虚乳と虚根が交わり新しい宇宙が誕生してから一週間が経過した。どうやら旧宇宙の記憶を持っているのは俺と吉原、志希ちゃん部長様、化学部の三馬鹿(当然青田も含まれている)、そして星川さんだけのようで、この岩手県立銀河崎高校の先生も生徒も、一週間前に部長様の虚根が銀河崎盆地を精子まみれにしたことなどまったく覚えていなかった。
八限目はロングホームルームだった。クラスメイトたちは十月の運動会に向けて、クラス対抗リレーの選手を決めたり、クラスの立て看板のデザイン案を決めたりしていた。――あんな異常事態が目の前に起きていても。
俺はラノベの主人公のテンプレのように教室の窓際の一番後ろの席に座っていた。頬杖をつきながら校庭を眺めると、グラウンドは灰色のプレハブに埋め尽くされていた。
全部で二十五棟建つプレハブは、すべて、オカルト研の菊池のためにつくられた仮校舎だった。以前星川さんの虚乳に吸いこまれた菊池は、新宇宙誕生の翌々日、突然学校へ戻ってきた。これだけなら嬉しいことなのだが、俺の記憶が正しければ(というよりも常識的に考えて)、菊池はこの世界にただ一人だけで、千人もいるわけがない。千人も戻ってきた菊池は定員二百五十人の銀河崎高校の校舎に当然収容できず、高校と岩手県教育委員会は協議の末、菊池が卒業するまで定員を千二百五十人に増員する超法規的措置を断行。千人の菊池を収容する仮校舎もたった二日の突貫工事で建設した。
二十五棟のプレハブの窓のなかには、四十人学級の二十五クラスに分けられた菊池がすし詰めにされて授業を聞いている。野球部よりも野球部らしい坊主頭にしているくせに、中高六年間オカルト研にいる菊池、いや、菊池たち千人は、真面目にノートを取るふりをしながら、こそこそ隠れて月刊ムーを読んでいた――。
新宇宙でもやっぱり田舎町はイオンとパチンコ屋しかなく、新宇宙になり変わったところといえば、イオンが再来年にイオンモールへリニューアルすることぐらいだった。放課後、まだしょぼいイオンのフードコートで、青田と吉原と一緒にマックのポテトを食べていた。
「青田大先生、なんで俺たち以外の誰もおかしいって言わないんだろ?」
吉原が片頬を抑えながら聞いた。部長様に秒でフラれてから、なぜか歯が痛むようになったらしい。別に星川さんの前に告ったB組の石川さんのように、往復ビンタ千本ノックをされたわけでないのに。
「先生だからってなんでも知っている訳じゃないよ。星川さんあたりに聞くしかないじゃん」と返事した青田は、ブルーバックスを読みながら眉間にシワを寄せていた。新宇宙では青田は群像新人文学賞の最終候補に残り、夏に小説を出版したことになっていて、次回作にSFテイストの純文学を書こうと躍起になっているが、残念なことに青田の理系アレルギーは新宇宙へ引き継がれてしまっていた。青田は首筋を掻き出した。蕁麻疹ができていた。おそらく積分記号かなにかを見ているんだろう(ややこしいことに俺たちは旧宇宙の記憶も持ちながら、新宇宙の記憶も持っている。一番困惑しているのはおそらく青田だろうが)。
自分たちの力だけでは解決できないはわかっている。問題は、星川さんがまた学校へ来なくなったことだ。これからどうしようかと三人で頭を抱えているところだった。
すると突然、鼻にかかったハスキーボイスがフードコートの入口から聞こえた。
「あんたたちー? なーにマックでダベってんのさ」
「げっ、羽黒先生!」
吉原が素早く立ちあがってギターケースを担いだ。
「待てゴラ!」
フードコートの入口を見る。旧宇宙と相変わらず電気が消されて、黒く澄んだ闇が覆っていた。その闇のなかから姿を現したのはゴスロリの漆黒のフリルワンピに身を包んだ、ちっちゃい女児――、いや、学生時代は仙台のありとあらゆる箱で暴れ散らかした地下アイドルだったけどいろいろあって疲れちゃって地元に戻った羽黒まりん二十九歳独身先生様だった。
「先生、なんて格好してんすか。ライブは来月でしょ」
腰の引けた吉原はたどたどしく後ずさりした。
「あ? 明日、花巻の箱でリハするって言っただろ? お前のニワトリよりも小さい脳みそはそんなことすら覚えねえのか? ちゃんと着れるかどうか確かめようと着ているんだよ。てか、さっき、なんで私が喋った瞬間に『げっ』って言ったんだ。説明しろよ?」
羽黒先生は猛ダッシュして吉原に近づくと。肩を殴ろうとした。だが先生の一五〇センチに満たない身長では吉原の脇腹をポカポカ叩くだけで精一杯だった。
「すいません、すいません」
吉原はペコペコ頭を下げた。吉原にとって羽黒先生は大恩人だった。羽黒先生は、東銀河崎中学のマッドドッグと呼ばれ、岩手県南の中学生たちを恐怖のどん底に陥れた吉原を、入学直後からしごきあげて真っ当な道に連れ戻した。もし羽黒先生がいなければ吉原は退学して反社会的勢力の一員になり、所詮数学三点マンの知能だから大失敗し、いまごろ、仙台港でシャコエビと仲良く海の底に沈んでいただろう。
「さあ、吉原。ポテトなんて食べてないで、学校に戻って練習するぞ」
「え、昨日みたく、またスピリタスを吹いて火炎放射するんですか? 嫌ですよ」
「当たり前だろ! いまのうちから火に慣れる修行をしておけば、二十歳ぐらいには火炎放射器を振り回しながらギターが弾けるようになる。そのうち、お前はイーハトーヴ・ラムシュタイン・ヨシワラとか呼ばれて、全国、いや、全世界に名前を轟かせるんだ。いいか、わたしたちで、世界のテッペン取ってくぞ!」
羽黒先生は吉原の腰のベルトを掴むと引っ張っていった。無抵抗な吉原は、ドナドナの牛のように連れて行かれた。その二人はフードコートの入口の闇へ入ると瞬く間に姿が見えなくなってしまった。
「なんだよ、まりんちゃん……。あ、吉原、スマホ忘れてるじゃん」
青田が指をさした先、しなしなになったポテトが二本残った箱とともに、吉原のスマホが置きっぱなしになってきた。
「仕方ねえな、吉原に届けてくる」
俺は吉原のスマホを持って入口の闇へ潜っていった。
一面に絶対的な闇が広がっていた。――虚乳のなかの大宇宙は無数の銀河が煌めき、全宇宙の全歴史が目の前で繰り広げられる、あの狂気的光景はあまり思い出したくないが、光がないこのイオンの通路の絶対の闇はその虚乳よりも、はるかに虚無だった。
結局、二人の気配すら感じとれないまま闇を抜けると家具売り場に出た。林立する、食器棚やテーブルの間に目を凝らしても、吉原のギターケースの先っぽすら見つけられない。
もう先に行ってしまっただろう。おそらく羽黒先生は愛車の薔薇騎士号(それこそ薔薇のように紅いGRヤリス)に吉原を突っこんで、イオンから高校までの田んぼを突っ切る道を爆走していったのかもしれない。
さっさと家に帰りたいのにと思っていたら後ろから青田が追っかけて呼びかけた。
「どこにいなかったよ」
「じゃあ学校に行くしかねえなあ」
家具コーナーからイオンの出口へ歩き出す。ふと、羽黒先生について気になることを思い出した。
「青田は文系クラスだから知らないだろうけど、羽黒先生って新宇宙になってから授業でおかしなことを言ったんだ」
「いつもおかしいだろ、あんなクレイジー物理教師。火炎放射をするわ、生徒にも教えこむわ。今度は文化祭で体育館を燃やすんじゃないの? この前は音楽室のグランドピアノを燃やしたし」
「違う違う、そうじゃない。この前、羽黒先生は物理の授業で……」
「あー、これ以上、物理って言葉を俺に聞かせないでくれ。また蕁麻疹が増える」
青田は耳を塞いでしまった。ちゃんと説明しようと思ったのに。それに、青田の勘違いも正さなきゃいけない。羽黒先生は決してグランドピアノを燃やしていない。――アップライトピアノなら盛大に燃やしたが。
* * *
ここからの回想は小難しい話なので飛ばしても構わない。これからする話を要約すると、羽黒先生は、存在可能なありとあらゆる宇宙を皆殺しにして、その歴史ごと存在を抹消しようとするやばい女だ。
羽黒先生がおかしいことを言ったのは虚乳と虚根が新宇宙を生み出した次の日、二限目の授業のときだった。本当だったらこの授業で先週の実力テストの返却をすると事前に言っていたのに、教壇に立った白衣姿のまりん先生は(なぜか理科の教師は実験するわけでもない普通の授業でも白衣を着たがる)、楳図かずおの漫画に出しても似合う、どす黒い表情をして語りだした。
「学生時代から付き合っていた好きピにフラレました。仙台と岩手の遠距離恋愛を八年続け、いつまでもプロポーズしてくれなかった好きピが、突然、わたしを仙台のおしゃれなレストランへ呼び出しました。知ってます? 仙台駅の近くにね、高さ一八〇メートルの超高層ビルが建っているんですよ。そのビルの二十六階、仙台中の夜景が一望できるフレンチレストランで食事。わたしはついにプロポーズされるんだ。そう期待して、精一杯おめかしして、仕事を早抜けして、薔薇騎士号を飛ばし、一ノ関駅から新幹線に乗りました。二時間後、その仙台のレストランで、フルコースを食べながら好きピに言われたのが『いつまでもまりんと遊んでいるわけにいかない』ってセリフ。クソが! いまはなきHooK SENDAIで、好きピと一緒に暴れて出禁になったり、まだフォーラスの地下にあった北京餃子でライブ直後に、客の冷たい反応を思い出して泣きながら一キロつけ麺を食べたり、そんな、大事な、大事な思い出を、遊びってポン菓子みたいに軽い言葉で言うのか! なーにが『家柄に恥じない人と結婚したかった』だ。結局、箸よりも重いものを持ったことのなさそうな名家のお嬢様と結婚したって事後報告されて、わたしは泣きながら新幹線で岩手に戻ったよ。ふざけんな! お前はロックミュージシャンじゃねえのか。権力に歯向かうのがわたしたちの仕事だろ。電力会社に就職したり、すぐ辞めて県議会議員の父親の秘書になったりした時点で怪しいと思ったけど、お前は、権力を否定していたくせに、結局権力者になりたいんじゃねえか!」
へ、男にフラレて闇落ちか。大人げがねえな。おそらくクラスメイトたちもそう思っただろう。クラスメイトたちはシラけた目で羽黒先生を見て、くるくるとシャーペンを回していたり、問題集を解きはじめたりするクラスメイトもいた。だが先生はまったく気にする様子もなく、いきなりチョークを持つと黒板いっぱいの大きさの字でなにかを書きだした。
「気を取り直して今日は特別授業をします。ねえ、わたし、こんな愚かな人類って絶滅したほうがいいと思うんですが、かといって、他の生き物がそのまま生き残るのは不平等ですよね」
先生が物騒なことを言いながら字を書き終えると、チョークを黒板から離した。
黒板に書かれた字は――全宇宙抹殺抹消主義。
先生は再び俺たちのほうを向いて話した。
「仙台の大学で理学部の物理学科に行っていましたが、わたしは実をいうと文学少女です。仙台の丸善で、あのクソ好きピに教えてもらったシオラン様が大好きでしてね。知ってます? シオラン様は反出生主義を唱えた偉大な哲学者で、『街頭に出たとき、人々を見て最初に頭に浮かぶ言葉は「皆殺し」である。』って名言に痺れてから、わたしはありとあらゆるものを破壊したくて火炎放射を始めました。焼いた箱は両手で数え切れません。物はいっぱい焼いてきたけどまだ人は焼いていないから安心してください。けど、悲しいことに、わたしのシオラン様は理系の知識に乏しくて想像力に限界がありました。どうして人間だけが皆殺しの対象でしょうか? 他の生物は? この地球は? 太陽系は? いや、宇宙ごと皆殺しにしたほうがいいんじゃないでしょうか? あなたたち、マルチユニバースって知ってます? わたしたちの住む観測可能な宇宙はどうせ何もしなくても熱力学的に死ぬけど、他の宇宙はまだピンピン生きています。わたしはね、せっかくなら存在可能な宇宙すべてを皆殺しにしたほうがいいと思っています。抹殺します。それにね、存在した形跡すら残るのも嫌です。最初から存在しなかったことにできれば最高じゃないですか」
先生は吹っ切れた口調で言うと、また黒板にチョークを滑らせて、黒板の右隅に「数学的宇宙仮説」と書いた。
「テグマークという物理学者が唱える数学的宇宙仮説は、数学的に存在する全ての構造は物理的にもまた存在するという説で、この仮説によれば、わたしたちの住んでいる宇宙は、わたしたちの数学体系そのものある一つのアルゴリズムを形成しています。別の宇宙はその宇宙の数学、そのまた別の宇宙には、その宇宙の数学。そして、無限にある数学体系の宇宙を包括した究極構造――これが、究極の宇宙であると同時に究極の数学で、この完全無欠の究極構造を破壊できれば、ありとあらゆる数学が壊れ、同時に宇宙が抹消されていきます。最初から宇宙なんて存在しなかったんだよ! バーカバーカ!!」
先生は黒板の左隅に「#宇宙キャンセル界隈」と書いた。
あーあ、先生、ひどい荒れっぷりだな。軽音部で吉原がいじめられないように祈ろう。でも、先生の思想でどうも腑に落ちない点があり、納得できない。
俺は手をあげて質問した。
「先生、でも、その究極構造って本当に完全なんですか? ゲーデルの不完全性定理と矛盾しないんですか?」
少なくとも形式化された数学体系には決定不能な命題が必ず存在し、完全ではない。二十世紀前半にゲーデルが証明した、不完全性定理だ。
「いい質問ですね。そう、この宇宙は、完全なようでも実際は不完全なんです。その、不完全さ、つまり脆弱性をうまいこと攻撃すれば――本当に宇宙を抹消できるかもしれません」
感心したような顔で俺の質問に答えた次の瞬間、先生はは突然、白衣のポケットからなにかを取り出した。
「これから簡単なテストをします。さあ、クラスのみんな、わたしの手元を見て」
呆気にとられた刹那、突然空間が割れて閃光が放たれた。教室が白く染まった。――意識はそこでなくなった。
目の前が明るくなり意識が戻ったとき、俺は体育館にいて、バドミントンのラケットを振りかざしていたが思いっきり空振りをした。宙を落ちるシャトルが、乾いた音をたてて体育館の床に当たった。
* * *
マックからチャリを漕いで高校の東門へ入る。錆だらけの自転車と錆だらけの柱、梁、穴の空いたトタン屋根で作られたオンボロの駐輪場に自転車を停め、青田と一緒に走りだす。
駐輪場を出て、校舎の北側、グラウンドとの間の道を西へ向かって進む。部室棟は西門のそばにあり、おそらく、いまごろ、軽音部の部室前かどこかで、吉原はブーバーかリザードンのように火炎放射をしているだろう。
道の脇は桜並木があり、すっかり葉がオレンジ色に色づいていた。綺麗に染まっているなと思った次の瞬間、プレハブの仮校舎が轟音を立てはじめた!
「なんだこの音は!」
青田がまた耳を塞いで叫ぶ。グラウンドの外周を走っていた陸上部の部員たちは、一斉に耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。
陸上部の主将――吉原の頬をアンパンマンのように膨れあがらせたB組の石川さんが、俺たちに気づいたらしくすぐに駆けつけてくれた。「ねえ、あんたたち、菊池くんと仲が良かったでしょ。菊池くんたち、おかしくなっちゃった!」と教えてくれ、グラウンドを埋め尽くすプレハブを指さした。
目を凝らす。仮校舎のなかで、席に座った菊池たちは白目を剥いて、背中をのけぞらせて叫んでいた。大きく開いた口から泡を吹いて。
「おい、菊池! 助けてやるからな!」
俺は青田を連れてグラウンドへ入る。陸上トラックを突っきり、仮校舎の立ち並ぶプレハブの間に入ったその瞬間、目の前に漆黒のフリルワンピがぬっと姿を現した。
「ちっ、なんでくるのよ。わたしの全宇宙抹殺抹消計画を邪魔しないでくれない?」
羽黒先生は面倒くさそうな口調で言って顔を歪ませた。
ふざけんな。俺は問い詰める。
「菊池に何をする気なんですか!」
「菊池くんたちには、私の計画を手助けしてもらっているの。ねえ、優秀な化学部副部長なら、ブレイン・コンピュータ・インターフェースって知ってるよね」
ブレイン・コンピュータ・インターフェース――脳の信号を収集解析し、外部デバイスが処理するコマンドへ変換する装置だ。このシステムによって、人間が頭のなかで考えるだけで外部のロボットを制御したり、ゲームを操作したりできるようになる。
「知っていますよ」
「わたしがやっているのは逆。わたしさ、菊池くんたちの脳をバイオプロセッサに改造したの。人間の脳みそはよくできたプロセッサで、スパコンの『京』が四十分かけてする計算を、脳はたった一秒で処理できる。わたしがこのスマホからアルゴリズムを実行するよう命令するとね、このスマホが人間の脳が処理できる信号に変換してくれて、ひとつのプレハブに菊池くんの脳が八連結したオクタコアのCPUが五つ、そのプレハブ二五棟の菊池くんたちを並列接続したスパコン・『菊池』が計算してくれる」
何を行っているんだ。こんなのは鬼畜の所業だ。人間のすることじゃない
「菊池になんてことするんだ!」
俺は先生に怒鳴りつけた。
「だって、あんたらがプロセッサとして使い物にならないんだもん。この前の授業でテストしたんだよ。あれで記憶が飛んだらダメ。脳が計算の負荷に耐えられない。菊池くんは無事にわたしのテストに合格したから、菊池くんの脳に計算させて、別宇宙への穴をこじ開ける道具を作ったの。大学のときの研究が役立ってさ、形状さえ計算できれば、3Dプリンターで自作できる。超お手軽! で、ありとあらゆる宇宙を巡って、存在可能な菊池くんを九百九十九人連れてきて連結させてる。最高じゃない? 超高速計算が実現できるなんて」
「で、菊池をつかって何を計算させようとしてるんだ」
「そうね、存在しうるすべての宇宙を貫いて破壊する、槍ってところ?」
先生が指さした先、プレハブ小屋の入口に3Dプリンターが設置されていた。普通にAmazonで五万円払えば買えそうなプリンターの筐体の中には、玉が二つあり、その間に、棒が一本そそりたっていた。卑猥な形状はまるで、アレそのものじゃないか――。
「なんだこれ。ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲にしては完成度が低いな、おい」
青田が呆れたように言った。
「黙ってろ、青田。超高次元空間で見れば、この宇宙よりも大きくて立派で、禍をもたらしてくれるのだから。余裕で宇宙がぶっ壊れるレベルよ?」
先生はレースのアームカバーをした手を口に当てて、悪徳令嬢のように甲高く笑った。
畜生、どうすればいいんだ。頭を抱えながら天を仰ぐ。ふと、校舎の屋上に目線がいった。誰かが屋上に立っていた。いや、違う、その誰かは十字架にかけられていた。
もっと目を凝らす。ゆさゆさと十字架を揺らして苦悶の表情をしているのは――吉原だった。
「先生、ライブパフォーマンスだからって吉原を十字架につけるのはやりすぎでしょ」
「えー、もっとインパクトほしいじゃない。だって宇宙を抹殺抹消する記念のライブよ。火を吹くだけじゃなんか物足りないもん」
「次は何を燃やすんですか? まーた学校の事務の人に怒られますよ」
屋上で磔にされた吉原は、口を大きく開けてなにかを叫んでいた。だが菊池たちの凄まじい叫び声のせいで何も聞こえない。必死な形相の吉原は、絶対に重要な情報を伝えようとしているはずだ。
突然、青田が俺の肩を叩いてきた。青田はコソコソ耳元で話をした。
「俺、新宇宙だと中学のときにミステリー小説ばっかり書いていたらしいんだ。で、トリックで使うからって三年の夏休みに読唇術を猛勉強したらしくて、吉原の言っていることが全部わかる」
「最高じゃん!」
「吉原、『先生のケツに突っ込め! 新宇宙だと先生の尻は虚の尻になっている!』って叫んでいる」
「マジかよ。また吉原のために突っこまなきゃいけねえんだな。しかもおっぱいの次はケツか」
羽黒先生の精神攻撃ならヤンキーを奴隷にさせるほど強力だが、体力勝負なら確実にこちらが勝てる。俺と青田は顔を合わせて頷くと、先生へ顔を向けた。
「パンツをめくらせろ!」
二人で猛ダッシュ。先生のフリルスカートをたくしあげ、黒のレースのショーツに手をかける。
「あんたたち、なにするの!」
先生は手で払いのけようとするが、青田が先生の両腕をつかんだ。ジタバタする先生は足で青田の股間を蹴り上げた。青田は顔を真っ青にして悶絶したが、なんとか地面に立つことができた。
俺は先生のパンツをずり下げた――そこには尻はなく、ぽっかりと穴が広がっていた。穴の中は砂漠だった。青い空、白い砂の大地が果てしなく。星川さんの、混沌が渦巻く虚乳とは違う、単調で、それだからこそ、絶対的絶望を生み出す空間。
「「突っこむぞ!」」
俺と青田は同時に叫び、羽黒先生の尻――虚尻へその全身をダイブした。
もう何日も虚尻の砂漠を歩いたかわからない。青い空、どこまでもつづく白い砂の大地。それだけだった。
スマホの電池はとうに切れていた。いまが何月何日すらわからない。どうやらこの空間はなにも飲み食いしなくても生きていけるようだった。最初そのことに気づいた時、正直助かったと思った。だが、その考えは間違いだった。今ではこう思う。――早く死なせてくれ。
俺は地べたに大の字に寝っ転がった。青田も寝た。俺は青田に提案した。
「なあ、二人で殺しあわないか」
「それ三回ぐらいやんなかったけ」
傍で寝っ転がる青田は死んだ目をしていた。
「五回だ。でも、六回目で成功するかもしれない」
二人で深い溜め息をつくと青田は仰向けになって言った。
「死なねえかもな。ガキの頃、イオンのちっさいDVDコーナーで親父がパイレーツオブカリビアンを買ってきて観たんだよ。何作目だっけな。ジャック・スパロウが、クラーケンに海に引きずりこまれて、デイビー・ジョーンズの墓場って場所に連れていかれてた。その墓場に入れられた人々は、生きることはできないが死ぬこともできない。永遠の苦しみを味わう。本当に、この虚尻みたいな場所だった。で、ジャック・スパロウは墓場を彷徨っている途中で気が狂いそうになるんだよ。俺たちも、いつ狂ってもおかしくない」
「狂い死にだけはしたくない。あーあ、星川さんがいればなあ」
「やっと見つけた」
頭上から星川さんの声がした。
幻聴かと思った。俺と青田は地面から跳ね起きた。目の前にいたのは金髪ロングの女子高生――そして全宇宙の全歴史をその乳に収める、星川さんだった。
「「星川さん!」」
「あんたたちすごいね。並の人間だったらふつう耐えられないわよ」
「てか、星川さんはなんでここに……?」
俺が聞くと、星川さんは腰に手を当てて返事した。
「この虚尻の調査に決まってるじゃない。けど、わたしの予測が甘かった。出られなくなっちゃった」
「てか、なんだよ、ぐす、この、ぐしゅん、虚尻って?」
青田は泣き出したようで、鼻水をすすりながら聞いた。
「わたしの乳が無限を表すとしたら、虚尻は絶対無の零よ。時間も空間もなく、また、存在したという記録すら存在できない。わたしたちがこの新宇宙の存在でないからこの虚尻を認識できるけど、新世界の人間は、そもそもこの虚尻の存在すら認知できないのよ。まだまだ新宇宙は生まれてすぐの赤ちゃん。そういう宇宙って物理法則自体が不安定でありえない物理現象が起きてしまうし、それに乗じて宇宙を破壊しようとする輩が現れる」
「そうだ、ぐしゅ、もうこの存在しうる全宇宙って、ぐしゅ、もうネオ羽黒まりんサイクロンジェット羽黒まりん砲の、ぐすん、餌食に……?」
青田は目を真っ赤に腫らしていた。首元がいきなり真っ赤っ赤に腫れ上がっていた。宇宙という単語すら言うだけで蕁麻疹が出たようだ。
「まだ間にあうっぽい。どうやら、羽黒先生は十一月の文化祭で吉原と一緒に火炎放射して学校を焼き尽くしたあとに、アレを起動させるらしいわ。ごめんね、菊池くんをわたしの乳から分離させることはできたんだけどね、まさか羽黒先生が新宇宙でこんな特殊能力を持つなんて」
星川さんは至極冷静に言った。俺は頭を抱えた。
「じゃあどうすればいいんだ」
「とにかく羽黒先生のつくったネオ羽黒まりんなんとか砲を破壊しましょう」
「どうやって?」
「簡単よ。宇宙から取っ払えばいいのよ」
星川さんはブレザーを脱いだ。シャツも脱いだ。ブラも取っ払った。上裸になった。星川さんの胸はぽっかりと穴が空いていた――虚乳。全宇宙の全歴史がそこにあった。俺と青田は虚乳を覗きこむ。虚乳は存在しうるすべての宇宙を包括する存在、つまり究極構造の宇宙であり、無数の宇宙が蠢いていた。無数の宇宙の森羅万象が見える。宇宙たちは各々、誕生と死と再生を繰り返していた。星が生まれ、生命が生まれ、海を魚が泳ぎ、木々や獣や鳥たちが陸を覆い、知的生命体が生まれ、その獣たちを駆逐し、文明をつくり、やがて知的生命体同士が戦争を起こし、星間戦争へ発展し、銀河団ごと敵を葬り去り、だが、戦争で勝利したものはなく、生命は絶滅し。やがて宇宙は熱力学的な死を迎えたあと急激に爆縮し、また、不死鳥のように爆発し蘇る――。
全宇宙は前に見たときよりもふわふわと柔らかそうで、率直に言うと、巨大な尻の形をしていた。その割れ目に、巨大な、その、なんていえばいいのか――ネオ羽黒まりん砲(もう略していいや)がねじこまれようとしていた。その尻の穴のところに、俺たちの宇宙があった。大銀河団が泡状構造を形成していた。七色に光る星雲たちが見える。オールトの雲も、太陽系も見える。地球が見える。そして、この銀河崎高校が見えた。学校は燃え盛っていた。羽黒先生が火炎放射器で校舎を燃やしている。吉原は「この後、俺のことをまた磔にするんですか!」と泣きながら、羽黒先生に従って、火炎放射器で桜並木を焼いていた。
「なんで尻の穴に竿を突っこもうとしているんだよ」
俺は冷静にツッコミをいれた。
「先生の好きピが好きだったらしくて、先生自体もハマってしまったらしいのよ」
虚乳から顔を離すと、星川さんは手を合わせ頭を下げた。
「このネオ羽黒まりんなんとか砲を自力取ろうと思ったけど、手が届かなくてダメだった。お願いだから、もう一度、わたしの胸に突っこんで?」
「じゃあ俺が行くよ。青田、俺の足首をしっかり掴めよ」
「オーケー!」
俺はブレザーを脱いでワイシャツ姿になった。後ずさりする。助走をつけ、体を虚乳のなかへ向かってジャンプ! すぐさま足首が手で掴まれて、俺の体は虚乳に落ちずにしっかりと固定された。
俺の目の前には全宇宙があった。真っ逆さまにぶら下がりながら、俺は宇宙へ手を伸ばした。宇宙のケツの穴目――つまり宇宙の究極構造でいちばん脆弱な、俺達の宇宙にネオ羽黒まりん砲がねじこんで壊そうとしている。
俺は手を思い切り伸ばした。宇宙サイズよりでかいネオ羽黒まりん砲に指先が触れた。もう少し頑張って手を伸ばせたら、掴むことができる。
ぐっと背を伸ばし、体重を前にかける。手は伸びた。ネオ羽黒まりん砲を掴んだ。だが、体がどんどん前に進んでいく。目の前の宇宙がどんどん大きくなる――このままだと虚乳へ落下する。後ろから青田の叫び声がした。
「いやあああああ! なんで俺まで!」
目の前の全宇宙がぐんぐん接近する。ああ、俺はこの前の吉原みたく、そして菊池みたく、この宇宙と融合してしまうのか……。死を悟った。いや、それは、新しい生の始まりなのではないか? それはそれでいいかもしれない。
覚悟を決めて目を瞑った瞬間、俺の体はぴたりと止まった。
「馬鹿ね。なんであんたまで入るのよ」
背後で星川さんがつぶやいた。
「足首掴んでありがとう、助かった、ずび、ぐしゅ」
青田がまた泣き出した。
助かった。俺は「まりん砲を掴んだぞ! ひっぱりあげて!」と叫んだ。
急激に後ろに引っ張られる。目の前の宇宙が遠くなる。ぐんぐん遠くなる。
体が引き上げられた。視界が虚尻の空の青に染まるやいやな、体が思いきり地面に叩きつけられた。激痛が全身に走った。
「「痛え!」」
俺と青田は同時に叫び、地面から動けなくなった。
俺の手には、ネオ羽黒まりん砲が握られていた。グラウンドで観た時よりはるかに完成度は高くなっていた。
「まさかネオ羽黒まりん砲の形って羽黒先生の好きピのちん……」
「それ以上言わない」
星川さんが制止した。次の瞬間、虚尻の青い空に無数の黒い線が走った。ヒビのような黒い線はだんだんと大きくなり、蜘蛛の巣のように天を埋め尽くした。刹那、天が崩壊し、空の断片が、地上に落下してきて轟音をたて、地面が大きく揺れた。
「今度こそ死ぬんだ!」
青田が叫ぶ。
「あら、ネオ羽黒まりんなんとか砲がなくなったからか知らないけど、宇宙が自己再生しはじめたわよ。虚尻の空間って不安定だし、崩れるかもしれない。あなたたち、気をつけてね。自己再生したあとの宇宙が、一体どうなっているかわからないから」
次の瞬間、虚尻の地面にもいきなりヒビが入ると、地面は一気に崩壊した。まっさかさまに、俺達は地下深くへ落ちていった。
「羽黒先生、好きピのことは忘れて次こそはいい男を見つけて……」
俺がそうつぶやいた瞬間、横から空の断片が俺の頭にぶつかった。視界が真っ暗になったそれ以降の記憶はない。
岩手県立銀河崎高校の入学式を終えて、俺は同じ中学のカバ、そして菊池と一緒に会場の体育館から一年A組の教室へ戻った。
教室は静まり返っていた。なにせ、教室の隅っこに、いまどき珍しく眉毛を全剃りしたヤンキーが机に足を乗っけて、不機嫌そうな顔をしていたからだ。
嫌だな。まさかとは思うけど、この高校に入学したって噂の東銀河崎中学のマッドドッグか? だけど、初対面なはずなのに、どこかで顔を観たことがある。しかも他にもそんなクラスメイトがいる。ワイシャツにうっすら浮き出ているTシャツが、うさぎがケツで割り箸を割るイラストな女子も、やたら真面目そうに電撃文庫を読んでいる男子も、そして金髪ロングの、不敵な微笑みをしている女子も……。
教室の引き戸が開いた。教壇へ上がってきたのは――白衣姿の羽黒先生だった。一瞬のうちにすべてを悟った。
「あ」
俺は驚きすぎて言葉が続かなかった。
「おい、吉原! てめえ調子乗ってんじゃねえよ!!」と羽黒先生が怒鳴った。
「先生マジすいませんごめんなさいごめんなさい! 火炎放射と磔以外ならなんでもしますから!」
吉原が椅子から足をすぐさま下ろすと椅子から降りて床に土下座した。クラスメイトがざわつきだした。
「え、マジすげーんだけど。馬鹿三人と同じクラスとかウケる」
志希ちゃん部長様がゲラゲラ笑った。
「なんで部長と同じクラス!? またケツ揉まれたくないよ!」
青田とハツとカバは頭をがっくりしたように下げた。
「あらあら。こうなりましたか」
星川さんが涼しげな顔で言った。
「なんで一年生からやり直さなきゃいけないんだよ!」
俺は教室の天井を仰いで叫んだ。
ちなみに菊池は平然とした顔をして、机の下でこそこそ月刊ムーを読んでいた。
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