残酷なことに、上手く行っているときは、何が上手く行った原因か、何に近付くべきでないか、なぜ上手く行っているのか、透徹してよくわかる。
逆に、泥沼に嵌っているときは、そもそもそこが泥沼だと気付けないことが多い。
これが基本的な格差の原因だ。
人に能力の差は実はあまりない。志向性の差だけだ。
マタイ効果ではないが、泥沼の時点で、連鎖的になにもかもを見失うことが多い。
一個が視えなくなるともう一個が視えなくなり、その先も視えなくなる。
ほんの一つの不利は連結して多数の不利につながる。
そしてある時点での泥沼が、どの時点で起るかにも依るが、基本的に全人生を左右する。
そもそも泥沼が起こらない人の方がかなりの大多数だが、そうであるが故に、間違えて泥沼に嵌った人は「泥沼に居る」ということ自体気付き難い。「誰しも泥沼がある」ならば、周りの人の経験則として、「それは泥沼」と指摘されることがあるであろうからだ。
不幸はなぜ不幸かと言うと、それを経験する人が少いからだ。
普通、不幸は誰しもが経験するものだとよく人は言うものだが、それは違う。本当の不幸は割と少数の人しか経験しない。だからこそそれが不幸だと気付かない。
それで、「本当の不幸」を経験している人は、時代にも依るが、基本的に雑な檻のなかに入れられる。
今は昔よりはマシだが、例えばほんの一、二百年前なら、「統合失調症」とか「精神病棟」の雑な括りのなかに入れられていた。この辺のことはフーコーがパノプティコンとして散々に論じていることなので、知っている人からすれば耳にタコかもしれないが。
マイケル・サンデルが言うように、大学の選抜にしろ一部は「籤引き」にすればいいのだが、それはおそらくあと百年は経たないと民衆と既得権益層にとっては受け入れ難い。
実際のところ、アルチュセールの雨ではないが、社会的な層で起ることはほとんど運の産物でしかないのだが、それを受け容れることは、自分自身の努力であるとか、自分自身の価値などということを信じている、多くの人にとっては、難しいことだ。
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