窓辺に寄ると植物独特の甘い香りが鼻先を掠める。初夏の陽射しを受けて葉を広げている食虫植物――ハエトリソウに水やりをする。湿地帯に生息する植物らしく、土が乾かないようにするのが育てるコツだ。鉢の下に置いた受け皿にも二、三センチ程度水を入れておくのも大切である。それを腰水というらしいのだが、夏場は気温で水が腐りやすいので毎日取り替える。水が温まるのも悪い影響を及ぼすので日に二回水を入れ返るのが日課だ。綺麗で新鮮な水をたっぷりと与えて育てるハエトリソウは水加減で枯れたり腐ったりしやすい植物なので少し育て方が難しい。園芸初心者には難易度が高い。
私は元来、花や植物には大して興味はなく、しかも食虫植物となると尚更縁遠い。精々、学校の理科の教科書でその存在を知る程度だ。食虫植物の中でもポピュラーな部類のハエトリソウもこうして実物を目の当たりにしたのは成人してから――恋人と付き合ってからだ。相手の趣味がガーデニングや植物を育てることだったのだ。いつか広い庭付きの家に住んで好きな草花を植えて栽培したいと夢を語っていた。微笑ましく相手の話を聞いていた過去が懐かしい。
鉢を少し移動させる。直射日光に当てるのは良くないらしい。充分な陽射しは必要だが、当てすぎは駄目だと調べた文章の中にあった。直射日光が当たらない、風通しがよい場所が適切だ。
鉢植えの中で口を開いている葉は、外側は鮮やかな若葉色だが裡側は奥へいくにつれて赤みが濃くなり、深部は蘇芳色で、鈍い赤色は人間の血を思わせた。葉を縁取るようにして生えている鋭く尖った棘は触ってみると見た目に反して柔らかく、肌を傷付けるものではないことが判る。
誘惑に駆られてそっと指先で葉の裡側へ触れてみる。と、さっと葉が閉じる。その間、約○.五秒。
葉が閉じる動作は植物にとってかなりエネルギーを消費するらしく、反応を楽しみたいからといって無闇に触る行為は傷んで弱る原因になるので宜しくないらしい。一度閉じた葉が開くのは一日から五日後。捕食したものがある場合、消化するにも数日かかるらしく、再びハエトリソウが口を開くのは一週間から十日後だという。
これらは付き合っていた恋人から聞いた話で、当初何も知らなかった私は興味本位で葉に触れて叱られたことがある。
ハエトリソウは二、三回葉が閉じたらその寿命を終える。だから世話をする際も不用意に葉に触れないよう、細心の注意を払わなければならない。しかし私は今のように時々、ハエトリソウの柔らかい歯に触れて腐った血の色をしている裡側に指を差し込む。自分の指先を食まれる様は見ていて楽しい。植物が自らの意志で動く――本当は単なる反応、反射なのだが――というのは酷く不思議に思えて恋人がハエトリソウを大切に育てていた気持ちが判るような気がした。それだから恋人が私の元を去った今でも何となくこの手間がかかる生きものを捨てられずにいる。と、いうのは自分自身に対する言い訳であり、単純にまだ相手に未練があるせいなのかもしれない。
嘘か本当か真偽は知れないが、ハエトリソウに十倍ほどに希釈した牛乳を霧吹きで与えたり、鰹節、チーズ片を与える愛好家もいるらしい。一見すると奇妙に思えるが、蛋白質を消化し、養分にする植物なのだから人間の食べ物を与えるのは何らおかしくはない。
――では、血を与えるのは?
不意にそんなことを思いついて、半ば衝動的に試したい誘惑に駆られた私は棚の上に置いてあるペン立てからカッターナイフを手に取ると左手の人差し指を切り付けた。ピリッとした痛みが走り、薄らと紅が滲む。もう少し血が出るようにと更に上からカッターの刃を宛がって力を込めた。思いの他深く切ったのか、血が溢れて床に滴り落ちた。
指先からぽたぽたと垂れる血をハエトリソウの上に散らす。上手く葉が閉じないので先程したように裡側へ指を差し入れて血を擦り付けた。小さなトラバサミは私の指を捕えようとして瞬く間に閉じていく。その仕草の不可思議さは何度見ても飽きず、形容しがたい感動を齎す。心做しか指先から滲出する血を美味そうに呑み干しているようにも見えて本当に何かしらの意志を有しているのかと錯覚してしまう。
少し間をおいて手を引くと指先から甘い香りがした。蝿を捕獲するために発せられる匂いは、いなくなった恋人の俤を想起させた。一体今頃恋仲だった相手はどうしているのだろうと未練がましく思うのだった。
◇◇◇
私の日常は酷く平坦だった。
寝て起きてハエトリソウの世話をし、適当に食事を摂って家を出、会社で仕事をする。残業をすることもしょっちゅうで、その場合帰宅は夜の九時頃になる。
今日も例に漏れず二時間ほど残業をした私は電車で一時間かけて帰宅し、自分の食事より先にすぐ様ハエトリソウに水をやった。たっぷりと新鮮な水を与え、腰水も綺麗なものに取り替えて傷んでいる葉がないか入念に確認する。先日、自らの血を与えた葉はまだ閉じたままだ。内部で蛋白質を消化しているのだろう。血液とはいえ、自分の一部が大切にしている食虫植物の養分になるのは何か秘密めいていてなかなか愉快だ。血は人間にとっては生命そのものである。下手な栄養剤よりも賦活効果があるのではないだろうか。
もっと血を与えてみたらどうなるだろう。血より髪の毛や爪の欠片の方が良いだろうか。私は早速試してみることにした。
爪切りで左小指の爪を切り、更に切り分けて数ミリの小さな欠片をぽとりと口を開いている葉の中へ落とした。と、瞬きする速さで鋭利な棘が組み合わされて交差する。その隣の葉には短く切った毛髪を含ませた。無防備に裡側を見せている葉はあと三つしかない。葉を閉じさせて枯らしてしまうのは惜しい。
私はハエトリソウに触れないように注意しながら鉢植えを出窓からダイニングテーブルへと移動させた。植物を愛でながら一杯晩酌をしようと思いついたのだ。胸に抱えた鉢植えを手放しても尚暫く蠅を誘引する甘い匂いが纏わりついて離れなかった。
部屋着に着替えてテレビの電源を入れる。ニュース原稿を規則正しく読み上げるアナウンサーの声を聞きながら冷蔵庫から缶ビールを取り出し、口を付けながら適当につまめるものを用意して、帰りにコンビニで買ってきた弁当を温めてダイニングテーブルで広げた。おかずの唐揚げを頬張りながら、液晶画面の中で生真面目な顔色をした男性アナウンサーが山中で身元不明の遺体が発見されたと伝えているのを見るともなしに眺めた。アナウンサーの言によると現在遺体の身元確認中だという。毎日のように報じられる他人の死亡報告を無感動に耳にしつつ、ハエトリソウを視界の中央に据えて酒を飲みながらつまみのピスタチオやチーズと共に唐揚げ弁当を黙々と口へ運んだ。
独りで摂る食事は味気ないが、しかしハエトリソウも食事中だと思うと寂寞とした無聊も慰められる心地だった。物言わぬ存在であっても――否、それだからこそ――雄弁に語りかけてくるものがある。丹念に心を砕いて植物の世話をすればするほど無言の語りは強く私へ響く。耳を欹てれば猥りがましく開いた葉から聲なき聲が聞こえてくる。知らない言葉、聞いたこともない旋律にのせて。夜空に犇めく星の瞬きの如くかそけき聲はかつて愛した人の声に似ていた。
その晩、夢を見た。
ハエトリソウに喰われる夢だ。
腐った血の色をした葉の中に閉じ込められた私は分泌される消化液によってゆっくりと躰が溶かされていくのだ。手足が萎え衰えて次第に身動きすら難しくなる。自らの意志で動かすことができるのは瞼だけだ。私はその遊びしか知らぬ子供のように目を開いたり閉じたりを繰り返し、薄暗い食虫植物の内部を眺めた。胸がむかつくような甘い香りに頭の芯が痺れ、意識が朦朧としてくる。この匂いは知っている。乱れたシーツの波間で溺れた時に嗅いだ夜の匂い。躰の深部を侵食する熱の匂い。今でも素肌から剥がれ落ちないでいるあの人の。
私は溶ける。
溶ける、蕩ける、融解していく。
恐怖心はない。ただ深い眠りの淵へ滑り落ちていく心地良さがあるだけだ。
躰の末端から輪郭が溶け崩れていく。
気持ち良い、気持ちいい、きもちいい。
もうこのまま二度と目醒めなくても良いくらいに。
私はとける。わたしはとろける。
とける、とろける、どこまでも。骨の髄まで。
わたしはとける……とける……、からだをなくしてとろけて……、
◇◇◇
代り映えのしない日々の生活は奇妙な現象で突如打ち破られた。
五月の連休後の最初の日曜日。
休日だった私は普段よりも遅くに起床した。
時刻は午前十時前。
良く眠ったと欠伸を零しつつ、身支度の前にハエトリソウに水をやろうと窓辺に寄った時。少し乾き始めた土の上――艶々とした緑の葉群れの下に白っぽいものが転がっているのを認めた。一体なんだろうとそっと繁った葉を指先で捲ってみると現れたのは指だった。ほっそりしたその指は小指らしい。何かの見間違いかと咄嗟に思ったものの、どう見ても鉢植えの中に転がっているのは人間の指そのもので、まるで血が通っているかのように爪が桜貝の色に染まっていた。私は思わず自分の手を見た。指は不足なく五指揃っている。
この指は誰のものなのだろう。というか、なぜそんなものがここにあるのかも判らない。誰かの悪戯だろうか。が、ここ最近自宅に友人を招き入れたことはない。何者かが忍び込んで仕掛けたとはもっと考えにくい。現実離れしているし、そもそも目的や意味が不明だ。
薄気味悪く感じて室内をざっと見て回ったが不審者はおらず、誰かが侵入してきた形跡も皆無だった。一番考えられる可能性としては別れた恋人が合鍵を使って私が寝ている間に無断であがりこんで指を置いていったという筋書きだが、それでも意味不明なのは変わりない。そもそも相手に渡していた合鍵は既に返して貰っている。棚の抽斗を開けて確認してみたが、合鍵は所定の場所にきちんとあった。ではなぜ? 一体誰が? 何の目的で? 指の持ち主は誰? 抱いた疑問は最初に戻って堂々巡りをする。
多くの疑問はあれど、そのままにしておくのも厭だったので気が進まなかったが、片付けるために小指に手を触れてみた。と、予想に反して白い小指は温かく、生きている質感があった。予期しない手応えに私は短く叫んで指を取り落としてしまった。こつんと軽い音を立てて小指が板張りの床に転がる。そのまま尺取虫の如く動き出しそうに思えて暫く呆然と眺めていたが、流石に自分の妄想がいき過ぎていると我に返って指を拾い上げた。そこでふとおかしな考えが脳裏に浮かんだ。
――この指はハエトリソウから吐き出されたものではないだろうか。
ハエトリソウは捕らえた虫の消化しきれなかった部分を吐き出すという。ならばこの小指も。
数日前、爪の欠片を与えた葉は今や完全に口を開いて蘇芳色の裡側を覗かせていた。血を与えた葉も同様だ。更に私の躰の一部を与えればいずれは――。
莫迦げた考えだと打ち消したのは一度だけで、私は殆どそうすることが当然のような気持ちで腐った血の色に染まっている葉の中へ再度少しの血と微細な爪の欠片を与えた。
それからというもの、私の躰の一部を食した食虫植物は異様な生命力を発揮した。
獲物を捕獲した葉は二、三回閉じるのが限度であるのに、血や爪を喰らった葉は一向に枯れ衰える気配がなかった。それどころか益々健康そうに色艶を増して大きく育った。そして葉が開く度に誰のものとは知れぬ指が湿った土の上に転がっているのだ。今日は人差し指、明日は薬指、その次の日は親指といった具合に。
初めはただただ気味が悪かった指も数日もすればすっかり慣れて捨てることすら惜しくなり、私は後生大事に指を保管した。腐ってしまわぬよう、密閉容器に入れて冷凍庫の中へ。時々取り出して見ては傷んでないか確認をした。白い指は形からしてどうにも私と同性のものらしかった。じっと眺めているうちに白い指に見覚えがあるような気にすらなって、私が寝入っている真夜中に容器の中で蠢いている様を夢想した。
指が十本揃う頃になると食虫植物は葉群れの中央から長く伸ばした茎の先に白い花をつけた。ハエトリソウの花はその見た目のグロテスクな姿からは想像できないほど可憐だった。長くハエトリソウをもたせるためには種子ができる前に花茎を剪定するのが良いと調べた時に見たので、少々可哀想に思ったが花を摘み取った。と、剪定鋏で伐った茎の断面から赤い汁が滴った。滲出する血のような液体は腥いような匂いがした。私の血を呑んだせいかもしれない。今やハエトリソウは力強く繁茂してその奇怪な口を猥りがましく広げて餌を強請っているのだった。
私は変わらず植物に情を傾け、血や爪の欠片、髪の毛を与えて育てた。するとある日、口を開いた葉の中にこちらをぎょろりと見据える眸――眼球を見つけた。黒々とした眼と青白く澄んだ白眼のコントラストはいっそ不気味なほどで、深く潤んだ眸は何か言いたげに私を見返していた。恐る恐る濡れた眸に指先を触れてみる。ぬるりとした感触は紛れもなく人間のそれであった。傷が付いたのか白眼が赤く充血する。
これは一体誰の眼だ。一体誰が私を見ているのだ。じっと瞬きもせず、監視するような眼差しに怖気が立って殆ど反射的に私は眼球がある葉を毟り取ってしまった。ぶちぶちと厭な音を立てながら葉が千切れ、赤い液体が溢れて指先を濡らす。ぐっと葉を握り潰すとゼリーを圧し潰すような感触が掌に残った。拳を開いてみると無惨にも萎れた葉があるばかりで潰した眼球の残骸はどこにも見当たらなかった。あれは私の錯覚、見間違いだったのだろうか? 否、でも確かにあった。見た。漆黒の隻眼を。訝しんでいると微かな物音がした。そちらに視軸を転じ、鉢植えを見遣る。すると今度は葉群れの影に銀色の金輪が転がっているのが見て取れた。拾いあげてみると指環であることが知れた。頭上に翳して矯めつ眇めつすると裡側にイニシャル――Sと刻印してあるのを認めた。私はぞっとした。見覚えがあるものであったからだ。
私は慌てて冷凍庫を開け、中から十指を収めた容器を取り出した。冷たく凍った人差し指を掴むと瘧のように慄える手で指輪を嵌めた。銀色に輝く金輪はあるべきところに収まったふうにぴったりと人差し指に合った。その瞬間、吐気が込み上げてきて私は駆け込んだ洗面所で嘔吐した。
――あの指はかつての恋人のものだ!
なぜ今まで気が付かなかったのだろう。
握り潰した眼もきっとそうだ。
あれは元の持ち主であった恋人の躰の欠片を吐き出しているのだ。
居ても立っても居られず、私はリビングへ引き返すと、ハエトリソウの鉢植えを床へ叩き落した。
「ああ……ッ!」
ぶちまけられた土と共にごろりと人間の頭部が転がり出た。
虚ろな闇を湛えた眼窩が私を捉え、片眼がぎょろりと剥いた。濡れたような漆黒の眸は悲痛そうに嗤っていた。
――その日の夜、半月程前山中で見つかった身元不明の遺体の詳細が判明したと報じられた。
Sだった。
(了)
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