ハンバーグと春雨サラダ
晩秋の昼下がり、交通量の多い県道を二階の北向きの窓から眺める。ただ古いだけの木の雨戸はしばらく閉めていない。もう腐っているかもしれない。
この家はいくら掃除しても黒い粒子が床に溜まり、靴下の裏を汚す。車のマフラーの、排気ガスの煤。
「京子、ちょっと来なさい」と母の声が届き、窓を閉めて階段を降りる。父は居間の引き戸を閉めており、隣で母がきつい目つきでこちらを睨んでいる。
「いつまで引きこもっている気? あんたを置いておく余裕なんてうちにはないの」
母はこちらを睨んでいる。
「まあでも留守番くらいはできるでしょ。これから直子のところ行くから」
母がこちらを睨んでいる。
「冷蔵庫に入ってるもので何か作っておいて」
母は玄関のシューズボックスの上から車の鍵を持ち上げ、父に渡した。毎週のことで、私はいつも動けなくなる。体が硬直してしまい、視線さえ動かせない。父が運転する車の音が遠くなっていくことでやっと台所へ意識を飛ばせるようになり、右足を横に踏み出した。車は家から左のほうへ出発したようだ。きっとガソリンスタンドに寄るのだろう。
食材の確認のため、台所に行って冷蔵庫を開ける。卵が三個、牛乳が少し、ちくわ一袋と使いかけの小麦粉、豆腐半丁。冷凍庫にはいつ買ったのかわからない鯵の干物やラップに包まれた白飯、スライス済みの食パン。野菜室には玉ねぎが二個ときゅうりが一本だけ。戸棚には乾物があるかもしれない。
まだお腹はすいていない。夕食のことなど考えたくない。私は部屋に戻り、電気ストーブのつまみを『強』まで回し、綿パンの膝を抱えて温まる。暗い部屋に浮かぶ真っ赤な電熱線に触ってみたくなり、せめて一番近くへと、金網に密着させた。黒くなった、白い靴下の裏を。
靴下の裏は燃えなかった。階段を下りる。二階よりひんやりした空気にぶるりと身を震わせる。軋む廊下を行ったり来たりしているうちに冷蔵庫が気になってくる。
もっと寒い台所でカチコチに凍った鯵の干物の下に隠れていた合挽き肉を見つけ、ハンバーグのたねを作った。ハンバーグソースはケチャップと醤油とウスターソースで。春雨が戸棚にあることに気付き、ちくわときゅうりの春雨サラダも作った。
再び二階に上がり、つけっぱなしだった電気ストーブだけが存在しているような部屋でテレビのスイッチを入れる。きっとテレビ画面も煤に侵されている。そうは見えないだけで。人気ドラマの再放送には、人気俳優が映っている。チョコレートのCMも流れる。薄汚れているであろう画面でも、テレビは生きている。
敷きっぱなしの布団を黒い靴下の裏で踏む。ぎちぎち踏まないでちょうだい、という母の声が脳内に響く。めくれている掛け布団の端を踏み潰すと、少し気分が良くなった。
そんなフェミニンな服似合わない。
いつも言ってるでしょ、地味な色合いにしなさいって。
ブラジャーは高いのよ。
夜用の生理用品も高いの。
特売のでいいじゃない。
何これ、こんな本読んでたの?
キスシーンがあるから?
いやらしい!
学校が終わったら早く帰ってきなさい。
直子は部活なんだから、あんたが晩ご飯作るのよ。
面倒だからお弁当も自分で作りなさい。
直子の分もあんたが作ればいいじゃない。
一人分も二人分も同じでしょ。
勉強なんてできてもいいことないわ。
成績が上がったところで何になるの?
大学に進学って、何のために?
学費なんて出せるわけないでしょ。
あんた頭いいようで馬鹿ね。
直子が専門学校に行きたいって言うから早く就職してよ。
就職先が決まらないなんて、どこかおかしいんじゃないの?
直子は結婚相手見つけてきたわよ。
何で妹にもできることができないの?
就職できないなら早く結婚しなさいよ。
包丁はよく研いであるほうがいいでしょう。
ほら、砥石買ってきたから。
冷たい水でやるのよ、当たり前じゃない。
あんた頭いいのにこんなことも知らないの?
父と母が帰ってきたらしい。車が家の前で止まり、駐車スペースに入ってくる音がする。いつの間にか横になっていた逆行再現の布団から這いずり出て階下を目指す。
重い体で台所へ行き、作っておいたハンバーグと春雨サラダを確認し、私はため息をついた。包丁が出しっぱなしになっていることに気付いたが、父と母が玄関ドアを開ける音が聞こえ、体が動かなくなった。
「ただいま。何作ったの?」
声を出すこともできない。完全に固まっている私に目もくれず、母は横を通り過ぎて言った。
「……ハンバーグ? そんなものしかできなかったの?」
まったく、役立たずなんだから。私に聞かせるつもりはなかったのかもしれないと思わせるくらい小さな声が、聞こえた。聞こえてもいいというくらいの音量で。
そんな小声でも引き金になることを、私は知った。包丁を手に取った。右手は動いた。まず「お母さん」と呼んだ。声も出た。私の呼びかけに反応した母の腹に包丁を刺した。ずぶりという感触を楽しく感じた。包丁を引くときはスムーズに抜け、物足りなかった。床に膝をつく母の、手で邪魔されていない部位をもう一度刺す。胃の辺りだろうか。やはり肉を貫く感触が楽しい。右手首をひねり横に皮膚を切り裂くと、ぬめぬめした内臓がほんの少しだけ見えた。
父はテレビの方を向いていて見ていなかった。刺された母の「ぐうっ」というくぐもった声も、父には届かなかった。手にした新聞やチラシを父が乱暴にテーブルの上に置いた音でごまかされた。「なに、を」という母の声も父は気にしなかった。父に後ろから近付き、「お父さん、こっち」と言ってみた。包丁を両手で持ち、振り向いた父の、大腸と思われる辺りを二回刺した。包丁をわざとぐりぐり回すように抜く。皮膚の下にほんのりオレンジがかった黄色のコーンスープの塊のようなものがちらりと見えたが、すぐに血で汚れてしまった。父と母の呻き声に「黙れ」と一言だけテーブルに吐き出した。吐き出せた。
洗面所で丁寧に手と包丁を洗ってタオルで拭き、コートハンガーからロングコートを引ったくり、丁寧に袖を通す。母のバッグを右手に、玄関の車の鍵をシューズボックスの上から左手に取り、スニーカーをはいて玄関を出て、無理やり取らされた運転免許に感謝しながら車を走らせる。行き先は祖父母が住んでいた栃木県大田原市羽田。新山下インターチェンジが首都高に乗りやすくていい。下りるのは東北道の矢板インターチェンジ。カーナビはあるが道は覚えている。思い出した。部屋のテレビをつけっぱなしにしていた。でもすぐに脳から追い出す。
スニーカーの中に靴下の裏の黒い煤がついてしまうかもしれない。本牧のコンビニに寄って新しい靴下を買った。運転席で履き替え、また車を走らせる。カブトムシを捕まえに行った森が頭に浮かぶ。
明るいDJはラジオで流暢なしゃべりを披露し、素人丸出しのしゃべりのCMが流れる。明るい曲も暗い曲も流れる。矢板インターチェンジを下りて東方面へ。森へ到着したのは深夜。おしゃべりな静寂が漂っている。助手席の足元に置いた包丁は切れ味を失っていないだろうか。包丁もしゃべれればいいのに。
きれいな服装ではない。でも裏が黒くなった靴下からは抜け出すことができた。素敵な気分だ。今の私を支配するのは、夜の闇だけ。
カブトムシは寒い時期にいないとわかってはいるが、車のヘッドライトが届く範囲を一応探す。やはりいない。クワガタも。地面に落ちたままの何かの果実が腐った甘酸っぱい匂いが鼻につく。カラスウリ、アケビ、柑橘類のナニカ。何が腐っているのかは全くわからないけれど、女を腐らせている私にはちょうどいい。黄色い脂肪は、私にもあるかもしれない。すぐに動かなくなる体は脂肪を燃焼しにくいだろう。脂肪はかわいらしいパステルカラー。
大きな木に寄りかかる。コートを脱いで綿パンをずり下ろし、カットソーをめくる。腐った冷たい空気が皮膚にまとわりつくのを確かめて、私は包丁を自分の柔らかい腹に刺した。ずぶり、手の平に微細な振動。良い感触を楽しむ。黄色い脂肪は見えてこなかった。ゆっくり流れ落ちた|生血《せいけつ》だけが見えた。車のヘッドライトをつけておいてよかった。黒は夜だけでいい。腹が痛いけれど処女の私は本当の痛みなんて知らないままだ。
血は温かかった。体は痙攣し始めた。腐った視界は真っ黒になった。私は眠くなった。
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