秋は追い立てられたかのように忽然と姿を消し、直人は紗英が編んだ濃紺のマフラーをして出勤するようになる。
金曜日の夜、直人はほかの図書館に貸し出す資料を雑誌コーナーで探していた。書籍を五冊左手に抱えながらファッション誌のバックナンバーの棚を見て、一年前の秋と冬号を手に取る。雑誌をいちばん下に持ち替えて、子育て雑誌の棚を探す。ちょうど最新号を立ち読みしている利用者に一言断ろうと思ったが、その利用者の横顔を見た途端、抱えていた書籍を落としてしまう。髪を明るい茶色から黒く染めた麻理子であった。麻理子はしゃがんで書籍を拾い上げ、家に夕飯食べにこないと小声で言った。直人は書籍を麻理子が差し出すのを待った。
仕事を終えた直人は飲み会で遅くなると紗英に連絡した。警察にも電話しなかった。そうすれば、すぐにでも麻理子に処罰を与えることはできることはわかっていたが、今夜も帰れば否応なく紗英は義男と夫婦なのだと見せつけてくるだろう。それはうっとおしくもあり疎外感もある。自分はもっと自立できる。もともとやり直す気でいたのだ。
麻理子は早く帰りたいからタクシーに乗ろうと言う。乗車すると彼女はすぐ身を寄せては手をつなぎ、直人の鼻孔をクチナシの香りが満たす。
「まず、ごめんなさい。本当に」
直人は麻理子が謝るのをほとんどはじめてのように聞いた。DVの激烈な怒りの発作や暴力のあとにハネムーン期という馬鹿げた名称の、愛しているからこそ手をあげてしまうという自己弁護と形だけの謝罪の時間があるとされているが、直人と麻理子の間でそんな時間はなかった。身体的な暴力がなかったからだろう。視覚化されない暴力は傷が見えない。加害者は自分が何をしたかわからないまま正当化を続ける。
淡々とだが、一気に麻理子は語る。
「あの調書見て、見たときはかっとなったんだけど、直人はそうやって受け取ってきたんだと思って。私はちゃんとしてほしいから言ってたんだけど、でも、傷つけたよねたくさん。いろいろ、調べて。そうするとやっぱりうちの親が、似たようなこと私にやってきて。すごくその、こうしなきゃってのが強い。べき論が強いからわたしも。そういうの受けついで。結婚式とかそうだったじゃない。そういう、節目節目のときに不安定になってて、直人がすごい優しいから受け止めてくれるから、全然気づかなかったんだよね。あとその、わたし発達障害っぽいところあるでしょ。ちゃんと検査しようと思うんだけど、そういうところももしかして影響してるかもしれない。言ってくれてたよね、そうでも気にしないって。でも私が気にしちゃったんだよ」
直人は自己弁護の強さを感じながら、麻理子のような競争心が異常に強い人間が謝るのはつらいだろうと早くも同情心が湧いてくる。麻理子をおずおず、じっくりと見た。麻理子は麻理子なりに傷ついていると思う。出会った当初、猫娘のような大きな目に惹かれた。好きですと告白したときも、目の色を変えずそうですかと返答した。人から見たら冷淡に見えるし、それこそ発達障害を疑うかもしれないが、直人は彼女を理解できるのは自分しかいないと思ったことを思い出した。
直人は傷ついたよと麻理子の目を見て言う。あんまりつらくて逃げちゃったよと重ねる。涙が目にたまってくるのを感じるが耐える。直人は言えた、と思う。ずっとこれが言いたかったんだと言ってから気づく。麻理子はそうだよね、ごめんねと直人の手に手を重ねて答えた。感情の震えはない、真っ直ぐな目で。
約四ヶ月ぶりの自宅にはすでに炊き込みご飯とエビの味噌汁とチョレギサラダが用意してあった。すべて直人の好みだが、特に味噌汁は最初につくってもらったときから賛嘆し、お祝い事があると決まって出された。正直、直人は実家の味噌汁より麻理子の味噌汁のほうが好きだった。麻理子が愛用する東北の赤味噌の濃厚さと海老のうまみが凝縮したそれは好きな人と暮らす感動であった。
クラフトビールで乾杯したあと、麻理子は直人が中華屋に行くと大体頼むチンジャオロースをつくりに台所に立つ。直人はその後ろ姿を紗英と比べ、当たり前だが遥かに大人に感じる。食事のあと、あるいは途中でセックスするかもしれない。してしまったら、帰れないだろうなと直人は他人事のように思う。したらやり直せるだろうか。豚肉がオイスターソースに絡まる匂いがしてくる。
気分を落ち着かせるため音楽でも聞こうとテレビをつけてアプリを開くと、最近聞いていたタイトルに直人が好きなMOCKYのアルバムが表示されている。これも演出だろうかと直人は疑うが、それにしてもここまでアピールしていることを可愛く思ってしまう。再生すると、温もりのある声と高音のフルートが流れ出す。
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