イオンのPBのストロング系チューハイは駄目だ。かき氷みたいに頭にキーンとくる。冷や汗が出るような嫌な酔い方をする。スリーナインも駄目だ。あれもキーンとくる。なので、最近は「翠」とか「レモンサワーの素」の瓶やペットボトルのカクテルベースの原液をストレートでぐいっと一杯だけ飲んで、早く酔いが回るように外でマンションを何周かランニングするとあっという間に出来上がる。あれは温かい。頭が良い具合に回らなくなり、ほくほくとしてくる。頭がはっきりしていると「やらかし博覧会」が開催される。人生の「やらかしたこと」がランダムに再生されて叫びたくなる。幼稚園児の頃に親と間違えて知らない人の手を握ったことや、自転車で小学生を轢いて逃げたことやら、先輩の家の鍵が紛失で大騒動になっている最中に自分の鞄を除けたら出てきたのを犯人扱いされたくなくて窓からこっそり捨てたことやら、それらは同列に語られるべきではないのかもしれないが、既にちょっと頭がぼんやりしてきてるので違ったらごめんなさい。他にも叩けばいくらでもホコリが出てくる。俺は叩いてもホコリしか出てこない。なるべく頭がはっきりしないようにしている。走った後、家に戻ると大抵いつの間にかその辺の床で倒れているのだが、夜中に目覚めてゲロを吐く。吐くと鮮烈鮮明に脳みそに穴を開けられるような感覚がある。吐いている時は吐いていることしか考えられないのでそれはそれで満足だ。そのまま便器に頭を突っ込んで眠っていることもあるが、毎朝血を抜かれたような二日酔いの頭で出勤する。電車の金属音が脳に響く。ブレーキの音は駄目だ。特にキーンとする。こんなに毎日毎日毎朝毎朝通っているのにまだ一度も人身事故に遭遇したことがない。振り替え輸送として使われて非人道的な車内になっていることの方が多い。停車駅が多いから死ににくいのかもしれない。そのうち見て見たいと思っているけれど、未だに見たことがない。見たら何か変わるような気がする。そういう外的要因で人生を変えられることをうっすらと期待してダラダラ生きている。でもそれは駄目だ。ダラダラ働いてダラダラ酒を飲んでダラダラ死ぬのだろうか。変えたいと思った。ぐらぐらする頭で、俺は今日こそ言うと決意していた。
「退職させてください」
九十度しっかりと頭を下げた。ようやく決意を果たせた。一年以上前からずっと考えていた。自分で行動してみよう、と前向きに人生をかえる努力をしたつもりだった。
「退職して何するの。ここで何もできないのに何ができるっていうの」
上原はあっさりと言った。
彼の背中の窓から西日が差しこんでいる。西日? まだ昼間かもしれない。これはただの太陽です。まだ朝だったら東日と呼ぶのだろうか。この窓はどこにある。西か東か右か左か。西日であったとしてもこれはただの太陽です。ぐらり、と視界が遠のく。まだ酔いが残っている。アルコールが残っていない時間の方が短い。
「責めてるんじゃないんだよ。単純に疑問なんだよね。教えて欲しいだけ」
言葉が出ない。あー、とか、うー、とかゾンビの呻き声みたいな音が出た。マスクの下がヨダレで湿る。
「何? 返事待ってるんだけど。文句でも何でもいいからさ、早く言えよ。俺も忙しいの。会話もできないとか新人以下だよ。新人っていうか幼稚園児以下。俺の娘の方がお前より上手に会話できるよ」
そういえば上原の娘は最近幼稚園に入ったらしい。こんな奴が娘の話をする時だけはニコニコしていると聞いたことがある。俺にはそんな話すらしないが。そういう関係性すらないので。嫌われてる。俺が死ぬ時は娘をぶち殺してやろう。こいつの目の前で縛り付けて、嬲って犯して殴って殺してやる。死体も食べて、家も燃やしてこいつの元には何も残らないようにしてやろう。俺にロリコン趣味もカニバリズム趣味もないがこいつを痛めつけるためならできる。
「言い過ぎだよね」
杉田の声が聞こえた気がした。幻聴だろう。この人格否定クソ上司に怒られる度、いつも杉田は声をかけてきた。同期のくせに。先輩面しやがって。俺の面倒を見て優しい自分に浸ろうとでもしているのか。それとも周囲の奴らに「あの怖い上司の悪口を言える格好良い俺」を演出しようとしているのか。どうせその程度だろう。その証拠に俺がネチネチと責め立てられている最中に止めに来たことはない。
「まぁあの人も一理あるから」
「いやいやないでしょ」
苦笑いする杉田の顔を睨んでやっても、杉田はそのことすら認識してなさそうにヘラヘラしていた。杉田は俺のことを通して正義を貫く自分に酔っているだけだ。俺が酒に酔うのと似たようなもんだ。
「っていうかさー、ヘルプラインに俺のこと通報したのお前だろ? 分かってんだよ」
目の前の上原がバン、と荒々しく書類を机にぶつけた。ただの紙なので机には傷ひとつ付かない。
「ヘルプライン? 何のことですか」
「とぼけんなよ」
上原がゴミ箱を蹴り飛ばした。ゴミが床に散乱する。西日的なサムシングがゴミに当たって何か輝いているように見えた。小学生の頃の理科の実験で白のA4用紙は光を反射することができる、と壁に四角い光を作った覚えがある。白い紙がほんのりと光る。倒れたゴミ箱からゴミは徐々に広がっていく。燦爛たるゴミが産卵して散乱。
「上原部長。ヘルプラインに通報したのは俺ですよ」
杉田の声だった。なんだよヒーロー気取りかよ。杉田がツカツカとこちらへ歩いてきた。なんだこいつは本当に。俺はヒロインかよ。そんなわけない。反吐がでる。本気で吐き気がこみあげてくる。二日酔いがまだ残っている。ウッ、と胸がつかえる。喉の奥が焼ける。苦く酸い胃液が口の中にこぼれてイガイガする。俺はマスクを外して椅子に座った上原の頭上目がけ、腹の底から咆哮するようにらゲロを噴射した。
オフィスが阿鼻叫喚となった。頭からゲロを被った上原は全体的に変色していた。ゲロの悪臭が広がっていく。俺はさらにからこみ上げてくるものをそのまま嘔吐した。異物が混じった黄緑色の何かが出てくる。たぶん胃液だと思う。上原は放心している。最初は悲鳴をあげていたが、悲鳴をあげるとゲロが口の中に流れこんでくることに気付いたのが今はすっかり静かになった。俺はそこにまだまだ黄緑色がかった透明な液を吐きかける。
そうやって上原をゲロ攻めにしているというのに、杉田が近づいてきたので、俺は上原の机に上にあったペン立てで杉田を殴った。驚いた様子だった。どこに驚く要素があるというのか。俺はハサミの柄でガンガンを杉田の頭を殴りつけた。腕で必死に防御する杉田は哀れだった。刃の方を向けなかったのはせめてもの情けだ。結構な手ごたえがあったので、それなりに痛いと思う。それでも杉田は俺に何か言おうとしているので、怖くなった。ゾンビ映画に出てくるゾンビみたいだった。撃っても撃ってもこちらへ向かってくる。俺は杉田のことがずっと怖かった。怖くて怖くて、ハサミを持ち替えて手の甲に軽く刃を突き立ててやった。もう終わりだ。思ったより血が出た。こんなにいっぱいいっぱいの状況で正常な力加減ができるわけがない。もう終わりだ。これで全部終われたら良いのだけど、でも人生だからこれは終わらない。死なない限り終わらない。死ぬ勇気もない。だからこれは始まりだ。見ているお前は「なんかすごいことがあったね」で終わるんだろう。今日帰ったら家でテレビ見て笑ってるんだろう。でも、お前らが見ていない所で俺は苦しみ続ける。
いつもそうだった。差し伸べられた手が怖い。これは正当なリスクヘッジだ。触れてくれるな。俺に触れるな。触れてくれないように、差し伸べられた手の甲に刃を突き立てる。手を差し伸べるんじゃねぇ。怖いんだよ。
「ねぇ、一緒にご飯食べようよ」
中学生の頃にいじめられていた時に話しかけてくれた田島さん。
「僕もその本好きなんだよね」
高校生の頃に教室の隅で寝たふりばかりしている俺に話しかけてくれた野元。
他にもいた。道でうずくまっていたら声をかけてきた名前も知らないおじさん。道に迷って同じところを行き来し続けていたらどこに行こうとしているのか聞いてきた店員。みんなみんな怖かった。近づいてくるな。頼むから。
俺は吐いた。口の中が酸っぱい。じゅるり、と口から滴るゲロを少し啜った。口の中が苦くて酸っぱい。食べ物からできているはずなのにゲロはゲロの味がする。どの食べ物にも似ていない。どうしてこうも毒々しい刺激があるのか。
ダラダラ血を流してうずくまりながら杉田はこちらを見た。
「お前は悪くないよ」
聖人君子気取りもここまでくると気持ちが悪い。こいつはキチガイなのか。俺の事を馬鹿にしてるんだろうか、俺の方がお前よりもよほど賢い。ムカつく。どこまでも馬鹿にしやがって。まだまだこみ上げてくる。さらに噴射しそうなゲロを飲み込んだ。今吐くと杉田にゲロをかけてしまう。傷口にゲロがかかるのは良くないだろうから。飲み込んだゲロは俺の胃の中で噴射した。ゲロが体の中に溜まっていく。このままだと俺は爆発してしまう。だからまたいずれ吐くのだろう。杉田にだってゲロをかけるのだろう。これは一時的なものにすぎない。お前らが見ていない所で。
"君子、危うきに近寄らず"へのコメント 0件