくなる。疲れている暇はない。だから、がんばれ! もっとがんばれ! と自分に言い聞かせている。でも、やっぱり、それでも疲れてしまうこともある。そんな時に「今日も疲れた」と呟くと君から「いつもお疲れ様です。負け犬さん(※当時の僕のアカウント名だ)、今日は冷えますから、しっかり温かいお風呂に入ってお休みになってくださいね」とリプライがくる。そこから「ゆゆゆゆ。さんもいつもお疲れ様です。夜更かししすぎず休みましょう」「たしかに笑 でも、夜更かしが自分の救いでもあるんですよね」とか、そんなやりとりをするのは救いだった。僕には君は優しかった。無責任に「もうがんばらなくても良い」なんてことも言わなかった。世の中の自己啓発アカウントには無責任に「がんばらなくても自分が輝ける場所を探そう」なんて綺麗ごとを吐いて、努力を知らない他責人間を輩出しているものもあるが、君はそういう物に対しても批判的で「うんこ製造機でも作りたいのかよwwww」とか、もっとここでは書けないような差別的な言葉を使ったりして煽っていた。そんな君は、僕には全然攻撃的な言葉なんて書いてこなかった。でも、だからこそ、君にとって僕は救いじゃなかった。君の救いは、インターネットの見えない相手にひどい言葉を投げつけることだけだった。僕と交流しながらも、君の批判の雨は止むことがなかった。君の攻撃は陰ながら応援したくなってしまうこともあった。君と関われば関わるほど、どうしてそんなことをするのだろうと思う反面、いいぞもっとやれ、と思うこともある。特に無責任な「できないことはできなくていい」論に対しては「やれ! ボコボコにしろ!」と心の中で野次を飛ばしていた。

だから、そういう僕だから、きっと「僕にもできそう」という言葉が優しいと思ったのだろう。

「真夜中、世界中で自分が一人ぼっちの気がしてくる時、ベランダに出て、まだ灯りがついている家を見つけると、勝手に仲間を見つけたような気になる」

君がそう呟いた時、僕は何もリプライを付けず、ただ「お気に入り」を押した。単純に共感したのもあったし、僕にとって君はそういう存在だった。インターネットの中で。君にとってはどうだったのだろう。君にとっても僕がそうだといい、と思った。思っただけだけど。

「開示請求されちゃいました」

少し前、未だに少し前の気がするけど、実際には数年前、君から初めて来たDMがそれだった。僕は何という言葉をかけるべきか分からなかった。大丈夫だよ、なんて無責任な言葉はかけられなかった。大丈夫じゃないし。

「負け犬さん。今までありがとうございました。負け犬さんにはお伝えしておこうと思って」

返事に迷っているうちに、もう一通のDMが届き、仕事が終わってから改めて返事を考えようと思っていた。仕事が終わった頃にはもう君のアカウントはなくなってしまった。

君は死んでしまったんじゃないか、とうっすら思った。それを否定したくて、君の転生アカウントを何度も探した。炎上アカウントに群がる数多のなんちゃって正義アカウントの中から君を探そうとした。でも、見つからなかった。さすがに、開示請求に懲りて別のストレス発散方法を得ているかもしれない。どこで何をしているかは分からない。分かる方法もない。どこかで生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。どこかで幸せになっているかもしれないし、不幸になっているかもしれない。

何の流れでそんなやりとりになったかは忘れたけれど、君はいつか書いていた。

「『ゆ』の形って良いですよね。どこまでもいけそうで。空も飛べそうだし、海も泳げそう」

ゆに乗って君はどこかへ逃避行してしまったのだろうか。犯罪者の高飛びみたいに。いや、犯罪者なのか、君は。名誉毀損罪とか。侮辱罪とか。そういう。

「それに『ゆ』で首は括れないですから。このフォントだと括れるようになってますけど笑 普通に書いた時って『ゆ』は底が開いているので首を通そうとしても体が落ちてしまいます」

死ぬための「ゆ」ではなくて生きるための「ゆ」を君は持っていたので、やっぱり、僕には君が「ゆ」に乗ってどこか遠くへ行ってしまったようにしか思えないのだ。でも、「ゆゆゆゆゆ。」には「。」もついていた。「。」は首を括れてしまう。いや、でも、ああ! もう! 僕だってどっちか分からない。

仮に君が生きていたとしても、もう二度と会えないような気がする。だって僕ももう「負け犬」なんて名前は使っていない。だから、どこか巡り会ったとしてもお互いに分かるわけがないのだ。そもそも一度も会ったことなんてない。でも、また出会いたい。インターネットの中で「会う」ことをなんていう言葉で伝えたら良いのだろう。関わりたい、いや、それよりかはもっと身近な存在であってほしい。いつかどこかで。またいつか。

そして、もしもそれが叶ったら、その時には「『僕にもできそう』って良い言葉ですよね」って話をするのだと思う。今のところそう思っている、っていうだけなのだけど。ああ、だめだ。まとまらない。でも書きたいことは全部書いたんだ。書いたよ、もう。

これが精一杯の「僕にもできそう」なこと。

© 2025 曾根崎十三 ( 2025年12月7日公開

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