海の匂いがする。
目を開けると眩しさに一瞬、頭がくらりとした。眩暈を追い払うように何度か瞬きを繰り返す。正常を取り戻した視界には鄙びた風景が映し出された。
アスファルトで覆われた幅の広い道路は真っ直ぐに伸びて、修繕されないままにあちらこちらが罅割れて、でこぼこしている。道路の両側には歯列が欠けたような状態で建物が並んでおり、その殆どがシャッターを下ろしていた。シャッターを開けているのは文具店とその向かいに呉服屋だけだ。しかしどちらの店舗も営業しているのか一見するところ定かではない。それくらいには町並みは古びていた。
此処は何処だろう?
見たことがあるような、そうでないような。テレビや映画で見たのだろうか? それとも写真で? 漫画で?
私はゆっくりと周囲に視線を巡らせる。誰もいない。人の気配がない。野良猫一匹すら、いないのだ。しんと静まった空気は耳に痛い程だ。只、明るすぎる白い陽光が降り注いで地面に黒々と私自身の影が落ちるばかりで。全くの静寂、孤独。
目線を上げると左手にマンションの群れ――団地が立ち並ぶのが見えた。薄汚れた外壁には順番に番号が振られていた。
6、7、8、9……9……9!
数字が私の記憶の扉を開け放った。
此処は祖母が住む町だ! 何故、すぐに解らなかったのだろう! そうだ、祖母は9の数字がつく団地の一階の部屋に住んでいるのだ。
祖母は元気でいるだろうか?
思い返せば随分と会っていない。八十を過ぎて一人暮らしをしている祖母は何も言わなかったけれども、寂しい思いをしているに違いない。私が訪ねたら祖母は喜んで迎えてくれるだろう。小さな目を眼鏡の奥でぱちくりさせて「あらあ、来たの。何もないけど腹一杯、食わしてやるに」いそいそと祖母は細かな模様が入った赤い前掛けをして狭い台所に立つ――何度も見た光景を頭の中で再現をして私は祖母の住まいを目指した。心細いような気持ちが薄れていく。
五、六分歩いて目的の場所――部屋のドアの前に立った。白い塗装が所々剥げたドアは年季が入っていて、堆積した時間の長さと祖母の年齢とが不思議に結びついた。生まれてからずっと祖母が此処に住んでいたかのように。勿論、それは錯覚であるけれど。
呼び鈴がないのでドアを数度、ノックする。控えめにしてもゴンゴンと大きく音が響く。
「おばあちゃん、私だよ。遊びに来たよ」
しかし反応がない。もう一度試してみたけれど結果は同じだった。買い物にでも行っているのだろうか。ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して画面をタップする。祖母の電話番号を探すが見つからない。間違って消去してしまったのだろうか。着信履歴にも発信履歴にもそれらしい番号はない。固定電話の番号すらなくて祖母に連絡を取ることは適わなかった。此処で待っていたらそのうち祖母も帰ってくるだろう――そう思って私は重々しいドアに凭れかかって、ふぅと息を吐いた。と、私は何か重要なことを忘れているような気持ちに襲われた。
何だろう?
何を忘れているのだろう?
とても大事なこと――私は再びドアに向き直るとドアノブを回して引いてみた。ギィと耳障りな鉄が軋む音と共に重たく開いた。
ドアの向こう側はぽっかりと穴が空いたような、黒々とした闇が嵌め込まれていた。はっと瞠目した。闇の中に簡素な棚が設えてあって祖母の写真――遺影と位牌が並べられていた。
――おばあちゃん!
そうだ。そうだった。祖母は三年前に亡くなったのだ。癌を患って。
私はドアを閉じると、へなへなと脱力してその場にへたりこんでしまった。祖母の最期を看取ることができなかった口惜しさ、罪悪感、いなくなってしまった寂しさが波のように押し寄せてきて、片目から涙が零れた。
急にとても心細くなってしまって、何処へ行ったらいいのか解らなくなってしまった。知っていたはずの町の風景も今では酷く他人行儀で私を拒絶していた。
これからどうしよう――不安な思いでいると不意に左手の小指に何か違和感を覚えた。見ると赤い糸が絡まっていた。それは長く伸びてうねうねと電気コードのように地面を這っている。これを辿れば良いんだ――祖母からの助けのように思えて私は赤い糸を辿って歩き出した。
糸は何処までも伸びていて尽きることがない。先程の営業しているのかしていないのか解らないような文具店の前を通り過ぎ、現れた十字路を左手に行く。小さな踏切を越えて坂道を下ると遠くに海の色が見えた。海は陽射しを受けて私に合図を送るように白く輝いていた。この糸が行く先はきっとあの海だ。直感的にそう思った。そこに行けばこの後、どうしたらいいか答えがあるはずだ。私は糸を手繰って駆け出した。
早く、早く、あの海まで行かなくちゃ。
きっと何かある。誰かが待ってる。
――待ってる? 誰が?
一瞬、頭に閃いた言葉は白く弾けて消える。私は行かなくちゃいけない。この糸の先へ。
長い長い下り坂を駆け下りると幹線道路が走っており、それを挟んでくすんだピンク色の大きな建物があった。そこはスポーツセンターで市民プールがあり、夏は多くの人が訪れる。私も子供の頃、何度も連れて来て貰ったからよく覚えている。しかし今はかつてのような賑やかな様子はなかった。広大な駐車場には一台の車もない。何時来ても満車だったその場所は蝉の抜け殻みたいになって広がっていた。普段は渋滞している幹線道路にも車の影はない。幾ら眺めても動くものはなかった。ただ佇立している信号だけが静かに機能していた。
私は車が来ないと解っていても信号が青になるのを待って幹線道路を渡った。糸はスポーツセンターを迂回するように伸びていて、辿っていくと海岸まで降りられるスロープが現れて、私は無事にゴールまで辿り着いたのだとほっと胸を撫で下ろした。
ゆっくりとした歩調でスロープを降りる。乾いた砂浜に一歩足を踏み入れた瞬間に強く海の匂いを感じた。祖母の部屋の前では冷たく感じた町並みも今では懐かしさを伴って私の中へ還ってきた。濤声や潮風が気持ち良かった。
ぼんやり海を眺めていると、
「ああ、やっと来たか。お嬢さん」
突然、話しかけられて吃驚して声がした方を見ると、六十代くらいのお爺さんが砂浜にイーゼルを立てていた。イーゼルには真っ白なカンヴァスが立て掛けてあった。この人が私を待っていた人だろうか? 答えだろうか?
「待ちくたびれたよ」
「はあ。すいません」
お爺さんはやれやれと言った風情で大儀そうに溜め気を吐きながら言葉を継ぐ。
「別に怒っているわけじゃあないがね。これでやっと儂の役目も終わる」
「役目? お爺さんは一体……? あの、私はどうすればいいんですか?」
するとお爺さんは被っていた帽子を手に取って弄びながら、
「儂の役目は此処でお嬢さんを待つこと。只、それだけだ」
「じゃあ、私は? どうしたらいいんですか?」
「何も知らんのかね。お嬢さん、アンタはおしまいじゃよ」
「は? おしまい?」
お爺さんは白髪頭を撫でつけて私を手招きする。吸い寄せられるように私はお爺さんの隣――カンヴァスの前に立つ。
「アンタの役目はな、ほれ。このカンヴァスの前に立って、左手の小指から出ている紐を引くんだよ」
「え?」
言われて左手を見ると、確かに数センチ赤い紐が小指の根元から生えていた。何、これ? さっきまでは赤い糸が延々と伸びていたのに。まるで辿った糸が私の小指の中に全て収まってしまったみたいだ。
「えっと、これを引っ張ればいいんですか?」
「ああ、それでいい。アンタはおしまいだからなあ」
じゃあ後は頼んだよ、お嬢さん――お爺さんはそう言ってカンヴァスの中へと入っていった。私は余りにも驚きすぎて 瞬きもできなかった。呆然と立ち尽くしてカンヴァスを見詰める。お爺さんの姿形はすっかりカンヴァスの中に溶け込んで、見る影もなかった。私はまたひとりになってしまった。急に不安が押し寄せる。
私がおしまいってどういう意味だろう? お爺さんはこの紐を引っ張ればいいと言っていたけど。紐を引けば、またどうしたらいいか何か解るかもしれない。
私は紐をそっと摘んで、引いた。
あ。
あああ。
ああああ。
頭が。
弾け。
る。
――紐を引いた彼女の頭は一瞬のうちに大きく膨れ上がり、 破裂した。撒き散らされた真っ赤な血肉はカンヴァスを鮮やかに染めて、美しい夕焼けを描いた。
おしまい。
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