柩のアクリルフィルムを覗くと自分が死んでいた。白い綿花の段飾りの中心で心持ち首を右に傾けていた。鼻翼が重力で下方に垂れて、外鼻孔が不自然に縦長くなっている。粒だつ皮膚は化粧で塞がれてやけに質感が滑らかだった。強く噛んだ上顎から乾いた歯。本当に自分だろうか。
「これは誰ですか」顔を上げると女の黒い長いワンレングスが頬に触れて、熱い鼻息で「わたしが化粧したの」と言った。「六文銭もわたしが持たせた」産毛の口角が微かに上がる。やはりこれは自分なのだ。
とにかく妻に知らせなければならなかった。通夜が終わるまでに間に合うか、どうか。喪服のポケットを探る。スマートフォンがない。自分を呼ぶ声がして振り向くと、父の隣に先ほどの女が座っていた。
「なんだよ、飲んでねえじゃん、エ。顔赤くねえぞ、オイ」席について父の酌を受けながらテーブルの上を眺め渡した。
寿司桶の中には倒れて散らばったイクラと鮪と烏賊。小分けにされた重箱の中には竹編みに油のついた天紙、白い澱の浮いた煮物、身のこびりついた骨と皮の脇にひしゃげたはじかみ。斜向かいでは黒い葡萄の粒を頬張るワンレングスの月白の衣。スマートフォンはない。
ここになければどこだろうか。通夜はいつ終わるとも知れない。冷や汗が出る。飲むふりをして隣に置いた盃を、中学の同窓のハレが一息に飲んでいく。正面を向いて酒を呷るマンバンの頭頂が蛍光灯に光っている。珊瑚色の筋の入った喉頭を上下させて盃を置くと、視線を変えずに「トイレじゃないかな」と言った。「そこになければ俺は知らない」
父に言い訳混じりの愛想を二言いって席を立ち、はやる気持ちでトイレへ向かった。
真っ暗な廊下の先のトイレは酷い匂いだった。淡紅色の編み目に沿って黒黴が走っている。青白磁の床タイルは斑に黒ずんで、なにかが流れたような跡が排水溝のところで黄色く凝っている。黄ばんだ小便器の内側には刷いたような汚れが湾曲に沿ってこびりついていた。
なるべく息を止めてスマートフォンを探す。どこにもない。我慢できずに鼻から大きく吸うと、濁ったものがそのまま肺に溜まるようだった。とにかく出ようと扉に立って振り返り、個室の仕切り一面に油性で書かれた落書きを読んだ。
アイシテルってあなたの声をききたくて
なにをそんなに怖がっているの?
please kiss me again and again
わたしが殺すといったとき
あなたは生むよといったよね
ふたりの愛で世界がまわる
ふたりの愛で世界をまわす
I`ll catch you surely,yeah yeah yeah
トイレをでた。
歩きながら、もしかしたら妻はもう知っているんじゃないかと思いついた。それならもう着く頃だ。会席室の横の広いはめごろしから駐車場を見下ろすと、足元から突き出した苔のコンクリートの下は真っ暗でなにも見えない。式場が高いのか、夜が濃いのか。
「もう来てるんじゃないか」ハレが横をすり抜けて掌を押しつけた窓には、皮脂が複雑な模様になって付着した。「わからんけど」
先導するように歩き出したハレに続いて柩へ行く。アクリルフィルムの奥には牛が横たわっていた。堅く黒ずんだ煉瓦色の毛の所々に綿花の埃が縮れている。ぬらぬらと乾いた目の内眼角。反射的に目の前を飛ぶ蝿を握った。握り拳に空洞を作り親指で蓋をした。掌をくすぐる感覚に鳥肌が立つ。どうすればいいかわからずに手を開くと、元のように飛んでいった。どっ、と後ろで笑い声が起きた。
バックポケットが震えた。スマートフォンを引き出して画面を見ると妻からだった。電話に出た。
「もしもし」柩に手をついてしゃがみながら耳に押しつける。「今どこ?」
声を出そうとした。喉が乾いて擦れ合い、掠れた音だけひゅーひゅーと出る。「ねぇ、きこえてる?」
声が出ない。叫ぶようにしても掠れた音が空気を含んで高くなる。顔の皮膚にぶつぶつと汗が染み出て流れた。ハレの素足の指が絨毯を掴むように喰い込んでいた。白い脛が襞の腰巻きから伸びて、柔らかそうな布を身体に巻き付けるようにして両腕に垂らしている。月白の衣。ワンレングス。首筋を緑色が這うように顎まで染めて、目元が黒ずんで落ちくぼむ。赤銅色に乾いて縮んだ口角から米粒のような蛆がぽろぽろ零れた。眼球が萎んでいる。胸骨を内側から圧迫するような匂いが増していく。耳を押しつけたスマートフォンからはなにも聞こえない。蝿が飛んでいる。父の呼ぶ声がする。声が出ない。
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