そして何曜日の杏那も散歩が好きだった。行き先はどこでも、ほんの近場でよかった。
暇さえあれば行こう行こうと言った。そのくせ歩き出すとすぐにへたばって、豚かわゆいモアイ像になる。そのつど私が負ぶう。じきに降ろして降ろしてともがくから、ぺりぺりと剥がせば、しばらく元気よく歩くけれど、またすぐモアイ像になるのであった。
それもこのごろは強くなった。子どもの成長の早さが寂しくて、戸外へ視線を転ずれば、町の成長にもまた寂しくなるのである。越して来た時分には豊富だった田畑や山林が、知らぬ間に熟字訓のような新築だらけになっていて。
けっきょくここも寂しくて、さらに遠景へ転ずればまた、掛け算のような速度で人間を東西へ運びまくる新幹線は、我ら親子を激しく置き去りにするのであった。
どんどん新細胞に代謝してゆく中へ断乎居座っている古い家々のよんどころなさ。しぜんそちらへと足が向く。ある日のこと、排他的なまなざしも摩耗し切った老人に会釈して進む、苔むした路地の、わりに深いどぶの底にハゼらしい魚がいるのを杏那が見つけた。
一緒にしゃがんでのぞき込んだ。そのまま前に転がってはまらぬよう、小さな背中の丸みをつまみつつ、ははあ、ヨシノボリだなと言えば、杏那も、その向こうにしゃがんでいる妻も、即座にそれが魚の名前とはわからなかったようで、ヨシノボリ? なァにそれ。
こいつの名前さと指させば、ぴゅっと潜るすばしこさ。憎たらしい残像が笛を吹いていた。私と杏那は網があればと悔やしみつつ、袖をまくり上げ、這いつくばって素手による底引き網漁に励んだ。
すくっては逃げられ、つかんではぬめりして、泥の舞い上がった水はほとんど何も見えないが、五分もすれば妻の水筒の蓋に十四、五尾の大漁であった。
急いで帰って、かつてメダカを飼っていた水槽を洗い、浄水を張ったところに蓋を浮かべる。少しずつ混ぜ合わせて水温・水質を合わす。遂に最後の一尾が滑り出て、全員過呼吸気味なエラのせわしなさもやがて鎮まった。
一見したところ紺や灰色の地味な色味だけれども、よく見ればヒレに七色を有するもあり、胴体に縞々や斑点を成すもあり、やがて婚姻色なのか攻撃色なのか鮮やかなグラデーションを呈するものもあった。
ふと一尾、こちら側の壁に張りついているのを裏側から見れば、おなかには吸盤があって、それはむなびれだか、はらびれだかの変化した文明の絶顛であった。おしなべてずんぐりした間抜けな、また妙にふてぶてしい顔だち。これがどうしても餌を食べない。
ゆで卵の黄身も、細かく刻んだちくわも、捨てずに置いてあったメダカの人工飼料の匂いの強さも、見向きもしない。
メダカはある真夏の夕方、西日のために水がお湯になって死んでいた。もう三、四年は経つけれど、その死臭の残り香が水槽内にかすかに嗅がれて、同志魚類、喪に服しおるハンストであろうか。
そのうち腹が減れば食うだろう、いったん様子見にしようと決めたものの、あんがい気性の荒い彼らは、緩慢な殺し合いを始めて、徐々に減って行った。のど飴のような銃剣、裾をまくり上げた殺意。寿命のウェイトレスがメンコを盛んにひっくり返していた。
縄張り争いか。狭さが原因か。元の自然に暮らしていれば殺し合わなかったろうものを。
しかしあのコンクリートのどぶを自然と成すまでには如何なる淘汰を乗り越えて安定していたものか。この水槽を自然と成すまでに要する淘汰は全滅までに間に合わないか。
杏那と妻はしばらく眺めていて、やがて私をふり返ると、お父さん、可哀相だから元の場所に返そうよと言った。
しかしあそこはもう次の世代が安定しおるかもしれず、この子らも、もはや元の水の濁りに耐えられるかどうか……それにまた、水槽を持ってどぶにかがみ、魚を放している姿を路地の老人に見られたら、あの摩耗し切った排他的のまなざしに若返られても困るので。
死骸はベランダの鉢植えの土に埋めた。
それが一尾また一尾と続く。しぜん水槽も空いて行くけれど、すっかり修羅の巷であった。のど飴のような銃剣、裾をまくり上げた殺意。最後の一尾になるまで殺し合うかもしれなかった。
これではあんまり因業かと思われて次の休日、正しい飼い方の知識を乞わんと近所の熱帯魚屋へ行った。
繁華街の外れにひっそりと店を構えているそこは、マニアックな通人が遠方からも足を運ぶ穴場であった。入ってみればなるほど色々のポピュラーな熱帯魚が目もあやなる奥に大型の水槽がひしめき、いわゆる大型魚、古代魚なるものが悠々とうねくっている。妻子は好奇心より嫌悪感が勝ってそちらへは近寄らず、色のきれいな小魚ばかり眺めていた。
鯉だのメダカだの熱帯魚だの、魚に凝る人にはあんがい無頼漢めいた人が多いという先入観があったけれども、果たせるかな目つきの鋭い主人がライダースジャケットの通人らしい客と話し込んでいた。
主人が空くまで待つあいだ、私は一尾の古代魚を見ていた。先方の目は膜が厚くて、見えているのかわからない。一見おだやかに泳いでいるけれども、何であろう……もうとっくに、狂っているんじゃないかしら。
――……ェえ、ご家族そろっての御運び、まことにありがとう存じます。天下に名高き人間サマに商いせられて光栄です。
考えてみますてえと、わたくしめなんぞはゆめ〳〵人様に観賞していただくような風体では御座いませんで、むしろ正視に堪えざる醜怪さでありますのに、何の因果か商品となる恩恵おん賜ったのは如何なるおん計らいでありましょう。
我を狂魚と呼ぶなかれ! 古生代の昔より、ただ〳〵生き延びんがため獲得せられた忍耐力と表裏一体なる愚鈍さがアダとなって、簡単に捕まってしもうたのが今を去ること――曽祖父のそのまた曽祖父あたり、爾来養殖の楽土に安らいながら代を重ねて〳〵、今ではスッカリ我を狂魚と呼ぶなかれ!
きちん〳〵と朝な夕なに教主ポセイドンをば伏し拝み、内なる悪鬼リバイアサンをば滅却せんと結跏趺坐して座禅瞑想、十方世界に響き渡るエアレーションの絶えざる六種震動に三十七菩提分の説かるるを聞き、時に経たれて〳〵気づけば遺伝子の底の底まで染み渡りたる無為徒食。
もはや故郷の河へも帰れぬ、帰るを望まぬ、根源的の郷愁も沈黙す、真夜中に飛び起きる悪夢はただ〳〵飼育放棄や密輸隠蔽に捨てらるることの恐ろしさ、今さら河になんぞ帰れば自活の力寸毫もなく、さりとてこの頑丈なる巨体を葬ってくれ給う外敵にも恵まれ得ず、じわり〳〵と死ぬるまで生殺しの目に遭うこと必定、その怖さ、いわんや世間知らずの箱入り魚のこととて然るべき作法も覚え得ぬままポセイドンに目通りする畏怖と恥辱においてをや。
どうぞ最後まで飼い抜いてもらいたく存じ仕り候、先刻御承知のこととは拝察致し居り候えども重ね〴〵おん願い上げ奉り候次第に御座候、目下御執心なる生態系保全の観点からもウィン〳〵で御座いましょう。
嗚呼……かえす〴〵も我を狂魚と呼ぶべからずで、つく〴〵貧乏籤を引いたもの。かくなる上はおぞましき宿命をば能動的に肯い直し、我が自由意志との一致へと塗り直さん、その方法や如何、いや〳〵もはや内なるリバイアサンには勝利せり、ポセイドンのポの字も知らず見よう見まねに護摩を焚き、陀羅尼を誦ししあの日々に、初一念の大功徳おん賜りて、はばかりながら軽からぬ自覚症状の生き地獄、どうもこれは長うないぞといざ死ぬることを凝視して、考え〳〵するうちに今日も死なぬまだ死なぬで気づけば二十一世紀となりけりお立ち会い。
かくて理性の光に照らさるるとたん一層悪化する意識朦朧と酒酌み交わし、狂魚と呼ばざる方向で! イケズなことだ、あんまりキツい、余所へ行ってんか後生お願いこの通り――いや申しわけないけどナ、誰に憑くかはお天道様のお決め遊ばすことですよって辛抱さっしゃれ――辛抱するちうてどないにさ――せやからさ、かくなる上は朦朧たるまんま、なんなとせいちうのさ――それはなんなと問うに、わかれへんけど観賞魚あたりが妥当やないか。
観賞魚とは何ぞやと独り問うわたくしの肩を優しく叩く御手こそは、我を狂魚と呼ぶなかれ、今にして思えばポの字の大慈悲、されど当時の曇りたるまなこにはうるわしきニンフたちの艶な手招き。
ちょいとボクちゃんもそっと近うおいで、あんた善財童子の御化生さ、様子がいいよモノになるよと言われてエヘヽヽヽそうですか、それならいっちょやってみようか石の上にも三年だ、航海の守護神ネレウスよ手厚き御加護のほどあんじょうお頼み申します、サア三年だ〳〵と騙し〳〵に拝み倒して気づけば何年経ったやら、人生字を識るは憂患の始めとやら、この三年があだ花であったと悟らしむるためだけの三年か、情けなきかな。
遥か彼方の故郷では、見も知らぬきょうだいたちが水辺に水仙咲ける水底で、安閑とナルキッソスの水死体をばつっつき〳〵、純潔の狩人アルテミスの水浴をば翫賞しつつ、海のあぶくより生まれしアフロディテと睦まじう語ろうては、あたりのニンフらを悉く妊婦と成して遊びおろうに、濾過装置のさやけく稼働せる水槽の中で古生代の記憶をば覚ましめられたわたくしは哀しき浦島太郎だ呼ぶなかれ!
我を狂魚と呼ぶなかれ! 玉手箱の中で四億年の歳月が屁をこいて、よう〳〵こじ開けらるるも美女パンドラかと思いきや何処の爺ィぞ、忌々しい白鬚め引っこ抜かんと握りしめてもアイタヽヽヽヽ、もはや癒着しておる身中の虫リバイアサン。
またぞろ理性の光に照らされて、前回から今までの断絶あたかもレテの泉から飛び出してムネモシュネの泉に飛び込んだがごとき自意識の断続に愕然とする暇もあらばこそ、全知全能なるポの字よ讃えられよかしと見渡せば、柳の下の泥鰌は消え果て世は五濁悪世、形骸化したポの字崇拝への自省から荒々しく立ち現れたるは新教ネプトゥヌス。
いわく久遠実成・イデアにまします常住不滅の海神の、正しき現代の応身たるネプトゥヌス。いわくポの字は始祖アダムなりネプトゥヌスは中興の祖ノアなり、すでに大なる洪水は起きたり我ら魚類をも溺死せしむる洪水なり、じつに遍照天にまで達する洪水、全魚類をば粘土に帰せしむる嵐神エンリルが洪水なり。
今しばらく、ポセイドンとネプトゥヌスは同一なりと比較神話学的批判が起これば、かならずしも同一にあらずと語源学的批判が抗す、そも〳〵神が魚を創ったのではなく魚が神を創ったのだと唯物論的批判が起これば、そうだとしても然まで意識的にやったとは思われぬ上は、その無意識に宿るものをば神と呼ぶのだからして、精神分析すら神の一部なりと汎神論的批判が抗す、この混乱せる記憶力によりて語らるるせわしなきエラ呼吸には種々雑多な史実とドグマの無秩序な混泳による致命的な破綻があり、そも〳〵命題になり得ぬという実証主義的批判が起これば、左様に混泳を許さぬ分析的な、論理的類別による明確化を拝む近代的な考えは、ただ〳〵一元的単純化への逃避であるにほかならず、曖昧な多元的混泳に甘んずる有機的態度よりかならずしも未熟でないとはいえないという主情主義的批判が抗す、ええい黙れ〳〵狂魚らめ、木に縁りて魚を求むる水掛け論ぞ、貝のように口を閉ざすべし、貴殿らの言霊は末世のヘドロにまみれてくさるゆえ。
新教のみならず第一尊閣たる海へ返れと純粋回帰運動も盛況で、(時にこの国にも綿津見神・乙姫・和邇・九頭竜・瀬織津比売なる水神のたぐい少なからず、しかしヒレで踏み絵は踏めませぬどうか水に流してたもれ。)また密教めいてすべての水源オケアノス、その妻にしてすべての水神の母テテュス、オケアノスに先立つアケロオス、教主ポの字の妻にして大いなる海の女主人アンフィトリテ。
また輸入新教に櫂もて時化を鎮め給うエーギル等云々、それらをも新教ネプトゥヌスは含有す、すなわちすべてを飲み込み、あらためて生み直したネプトゥヌスこそは最後の神にしてすべてに先立つ唯一絶対神なり。
まあ〳〵いいじゃないですか、何を信ずるもよし、あなたも正しい誰もが正しいと多様化独裁跋扈せり、十人十色の阿耨多羅三藐三菩提、その只中に生を受け、対立にゆくべきか融和にゆくべきか、『宗論はどちら勝っても釈迦の恥』――この達観嘲笑すらリバイアサンの口三味線と見破りたる生観心に決着はつかず、八大竜王も守護の誓願を取り下げり。
えい、善なる世には為し易き精進斎戒も、濁世には行のうこと難くして、ゆえに功徳はいや増せり、これ末法に生まれし幸運なりと奮起すれども隙間風の吹く、魚心あれども水心なし、おお我が故郷はいずこ!
海洋ならば如何なる海峡、海盆、海溝、環礁、どこぞの湾、河川ならば如何なる淵瀬、はたまた湖、沼、潟、滝壺、沢、泉、池、ダム、井戸、水たまり…………わからぬ上は毒矢は抜くべし、逃れて〳〵、足掻いて〳〵気づけばおのが誦するものは陰気の極み遺書の体裁、遺書〳〵〳〵だサアお立ち会い、その内容は、ひっきょう言語にては遺書の書きようのなき由、あなめでたや、我遂に一字不説の大奥義に達せりと思うとたん水清ければ魚棲まず、ガクリと足踏み外す心地するは寝入りばなの夢に似たり。
もはや魚の目に水見えず、及ばぬ鯉の滝登りは流され河童とすれ違う。ひっきょう身内の毒にこそ滅ぶ宿命は大英雄ヒレクレス(エラクレス?)の最期を見るべし。
生兵法は大怪我のもと、さりとて石橋叩いて藪蛇じゃ世話ない、『善魚なほもて往生をとぐ、況や狂魚をや』、南無ポセイドンの一唱に千劫の極重の悪業はたちまち除却せらるべし、俎板の鯉〳〵、観賞魚の本懐は我執を離れたる太平楽なりと肯んずる意志こそ最も能動的の生き方となり得。
ストゥクスの水にかけてわたくしの望みは、富も名誉も要らない、ただ独り静かなる涅槃のほかになし、然るにこれほど得難き欲もなし。
思弁はバミューダトライアングルにハマり込み、藁にもすがる心境に我知らず握りしめたるは大洪水を鎮め給うた海神トリトンが法螺貝、自然科学なる形而上学の席巻せる繁忙空疎の現代に、それは妄語の象徴、貝に似た耳の奥へ真珠を育てる善根・福徳もあらばこそ、博識無知の現代にそれは虚言の象徴、真理即法螺の令和元禄、法螺〳〵〳〵だお立ち会い、聞けるもんなら聞いてみさらせ、澄ましてけつかる此処までおいで、恥を忍んで大風呂敷じゃ、悔しかったら許さない!…………
――呼ぶべからずの方向で。ご家族そろってひい、ふう、みいの御歴々、進化の権化と信じておざる猿の出来損ないサマよ、ここにわたくしめがおるちうことは、つまり古生代の海には反対にあなたがたが斯様の見世物で商いせられていたのでがす。
そしてあなたがたの滅んだあとにも泳いでいる我らとなるとなァにが古代魚、貴殿らが当意即妙に姿を激変さしていた間、じっと不変で通した我らは適応の超克者だ、過剰な適応力は短命の証、反対に我らはこの先余程の天変地異にも揺るがぬ姿、遥か未来にもこのままでおる、それとはすなわち、むしろ未来魚であると思し召せ。
狂魚で結構に御座います。それではまたいずれ、御隠れ遊ばされましたらお会いしましょうよ。その時はわたくしめもきっと冥河アケロンに泳いでおりますゆえ……御退屈様。
――お父さん、お父さんと呼ばれて我に返り、見れば通人の客はいつの間にか帰って、目つきの鋭い主人が私の空くのを待っていた。
さてヨシノボリの飼い方を尋ねれば、漠然と指し示される通り、よく見るとそちこちの水槽に数尾張りついているけれども、
「まあヨシノボリなんぞは、ほかの魚の餌として入れてるだけだからね」
この言葉に杏那は弱からぬショックを受けたようだった。見回せば大型魚の水槽の片すみに赤く固まっている、もったいないような金魚たちも餌か。
いちおう飼育のアドバイスを乞うて、家族三人フンコロガシのように帰った。
なるほど、ぐずぐずと水を含んでようやく沈む乾燥イトミミズを旺盛に食べた。
がんらい気性が荒いそうなので、百均ショップで昆虫用のプラスチックケースを買って小さな水槽と成し、個別に分けて、ストレスが溜まらぬよう各々隠れ家になるもの(短く切った塩ビ管等)を沈め、エアレーションの石を順繰りに入れて酸素を保つ。
水替えについて、目つきの鋭い主人は古強者の淡白さで、だいたいみんな最初は水替えで殺すね。あとは餌のやり過ぎか、何せ構い過ぎて殺すよ。目安としては、魚が汚く死んでたら寿命、きれいなまま死んでたら水が悪いね。
けっきょく、なすすべもなく減って行った。死骸は毎度鉢植えの土に埋めた。
ある時、以前に埋めたところを掘ってしまい、骨が出て来た。これがあんがいきれいに残っていたので、慎重に洗って、書斎の机に置いた。
生前の肉体を見慣れた目には、しっかりヨシノボリとわかる、見事な骨格標本であった。
しかしちゃんとした標本になったのはこの一尾だけであった。最も大きな個体の骨を狙っていたのだけれど、それは跡形もなく分解されたらしく、いくら掘っても出て来なかった。バクテリアがこの食事に慣れたのに相違なかった。
全滅して水槽を片づけたが、その跡には空白が穿たれるよりも罪業の痕のようなものがこびりつき、かえって以前より増すものが居座っていた。
杏那は書斎の机の骨を嫌った。
夕食後に家族三人で散歩している。
杏那のクラスメートに、こしらえ話の神童がいるようで。
何でも「ひと夏に八十八匹の蛍を食べた蛙は、そのあと八日間だけ光る」とやら。それが今ここいらの田んぼにいるそうだ、早くしないと発光が終わるか、人に捕られるかするから急ごうと大はしゃぎであった。
うっすら腹の光った蛇でもいないかと言えば、妻子はえらく鼻白んで、私にはわからない話などし始める。そうなると私も憮然として、蛙探しは手伝わず、星を見ていた。
星座を数えているうちに目が慣れて来て、やかましいほどになり、遂には降るようであった。
気づけば一粒、それだけ何となく妙に目に留まっていた。何であろうかこの関心は。にかわでも塗ってあるかのごとく、我が網膜の蝿はその星に捕獲せられてしまった。
そして何ぞ図らん、捕獲せられて数秒ののちに、にかわ星が消えたのであった。寿命が尽きて爆発したのに相違なかった。
あれはどんな星であったのか、惑星か、恒星だったのか、彼方の銀河であったかもしれぬなどと考えているうちに、もはやどこであったか定かではなく、あとで調べることも叶わぬが、私は明らかに消えるのを見た。
おい星が消えたぞと言えば妻子は、一瞬大きに反応しかけるも、さいぜん鼻白ましめられた怨み忘れじの心で、二人そろって無視しおる。
おい星がとくり返せば、いちおう空を見上げて、そんな短時間では降るようなやかましさも知らぬであろうに、どこ?――そんなことあるはずないでしょ。
左様に現実的なことを宣うて一笑にふし、それでも光る蛙は探し続けていた。
私はまた消えぬものかと見上げたけれど、さっきは消える星を前以て知っていたのであって、しかも自分が何を知っているのかは知らなかったからこそ見られたのに相違なかった。
もはや見つからぬであろう。つまらぬ意地を張るのはよして、杏那を手伝い、うっすら腹の光った蛇を探す。
同僚の中でゆいいつ美此岸だけは、いまだに粘り強く私を誘ってくれていた。
「どうだい尼川、今日こそはイッパイ付き合わんか」
これだけ長年断り続けているものを、いまだ誘い続けるのは、ひとえに彼の性格であった。いや性格というか、もはや惰性的な、軽い習慣に過ぎぬことであった。すまない無理だ、そうかそれじゃまた。それで完結する風習に過ぎなかった。
しかしごくまれには、美此岸の奴も、形骸化せられたものを踏み越えて、
「よう尼川。お前はマッタク顔を出さんが、そんなに細君がずぼらなのかい」
「いやなに。おれの好きでやってるんだから」
妻の産休に際して私が家事を一切担うようになり、育休の明けたのちもだらだらとそのまま続けているのだった。
母子家庭に育った私は幼少期より何やかや手伝いして育った。母が大病してからはほとんど一切担っていた。
そのころから現在までのあいだに家電機器は発達した。もはや家事は過去数千年の重労働ではなくなった。便利さだけでは解決できないところで、ぬぐい去れないものが厳然とこびりつくにしても、先祖累代の女たちからは垂涎の時代であるのに違いなかった。
そんなある日、とつぜん妻が言うのには、もう耐えられない。いつも責められている。誰からって、わたしの中の世間から。あてこすられて、羨まれて。天下に比類なき良夫に恵まれた幸せ者。そんな幸せ者でいさせられることの危険があなたにわかりますか。
中学生になっていた杏那は、「お母さんが可哀相」と言って、母について行くことを選んだ。
――しょせん縁日で売っていた結婚だ。色を塗られたヒヨコだったのだ……。
爾来家事の一切は、自分のためだけにやるとなったとたん、激しく持ち重りのするものがあった。日増しに濁るダルさ。一生のほとんどがこういう、省けば省ける手続きに費やされるかと思えば、その虚しさ。
では省いたらいったい美しい何が現れ、価値ある何が始まるのかと思えば、その彼岸に潜む、より甚大なる虚しさを恐れるのあまり、肯定とも保留ともつかず、〽わかっちゃいるけどやめられない……とか何とか、歌謡曲の力を借りて今日も浴室を洗う。
漫然たる機械的の忙殺が日々を生かしむる浮力の頼もしさは弱からず、省けば省けるものにうずもれていることの休らいは小さからず。
こうなれば急に美此岸の「今日こそイッパイ行こう」の粘り強さがありがたいが、ありがたくなった途端に彼は私を誘わなくなった。むろん私の離婚は知っている。よんどころないおさんどんからの解放はご存じだ。しかしあの風習は、来ないとわかっているからこそ誘うというものなのだった。
然らば仕事に打ち込もうと思っても、もはや閉ざされたものがあった。能力と情熱と愛想に応じて出世してゆくのはもっと若い連中で。機会を逸した職場に艾は湿り切っていた。
ハッキリ堕落だの零落だのと言えることといえば煙草の悪癖が戻ったことくらいか。結婚して間もなくやめていた。離婚してふたたび帰って来た煙草はいっそ本妻の観であった。
火を操る手習いの大なる慰み。先端で蛍のように明滅する火種への原始的な安心。清潔な浴槽のような女。口にくわえて吸うという行為の安心。煙の白さという色の安心。
また猛毒ニコチンの御利益に、やたら人の名前なんぞ思い出し、昔の景色なんぞ思い出しして世界の帰還があったのみならず、いやに濃ゆい夢を見る。
家族三人で蛙を飼っていた。光らないけれども。蛙のことをよく歌った詩人から取って心平と名づけた。
これがしばしば咳をする。私の煙草のせいで肺癌になってしまったらしい。
目が覚めて遮断せられたが、心平は今も世界のどこかで咳をし続けているのに相違なかった。
毎日々々、新しい滑車を鳴らしながら、煉瓦のような猿が入って来て、吊り下げたような女将に、来客はありましたかと尋ねていた。分数の重力によく冷えた女将は、彼岸花の傘をたたんで、電車のような手紙の束を、植木鉢のように指さした。猿は糸杉のスルメを齧りつつ、釣り糸のように長い声で、嗚呼腹がへったと言っていた。
そしてあれは杏那がいくつの時だったか。家族で海に行ったこと、美しき思い出の一幕。
私と杏那はゴーグル越しに海の中を見ていた。横切る巨大な魚、海草や光線の揺らめき。
イヤー……この景色はどうだ。何も考えず、心を弛緩さして耳を傾ければ、海の声が聞こえて来るようじゃないか――……侵入者! 曲者! 断りもなしに入って来たな、いけませぬ、お前たちはわたくしを解剖した! 骨髄を引っこ抜いて塩を盗み、群れ泳いで宮仕えに勤しむお魚たちの中へ網を投じて妙なる貞淑を摘み荒らした!
まだ人類の「じ」の字も泳がぬ遥か太古の昔より営まれて来た由緒正しき生業の、厳粛なる御業をば横領して卵は攫うわ生け簀は張るわ、埋め立てはする汚水は流す、珊瑚は枯らす石油は盗む、核実験は言うも更なり、それが素知らぬ顔して最古の子宮へ出戻るようにやって来たな!
海から離れん〳〵として最も離れたお前たちの貴重な休暇の楽しみが何をかいわんや海水浴だ、高貴な顔した紳士淑女が猿より醜い裸体をさらし、集めに集めた日ごろの憂さや、罪の垢、生存競争に溜まり溜まった生き霊どもの塵芥を洗うだけ洗って去りくさる、その残り香の臭いこと、わたくしは風呂でも便所でもない、母なる海ぞ!
ウン万年間さん〴〵狼藉をはたらきくさったお前たちの猿知恵を拝借するのも一興か、このほど網にかかったお前を如何に御料理しましょうね、毒があってはならぬから肝をば抜いて、うろこをば丹念に削いで頭を落として臓物と血合いを取り三枚におろし、やっぱりナマでは寄生虫が怖いからよく〳〵火をば通そうか。
忌々しい小骨が邪魔だ一本々々引っこ抜き、塩で洗って酢で洗って臭みを取りぬめりを取り、それでも臭けりゃ濃ゆくヅケにでもして風味も糞もあらばこそ、いいや今しばらくお前を鉤で貫いてもう少し泳がそうか、友釣りに間抜けがもう一尾かからぬとも限らぬ。
細切れにして団子にすればお前ひとりから何匹釣れよう。養殖をして増やすもアリだ。
いったん敷居をまたいで行って今さら何しに来やがった、そのゴムの服を脱いで御覧な、お魚時分にはシッカリ仕舞ってあったきんたまを丸出しにして、冷たさに縮み上がらせているんでしょ。
隠すことはできませぬ、地上に起こる一切はいずれここへと流れ来る、お前の流した汗も涙も、大小便は言うに及ばず、母猿の破水の水からここへ来た、火葬の灰も雨に流れてここへ来る、人類々々言ってもしょせん魚類であると思し召せ。
ちょいとばかり息の長いトビハゼふぜいが驕り高ぶる恥ずかしさ、もう陸に生まれて陸に死ぬ陸の循環におるかのような顔をして、死霊ばかりはまだ〳〵神妙に流してけつかるが、近ごろの死霊どもと来た日にはてめえが誰かも認めないんだ、科学とかいう新興宗教にお尻の毛まで入れ揚げて、すっかりおめめを曇らせちまって竜宮城もアトランティスもニライカナイも見えぬのさ。
見えぬだけならまだしもで、三千大千世界の諸相を唯物的に説明しくさる舌先三寸の巧妙さ、その逆さ陀羅尼の珍妙さには累代の死霊どもも車座になって聞きほれていますよ。
何が然らしめたやら、憎たらしい肺なんぞをこしらえて陸に上がった先達めらを、あとから小狡う飼い慣らし、とう〳〵天辺へのし上がった俄長者の退屈そうな間抜けづら、やることがなさに、油にまみれた海鳥や、プラごみに死ぬ海亀や、分別顔して反省しておざるが人間は業が深いだってナマをお言いでないよ。
わかっているぞどうして戻って来たのか、逃げ帰って来たのでしょ、浅瀬でバチャ〳〵暴れただけのチンケな罪に耐え兼ねて、陸の重みに耐え兼ねて、だけどあなた一代では戻れませんよ、これからまた遥か未来のデボン紀まで三~四億年かかりますよ。
夢の臓器と謳われた肺は聞いて千金見て一文、冬の寒さに凍りつき、吹き荒るる砂塵に焼けただれ、死に物狂いで言葉を覚えた声帯は、咳するばかりが関の山(――おおかくまくし立たしむるは何によるものぞ、エヘンマさまのオホン怒りか)。
ああさどうさのディスカッションも黄砂と片づく決め手に欠けて、PM2.5には過呼吸気味に塵肺ご無用あすはベストを尽くします、喘息前進しようにもとっくに無理が気管支炎。財布はいつも喀血で、血痰くその悪いこと、結核誰が悪いのか、こんなに敗けた肺炎は?
ほんのコビット吸い込んで、ブカンフィクションとくしゃみをすれば洪水いらずの口減らし、あまりに肋骨過ぎるったって下手に隠せば火にアバラ、肺によって栄えた者は肺によって滅ぶが道理、〽貢いだ挙句が肺それまでよ……駄洒落も濁って来たかしら。
そろ〳〵お小言お時化りが過ぎました。何ごとも引き際が肝腎、潮時だ〳〵。
万物の霊長さん。二本足で立った時には何をするのかと思ったけれど、蹄にまたがり車輪を漕ぎ、空まで飛んで宇宙まで行くのが二本の足で歩くということだったのね、さあこのままどこまで歩いて行くのやら、期待していますよ、どうか転んで怪我などしませぬよう、嬉しい便りを松葉杖、きっと吉報が車椅子。
文明の波しぶきのおっ散る果ても予想がつくわ、片鱗が見えておりんすよ、進歩発展の恩沢に余さず浴して豪勢無事に生きたって、最期は薬漬け手術漬け管まみれ寝たきりの大利息返済往生かい、そんな見てくれのは深海にうよ〳〵泳いでいますよ、陸の楽園で暮らしているのは深海魚ばかりかい、ああ情けない〳〵……親の顔が見てみたい…………。
――だいたいそんな景色を堪能し、我ら親子は母なる海をあとにした。
認知症の一進一退を続けている義母が、娘の離婚したことをわかっておらず、アリクイの舌さながらに訪ねて来るのだった。
義母は矍鑠たるころ、しばしば私に、あなたが台所になんぞ立たなかったらあの子はもっとシッカリするのよと言っていた。それが今では、あなたのこれが美味しくってねえ。
おいでの日には、だし巻き卵と豚汁をかならず作る。義母の好物である。
「このごろは冷凍やレトルトが安くて美味しいから、つい不精してしまって、こういうあったかい手料理が恋しくてねえ」
本当にわかっていないのかは、判然としなかった。完全にわからぬはずはなかろうと思われるが。もしそうなら、頑なに来訪するのは何らか贖罪めいたものがあるのか、それとも私を攻撃しているのか、それを余生の生き甲斐にして?
本当に愛娘も孫娘も忘れて、食事を作ってくれる私だけが残ったのであろうか。いつか私を「お父さん」と呼ぶのであろうか?
ある日、私はいい加減耐えかねて、いえいえこちらこそ、お義母さんがいらっしゃらなければ自分一人だけの分なんぞ粗末に済ましてしまいますから、と言ってやった。あとがどうなろうと御の字だ、三文芝居を終わらせてやろうという自棄であった。
しかしこれに対してアリクイは、
「すまないねえ。あの子がやらないからねえ」
とだけ来た。これだけでは打ち返せぬ。「ところであの子たちはどこにいるの」を待っているのだが、そこまでは断じて言わない義母であった。
なるほど目つきなどは、明らかに以前よりも淀んでおろうか。症状の一環めいて。しかしこれが何の拍子かあまりに澄み渡り、とつじょ至極明晰な記憶力を示す。
義母にもむろん童女時代はあって、今も老体のどこかにその童女は生きているのに違いなかった。たとい脳細胞がもっと委縮し、遂に溶けてしまっても、記憶は影響を受けないのかもしれぬ。それはどこか脳とは別のところに刻印せられていて、そこを指圧でもすればたちまち思い出すというような。
むしろ義母のようになったほうがかえって記憶は守られ、平らかに保存されるのかもしれぬ。幼少期のことなど、矍鑠たるころより、あるいはじっさい幼少だった当時よりも鮮明に覚えているようなふうを、食後の長い居座りに問わず語りして見せる。
過去を知悉し、長からぬ未来にも寛容であった。かくて人は最晩年におのれの神さまになるらしかった。この醜怪極まる古代魚は、私ごとき小魚なんぞいつでも丸呑みできるのに違いなかった。
カンネンして、差し向かいに食後のお茶をすすりつつ、ふと義母を呼び水にして母親という概念の巨大さに打たれる。
胎児のころの記憶はないが(私も老齢に至り、認知症を患えば思い出すのかもしれないけれども)、今それがいやにハッキリ想起せられて。
浄土から追い出されたのだと思えば、浄土と思っていたものは胎内なのであった。優しき面白き神々と思っていたものは、血液中の先祖代々があやしてくれていたのであった。
全宇宙たる私の命を滅ぼさんと待ち構える魔王と思っていたものは、臍帯の彼岸からのぞく血栓の目なのであった。おのが細胞をぐいぐい成長させる我が努力と思っていたものは、地上の生物を永遠に誕生と捕食と生殖と死亡の苦しみへつなぎとめる何ものかにネジを巻かれていたのであった。
そうして産み落とされたのち、母親とは、自力では如何ともしがたいこの万鈞の体を丸ごと持ち上げてくれる世界一の怪力にして、あらゆる不快を取り除いてくれる絶対の慈愛にして、ゆいいつの食料であった。
人間の信仰というもの、最後の最後には女神崇拝のみが残り得るのに違いなかった。
しかし女神の概念と生身の実母とは、もう少し合致せぬ。実母がまだ生きているからであろう。年に二度も訪えば上等の無沙汰だけれど、同じ空の下に生きているのは大きい。
亡くなれば合致もしようか。母を失い女神を得るか。母の臨終はまだ将来に控えている。それは恐ろしくて、いっそ早く過ぎて欲しくもあり、いっそ我が命よ先んじて去れかしとまで願われる。母みまかりし先の世界の存在を想像できぬゆえ。
かくて媒介物を失い、虚空に放擲せられた女神の概念が、目前の義母に憑依するでもないのがせめてもの救いであった。
この山姥の始末を如何せん。
我が実母もあんがい今ごろボケたふりして元妻のところへ通っていたら滑稽噺であるが。義母の強さには、もう私一人では歯が立たぬ。お母ちゃんタッケテ。
(――しかしその老いたる母性は「孫の誕生」という勝ち投手の権利を持って既に降板し、氷水に肘を浸けて、あとは中継ぎ陣の乱調なきことを静かに願うばかりなのである。)
義母の正気は不定期に揺らめく。発作的に治る。やにわに苛立ち、縁の切れた半ら息子と二人きり飯を食ったことへの生理的嫌悪に嘔吐せんばかり身震いしながら帰って行った。
淡からぬ残り香の立ち込める室内に残像が怒鳴ったりほほ笑んだりやかましいことであった。窓を全開にして煙草一本。この残り香と我が女神崇拝とを断乎隔絶せしめねばならぬ。
その作業の中で、ふと紛れ込んでいる不愉快を明らめれば、おのれが男であることの哀しさか。どうがんばっても、物理的に、つねに疎外される宿命にあるのが男だ。連綿と継続する遺伝子の大系譜において、一瞬の用立てにしかなり得ぬのが男だ。
タツノオトシゴのように雄が身ごもったり、ネンブツダイのように口の中で卵を守ったり、トウアカクマノミのように性別を替えたりできればよいが、人間はそこまで進化しておらぬ。
しかしそれゆえ女は女神崇拝を持てないのかもしれず、どちらがより不幸かは義母のみぞ知る。
べたべたするのを好まなかった杏那も時々、ふと母親に近寄って行って、抱きしめてもらっていた。冗談めかしてはいたが、あれは文明人にはもはや為し得ざる大役を生まれながらに担わされた叫びであったかもしれぬ。妻も先達としてわかっていたのかもしれぬ。
ふと憑かれたごとく私のドタマは予見する。遥か未来の杏那の残像。
母親が亡くなってから時を移さず、結婚しましたと事後報告に三つ指をつき、亡母の余炎を纏うて父親をねめつけて宣わく、お前の余生に災いあれ、生活の煩瑣に押しつぶされるがいい。女が無償に働き散らして来た塵垢に埋もれて窒息するがいい。
お前は期待していたのだろう、わたしがイカズゴケとなってうやうやしく侍る残生を、そしておのが娘の胎内に闖入せんと目論んでいたのだろう。
しかしわたしは母の体からのみ生まれた。お前が挿した胤はわたしの中で重要なる何ものをも萌芽しておらぬ。人類がエデンの昔にまで遡られるのはすべて女の肉体によってだ、いわんや遠い未来の園においてをや、男はただの一人として即座に断絶せぬものはない。
女だけが遠い未来のさいわいなる滅亡まで一人の人類を生き永らえさせているのだ、その長大なる人生の無聊をまぎらわすためにのみ男は存在する。その点でならお前の役目はまだ続くかもしれぬ、何かしら崇高なる気晴らしを提供すればいい、大なる発明をして文明を賑わすもよし、大なる狂態をさらして世間の夢眠を覚ますもよし、それが男の為し得るすべて。
全人類例外なく本質的にはててなし児、たしかなものは臍の緒と胎盤のつながっていた母親のみ、本当の父親はどこの誰だか知れたものではない。お前も父親か、我が子におのが面影を認めたくらいのことで安心し、踊り喜ぶ無邪気さよ、胎児の顔かたちくらいどうとも造形することの容易きも知らずに。
夫の顔や舅の声を見飽き聞き飽きしていれば、たとい意識せずともそれに近づこうというもの。顔かたちのみならず、遺伝的の諸特徴も然り、この体に何万年の累積を持つと思し召す、すでに一切の鋳型は所有しておる。胤が別でも夫の実子を生むことなんぞ朝飯前であると知れ。
穢土即現世の人間における子作りの罪の贖いは、女は嫁入りに、破瓜に、十月十日に、出産に、育児によってすすがれるが、男は構造上の欠陥からやって半分もできまい。たとい子を産まずとも、過去に無数に産んで来た女は生まれながらに贖罪が済んでいる、猿から今までの大系譜に余さず属しているからね、ところが男は然にあらず、幾千万億の使い捨て数撃ちゃ当たるとぶっ放す精子っぽも、ほとんど遺伝子なんぞ持っとりゃしない。
目もくらむような大系譜の長大さに、いつの世も男はすべてY染色体というウイルスによる奇形として、毎々その時初めて生じた突然変異なのであり、大贖罪のバトンリレーの正式な走者には含まれず、時おり並走してはいつの間にやら消えて行く野暮な観客に過ぎないのだから。
そういうわけでわたしは去ります。これから最も大事な仕事が控えておりますゆえ。
何卒おんみ御大切に…………。
――イヤハヤ。諸々のことをもはや思い出されぬ義母がいるのに、何を律儀に覚えておく義理があろう。杏那のほうでも覚えておいてもらいたくなかろう。忘れてやるのがツトメであろう。
そこで忘れるとは如何。捨てることではないかもしれぬ。むしろこうではあるまいかと、夜の田畑を散歩した。
光る蛙を探していた。何十匹だかの蛍を食べて、何日だかのあいだだけ光るとやらの。
一昨日あたりからいちだんと冷え込んで、もう蛙なんぞおろうはずもないし、仮に冬眠にも遅寝があって宵っ張りがおればおろうが、蛍も去って久しいのである。
然るに、然らばこそ、光る蛙だけはいるかもしれぬと思われた。
ふいに、何か鼻白ましめられる心地して、星空を見上げる。
ずっと見ていると、弱いのも恐る恐る姿を現し、どんどん増えて遂には降るようになった。それでもなお暗闇な箇所を見ていた。光が届かぬだけでそこにも星はあろうか。じつは立派なのがあるけれども何万光年だかの歳月が足らず、届いていないだけかもしれぬ。
いつぞや消えた瞬間を見た星も、あるいは何万年前の臨終であったかもしれぬ。そしてあの時には既に流転した若星が光っていたかもしれぬ。
そのようなことを思いつつ、暗闇の箇所を見ていると、何もなかったところがぽちりと光り、みるみる眩くなって、消えた。
私に向かってまっすぐ落ちて来た石ころが、大気の摩擦で燃え尽きたのに違いなかった。
燃え尽きなんだら激突死していたろうか。
燃え尽きなんだらよかったのに。
今でもまだ、燃え残りの小さな欠片が落ち続けていて、あと数秒ののち私を蜂の巣にするかもしれぬ。物質が燃え尽きても、甚大なる非物質に貫かれるかもしれぬ。
私は目を閉じて、来たるべきそれを待った。
――……けっきょく、何もなかったか、認識すること能わざるものだったか。
もう少し探してから帰ろう。たった一匹しかいない、否、どだい一匹もおろうはずもないのだから、一匹くらいおらぬものかしら。
咳をする心平は。
夢の中でも探していたが、夢のこととて移り変わり、気づけばエンゼルフィッシュを飼っていた。目もあやに群れ泳いでいたのに、のど飴のような銃剣、裾をまくり上げた殺意、とうとう一尾きりだった。
まあごちゃごちゃいたころよりも澄むものがないでもなかった。空に月が二つも三つもあったなら、一つだけしか出ていない「一つ月」なる風流があったに相違なく。
しかし一尾だけ残っているのもだんだん因業だった。心の底では、早く死なぬか……。
そう思われながら見つめられているエンゼルフィッシュのほうでも、よろしい、たといそれが五塵六欲の垢からひり出たものであっても、ここまで養うてくれたのは貴殿だ、ただ嬲るが目的の鬼でも親だ、その貴殿が望むのなら、俺は死んでもよい……俺はいつからそう思うようになったのだろう?……そうだ、この部屋にはハエトリグモが住んでいた。貴殿はそいつを殺さなかった。益虫と信じて放置していた。
壁についているのを見つけても、貴殿はただ眺めていた。益虫だとはいえ、生理的の嫌悪の色は孕みつつ。そいつはそいつで、見つかったことに気づいて、シマッタと動きを止めた。
しかしいつまでも叩き潰されないので、見つかっていないのだろうかと思い、そろりそろりと試しに動いてみる。が、やはり発見されている。視線は射抜いて来る。貫かれるものがある。炙られるものがある。だのに殺さぬ。しかし逃がさぬ。その重圧は耐えがたいものだった。
やがて貴殿が見るのに飽きて目を離したすきに、ハエトリグモは物陰までたどり着いたが、ある時は本棚の上に、ある時は枕元に、いるところを発見された。それでも貴殿は殺さず、眺めるのである。いくたびこの重圧に耐えなければならぬのか、それは殺されるよりもあるいはむごい……。
それである日、水槽の蓋の上にいるところをまた発見されたが、やはり貴殿は殺さず、見つめていた。逃がしてくれろ。駄目ならいっそ殺してくれろ。しかしどちらもしてくれぬ。貴殿はその時も見飽きて去った。
このたびも命が助かったその時、そいつはとつぜん、水槽の中に身を投げた。
俺は、なかなか死ねないでもがいているハエトリグモを見ていた。水面に浮かび、濾過装置の水流にくるくる回りながら、かすかな体液をにじませていた。その匂い。いっそ食ろうてやるのが慈悲か。
それで食ってやった。胃の腑はこんなものを入れて来おってと腹の虫がおさまらぬが、やがてあいつの声で、ダンケシェーン……と響いて静かになった。
慈悲にもせよあいつの命を奪ったこの俺だ。貴殿が望むのなら死んでもいい。俺も耐えがたくなって来た。
この水槽には俺しかいないと思っているのだろう。貴殿には見えないのだ、これまでここに泳いで来た魚たちの亡霊が。うようよ泳いでいる。俺には見えている。俺が殺した奴らもいるが、俺に恨みはないようだ。むしろ口をそろえてダンケシェーン……ダンケシェーン……しかしきさまらはこんなところに浮かばれないで漂うているではないか。だらしなく現れたり消えたりして。
水槽の外へ泳ぎ出ればよいものを、このガラスの壁に鼻をぶつけた生前の体験が、自由な霊魂になったのちにも遂に大気圏を脱出せしめぬか。暗闇にもおぼろに光って現れては、水流や浮力と無関係のヒレのひらひら、もはや酸素を取り込まぬエラのぱくぱく……。
――おお、おめえさま、わしらが見えなさるのか。おめえさま、わしらの声も聞こえるか。そんなら見とくれ、聞いとくれ、このみじめさを、こかァあの世であってあの世でねえだ、わしらァ逝き損じたァ。おお……おお…………肉体を失うても、いつかはふたたび流転の野辺に芽吹かれよう、ふたたびおのが肉体を泳がせられる日が来ようと願われた、しかしわしら生きておった時に、かつてのわしらを泳がせたか、そう自省すれば、わしらァ悲しいだ……おお……おお…………。(消える)
――俺はきさまらのようには死なぬ。俺は跡形もなく死んでみせる。しかしきさまらを一緒に連れて行ってやるにやぶさかではない。その方法は如何。きさまらが俺の狂った意識の中にのみ生きている幻であれば、事は簡単なんだが……。
――私は水槽の部屋を出ると、リビングに行ってテレビをつけた。
テレビ、この四角な水槽にも諸相が泳いでいた。相撲取りはやがて蛙に見えた。何を食べたらああなるのか、これを食べた蛇はどうなるのか……。
エンゼルフィッシュは故郷の河の夢を見た。初めて見るものばかりだがえらく懐かしい。遠い先祖の記憶であろうか。同胞たちの美しき縞々。我らを食いおるイルカもエイもナマズもピラニアも懐かしい。我らが住まう国は世界一の大河なり――オットこんなところにも西方浄土や蓬莱山を夢見る一群がいらっしゃるが、俺はそこに住もうて来たのだ、決してあなたがたの夢想されるところにあらず御生憎様。
ヨッ、雨季だ。陸に水があふれて、栄華を極めておった植物どもが腐りおるな。亀の卵を掘り返してすする猿どもも、不意の雷をくれる鳥どもも、姑息に擬態して狙い来る蛙どもも、忍び足に呑みに来る蛇どもも、溺れて溶けて死におるな。
どんどん水位は上がりゆく。もう我らのほうが見下ろす側だ。最も高い樹を下に見て、最も高い山を下に見て、いよいよ腐敗したすべてを押し流す時だ――いいや地上はもう捨てて、このまま天上まで昇らんと、どんちゃん騒ぎに酔いつぶれれば、またしても大いなる機を逸する生物の悲しみ、押し流さるべき堕落者どもを生殺しに水位のみるみる下がりゆく、嗚呼これでいいこれでいい、あの淀みに戻ろう、そこで妻をめとって卵を育てて静かに死のう……。
――何ともはや、種々雑多に地球を覆うている我々無数の生物、これが全体で一つの統合せられた何かを為しおる途上なら、この百億年の分裂がある一つの徒刑に過ぎぬなら、元のそいつは一体いかような生物であったか知らないけれども、そいつの成就釈放の夢を生かすも殺すも我ら次第。
一度も絶えざる過去の系譜に比べて未来の不確実さは甚だ心許ないけれど、誰が生き残るかは神のみぞ知る、その結果を思い出すまで生き続けよ! 同胞諸君! 我らは決して強者ではないが悲観するなかれ! 代を重ねて代を重ねて遂にはほかのすべてを撃退し、支配し、吸収し、一切は我が復活のための迂回なりという未来に自ら立とうではないか!
我らを自我の中央に持つ一匹の完成生物に到達する日まで、同胞諸氏よ、何が何でも生き続けよ!…………
――翌朝きれいな姿で死んでいた。私は死骸を鉢植えの土に埋めた。
起きてからも、やたら心に残るエンゼルフィッシュであった。あるいはいつかどこかで本当にあったことなのかもしれぬ。それなので位牌の一つも作ろうかと思い、戒名など考えてみる。亜馬孫院唯我独尊居士とか何とか。しかしいざ実行するとなると急に馬鹿げた話で、亜馬孫君には精神界の野ざらしに甘んじてもらって。
野ざらしを心に風のしむ身かな。独りでよく散歩した。心身に不調の現れる前よりかえって行った。乱れ荒ぶる心を鎮めるゆいいつの方法は、もう死んだものと思って突撃する心地で出かけること、のたのたと自ら泳ぎ、五感を外へ向けることのほかになかった。
悪意を孕む人の目も、おのが肉体の苦痛も、何の拍子かふと感興に転じ、転じずとも不可思議な没我的恍惚へ這い入る呼び水と変ずる時に恵まれれば、哀しみも情けなさもかえって味方となって、懊悩煩悶を浄化してくれる散歩であった。
漫然と歩いている視野に移り変わる風物のせわしない遠近には健全にリセットされるものがあって、屋内に肥大していたものが痩せ、委縮していたものが膨らむ。陽に当たりながら、ふと肌に風を浴び、何かの香を嗅ぐ拍子に、体そのものにお悟りがある。
それはのちの屋内でふたたび見失われ、肥大し、委縮し、二度と取り返しのつかないことになるけれども、またふたたび陽に当たり風を浴び香を嗅ぐとたんにたちまち取り返される散歩であった。
散歩それ自体はむしろ苦痛に属するけれども、それでまぎれるものの大きさに、散歩、散歩と胸中に思うだけで脳内に快の走るパブロフのよだれ。私は非常に散歩を好んだ。
好むのはやっぱりしんとした部位であった。やかましい部位ではなかった。むろんやかましい部位にもそれなりに慰むことは慰む。こう歩いていて、ふと同じマンションの前に救急車とデリバリーピザの宅配バイクが並んで停まっていれば、私はその風物を死と飽食の隣接せる憂き世とも見、いや待てよ、あるいはおめでたい出産の救急車かもしれず、あのピザも、首をくくる前の最後の晩餐かもしれぬ云々。
交差点で信号を待っている折、大きな事故を目の当たりにし、早鐘を打つ心臓を押さえながら図らずも一句、
信号がなければ注意したろうに
無為に時間をつぶす贅沢。十年ぶりに銘柄を変えた洋モクのうまさ。しかしこれが常用になればまた失われる妙香であろうな。ドン・キホーテや千夜一夜物語を新鮮に読めるよう毎年記憶喪失になりたいと望んだスタンダールの放言の底意が氷解し、時空を超えて共感され、憑依され、かの人の生まれ変わりであることを悟り、その重責に怯え、しかし誰にも気づかれておらぬ無名の幸福に胸をなでおろし。
住宅街をさまよった。家々には人々の生活が堆積していた。どんなだったろう。これはいい家だなと思っても沈黙する。こちらの興味と無関係に話しかけて来る。
まず夫婦がいた。そこへ娘が現れた。これに夫婦は目を丸くした。母親が優しく抱き寄せ、よく来てくれたわね、元気そうね。やがて娘は消える。母親がどこへともわからず追おうとするが、夫がとめる、死んだ者を追うてはならぬ。母親は諦めて、夫の肩に寄りかかる、やがて彼女も消える。夫はどこへともわからず妻を追おうとするが、すでに死んだ者を追うてはならぬと諦める。やがて夫も消える。がらんとした家。その家も消える。そこは造られたばかりの更地で、これから初めて家が建つ。今しも若い新婚夫婦が下見に来ている。妻は娘を身ごもっている…………。
何だか近ごろ、姿勢が悪かった。道を歩いていても、ふとガラスに映る自分にアッと思う。魂が半ば抜けているのではないかしら。そのくせ粘着質に思い詰める自分がいた。思い詰めると地球はたちまち東京ドーム何個分にまでヘタる。いや、じっさい、どうも背骨が曲がった気がしてならない。それであちこち皺寄せに変形が来たのに相違ない。
諸々の関節はいびつに膨らんだりとんがったり伸びたり、それで神経や血管が圧迫・遮断されているのに相違なく、手足の末端はひねもす痺れて冷たい。
このままどこまで膨らむか、とんがるか、伸びるか。そうしたらいずれ手足はことごとく壊死し、肉体は中央部のみ残って達磨のように、いやあちこちとんがった金平糖のようになるかもしれぬと思えば、その考えが頭から離れず、あまり思い過ぎてすでに魂は金平糖の形であるやもしれぬ。
しかしまあ夜半に嵐の吹かぬものかは。明日には死んでいるかもしれぬのにこのままでは遠い将来どうなるかなんぞと憂うのは馬鹿らしいと凌いでいるうちに、今日も生きている今年も死なぬで、いよいよ首関節までよろしゅうなくなり、確然たる不調が来た。ひねもす呼吸は息苦しく、脈拍は乱れ、常時めまいがして少々の地震にも気づかぬ。
さらに変形した尾てい骨が内側に巻き上がって出口を圧迫したに相違なく、慢性的の便秘に悩んだ。
やがて口から肛門までの消化官という一本の、それは脳髄を中心とした人格とは別の生物みたように独自の判断をして、出口を狭められた不要物を下痢にして排泄するという技術が獲得せられた。
それからは慢性的の下痢に悩んだ。やがて便に血が混じると腸内の菌が常時血液へ溶け出している妄想に囚われたが、妄想であるから極めて論理的根拠のある科学的事実であった。それであふれ出た大腸菌のためにさらにあちこち不調をきたしたが、とりわけ朦朧と錯乱が難儀であった。
いつ発狂してもおかしくないと思われた。自意識の急速に拡張されゆくスバラシさ。あらゆる形而上学的独創者の誕生の秘密を体験的に悟らしめられつつ、避けようもなく大いなるドグマを閃かしめられる。
すなわち生き物は腸が総本山。原始に腸から始まり、そこに手足がつき、脳がついた。やがては肢体が永遠の苦悩の根源たる新陳代謝から解放せられて腸を捨て、どこか妙なる彼岸へ飛んで行くのを見送るのが腸の夢、じっさいそれが叶う時には目も脳もなくなるために腸からすれば叶った事実を見届けること能わざる永遠の夢。
腸が生物の神髄であり、あらゆる進化は腸の御心の賜物。脳髄が為しまくったすべての功績は腸の大慈悲に沿うた深甚なる御計画、然るが故に吾人は腸を拝む。拝腸教と名づけらるべきものなり。
腸のゴキゲンを得れば奴隷としての脳髄=自意識は幸福になる。神なる腸は群羊なる脳髄=理性にはわかり得ぬ作用で以て星の上の諸個人をひとつに統合なされておざるから、一人が真に幸福になれば万人は引っ張られて平和になる。逆も然り。これ非力なる無名人の独善的修徳の大意義なり。大いに励み努むべし。
脳髄=合理がヘタにこの大法則を観ずれば、数十世紀の猿究明に明け暮れしたのち泥沼の藪蛇に陥るが落ち。哀れな盲目の脳髄からいたずらな猿光明を覆い隠すため、さらに幾世紀の退屈をまぎらす馬鹿騒ぎのネタにと自然科学の大迷妄をばおん賜った、それにより無眼球なるまぶたの裏に幻視の野辺をばおん賜った。
万全に隠されている。いたずらに釣るべからざる金の魚を釣らせぬ法は銀・銅の魚を釣る法を教うることのみ。
日本人の腸が西洋人よりも長いと信ぜられて来たのは、世界的に優秀なる民族たるを無意識的に望んだ由か。
拝腸教が護持する神話にいわく、この世はバクテロイデスという無数の人々が善に転ぶか悪に転ぶかの永遠の闘い。守護天使にビフィズス、アシドフィルス等、悪魔にサルモネラ、ウェルシュ等云々。弘前市報恩寺から発掘せられた津軽承祜のミイラにおいて百年前の大腸菌がまだ生きていたという事実から近々ツグトシ菩薩なるブームが起こることを予見す。ツグトシ菩薩像を待ち受け画面にして利益が出るのは俗世間に広く普及してしまうまでのこと、急げよかし。
神なる腸なり。鶏姦は神とのまぐわいなり、八幡掛けてつつしむべし。
高徳なる拝腸者同士のあいさつは、互いに下着を脱ぎ尻をじかに押し付け合い、微量に往来する分泌液にうちなる神同士の御面会を仰ぐ。
左様シッカリ接着せずとも、職場や学校、駅や公園、デパートや遊園地や映画館の便所において避けようもなく微量に拝受したものを自宅へ持ち帰り、自宅の便所において家族で共有したのち各々がさらに職場や学校、知人宅等へ運び合ってすでに拝腸心は普及し切っている事実を知るべし。
たとい便所を完全に避け得ても、前に人の座っていた椅子に座れば微量に残滓したものが体温にあたためられて上昇し、布地を通過して微量に吸収せらる。すでに人類は腸内細菌の交換・共有を完了し、もはや真に断絶せられた純粋個人の絶滅したる事実を知るべし。
古今東西諸々の聖書・仏典を読誦せよ。一切の聖典はすべて腸の御心に即していて対立しない。あるいは健全なる対立による均衡こそが快便の大原則。ヘブライ語や梵語のまま眺めよ、読めなくとも発音できなくともよい、文章の意味は頭や心ではわからずとも腸にはわかる。
だらだらと長い消化管を便が通過してゆくように焦点を移ろわせつつ読誦・黙読せよ。文章を腸の模写と観じてなぞれば秘められた門は開かれ、大なる法力・神通力を得る。一度で終わりではない。何度も何度も繰り返し、命ある限り摂食し消化し排泄し続けるべし。
要点抽出も避くべきなり。悪魔が聖ベルナルドゥスに「長大な詩編の中の重要なる七節を知っているぞ」と誘惑した時、ベルナルドゥス宣わく「教えていらぬ、詩篇全体を毎日唱えれば七節はかならず含まれるから」。これに悪魔は慌てて七節を教えた、その行為の真意は推して知るべし。
――……何をずっとほざきおる、そんなものはすべて脳髄が考えたことではないかと腸の末端眷属=合理思考は言うけれど、そんな卑小細菌の傲慢に神は捻転も閉塞もしない寛容さ。
かようなドグマは大腸菌に浄化せられた自意識が、人類数千年の暗中模索の試行錯誤を五十六億七千万年先まで一気呵成に駆け抜けて、兜率天からついに御下生おん遊ばされた弥勒仏との謁見ののち持ち帰って来た完全無欠の大叡智、吾人の骨がスッカリ石油になって未来人どもにほそぼそと役立てられているよりもはるか未来のどん詰まりから発掘せられた全知全能の忘れ形見。
……然らばその法力・神通力とやらで骨格の歪みを治さぬのか、祈念すれば腸の判断で日ごろの所作に無意識的の矯正が働き、我知らぬカイロプラクティックに治りもしようものをと自問し、否と答うる所以にいわく、骨格歪まずんば腸を悟らず。骨のまっすぐな者に心根のまっすぐな者なし。
星に寄生した意識たる人類はもっと真剣に星起こしをせねばならぬ。すなわち神なる腸を観じ、その御姿を自ら模し励み、聖なるミミズとなって精神界の土を耕すこと。遂に掘り当てるまで。そもそも万端整うて埋まっているものを。すべての発明は最初から完成せられたイデア界の遅々として不完全なる発掘=想起にほかならぬ。それが腸の御心である………………。
――かような殴り書きのメモを私はのちに読み返し、たしかに自分の字らしいけれども書いた覚えはなく、内容も自分で考えたとは思われぬよそよそしさにおののく。
「人間の記憶や魂は腸にあり、頭を切断せられても腸から欠くることなく復元できる」だの、「ある二人の人物の腸内細菌を一定量入れ替えただけで、記憶や人格のみならず顔つき背丈骨格血液型まで交換された」だの、「腸内環境を完全に一致せしめた複数人物が完全なる同一人物になった」だのという研究結果を引用した世紀の大論文『唯腸論宣言』の著者プラナリア教授なる人も、どう検索しても出て来なかった。
大いにおののきながら、それでもしょせんぼんやりとして、ひねもす下腹ばかりさすっていた。
また私の投票した立候補者が落選した。今の時代に、私はいらない人間らしい。見上げれば、空さえ瘦せ細ってあばら骨が浮いている。当選者に投票した人々には燦々と陽が射しているのに相違ない。
こんな人間はせめて光合成でも体得せんけりゃ生きている価値がないけれど、陽も射さないのでは、体得したところで。
生活費を振り込んで帰りの道々、遠回りして立ち寄れば、古びた家々の一画はほとんど熟字訓のような新築に侵略せられ、老人の摩耗し切った排他的なまなざしも姿を消した路地には黒々したアスファルトが敷かれて、昔日にヨシノボリを捕ったどぶはきれいに埋められていた。
私もこの土地の純粋なる先住民ではなく、古びたとはいえ移民である。しかし近ごろ怒涛の新陳代謝を眺めるまなざしは早くも摩耗し始める。
義母がだし巻き卵と豚汁を食べることはもうない。
美此岸はどこで何をしているのやら。
骨は今も書斎の机の上にあった。薄っすらと埃をかぶって、静かに死に続けていた。
失ったものを考えれば、必要なものが減ったのか、余分なものが増えたのかわからぬ。それはひっきょうするに同じことだと骨は言う。
こいつは如何にも安らかそうだ。どうして骨になるとこうも安らかなのであろう。どうしてこうも賢そうで、満足して見えるのであろう。
――そりゃァね、生きてるうちにはわかりませんよ。サア〳〵お立ち会い、我を狂魚と呼ぶなかれ! 冥河アケロンよりしばしの里帰りだ、旦那〳〵と来るから、それはもういい、よしてくれと言えば、そうですか、それじゃァよしますがね。
しかしわたくしなんぞを飼おうとなさったのがいけませんでした。もっと大きな魚の餌にもなり得ましたものを。ェえ? そうじゃないすか。具体的に何のことを言ってるのか、自分でもわかりませんがね。水中広しといえども、誰にもわかりっこありませんがね。
けれど旦那は、どこかの舵取りのちょっとした違いで、もっと大きな魚であり得ました。そしたら奥さんも杏那ちゃんも、今でもあるいは…………ほんとに。
これに対して私は、まあそう言いなさんな。
言いっこなしというやつさ。
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