やがて盆の上に花柄のティーカップ二つを乗せて、彼女はやって来た。
「お待たせ。アールグレイだよ。お口に会うといいけど」
上等そうなティーカップの中には、美しい赤茶色の液体が入っていた。僕はそのロマン的な優雅な香りを感じながら、それを口の中にそっと入れた。
途端に茶葉の深い味が舌を刺激する。
「……美味しい」
「ほんと? 良かった。これね、うちから持ってきたお茶なんだよ」
彼女は隣に座ると、同じ様に紅茶を飲んだ。その動作の一つ一つが優雅で、思わず見とれてしまう。
「……おにいさんの話、聞かせて?」
少女は僕に肩を寄せて、そう誘惑してきた。僕はそれに乗せられる様に過去の出来事について話し始めた。
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「牛宮楠雄のこれまで」
恥の多い生涯を送ってきました。
……こんな文を、中学時代に読んだ。
馬鹿らしいと思った。裕福な家系に生まれて、この男は何故か自分を否定している。
……だがそんな彼の感情を、僕は知った。
僕は普通の家系に生まれて、普通の高校に行って、そして就職した。
僕はそこで所謂社畜という物になったのだ。存在自体は知っていた。
確かにそういう物はある。だが僕はそれに該当しない。そう思っていたら、それになってしまった事に気付かなかった。僕はその時、人間から歯車に変わってしまった。
毎日毎日、上司からの叱責を受け、僕は段々と僕ではなくなっていく。
その事を実は、同僚に相談した事がある。僕は周りに合わせる事が出来ない、その事が辛くて堪らない、と。
彼は言った。
「……んー。まあ確かに牛宮はちょっと……馴染めてないフシはあるな。でもそんなに悪い会社じゃないと思うんだけどなあ。普通に休みは取れるし」
その瞬間に僕は確信した。
僕はこの世の人間では無い。僕は異常者なのだと。
僕は昔から周りの感情を読み取るのが苦手だった。自分は周りの人間と関わりを持てないのだ。
同じ人間だが、僕は人間の形をした何かだから、心を通わせる事が出来ない。
皆が小鳥の戯れている様子を楽しげに見ている。僕はそれをじっと見つめ、そこから楽しさを見つけようとしている。
皆が飼っていた兎が死んで悲しんでいる。僕はそれをじっと見つめ、そこから悲しさを見つけようとしている。
やがてその光景が他の人の目につくと、僕は敬語を使われるようになった。
「……牛宮さん? ちょっとごめん……これ、職員室まで運んでってくれない?」
同じクラスの隣の席の女子が、僕に怯えながらそう言う。僕は無言で荷物を受け取り、教室を出た。
そして後ろで聞いた。
「……牛宮君ってさ。……優しいんだろうけど……なんか……怖いよね」
僕はいつからか人というカテゴリから外れ。
人以外の何かとなった。
僕に人並みの感受性が与えられなかったのは、恐らく僕の家庭環境が災いしている。
僕の父親は僕が生まれて早々家を出ていってしまった。どうやら女性関係の事で何か揉め事を起こしたらしく、僕と母親を捨てて出ていったという訳だ。
その事から僕の母親は父の事を大層恨み憎んでいた。
「……貴方は本当にあの人に似て……」
その言葉をよく聞いた。僕はその言葉が大嫌いだった。
見も知らない男に似ていると言われ、殴られる。
僕にとってその言葉は母親の間違いを正当化するだけの便利な言葉でしかなかった。
母親の怒号と拳に怯える日々。
でも僕は母親に感謝している。
僕は母親のおかげで僕の厄介な個性を切り捨てられた。
ありがとう、母さん。
僕は素敵な人間になれました。貴方のおかげ(せい)で。
東京に出てきて、僕は何かを失っていた。それは何だろう? 人間性だろうか? 個性だろうか?
ただ一つ言えるのは……こんな人生はろくでもないという事。
……救いがあるとするならば。僕はどんな非道な事をしてでもそれを掴もうとするだろう。
こんな人生は、さっさと終わらせてしまいたい。
全てにさよならを言いたい。言ってみたい。
……だがそんな事を、僕に残る人間性が許さないのだ。
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「……うんうん。そっか。……辛かったね」
僕は彼女のスカートを握り締めて、まるで小さな子供の様に泣いていた。
僕の涙で彼女の服が汚れていく。
「……大変だったね。今まで辛かったね。……よく一人で耐えてきたね。おにいさん」
僕は彼女の優しい、甘い生クリームの様な言葉に甘えながら、言葉を漏らす。
「……琴葉ちゃん。……僕今まで凄く大変だったんだよお」
「……うんうん。分かるよ」
「僕を助けてよ……琴葉ちゃん」
僕は自分より歳下の女子に甘えている。抱えきれない程の辛さを彼女に受け止めてもらっている。
「おにいさんはよく頑張ったよ。偉い偉い。……辛い事思い出させちゃってごめんね。……大丈夫。私が居るから。……だからさ」
彼女は僕を抱き締めた。
「……一緒に、幸せに死のうね」
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