vol.9

自分について(第9話)

ryoryoryoryo123

エセー

4,579文字

vol.9です

要らぬ果実をとってしまった。余計な味を覚えてしまった。天は俺に果実を与えた。あんなに強く願い、あんなに強く無念し、あんなに歯軋りして望んだ彼女。慈悲深い天は願いを叶えてくれた。あれは横浜西口駅前の商店街、俺は薬局の入り口で涙を浮かべた。高校1年、入学したてだった。高校では人として尊重されたかった。新しいスタートを切りたかった。まともに扱われたかった。さらにいえばチヤホヤされたかった。かっこいいとチヤホヤされたかった。勉強ができると尊敬されたかった。勉強も部活も頑張りたかった。青春を味わいたかった。当たり前に勉強を頑張り、当たり前に友達付き合いをし、当たり前に彼女が欲しかった。さらに焦点を絞ると、スポーツが他の人よりも出来、性格も他の人よりイケていて、周りからの尊敬を、尊重をこの身で感じ取りたかった。高校に入って初めての好きな人ができた。隣のクラスだった。学校の始まるずっと前の他塾の合格発表のチラシに載っていた。何としても一目見てみたかった。入学式、俺は周りを小馬鹿にしていた。どうせ勉強ばかりしてきた連中だ。中学でサッカー部だった自分は当然大きな顔ができるだろう、当然尊敬されるだろう、当然人として仰がれる存在であろう。勉強についても地震があった。俺は公立高校向けの塾の中でも、周りより進んで私立向けの勉強をしていた。勉強が楽しかった。公立の世界とは全く違う私立の難しい問題を知っていた。県内トップの学校でも、俺は合格してしかるべきだった。高校では10番台に入るのが当然だと思っていた。男としての地位、学力、スポーツ、全て人から羨まれるはずだと鷹をくくっていた。入学そうそう、今まで築き上げてきた、それも偽りではなく一歩一歩努力してきて手に入れた自信がくじかれた。私立を蹴ってきている奴らがごろごろいた。会うやつ、話すやつ皆が、俺が憧れて尊敬していた学校の名前を口にした。この学校は敵だと思っていなかった。はるか遠くの私立への憧ればかりを眺めていた。同じグラウンドで会話をしながら、心の目は横浜のこの片田舎の丘からはるか遠くを見上げた。そこには登るべき階段があるはずだった。険しい階段であるはずだった。俺を含めた数名しかこの片田舎の丘から登る気概のある者はいないはずだった。憧れの幻影はたちまち姿を現した、それもすぐ目の前に、予想よりも高く、大きく!気概なき者と相手にしていなかったその他大勢が、そっくりそのまま高くそびえた。全くの死角から、それも目の前から幾つも!想像は現実に変わった。それも考えもしなかった形で、それももっとも俺の心をくじく形で。部活動に入った。最初の体験練習。俺は得意になっていた。肩の力を抜いて余裕のつもりでプレーしていた。体験のうちは全くそれで問題なかった。流行り足元を見くびっていた。そもそも視界に入らなかった。本格的な入部が決まった。はたまた残酷な現実な姿を現した。誰もが俺よりも体力があった。誰もが俺より運動神経がよかった。休憩時間、同級生同士でお互いの男意気を探り合った。誰がボスか、誰がモテるか、そして誰が見下されるか。1年生だけで休憩していると、上級生たちが数人混じってくることがあった。可愛げのあるやつは話が振られる。いじってもらえる。かっこいいやつは少し尊敬される。その場を楽しむのに都合の良い、そして自分たちのグループがなるべく他のより優れている、勝っていると感じられるような会話、雰囲気が作られていく。それにそぐわぬものは置いてけぼりになった。気を使われた。上級生が時々俺に向ける気を使った目つきが俺を傷つけた。自分の現実をまざまざと教えてくれた。俺は学力も、男意気も、顔も、会話も、運動も現実は劣っていたのだった。全てがくじかれていった。厳しい現実が胸にキツく堪えた。精神的にはボロボロだった。それでもさも何事もないように振る舞った。強がるしかなかった。現実はあまりにもハッキリとしすぎていた。どこにもごまかしの利く余地がなかった。頭の中には、心の中には、その底の底まで染み入っていた理想、自分への期待、当然自分が学校で受けるであろう賛辞と尊敬、中学までのあの惨々たる劣等意識の反動と考えれば自分に過度な期待をする哀れさを責めることはできないそれら自然に沸き起こってくる理想、それを諦めるには現実が現れるのがあまりにも早すぎた。叩き起こされてもまだどこかで夢が覚めなかった。現実が受け入れられない俺はただただ現実がつきつける痛みを感じながら、それでいて現実に対して何もすることができなかった。入学から2週間が経った。帰りの下駄箱であの彼女を見た。チラシで見た顔と何も変わりなかった。学力、運動、モテ、男同士の輪の中での地位、四方八方を現実から串刺しにされながら、まだ眠い目をしている俺は、まだ一箇所串が刺さっていない体の一部を認めた。心の一部を認めた。とめどなく血は流れているはずだった。ほとんど瀕死に違いなかった。奇妙なものである。傷しかない瀕死の俺は、無傷の一部を見て生を知った。確かに無傷であった、生きている、生きていられるためには、そこにすがりつくしかなかった。そこに現実の刃を向けて、それでも傷がつかないことが分かった時、理想化した自分の一部は、ほとんど現実に串刺しにされた俺の理想のただ一部は、無傷のまま現実となるのだ。しかし、現実は理想を傷つけるかもしれなかった。笑顔が可愛い子だった。とても悪い人には見えなかった。とても刃を突き刺すようには思えなかった。しかし刃を突きつけてもらう勇気は出なかった。何度がすれ違った。いつも笑顔だった。ただただ刃は横を通り過ぎた。確かに刃は光っていた。彼女は曖昧に切っ先をふらつかせていた。悪意があるわけでもなかった。刃は彼女の歩みとともに蛍光灯の光をゆらゆらと反射していた。確かにそこに刃はあったのだ。しかし切っ先は向けられなかった。ただただ彼女の携帯している刀を眺めるだけだった。カチャカチャカチャカチャ、きっと刀は音を立てていた。ただただその音から、いつの日か向けられるであろうその切っ先を想像していた。俺には自信がなかった。すでに自身もくじかれていた。部活の中でもすでに優劣ができていた。俺が予想していたような、期待していたような扱われ方はできないのだと悟っていた。現実は今まで通りの現実らしく、面舵を切り、無情にも理想を置き去りにした。俺は後ろに尾を引かれながら、やがて現実を受け止めなければならなかった。もしも俺に、彼女から振り向かれるような顔があればどれだけいいだろう、頭頂部を気にしないで人に接することができたらどれだけ楽になるだろう。どうして俺だけ普通とは違うのだろう、どうして人と接するのを怖くさせるのだろう。どうして俺だけ髪が薄いのだろう。どうして天は俺をこれほど苦しめるのだろう。俺に髪さえあれば、勉強ができない、運動ができない、人としてまたも尊重されない。一つ一つの現実が胸を焼いた、これでもかと現実を直視した、その痛みを真正面から受け止めた。何もかも俺は劣っていた。すでに心は傷だらけだった。こんなにも、こんなにも痛いのに、こんなにも現実は残酷なのに、それでもあなたは最後のとどめを私に刺すのですか。無傷のままにしていたのに、最後の生きる頼みだったのに。髪さえあれば、髪の毛さえ人並みにあれば。最後の一突きを刺されるのと同じだった。最も残酷な現実、それもはるか昔から俺に突きつけられていた現実を、俺は夢を見ているうちに忘れていたのだ。そんな現実はないことになっていたのだ。高校に合格した。積み上げた努力が自信をくれた。身分不相応な理想に胸を躍らせていた。理想は、あまりに現実を置き去りにしていた。高校に入学した。幾つもの現実が俺を傷つけた。ほとんど串刺しになっていた。それでもまだどこかで理想が生きる希望を与えた。一つだけ無傷のままだった。一つの理想だけまだ無傷のままだった。いつの日か向けられる刃を恐れていた。しかしこの日に悟ったのだ。そこに刃は刺さっていたことを。それも一番昔からそこに刺さっていたことを。理想の霧は風に吹かれた。串刺しの現実が姿を現した。最後まで霧が残っていた場所、まだそこに希望を見出していた場所。はるか昔、そこには刃は刺さっていたのだ。隙間なく串刺しにされた現実がその時の俺自身だった。俺はそのとき完全に串刺しにされた。薬局に入った、育毛用のシャンプーを買った。高校生が買うものではなかった。学生服の青年がレジに置くものではなかった。温かな、いや本当はただ無関心なだけなのだろうが、そのときの俺には温かく感じたその店主は、黒いレジ袋で俺の不安を包んでくれた。髪さえあれば、せめて髪さえあれば。ダメだよな、さすがに。ハゲてる男なんてさすがにダメだよな。はなから相手にしないよな。俺には何もなくなった。本当に何もなくなってしまった。完全なとどめを刺されてしまった。遠い昔、最後の刃を俺に刺していたのは天だろうか。どうして俺だけにこの苦しみを与えた。どうして。いったいどうして。俺は天を呪うしかなかった。本当に呪うしかなかった。どんなに無念だったろう。どんなに悔しかったろう。どんなに現実を恨んだろう。
長い時間だったと思う。俺は薬局の前に立ち尽くしていた。涙が目に浮かべられるだけ浮かんだ。止めても止めても浮かんできた。もう抱えきれなくなった。まぶたを閉じて堰き止めた。胸が焼かれた。心がないた。焼かれる痛みを心が泣いた。天を恨んだ。現実を胸に焼き付けた。焼かれる痛みに涙は湧いた、溢れた涙は水面をなした。水面はやがて地面を冷やした、爛れた心をやさしく癒した。一月後、果たして俺の願いは叶えられた。あれほど呪った天が、俺の願いを聞き入れた。帝国劇場の芸術鑑賞会。この日の俺は、不慣れな視線を周りから浴びた。チラッチラッと女子たちが視線を向けてくる。今まで感じたことのない視線だった。今まで見たことのない目つきだった。はじめは戸惑った。それまでの自分の現実と今向けられているこの現実があまりにも食い違った。一人二人と同じ目線を向けられる。やがて今ある現実がそれまでの現実を押しのけた。俺は自分の地位を悟った。何という優越感だろう。何という楽しさだろう。実は幾つも向けられたその視線の中に、あの彼女が混じっていたのだ。なんと劇場の前の席が彼女だったのだ。彼女は後ろを振り返り俺に気づき、じっと俺を見つめた。じいっとじいっと俺を見つめた。体をこちらに向けて。私に気づいてと全てを投げかけた。最初は気づかなかった。そもそも誰かもわからなかった。しばらくしてようやく彼女だと認識した。あの願い、あの渇望、あの熱望。すでに消えていたはずの、すでに諦めていたはずの理想の一部がこうして俺に現実となって現れた。なんという天の気まぐれ。なんという寛大さ。皮肉だろう。この果実、あれほどまでに自分を呪い、現実を呪い、天まで呪って願ったあの果実、この果実をこの日味わってしまっために、その後の10年間、俺は同じ味を探し回ることになる。それも、天の気まぐれで与えてくれた一時だけの果実を、すでにこの世から消えてしまった果実を。

2020年11月4日公開

作品集『自分について』第9話 (全15話)

© 2020 ryoryoryoryo123

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