暗黒

殺虫小説集(第6話)

合評会2023年09月応募作品

Y.N.

小説

3,148文字

 渋滞に巻き込まれたタクシーの中で、運転手が客に恫喝される。

 青白い三角形
 を
 目印に
 道を進め、
 と注文を出してくるのだからそれらしい看板を探してみたものの、そんなものは一向に道路沿いに現れようとはしなかった。客が、道路標識のことを回りくどく「青白い三角形」呼ばわりしているのだと気がついた時には、俺が運転するタクシーは、ちょっとやそっとでは動きそうもないしぶとい渋滞に巻き込まれていたのだった。
 「お客さん、こりゃ、なかなか抜けられそうにないですよ」と俺は言った。
 「それは困る、とても困る! なぜ困るかと言うと、今、通勤途中だからだよ」
 妙に説明的な口調で、独り言をつぶやくかのように客が答えた。しかし、はじめからわかりやすい道案内をしてくれていれば、混雑する時間帯、わざわざ大通りを走ったりはしなかったのだ。客の自業自得だろう。
 カーラジオから、犬の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。何かのドラマなのだろうか、それともペット屋のCMなのだろうか。渋滞のまっただ中、ナレーションもなく、ただ動物の声だけを聞かされるのはあまり気分のよいことではない。客は、苛立たしそうに俺にぐちを言った。
 「なあ、なぜもっとしっかり『青白い三角形』を探してくれなかったんだ? ひどいじゃないか、おかげでこっちは、大事な仕事に間に合いそうもない! なんとかならんのか?」
 自分の説明不足を棚に上げた言い方に、俺の苛立ちもつのっていった。
 「お客さん、道案内するときは、標識なんかじゃなく、建物や看板を目印にしていただきたいですね。『青白い三角形』ですって? そんな回りくどい言われ方をしたって、こっちは何のことやら分からないじゃないですか」
 客が何も返事しなかったので、俺はバックミラーを覗いた。
 俺は息を呑んだ。
 客の右手には、切れ味の尖そうなナイフが握られていた。
 強盗に体中を滅多刺しにされたタクシー運転手についてのニュースを思い出して、俺は、顎が震えだすのを止めることができなかった。
 「あんまりにも混んでいるから――」と客は言った。「ここで弁当を食わせてもらうよ」
 客は、左手にフォークを握り、いつの間にか膝の上に出されていた弁当箱を突き始めた。
 俺はホッとした。
 カーラジオからは、相変わらず犬の声が聞こえてくる。喉から振り絞ったような、苦しそうな鳴き声だ。
 俺は、二年ほど前に飼っていた犬のことを思い出した。ある雨の日、妻が、道に捨てられていたのを拾ってきたのだ。黒い犬だったので、俺は「クロ」と呼んで可愛がった。妻も、俺の命名のセンスを絶賛した。もしも、思わず押したくなるようなボタンが犬の体についていたなら、ボタンを押すときの擬音に合わせて、俺は犬に「ポチッ」と名付けていただろう。俺は、周囲のものに変わった名前をつけるのが好きなのだ。
 だが、クロはある日突然消えてしまった。おまけに、妻までが、何の偶然か、同じ日を境に実家に帰ってしまった。クロと妻を、俺はその日以来一度も見ていない。
 クロが消えた日、家に帰ると、テーブルの上にはドッグフードが散乱していた。言葉を使えないクロなりの書き置きだったのだろう。
 「なあ、運転手さん」と客が言った。食べながらしゃべる客の口からは、くちゃくちゃという音も一緒に聞こえてくる。「あんた、さっき、私の道案内について何か言っていたな」
 バックミラーを見ると、客は、眉間にシワを寄せて俺を睨んでいた。
 俺は、なるべくやわらかい口調で先ほどと同じことを言った。「いえ、お客さん、道案内のときにはね、できれば近くの建物とか、看板とかね、分かりやすいものを目印にしていただければ、私どもも運転しやすいものでして……」
 「青白い三角形も分かりやすいじゃないか」
 「いえ、標識なんてどこにでもあるもんですから……。それに、標識を指すときは、色や形じゃなくて、はっきり『標識』という言葉を使っていただいたほうがね、助かるんですよ」
 「なあ、おい!」
 客が突然大声を出したので、俺は体が飛び跳ねそうになった。
 「通勤途中で急いでいる時、タクシーの運転手が無能だったせいで頭に血が上って、思わず運転手に危害を加えてしまうような者がいたとして、そいつがもしも手に持っていたらまずい物体が、偶然にも、食事をしている私の右手には握られているんだよ! そのことをよく考えてくれよ、君! 私はそういう偶然が好きじゃないんだ! 君だって多分そうだろう!」
 俺はバックミラーでナイフを一瞥して、また震えた。
 「頼むから、私を苛立たせないでくれ!」
 俺は震えながら、「どうも……すいません」とだけ声を振り絞った。
 カーラジオは相変わらず犬の声を流している。心なしか、声は弱っていっているようだ。
 前の車は、少しも動きそうになかった。
 「なあ」と客が言った。「『青白い三角形』がどういう意味の標識か、君は知っているのか?」
 そう聞かれて初めて、俺はあの標識の意味を知らなかったことに気づいた。街で頻繁に見かける、色と形の他には何も伝わってこない標識が、運転手や歩行者に向けて何を意味しようとしているのか、俺は一度も気にしたことがなかったし、誰から教えられたこともなかった。
 「いえ……正確には」と俺は白状した。そして、また怒鳴りつけられることを予測して、身構えた。
 だが、客は黙っていた。バックミラーを見ると、客は俺を鋭く睨みつけていた。カーラジオから鳴り響く、弱々しい犬の鳴き声だけが俺の耳に突き刺さり、俺はだんだん、犬に自分の欠点をネチネチと指摘されているような気分になっていった。
 「あの……」耐えられず、俺は口を開いた。「止まれ、という意味ですか?」
 「その場しのぎの当てずっぽうを言うな」客がピシャリと言った。「タクシー運転手でありながら標識の意味も知らず、まともに客を目的地に運べないくせにそれを客のせいにして、少し怒鳴られればあっさり下手に出て場をやり過ごそうとする無能――そんなゴミクズを前にしたとして、もし君ならどう思ったかな?」
 客の言葉を聞きながら、俺は、目に涙が溜まっていくのを抑えることができなかった。
 「君はこう思うかもしれないね――『なんてこった、こいつはまるで俺だ!』と。だが、自分そっくりな無能さを目の前に突き付けられても、君はきっと学ぶということをしないし、成長もしないだろう。客を目的地まで運ぶだけの簡単な仕事すらまともにこなせないゴミクズの反応なんて、私にはお見通しだ」
 俺は、「は……」と言葉にならない息を漏らした。頬を涙が伝った。
 「青白い三角形の意味を君に教えてやろう」と客は言った。「あれは、『進め』という意味だ」
 「は……」
 「進んでいくと、私の会社にたどり着くようにできている」
 「は……」
 「あれを街中に設置しているのは、私の会社だ」
 「は……」
 「私の会社は製肉工場だ」
 「そうですか……」と俺は力なく答えた。なぜ製肉工場が標識の設置まで行なっているのか、事情がさっぱり理解できなかった。
 客は、またくちゃくちゃと音を立てながら弁当を食べ始めた。
 ラジオの向こうでは、犬の弱々しい声が、途切れ途切れになっていた。
 車は一向に進む気配がない。
 「なあ」客が言った。「犬と女の共通点がなにか、分かるか?」
 「さあ……」俺はつぶやくように弱々しく答えた。
 「特に、黒犬と既婚女性には共通点がある。分かるか?」
 「いえ……」
 「どちらも、肉だ」そう言うと、客は大声で笑った。
 明らかに俺を侮蔑した笑い声だった。だが、俺は、客の機嫌が良くなったことに胸をなでおろした。
 それにしても、クロと妻のことを思い出した直後にそんな冗談を聞かされるとは、驚くべき偶然だ。
 ラジオからは犬の鳴き声はやみ、何も聞こえなくなっていた。
 随分おかしな番組だ。ペット屋のCMなのだろうか。
 車は一向に進みそうになかった。この時間帯、大通りはいつも渋滞しているのである。

2023年9月12日公開

作品集『殺虫小説集』最新話 (全6話)

© 2023 Y.N.

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"暗黒"へのコメント 10

  • 投稿者 | 2023-09-18 13:46

    ちょっとコント風というか、そんな感じがしました。カーラジオから延々と犬の声が聞こえるというのはワケがわかりませんが、テンパってるときになんかわけわからんことが起こっててもそれどころではなく、あとで思い返すと、あれは記憶違いだったかな、みたいに有耶無耶になるが実は本当に起こっていたことだったというのは結構よくある気がします

  • 投稿者 | 2023-09-19 16:00

    犬の名前に関しての話が面白かったです。ボタンが付いてたらポチ。なるほど! と、それはそうかもしれないなあ! と。思いました。あとはもう大体狂ってる感じで(褒めてる)。運転手の人が泣いちゃって可哀そうwww

  • 投稿者 | 2023-09-23 19:59

    恐怖映画みたいな印象でした。何言ってるかよく分かんないけどとりあえず客の機嫌がなおって良かったってところで、もう共感しかなく。
    カーラジオから犬の声が聞こえて来るし、「黒犬と女」なんて話をしだすし、お客さんの肉工場では犬の肉でも化工してるんですかね。この後、運転手さんが犬食いに巻き込まれるのではと心配をしています。

  • 投稿者 | 2023-09-25 08:55

    精肉工場への道順がいたるところに貼られている。幻想怪奇小説ですね。ラジオを流れる犬の声の意味が良くわからなかったですけが不穏な空気は感じることができました。

  • 投稿者 | 2023-09-25 16:58

    ずいぶんいい感じの作風だと思ったんだけど、これは合評参加作なのか、たまたま短編のテーマがマッチしていただけなのか、どっちかわからなかった。俺も青白い道路標識を見かけたらラジオを点けてみようと思う。

  • 投稿者 | 2023-09-25 17:42

    不思議でちょっと不気味な雰囲気がひしひひと伝わってきて緊張感がありました。刺されなくて良かった。でもこのあともまだまだ危機が迫りそうですね。

  • ゲスト | 2023-09-25 18:42

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  • 編集者 | 2023-09-25 21:10

    タクシーは怪談が生まれやすい場所だとどこかで聞いたが、これはそれを表しているのかも知れない。興味深い。

  • 投稿者 | 2023-09-28 13:36

     皆様、はじめまして。コメントいただきありがとうございます。
     今後ともよろしくお願いいたします。

    著者
  • 投稿者 | 2024-07-29 22:45

    どちらも肉だ、と言って笑うシーン、ちょっと背筋が寒くなりました。その客の顔が何となく浮かびます。じっと相手を睨んでいるようでいて、焦点が定まっていない、そんな目をしているのかな、と。

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