私が山谷感人として唯一、人に自慢が出来る能力は猫には、とかく好かれるである。
コレは実際、自身でも驚愕する程だ。現在、私が住んでいる田舎町は野良猫が多いで昔から有名なのであるが如実にそうである。私が外出したら部屋の脇に即、居るな……のレヴェル。
野良猫と触れ合う事は昨今では余りないだろう。然し私は少なくとも往来で六匹とは語りあう。野良猫を手の中に抱えるなる経験を持っている方も少ないであろう。私は、容易く抱っこ、ボディートークをしている。スマホで撮影して披露したいくらいだが、流石に抱きながらの操作は困難である。
私自身が今、ルンペンの身分な故、餌は一切、一度も与えた事は無い。道程、逆に餌を渡している老婆を見掛けても、猫が私に猛ダッシュで頭突きして来るので、申し訳ないな……と謝りたい気持ちにもなる。岩野泡鳴に付いて書こうかなあと思いながら歩いていたが、そうした考えも消え、山谷感人としての能力、猫、ココに全フリかである。
無論、私も猫を愛している故、ネットなどで偶に猫のブログを観る。可愛いし仲良く飼い主さんが凄く大切にしているのは判るが多分、先程も述べたように容易く野良猫が抱っこを許す私の能力には勝てないだろう。
だったら猫を部屋に入れたら? となるが、それは現在、環境が悪いし無理であり、野良猫もヒッピーでフラフラ歩いている山谷感人を見て「あ、野良馬鹿がいた! 仲間だ、イェイ」の能力であるから不可である。
最近、この田舎町でも殺処分の話題が問題になっている。哀しいハナシだ。いつまで、その野良猫達とボディートークが出来るかは判らないが後期ビートルズの歌詞「もう少しは互いにロックしようぜ」の流れであったら良いなと思う。矢張り、いきなり猛ダッシュで懐いて来る野良猫達が居なくなったら辛いというか、そもそも山谷感人の唯一の能力「猫には好かれる」が失われる訳で存在意義が消える為。
遠藤周作の大傑作『沈黙』で主人公が踏み絵に足をかける前、新訳聖書のキリストを見捨てて逃げる時ニワトリが鳴いたを引用した部分がある。私は今、山谷感人として陋屋でコレを書いているが、愛する野良猫達に今宵は美声で「ニャア、ニャア」と鳴いて欲しくは無い。いつもは子守唄にしているが、ふと、その場面が頭に降りて来た故。
野良猫達よ、明日に朗らかに、また私に飛び込んて来ておくれ。私も全力で受け止めるから。
"猫と山谷感人"へのコメント 0件