執刀医・岬十四郎は大きく膨らんだ婦人の腹にメスを入れた。腹に対して横に入ったメスを引くと、圧倒的な切れ味が順調に皮膚を裂いた。無影灯に照らされている皮下組織は赤赤としていた。ゴム手袋の手で触れると血液が付着し、十四郎はそれだけで全身が熱くなる興奮を感じた。十四郎は皮下組織にもメスの切っ先を入れた。何度もひっかくように切りつけているうちに両手は血まみれになり、辺りに鉄の香りが漂っていた。皮下組織は順調に裂けていった。すると助手の医者が鉗子を使い、裂いた組織の把持をしてくれた。十四郎は剪刀を持ち出し、さらに皮下組織を切り進めた。するとようやく子宮が見えてきた。子宮は桃色で、無影灯からの光を反射し、燦然と輝いていた。
この中に赤子が入っていると考えると、十四郎は今すぐ子宮に乱暴にメスを突き立てて、全てを台無しにしたい衝動に駆られた。しかし、正式な執刀医としてこの病院に勤務している身ではそれは絶対に許されないということも重々承知していた。
十四郎は助手と共に筋鈎を使い、開腹部を広げた。球体の子宮が良く見えた。左右にぱっくりと開いた開腹部から覗く球体の子宮というこの光景は、人間の目元と非常に似ていた。
助手から渡されたピンセットと剪刀を使い、子宮に張り付いている膜を切り裂いた後、十四郎はついに子宮にメスを走らせた。この時の十四郎は街の壁に適当なラクガキをする餓鬼と同等の脱力した心持ちだった。別に失敗してもよかった。むしろ失敗し、母親が悲しむ姿を見たいと思っていた。故に適当にメスを走らせていた。
作った隙間に指を入れて赤子の頭部を確認すると、隙間を広げるべく再度メスを走らせた。
十四郎は普通に子供を産んでしまうことにつまらなさを感じていた。そんなものよりも、何かしらのハプニングが立て続けに発生し、最終的には子供は死んでしまうくらいの方が刺激的で楽しいと心の底から思っていた。
十四郎は、今回のこの帝王切開ではもうその手の事象は発生しないと考え、後は流れ作業だと胸の内で悪態をついていた。剪刀で子宮をさらに切り裂き、中の赤子の頭部を掴んで引き上げようとした。
しかし、引き上げることはできなかった。
「岬先生? どうかされましたか?」
助手が十四郎に話しかけた。子宮に作った隙間に片腕を突っ込んだまま静止した十四郎に疑問符を向けていた。
すると十四郎は突然、後方にバタリと倒れた。
「せっ、先生! どうされたんですか!」
助手が悲鳴を上げ、それを皮切りに他の医療チームメンバーたちも驚きの声を上げた。
「おい! なんだ、どうなってるんだっ!」
どよめきの中で誰かが叫んだ。しかしその問いに答える者はいなかった。手術室は狂乱に包まれていた。そんな中、助手は倒れた十四郎の元でしゃがみ、彼の容態を見た。自分で考えるよりも素早い動作で右手の指が十四郎の首元に伸びた。医療従事者としての本能がそうさせていた。しかし脈を感じようと懸命に感覚を研ぎ澄ましたが、十四郎の脈を指先で見つけることはできなかった。
「先生……。どうして……」
助手は混乱しながらも彼の全身を観察した。素早く目線で十四郎の身体を舐めると、そこであることに気が付いた。それは彼の右腕にあった。手術着の長袖に包まれた腕のその先に右手はなかった。手首の位置ですっぱりと切断されていた。助手は十四郎の右腕を持ち上げ、その断面図を見た。断面図は刃物でも使ったのではないかと思えるほどにとても綺麗だった。
助手は次に十四郎の顔を見た。深い緑色の帽子とマスクのせいで表情を詳しく見ることはできなかった。彼の目は見開かれていた。すでに光の無い黒色の瞳は天井を向いていた。
すると十四郎の眼球に異変が発生した。それは膨張だった。十四郎の両目は、空気を注入されている風船のようにゆっくりと肥大化していた。助手はその正体不明の不気味さから飛び上がって後ずさった。十四郎の両目は止まることなく膨らみ続けていた。
「な、なんだこれ……。どうなってるんだ」
十四郎の目の異変に気付いた誰かの声だった。助手は今すぐにこの場から逃げ出したかったが、恐怖で足は動かなかった。視界の中の仰向けに寝ている十四郎の両目は大きくなっていき、すでに野球ボールほどになっていた。
膨らむ速度は徐々に上がって行き、すぐにバスケットボールほどの大きさになった。
真白く、一部だけが黒色の眼球はやがて十四郎の頭部よりも大きくなった。眼球の膨張はそこで止まった。
大きな眼球が二つ並んでおり、窮屈そうに両目とも外側に退けていた。
そして今度は、大きな二つの眼球は小刻みに震えだした。それは眼球ではなく十四郎の身体自体が震えているようだった。身体の揺れは三十秒ほどで止まり、五秒の静止を経て、二つの眼球は同時に破裂した。
まさに、風船が破裂する際の音だった。短い炸裂音と共に木っ端みじんになった眼球から放出されたのは、血液のような赤い液体だった。飛び散る液体は室内の医療チームメンバーや器具などに付着したが、それを最も被ったのは十四郎の一番近くに居た助手だった。緑色の手術着は真っ赤に濡れ、露出している目元にも液体が付着した。
助手は目元に付いた液体を拭おうとした。しかし液体はどれだけ擦っても取れることはなかった。液体は温かった。生きている人肌と同等の温さを持っていた。
やがて助手の目元に付いた液体は助手の肉体の中へと染み込んでいった。助手はその際に強烈な痛みを感じた。怪我をした箇所に消毒液を塗った時に感じる、痺れのある激痛だった。助手は痛みにもがき、悲鳴を上げながら辺りのワゴンや手術機器、他の医療チームメンバーを吹き飛ばし、手術室を暴れて駆け回った。そのうち助手は何かに躓いて床に転げ落ちた。それでも身体に染み込んだ激痛は収まらず、助手は目元を掻きむしりながら両足をバタバタとさせた。
助手の動きは次第に勢いを失っていった。悲鳴は小さくなり、身体の動きもゆっくりになっていった。次に助手は仰向けのまま身体を反らせた。そして二、三度、ビクンと跳ねると、ついに全ての動きや声が静止した。ぐったりとこと切れたようだった。顔は上を向き、掻きむしったことで赤く腫れている目元の瞳は天井を見ていた。
絶命した助手の顔を覗いたのは看護婦だった。彼女はおそるおそる助手に近づき、その顔を見つめた。ゴム手袋の手とはいえ、乱雑に掻きむしられた目元は赤く腫れていた。瞼は膨らみ、明太子のようになっていた。十四郎と同様に口元はマスクで隠れているため表情まではわからなかったが、死ぬまでの絶叫から苦痛に満ちていることは容易に想像できた。
手術室の誰もが口を閉じていた。荒れ果てた室内には異様な空気が漂い、誰も口を開かず、逃げることもしなかった。そんな中、看護婦は助手の傍らでしゃがみ、彼女の瞼を下ろした。次に十四郎の元へ行き、助手と同様に瞼を下ろした。十四郎の眼窩には眼球が無かったが、それでも瞼は通常通り下ろすことができた。二人の死因は原因不明であり極めて不可解だったが、それでも看護婦は二人が安らかに眠れるようにと願った。
ふと、看護婦は十四郎の右腕に目をやった。
その先に右手は無かった。手首の位置で綺麗に切断されているようだった。
看護婦は一つ思い出した。そういえば、岬先生が倒れる寸前に子宮に入れていた手も、右手だった、と。思い出した瞬間、看護婦の背筋を悪寒が通り抜けた。しかし看護婦の脳内では、恐怖心よりも好奇心の方が勝っていた。立ち上がり、室内中央に位置する手術台の上、いまだに麻酔が利いている妊婦の腹の中の、子宮に目をやった。
鋭い牙を持つ異形と、目が合った。
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