川端康成の『伊豆の踊子』は、日本文学の中でも特異な位置にある作品だ。読後に残るのは、達成感でも救済でもなく、どこか宙吊りの感触である。主人公は旅に出、踊子一座と行動を共にし、やがて別れる。しかし物語は、彼が何かを得たとも、失ったとも、明確には語らない。この曖昧さこそが、長く読み継がれてきた理由の一つだろう。
『伊豆の踊子』を物語構造から捉え直すと、この作品は「感情の物語」よりも、むしろ異界訪問譚の変奏として立ち上がってくる。主人公は都市的な制度空間を離れ、伊豆という移動的で非定住的な領域へと入っていく。踊子一座は、社会の中心から外れた場所で生きる存在であり、定住も所有も拒む集団として描かれる。彼らは、明確に「こちら側」とは異なる論理で生きている。
異界訪問譚において重要なのは、異界で何をするかよりも、何を取り込むかである。神話や昔話では、異界で食べること、契約すること、報酬を受け取ることが、帰還不能性と結びつく。だが『伊豆の踊子』の主人公は、そうした決定的行為をすべて回避する。踊子を所有しない。関係を成立させない。未来を語らない。そして、幸福な記憶としてさえ、体験を持ち帰らない。
これは「我慢」や「高潔さ」の物語ではない。主人公は苦悩しないし、自分を律しているわけでもない。むしろ彼は、異界に触れながら、異界を意味に変換しないという、きわめて構造的な判断を下している。彼が守っているのは倫理ではなく、帰還可能性である。
この「判断はするが、語られない」という構造は、ヴェルナー・ヘルツォークの映画、とりわけ『シュトロイチェク』と強く響き合う。ヘルツォークが描く狂気は、心理的説明や象徴的読解を拒む。登場人物は狂っているのではなく、世界と噛み合わないまま存在している。そのズレは解消されず、物語的な意味にも回収されない。世界は彼を理解しないが、排除もしない。ただ、同じ時間が流れ続ける。
川端とヘルツォークに共通しているのは、説明しないという選択だ。判断や狂気を、物語の「意味」に回収しない。異界は誘惑しないし、引き止めない。だからこそ、そこに入らないという判断は、勝利でも敗北でもなく、ただの選択として残る。これは現代の物語倫理から見ると、非常に扱いにくい。現代の読者は、理由を求め、変化を求め、納得を欲しがるからだ。
こうした問題意識から構想されたのが、私が構想している新作小説、『山のほう』である。
『山のほう』の主人公は、特別な人物ではない。破綻した人生を送っているわけでも、明確な救いを求めているわけでもない。彼は友人夫妻に誘われ、週末の数日間、山間部にある施設で行われるリトリートに参加する。そこはスピリチュアルとも自己啓発とも言い切れない、穏やかで整った空間だ。参加者たちは礼儀正しく、誰も強制しない。救済の言葉は用意されているが、押しつけられることはない。
友人の妻は、そこで明確な変化を経験する。涙を流し、自分の過去を語り、「楽になった」と言う。彼女は嘘をついていない。本当に、何かを得ている。その姿を見て、主人公も揺れる。ここに留まれば、何かが変わるかもしれないという予感は、確かにある。
だが主人公は、最後まで一線を越えない。誓約書に署名しない。体験を物語として語らない。施設の人々は引き止めない。ただ「いつでも戻ってきていい」と言う。帰還は保証されているが、何も与えられない。その冷静さが、かえって判断の重さを際立たせる。
帰宅後、主人公の周囲は彼の沈黙を放っておかない。友人は意味を探し、妻は共有を求める。だが主人公は説明しない。自分の選択を正当化もしない。その結果、彼は成長もしなければ、救われもしない。ただ、入らなかったという事実だけが残る。
『山のほう』が描こうとしているのは、逃避でも帰還でもない。回収されない判断が、世界の中にどう残るのかという問いである。異界には入らない。しかし、確かに通過はしている。その曖昧な位置に立ち続けることは、現代において最も不穏で、最も誠実な態度の一つではないか。
川端が異界を意味に変換しなかったように、ヘルツォークが狂気を説明しなかったように、『山のほう』もまた、判断を語らない。物語は何も解決しない。その代わり、読者の側に、説明されない余白だけを残す。
いま、物語にできない判断は、どこに残りうるのか。 『山のほう』は、その場所を探す試みである。
牧野楠葉
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