いくつかの奇跡

紀 聡似

小説

12,981文字

画商を営む主人公が出張で訪れた東京で遭遇する「少し不思議」な体験。
それが、以後の人生観を変えかねない「奇跡」に繋がる物語です。

 

~ 1 ~

その時までは、なんとか搭乗時間に間に合いそうだった。そう、あの少女に出会わなければの話だ。

大阪で画廊を営む私が、わざわざ東京へ15号の洋画3点を直々に納めに出向いたのには、7月上旬の一本の電話からだった。大手製紙会社社長の彼とは、過去いろいろな展覧会で顔見知りとなり、主にヨーロッパから絵画の買い付けをしている私を贔屓に、時折無理やりに出張を申し付けてくる。そう、たった一本の短い電話のやり取り。

 

「やぁまたロートマイルの油彩を2、3頼むよ。うん、玄関用と、リビング用にね。そうそう。分かるね?じゃ、8月12日の14時にね。」

その「分かるね?」に一苦労するというか、私の腕の見せ所になるというか。要するに玄関に、そしてリビングに合う絵画をお任せで注文をしてくる。大きな会社の社長ともなれば、会社でも普段から、自分なりの解釈を簡略化した言葉で指示を出し、部下を困らせているのが日常的なのだろうが。彼がこんな人なのは百も承知で、それに彼のお屋敷に何度も伺っている私にとって、彼のイメージに合った絵画を用意するのは、それほど難しくなかった。

 

8月10日はお盆休みの少し前もあって、行きの新幹線の中は満席ではあったが、東京駅はそれほどまで混雑はしていなかった。電車とバスを乗り継いで、東京にある額縁屋を数軒まわり、春に仕入れてきた絵画の額装を決める。東京出張の一日目は大体こんなものである。

 

二日目は、古くからの知り合いのT君と正午近くに、ある馴染みのカフェで待ち合わせをしていた。私が東京へ出張する際は、大抵は予め彼に一報を入れておく。彼は東京で画商をしていて、いわば情報交換の良い相手。たまに掘り出し物などをお互いに融通し合い、双方利益を上げるなどして、ビジネスパートナーと言っても違いがない間柄なのである。

待ち合わせのカフェは最寄りの駅より少し離れた場所あり、少し歩いたためか、カフェに着いたころには、もう背中には汗が流れ落ちる感じがしていた。

カフェの扉のベルが鳴ると同時に、店員にアイスコーヒーをひとつ注文し、いつもの奥の席で煙草をふかしている彼の方を指差した。

「やあ、実は僕もついさっき着いてね。」と言う通り、彼のアイスコーヒーのグラスには、それほど結露は付いていなかった。

「そうか、なら良かった。しかし今日も暑いなぁ。この店、クーラーの調子でも悪いのか。もう少し効かせて欲しいなぁ。」
「そりゃあ君、アレを売りつけようって魂胆だろう。」と言って、彼が吸う煙草が差したその先に、なんの変哲も無い、そこらの子供が描いたような、かき氷の挿し絵のある『かき氷各種500円』と書かれたA4サイズくらいの紙が、無造作にセロハンテープで壁に張り付いていた。
「かき氷各種って、なんの種類があるのだか。あの絵の調子じゃ、イチゴ練乳は間違えなくありそうだ。」

気が付けば、私の汗は背中だけでなく、胸から腹のあたりまで滴り落ちていたが、こんな変哲の無いかき氷の描写であるにも関わらず、この暑さから逃れるためか、私の乾いた喉は、そんなかき氷でも渇望していた。

「まぁさ、絵なんてそんなものだろう。我々が取引している絵画だって、正直、この絵の何処が良いのだろうと思う時があるだろう。人間の美的感覚なんて曖昧なものさ。ようは見る者の欲求に訴えかけられさえすれば、1円の価値の無い絵も、たちまち100万円の価値にもなる。」

「はは、違いない。」と、届いたばかりのアイスコーヒーを流し込んだ私の喉は、あっという間に潤され、かき氷の渇望なぞは刹那の間に消え失せていた。

 

「ところで、明日には大阪に戻るのかい?例の製紙会社の社長宅のあとに。」
「そうだよ、夜の便でね。帰りは飛行機。13日に祖母の法事があるのでね。12日、明日の内に大阪の実家に戻っておきたいんだ。」

すると彼は、まだ半分くらい残っている煙草をいそいそともみ消して、私に顔を近づけて囁くようにこう言った。
「実はな君、レオンハールの新作が発見されたって話をもらったんだが。」
「まさか。レオンハールの作品は全部で200点は超えるが、新作なんて埋もれているはずはないだろう。ガセじゃないのか?果たして本物なのか?」
「僕も最初はそう思ったさ。だがね、その話を僕に持って来たのは知人のフランス人の画商なのだが、それが今東京に来ているんだ。僕に見せに、その新作を持ってね。」

 

そう言うと、彼は手元のアイスコーヒーを一口だけ含み、また慌てたように煙草に火をつけ、ふぅと煙をひとつ吹いてこう続けた。

「今度やる美術館のイベントの話は電話でしたよな。もしそれが本当にレオンハールの新作だったならば、これは脚光を浴びて注目されるのは間違いないだろう。その画商は明後日にはフランスへ発っちまう。そうなるともう誰かの物さ。だからね、君にも明日一緒に見てもらいたいのだが、どうだ。」
「明日?・・・明日の何時に、何処でだい?」
「いやいや、君の用事の済んだ後で良いのだ。用が済んだらそれ次第、品川のグランドホテルに来られないものかね。」

 

もしそれが本物のレオンハールの作品であるならば、美術界にとって大きな新発見となり、私と彼にとっても大きなビジネスチャンスにもなる。が、この世界、偽物も多く出回っており、我々画商には「鑑定」というスキルも必須なのである。

私も手元のアイスコーヒーをガブリと飲み、結露でビッチャリと濡れた左手をシャツで拭い「ああ分かったよ。ちょっと時間的に厳しいが、品川からなら羽田も近い。なんとかなるよ。」と快諾した。

 

快諾した、は嘘になるかも知れない。正直、私は幼少の頃から、物事が時間通りに進まないことが嫌いなのだ。なので、時間におわれたり、せかされたり、ハラハラさせられることが苦手なのだ。すると決まって尿意をもよおす感覚に、とてもよく似た症状が起きる。そうなるとトイレにも立ち寄らなくてはという、余計なタイムロスまでもが発生する。なので必ずと言ってよいほど、時間にはゆとりを持って行動することを心掛けている。

レオンハールの新作かも知れないという好奇心と不信感が、帰りの飛行機に乗り込むまでのゆとりの時間を削ることに、その時、かなりのためらいがあったのも、感覚的な事実であった。

 

 

~ 2 ~

翌日も快晴で真夏日。15号の油彩が額装された額縁3点を1つに束ね、大汗をかきかき、電車とタクシーを乗り継いで、高級住宅地にある製紙会社の社長宅へ着いたのは、約束の14時よりも20分ほど早かった。早く着いたのは、この後の予定が、どことなく気の焦りに繋がったのかも知れない。

 

社長は不在だった。自分で日時を指定しておきながら。しかしこれは案の定で、毎回ほぼ奥さんが対応してくれるのだ。そう、毎回来る度に関心するのが玄関の大扉である。大邸宅の玄関ならでは、高さが3メートル近くある分厚い木製の扉を、奥さんは軽々と開けて出迎えてくれる。どんな材質の木材で、この扉は何キログラムあるのか。どうしてこれが、こうも軽々と開閉できるのであろう。いっぺん聞いてみたいのだが、いかんせん奥さんやお使いの方では話は分かるまい。

 そもそも私は、この疑問を社長本人自らに、得意げになって説明してもらいたいのだ。有頂天に解説する彼の表情を見て、きっと私は内心で、そんな彼を蔑むに違いないだろう。

 

 手っ取り早く、早々に手っ取り早く、私はこの仕事を片付けようとしていた。その為の段取りも完璧にしていた。段取りとは、玄関とリビングに飾る額縁は、あれとこれと予め決めており、それには絶対の自信があった。先に説明した「彼のイメージに合った絵画を用意するのは、それほど難しくない」という意味は、あくまでこれまでの私の画商としての経験則によるものでもあったが、本心は、ある程度の物さえ用意しておけば、大抵の人間は「美しい!」とか「素晴らしい!」とか「この場にピッタリだ!」と簡単に感激してしまうものだからである。

 

 私は芸術作品を多く取り扱い慣れすぎてしまったのか、いや、芸術作品に簡単に魅了されてしまった人間たちの取り扱いに慣れすぎてしまったのだろうか。

 それよりも、計画を時間通りに進める為に最善を尽くす、と言ったほうが綺麗事に聞こえるだろう。

 

「ふーん、これがあの人が気に入る絵なのかしらね。私には芸術というのは、サッパリわからないわ。」
「奥様には、この絵はお気に召しませんか?」
「いえ、この絵はここの、そう、このリビングには合うと思いますけど、さっきの、玄関の絵は私、ちょっと合うのかしらと思うわ。」
「なるほど。ではもうひとつお持ちしております額縁を、ご覧になっていただきましょうか。」

 そう言って私は、玄関用とリビング用とは別の、もうひとつの額縁を差し箱から取り出し、私の片膝に乗せた。そして、奥さんの方に額縁の正面を向けて、マジシャン気取りで黄袋を両手でずり下げた。
「あら!この絵は素敵ね!これこれ、これを玄関の方に飾ってはどうでしょう!」
「きっと合うと思いますよ。」と、したり顔を晒してしたであろう私の表情なんぞ見向きもせず、奥さんはズイズイと玄関の方へ向かってしまった。

 

 これが私の目論みなのである。

「ああ!やっぱりこの絵は玄関にお似合いだわよ。私はきっとこの絵の方が良く思えますよ。」
「ではこちらに致しましょうか。ただ、こちらの絵はロートマイルの晩年の作でして、ちょっとお値段が張ってしまうのですが・・・」
「??。値段のことなんて、下世話なこと、私に聞かないで頂戴な。」

 露骨に嫌味な雰囲気を出した奥さんだったが、それもその通り。大金持ちに『お金が余分に掛かってしまいますよ』という言葉は、プライドを傷つける言葉であるからして、実に面白い。まぁ貧乏人に対しても、深層心理は真逆になってしまうが、その効果は同じに違いないのだろうが。
「失礼致しました。ではこちらで決めさせて頂きます。この後、社長のご意見などがございましたら、何なりとお申し付けください。」

 完璧にことは運んでいた。私の思っていた通り、高額の方の作品を売ることができた。そして、レオンハールの新作を拝みに行く時間も捻出できたのだ。私は、気を良くした奥さんのお茶のお誘いを丁重に断り、品川グランドホテルへ向かったのである。

 

 

~ 3 ~

 ホテルのロビーではもうT君が待っていた。
「やぁ、待ちわびたよ。もうお目当ての物は彼女と一緒に部屋にあるよ。」
「え、フランス人の画商って女性だったのかい?」
「意外かね?僕にだって、外国人の女性の知り合いの一人や二人、いたって不思議はないだろう。」

 T君に外国人女性の知り合いがいることに驚いたのではなく、以前に耳にした噂が頭をよぎったからである。

 

 11階の部屋に着くと、慣れたようにT君はドアをノックした。すぐに待ち構えていたかのように、ドアを開けた「F」と名乗るフランス人の女性は、私が脳裏で想像していたのと、まったく同じビジュアルをしていた。スラリとした長身で、ボディラインがわかるブラッドカラーのスーツ。くっきりとした紅白と言えるほど彼女の素肌は、美しく白かった。

 大きな瞳の色はオーシャンブルーで、思わず引き込まれそうになったが、ファンデーションで隠しきれていないソバカスの量をみると、歳は30前後か、その美貌は100%ではなかった。

 

「Bonjour・・・」ある程度のフランス語しか分からない私は、適当に挨拶だけを済ませた。部屋の奥へ入ると、ホテルの窓下から大都会東京の光景が広がっている。私はこの光景を見て「私は今、日本に居る。決してFのテンポに乗ってはならない。」と心で繰り返した。

 それはなぜか。そう、さきの噂とは、偽物の絵画を売りつける詐欺を働く外国人がおり、その多くが色仕掛けを罠につけ込んでくるものだった。実際、Fのピークドラペルからは、その大きな胸の谷間が強調されており、淡いピンク色の下着の縁にある、薔薇柄の刺繍すら見え隠れするほど、それは大胆不敵なものだったからである。

 

 私が「日本語はわかるのかい?」と問うと、彼女は「う~ん、少し・・・だけね。」と大きな口で笑顔を作った。そうか、それではT君に堂々と「これは流行りの詐欺じゃないのかい?」と聞くのは難しい。そんな風に軽く探りを入れてみたのだが、それよりも、まずはレオンハールの新作とやらを拝ませてもらうことが最優先事項である。

 

「君が到着する前に、もう僕は先に見せてもらったのだが、さあさあ、君も見せてもらい給えよ。」タイミング良く、T君が本題を切り出してくれた。Fは眉を上げ、うんうんと作り笑顔で頷きながらソファに向かい、立てかけてある紺布張りのタトウ箱から、臙脂色の布袋に入った額縁を取り出そうとした。その時もしっかりと、ギリギリ下着が見えそうなくらいに短いスカートから、大きな尻を突き出していたが、彼女の左のふくらはぎのストッキングが、数センチ伝線していたのには一瞬幻滅した。

 が、もしやこの伝線までも確信犯なのか!と、ますます警戒心を強めたが、この時点で、私は自分の意志が早くもFによって、ぐらつかされていることに、自分自身にも幻滅した。

 

 それよりも、今はレオンハールの新作かの確認を急ごう。彼女が額縁をソファの座席に立てかけた。少しアンティークがかっていたが、そこまで古い額縁には思えなかった。問題の絵画は、印象派であるレオンハールらしく、厚ぼったく絵の具をキャンバスに叩いて、青空に浮かぶ雲を、より立体感を浮き立たせた、奥行きのある風景画であった。

 一見、レオンハールの作風である。左下に必ず入っているサインも、レオンハールそのものであった。先に説明した通り、レオンハールの作品は、油絵の具を多めに使い、雲であったり、木々の葉であったり、時には人間の鼻や、女性の胸などにも立体感をつけるように絵の具を盛る、そんな特徴が強かった。この作品にも、そんなところが多々見受けられたのである。

 

「どうだい君。僕が最初に見たときは、こいつはレオンハールの新作ではないかと直感したがね。」

 T君は私の後ろで、しゃがみ込んで腕を組み、やや興奮気味に煙草の煙を鼻から口からモハモハと吐き出していた。私はいつも持ち歩いているルーペをポケットから取り出して、光がよく当たるように額縁の正面を窓側へ向けた。片目を閉じて、額縁のガラス面に、吐息の曇りが起きないギリギリの近さまで顔を寄せた。クーラーの効いているホテルの一室に居るにも関わらず、私の額には、もうつぶつぶの汗が噴き出していた。

 

 何やらT君とFが私の後ろで会話をしている。翻訳すると多分だが、Fは「これを手に入れるのは大変だったわ。」と、それに対して「こんなのどこに眠ってたんだい?」とT君。
「誰かは内緒よ。」
「今度、僕のイベントの時にレンタルさせてくれないか?もちろん報酬は弾むよ。」

 気の早いT君は、もうそんな段取りをして、Fとクスクスと笑い合っていた。そんなT君に、振り返って私はこう言った。

 

「これはレオンハールの作品ではないよ。」

 

 T君は絵に描いたように、両目をまん丸に見開いて、煙草を持つ右手をプルプルと震わせ、聞いたこともない甲高い声で「おいおい。どうしてだ!これは偽物だとでも言うのか?」と嘶くように言った。
「あぁ、残念ながら、これはレオンハールの絵ではないよ。サインは真似ているから、こいつは悪意のある偽物だ。」

 

 日本語が少ししか理解できないFでも、我々二人のテンションを見れば、どんな会話をしているかくらい、そこそこ認識はしているだろう。
「根拠があるのかい?これがレオンハールの偽物だという・・・」
「ああ。Fにも同時通訳してくれないか?お二人とも、こいつをよく見てくれ。」

 

 T君はともかく、その時のFの眉間には深々と険しい縦皺が何本も入って、そこに派生して生まれた目尻にも無数の細かい皺が刻まれており、半開きの口元から見えた大きめの前歯は、コーヒーか紅茶の飲み過ぎか、煙草の吸い過ぎか分からないが、色白の彼女だから余計にそう見えたのか、えらく黄ばんでおり、先程に出会ったときの色気のある艶やかさは、もう失われていた。

 

「いいかい。君たちはレオンハールの作品にある特徴を知っているかい?いや、私が聞いているのは彼の筆のタッチであるとか、色使いであったりとか、作風とか、そういうことではないのだ。」

「??・・・一体どういうことだ?」

 T君は同時通訳することも忘れ、折れかけている煙草の灰の存在を忘れ、私の顔と、絵を繰り返し繰り返し、餌を待つ小鳥のように首を伸ばしながら、キョロキョロと往復していた。

 

 Fはというと、わりと筋肉質であった腕を組み、左手を頬に当て、先程とは更に険しい顔つきで、真っ赤な口紅を、への字に引きつり曲げて、ただただ絵を睨みつけていた。

「レオンハールの作品には欠かせないものが必ず、ひとつある。それがこれには無いのだよ。」

 と言うと、通訳をされていないにも関わらず、Fが「ハッ!!」と大きい声を上げた。それに驚いたT君が、ついに煙草の灰を絨毯に落としてしまった。T君が慌てて絨毯に落ちた灰を手で叩きながら「ど、どど、どうした??何のことだか僕にはサッパリだ。」と私とFの顔を、今度は絨毯に這いつくばりながら見上げていた。

 Fは、真っ白な大きな手で口を覆い、オーシャンブルーの瞳が小さく見えるほどに、大きく白目をむき出していたが、間髪入れず絵を指差し、もの凄い早口で、T君を罵るようにフランス語を浴びせかけた。

 と、その瞬間、T君は絨毯に跪きながら「あ・・・・。」と一言だけ呟いた。

 

「もうお二人ともお気付きですね。そう、簡単なことです。レオンハールは必ず絵のどこかに、筆ではなく、自身の指を使って何かを描く。それが彼の作品に欠かせない特徴なのを、お二人はお忘れだったようですね。」

 

 1800年代半ばの印象派画家レオンハールは、後世に自分の作品を遺すことまでも考えており、偽物や贋作が出回ることを極端に恐れた。そこで唯一無二である自分の指紋を、全ての作品に、何らかの形でもってそれを記していた。そう、レオンハールのことを知っていれば、こんなことに気付くのは、ごく簡単なことだったのだ。

 

 まるで、憑きものが落ちたかのように、T君とFは、疲れ切った表情で、ひとりは跪き、ひとりは立ち尽くしていた。

 するとFが、今度はケタケタと大笑いをしながら「上手くレオンハールを安く買うことができたと思ったのに!完全に早まったわ!」と、言っているようだった。T君も、それを聞いて、自分の早合点を恥じらうように苦笑いを浮かべてへたり込み、お姉さん座りをしながら、また煙草に火を点けた。

 Fが、どこの誰からこれを上手く売りつけられたのか知らないが、恐らく、Fにこの絵を売った者は、これが「レオンハールの偽物」とは知らず。
かたやFは、この者がこの絵を「レオンハールの新作」と気付いていないと思い違いをし、通常の相場の価格でこれを買ったに違いないだろう。

 どうしてこんなことに気が付かないかねぇ。と、少し探偵気取りだった私は、二人を小馬鹿にしかけた途端、私の目前に、無情に時を刻んでいる壁掛け時計の存在に気が付いた。

 

 

~ 4 ~

「あっ!マズい!もうこんな時間!!飛行機の時間にギリギリじゃないか!!私はもう失礼するよ!!」

 その後、彼らがどんなやり取りをしたとか、レオンハールの偽物がどうなったとか、そんなことは問題ではなかった。今日中に大阪へ戻らなければならない。脱兎の如く、私はホテルから飛び出し大急ぎで駅まで走り、空港行きの電車に飛び乗った。

 

 進む列車の車窓から、真夏日であったが夕日がだいぶ傾いており、遠くに見える空港を照らしていたが、それがこの時ばかりは本当に遠くに思えた。離発着する旅客機が、キラキラと銀色に瞬いていた。私も無事に、あんな風に瞬いて帰路に着けるのだろうかと、更に不安が頭をよぎった。

 やっぱり、こう気が焦ると決まったように、私は尿意をもよおしてくることは先に説明済みだったが、こうなるのが嫌だから、私は予定外に用事を入れることが嫌なのだ。今さらながら私は、T君をやんわりと恨んだ。それとFもである。下腹部の鈍痛に堪えながら、全身からはジンワリと脂汗が出ていた。

 

 空港の駅に着いたときには、もう本当に出発時間の間近であり、とにかく走った。その時に、製紙会社の社長宅に持った予備の額縁ひとつを、T君とFのいるホテルに忘れてしまったことに今更気が付いたが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。兎に角、飛行機に間に合えば良い。ただその一心で、人混みでごった返すロビーを、駒回しの駒のようにクルクルと軽快に抜いて走った。

 

 と、突然、人混みの波間にポッと、ちょこんとしゃがみ込んでいる女の子の背中が現れた。危うく、私の足が彼女の背にぶつかりそうになったが、寸前でブレーキを効かせたが、片足で踏ん張ったせいで、つんのめ返りそうになった。
「危なかった!ごめんね!」そう言って、また走り出そうとしたが、どうやら彼女は泣いているらしかった。両手で瞼を擦っており、頬も耳も、真っ赤っかに、思えば彼女の洋服と同じような、紅色に染まっていた。

 

 迷子だ。すぐに直感したが、それよりも当然、私は搭乗口を目指さねばならない故に構っていられなかったが、迷子の彼女は、私の両眼を凝視したまま、うるうると大きな黒目を揺らしていた。

「どうしたんだい?!お母さんはどこに?はぐれたのかい?!」やや語気を強めに、いや、もしかしたらもうすぐそこに、彼女の親が、彼女を探し歩いているのではないのかと、そんな期待も半分に、私は少し大きめの声で、彼女の親にも届くように問い掛けた。が、そんな私の思いも裏腹に、彼女は意外な反応を見せたのである。

 

 今度は、なんて可愛げが溢れるかのような笑顔を見せたのだ。持ち上がった丸いほっぺに押し出されるように、ぽろぽろと大粒の涙が頬を転げ落ちた。なぜ、彼女が笑ったのか分からなかったが、笑っているのなら大丈夫だろうと、なんの根拠もない安心感を、一瞬だけ私は抱いた。

「到着ロビー・・・。」と彼女は呟いた。「到着ロビー?ここは出発ロビーじゃないか。到着ロビーはこの下の階だよ。」

 年齢は5~6歳。小学校低学年ほどの少女である。この混雑の中、放っておくことはできないが、私にだって用事がある。なんとしても、この便で帰らねばならない理由もある。人は大勢いる。彼女を助けてくれる人は私だけでなく、いくらだってこの場には居るのだ。

「いいかい。到着ロビーはこの下の階だ。この先にある階段を。ほら、そこの階段を下に降りるのだよ。いいかい?」

 こう言うと、彼女は笑顔から、不安げに表情を曇らせた。が、時間の迫っている私に、彼女の気持ちや状況に責任をもってやることなど、もうどうでもよくなっていた。
「もう一回言うよ!到着ロビーへは、この先の階段を下に降りるだけで良いんだ。分かるね!?」

 そう言い放って、私はまた駆け出した。しっかりと指を差して方向も示した。私がやってあげられることはここまでだ。冗談じゃあない。私だって、泣きたいくらいに飛行機に間に合いたいのだ。

 しかし、ただ一点だけ。最後の「分かるね?」と彼女にかけたその言葉に、私は自分の中にもあった、無責任さを痛感してしまった。

 

 気が付けば、私は少女の手を引いて、到着ロビーに居た。

 と、急に彼女は遠くの、人混みよりも遠くの方に手を振って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。私には一体、どこの誰に向かって手を振っているのか察しもつかなかったが、彼女のおかっぱ頭が、私の前腕あたりでフサフサとバウンドしているのに、何だか可笑しくなってしまった。

 パッと私の手から離れると、くるりと私の方に振り返り「ありがとうございました。どうかお気を付けてご帰宅ください。」と、深々とおかっぱ頭を下げて、とても笑顔で人混みの中に、颯爽と消えて行ってしまったのである。

 

 そして私はまた大慌てで出発ロビーへ激走し、手荷物検査場へ飛び込んで、その場に居た空港係員に声を掛けたが、返ってきた言葉は案の定、無情なものだったのである。

 

 にしてもあの子、子供のくせに、やけに丁寧なお礼を貰って感心していた私であったが、とうとう飛行機に乗り遅れてしまった現実に、どうにも気持ちのやり場がなく、ただただ困り果てていた。すると、さっき声を掛けた空港係員が私に寄って来た。

「西日本航空であれば、もしかするとキャンセル待ちが出ているかも知れません。お問い合わせしてみてはいかがでしょうか?」
「その手があったか!どうもありがとう!!」私は疲れを忘れて、西日本航空のカウンターまでひた走った。

 

 金は余計に掛かったが、ラッキーだった。迷子の子の面倒を見たことを、神様が労ってくれたのだろうか。いや、そもそも少女を無視していたら、なんとか予定の飛行機には間に合っていたはずだが。そんなくだらない事を考える余裕がようやく持てた頃、私は西日本航空機の座席でシートベルトを掛けていた。

 もう夜更けに入りかけている時間なのに、飛行機の窓の外に見える薄ら暗い雲が、まだ少しだけ夕日の名残なのか、紫色に縁取られていた。

 

 細かい話になってしまうが、どうしてあの空港の迷い子は、私が「帰る」ということが分かったのだろうか。「出掛ける」という見方をされなかったのには、なにか理由があったのだろうか。そもそも、あの空港の迷い子は、誰とはぐれたのだろうか。到着ロビーで誰と再会したのだろうか。

 彼女からは「到着ロビー」という言葉しか聞いておらず、彼女が今現在、ちゃんと無事でいるのかどうかと、急に不安に襲われた。さすがにこの時ばかりは、迷い無く機内のトイレに駆け込んだ。

 

 

~ 5 ~

 当初の予定よりも2時間近く遅れてはいたが、ようやく伊丹空港に到着することができた。これならば、車を飛ばせば今日中に実家へ着くことが可能だろう。やけに伊丹空港のロビーは人々で騒がしかったが、私は車が停めてある駐車場へ一目散だった。

 

 空港から家路に至るときに必ず聞く、ショパンの楽曲集のテープを回しながら、東京での出来事を思い返しつつ、熱帯夜、高速道路のオレンジ色の外灯を何度もくぐっていた。

 

 実家に着く頃には、もう日付が変わりそうな時刻ではあったが、明日の祖母の法事にも間に合うように、なんとか無事に帰ることができた。実家前には、既に親戚の車が数台、砂利道に無雑作に散らばっており、私の到着など知るよしもないような、親戚一同、久しぶりの再会の宴会でもしているのか、熱気すら感じられる煌々とした黄色い光が、すぐそこの窓から放たれていた。

 

「ただいま、遅くなりました!」玄関にある靴の量に戸惑いつつ、私はなるべく元気に大声を張った。

 奥の居間が、一瞬静まり返ったと思ったのも束の間。ドドドドドっと、廊下を母が走って来た。後から思うと、あんなに全力疾走をしている母を見たのは、私が小学生だったころ、塾をサボって公園にいるところを母に見つかり、山姥の様な鬼の形相で、逃げる私を追いかけて来た。あれ以来な気がしたが、それよりも、このときの母は山姥ではなく、今にも泣き出しそうな、迷い子が母親を見つけたときのような、そんな顔をしていた。まぁ、それはそれで不気味だったのだが。

 

「お兄ちゃん(私には妹がいるため、子供のころからこう呼ばれている)!!無事やったんか!!」母が私の両腕をガッシリと掴むと、その握力は相当なものであり、私は何がなんだか分からず「はぁ?どないしたん。」と返事をするころには、母の後ろから、おびただしく親戚たちもドヤドヤと押しかけて来た。

「良かった良かった!!無事やったんかいな!!」「あぁほんまに、肝冷やしたわぁ!」と、次から次へと私に安堵の言葉を投げかけてくるのだが、私は更に何がなんだか困惑をする一方だったが、母が本当に泣き出したのには、私も、いよいよ尋常ではない事態がなにかあったのだろうと予感ができた。

「おかん!一体なにがあったん??」
「なんもかんも、お兄ちゃんが乗っとるはずの飛行機が落っこちたんよ!!今もテレビでずっとやっとる!!」
「いやぁ皆でえらいこっちゃ思うて、今の今まで生きた心地せぇへんかったよ。」と、続けざまに叔父さんも私の肩をさすりながら、乱れた息を整えるように言った。

 

 私が搭乗予定だった、東日本航空の321便がレーダーから消え、どこかの山に墜落した模様という、臨時ニュースがテレビで繰り返し流れていた。この墜落事故は、500名以上の尊い命が犠牲になる、空前の大惨事となった。

 

 その晩は、親戚たちと酒を呑んでも呑んでも酔うことはできず、ただただ足がガタガタと震えていたことを憶えている。

 

 私は様々な奇遇から、この旅客機の搭乗を回避したことで、命を生き長らえたということになる。もし、搭乗時間に間に合っていたら。もし、全てが私の計画通り、スムーズにことが運ばれていたならば。私は、もうこの世に居なかったのかも知れない。

 そんな風に冷静に思い返せるようになったのは、ごく最近の話である。

 

 明くる日、無事に祖母の法事を済ませることができた。実家前の砂利道から、ちらほら車が減っていくのを、私は縁側で、気が抜けたような顔をして眺めていたに違いない。遠く、山の向こうには大きな入道雲が背を伸ばしていた。

 ギラギラした太陽の光が、砂利道を白つかせている。けたたましい蝉の鳴き声が、私の鼓膜には都会の喧噪のように響いていたが、それが妙に心地良かった。

 

「あらまた随分と古い写真。こんなん初めてみたわ。」

 母はそこの居間で、親戚の叔母が持って来た、やけに古い紺色の布で作られた、薄いアルバムをめくっていた。なんの気無しに、私は団扇を片手に覗き込んで見た。

 日の光に当ててしまうと、今にも消え入ってしまいそうな、相当年季の入った白黒の写真だった。所々白く擦れていたり、黄色い染みが点々と落ちていたが、そこには、古風な日本家屋の玄関前に、数人が家族写真のように並んで写っていた。

 

 母は「これは私のおっかあよ。お爺さんもお婆さん、まだ若いわぁ。おっかあも、こんな可愛い時代があったんね!」

「あら、お兄ちゃん。これこれ。これお婆ちゃんの子供のころの写真よ。めっちゃ古い写真。こんなんよく残っとったわ。」と母は、後ろにいる私に向かって、写真に写る少女を指差していた。お婆ちゃんって子供のころ、こんな子だったのか。と、眼を細めて、よくよく私はその写真の祖母に目を凝らしてみた。

 

「あれ?」

 私の疑問符に、母と親戚の叔母が振り返った。

 そこには、恐らく眼をまん丸くしていて、呆然としている私が突っ立っていただろう。

 

 その古びた写真に写っている、祖母の子供のころのその姿は、昨晩、空港で出会った迷い子そのものであったからだ。

 

 がらんどうになった砂利道。縁側でうなだれていた私は、ヒグラシの鳴き声がなんだか嬉しくて、ポタポタと、いつまでも落涙が止まなかった。

 

 

おわり

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

この物語はフィクションであり、実在の人物・企業とは一切関係ありません

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

2022年3月15日公開

© 2022 紀 聡似

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