いつも不思議に思うのだが、人間は「○○における✕✕」というふうに描かないと論文を書いてはいけないなどという決まりがあるのだろうか。
自分を売って、自分の時間と肉体を売り捌いて、せっかくこの世界と神が自分に与えてくれている時間を無駄にして、世界に対して悪いと思わないのだろうか。
誰誰がどのように言ったかなんてどうでもいい話で、そんなものは時代の偶然にもそのときの気分や気候にも左右されるもので、どうでもいいものだ。シェイクスピアにおける愛の表象とかも、どうでもいいことだ。
それと、翻訳を書いて一生を終える人が近代日本にはたくさん居たと思うが、いったいそれのなにがおもしろかったのだろうか。むしろ翻訳が大量にあるせいで、翻訳をするということが日本のインテリ層の既得権益の伝統化と慣習化につながり、しかも日本の読者は原典を読むより先に翻訳に触れられてしまうので、リテラシーの観点から言ってもよくない。そもそも、近代化の時点で英語と仏語を国語の一つにしないこと誤りだったのだ。今のイスラエルのように、国語(イスラエルはヘブライ語)を保ちながら国際語に適応している例は幾らでもあるし、それこそウェールズやスコットランドを参照しようとは思わなかったのだろうか。
デリダの研究をするとかいうのも意味不明で、デリダもただの一人の人間なのだから、言うことはその時の気分に依って変わるのだし、研究もなにもない。そういう人はいったい実際には具体的になにをやっているのだろうか。はなはだ不思議なものだ。偉いものがすでにあってそれを勉強するという感覚が全くわからない。
今では地動説を唱えたコペルニクスとかガリレオが賢人で、当時の体制が疎かだったように描かれているが、結局地動説を言うということは当時では異常だったので、現代では通常の宇宙観である地動説を有難がることは、当時の人々が天動説を信じていたのと全く同じことだ。だからといってじゃあ今は天動説が正しいのかというと、それがそうではないのが難しいところだが。しかし今の人は後知恵で地動説が正しいとか宗教を信じていた時代の人間は狂っているとか言っているだけで、それはまさにむしろ、当時天動説を支持していた無知蒙昧な大衆と既得権益層のようなものだ。
基本的には狂っている(Insane)のはいつの時代も普通とか常識とかいうことの方で、それが八割とか九割とかの人間のことを言うのだが、ほんの一部のむしろまとも(Sane)な存在は、まともである(あるいは過度に理性的である)が故に、円滑な社会生活が困難になっている。
現実の社会の常識とか普通というのはただ単に採用された狂気とか妄想のことをそういうので、そういう狂気に適応している人間の方が基本的にはどうかしている。普通の人間の方がおかしいので、賢い光の子であるためには“闇の子”がいかに闇であるかを深く識った上で正確に、したたかに行動しなければならない。ノープランでは駄目なのだ。
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