1.
グローバル化とは、自他の統合である。自他の統合とは他者の内部に自己を見出すことであり、自己の内奥に他者がほの見えることである。それは他者を通じて自己をより一層深く理解することであり、同時に自己理解の深まりによって他者によりいっそう親しむことである。
2.
「新明解国語辞典」の「寂びる」には、「年をとったり年代を経過したりして、特有の落ち着いた趣がみられる(ようになる)」という定義がある。同じく、「錆びる」には「錆が生じる」「声の華やかさがとれて、低く落ち着いた感じになる」との定義も見られる。
ソローの「森の生活 ウォールデン」の「経済」には、以下の記述がある。「われわれの衣服は、着ている者の性格を刻印され、日々肉体に同化されてゆくので、ついには自分自身のからだと同じように、ためらったり、医療器械で治療したり、儀式でも挙げたりしたあとでなくては、思い切って捨てることもできなくなってしまう」と(岩波文庫、上、p.44)。また「もっとも趣のある住まいといえば…貧しいひとびとの、少しも気取ったところのない質素な丸太小屋や田舎屋である。それらを絵になるものとしているのは、その貝殻の中に暮らしているひとびとの生活であって、その外観上の特質だけではない」(同、p.89)と。
ソローの述べているのはまさしく「さび」である。少なくとも私にはそう感じられる。ソローの視点からすれば、「さぶ」あるいは「さびる」とは、経年変化によって事物が落ち着いた趣を見せることであり、「さび」とは長年それに接したり使ったりすることによって安心を得ることである、といった定義も可能であろう。一面において、「さび」とは「なじみ」や「なれ」なのである。「さび」は優れて日本的なるものであると同時に普遍的なるものでもあり、従って、洋の東西を問わず、古今を問わずに、見出し得るものなのである。
3.
鴨長明は「無名抄」で余情や幽玄について「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気(けいき)なるべし」と述べ、例として「秋の夕暮れの空の景色は、色もなく、声もなし。いづくに、いかなる故にあるべしともおぼえねど、すずろに涙こぼるうがごとし」とする。
秋の夕暮れと聞いて思い浮かぶのが、例の三夕の歌である。
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮)
こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)
三夕の歌を手掛かりにしてつらつら考えてみるに、「幽玄」とは、言葉を超えた目に見えぬ彼岸の様をいう。かの世界は仄暗く、薄暗く、物静かであり、奥深く、遥かに遠く、微かであり、仄かである。それは例えば秋の夕暮れの空である。万物の死ぬ黄泉の時期とも言うべき冬が近づきつつあり、夜の闇もまた近づきつつある、薄暗い様である。明暗の対立においては明を暗が飲み込みつつある時分であり、有限と無限の争いにおいて卑小なる人間が聳え立つ無窮を前にして途方に暮れている様でもある。そしてここに感じられるのは畏怖ではなくて、故知れぬ寂しさなのである。
ここで幽玄と崇高とを比べてみるのも悪くはない。私見によれば、両者には少なからぬ類似がありそうだからである。西洋人たるカントは崇高について、比較を絶して大なる数学的崇高と怖るべき威力を有する力学的崇高とに分類した。このような観点からすれば、人間は崇高なる自然と対面すれば畏怖の念を抱くであろう、なんとなれば崇高なる自然は無限にして怖るべきものなのだから。ところで、幽玄は有限が無限によって包まれつつある様をいうので、ある意味においては西洋的崇高の日本的一変奏曲であろうと思う。そして日本人はこの自然を寂しいと感じてすずろに涙するのである。唯一にして絶対的なる神のいます西洋においては自然は崇高なるものとして現れ、そうならざるところの日本においては人間は自然を幽玄なるものと見るのであり、同一の自然の同一なる性質(無限)に対して、その反応は西洋と日本とでは異なることとなったのであり、それに伴って美意識もずれたのである。
4.諸々の辞書を参照すれば、以下の通りである。
「さぶ」は「荒ぶ」「寂ぶ」「錆ぶ」「銹ぶ」などの漢字が当てられる。その意味と例文としては、次のようなものがある。(「広辞苑」「旺文社古語辞典」など)
一、荒れる。人気がなく荒涼としたさまになる。
楽浪(ささなみ)の国つ御神のうらさびて荒れたる宮見れば悲しも(万葉集)
やどさびて夏も人めはかれにけりなにしげるらむ庭のむら草(拾玉集・慈円)
二、心に寂しく思う。
まそ鏡見飽かぬ君におくれてや朝夕べにさびつつ居らむ(万葉集巻第四)
三、古くなる。水あかがつく。水錆ができる。
我が門の板井の清水里遠み人し汲まなねば水錆びにけり(神楽集・採物)
四、(金属などが)さびる。
錠のいといたくさびにければ、開かず。(源氏・朝顔)
五、衰える。色などがあせる。
夕づく日色さびまさる草の下にあるとしもなく弱る虫の音(玉葉和歌集・覚円)
六、古びて趣きがある。
岩に苔むしてさびたる所なりければ、住ままほしうぞおぼしめす。(平家物語・灌頂巻・大原入)
いずれも文明内における自然の顕現を表すと考えれられる。人間は自らの生を確保し快適にしようとして文明を築き上げ、快適なる生活空間を構築した。それも諸行無常の道理でやがては朽ちていく。宿を建てても切り盛りする人がいなければ荒れていく。樋を流れる水には水錆が生じ、錠にも錆ができて開かなくなる。せっかくの文明のその内部から自然が顔をむくりと出すのである。文明は生であるのだから、その対概念たる自然はここでは死を表す。「さぶ」とは文明内に自然が現れることであり、生の内部より死が顕れることである。それに伴う情感が「さび」であり、それは寂しさではありながら、そこに何らかの哲理や味わいを見出すところに文芸上の「さび」の観念が誕生するのである。
「去来抄」には「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず」とあり、去来の「花守や白きかしらをつき合わせ」の句を芭蕉が「さび色よくあらはれ」と称賛している話がある。成程、老人の頭はいまや白くなっているので、生の内部より死が顕現するのである。そこに虚無ではなく、一抹の寂しさを漂わせながらも何らかの美を見出しているのである。
5.
「無常」とは文明もいつしか自然へを回帰することであり、「わび」とは文明から自然へと移った者の抱く感慨であり、「さび」とは文明の内部より顕れた自然であり、そして「幽玄」とは文明(あるいは「明」または「有限」)から自然(あるいは「暗」または「無限」)が垣間見えることである。日本的美意識とは、文明が自然を懐かしむ寂しい心情である。
以下、不定期的に続く。
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