そのやさしい子どもは駐輪場でカマキリを見つけた。
虫は苦手だった。アパートの二階から階段を降りていると、手すりの間に糸を張る蜘蛛や近づくと飛び回る蛾に悩まされたことがたびたびあったからだ。
蜘蛛の糸がわずかな抵抗を示してからぷつりと切れ、指や腕にからみつくときの不快感や、階段の陰から飛び出してきた蛾が、頬に鱗粉をこすりつけてきたときのおぞましさが、その姿を見るたびに生々しく思い出された。虫の増える秋の夕暮れは、得意とするところではなかった。
先ほどもまた虫に怯えながら降りてきた子どもは、しかしカマキリには自ら手を伸ばした。嫌いな虫は多いが、カマキリは例外だった。蜘蛛や蛾のように思いがけず暴れるということがなかったからだ。
子どもはカマキリの胴の細くなっているところを後ろからやさしくつかみ、轢かれないように駐輪場の入り口から近くの木の幹へ移した。
自転車を押して駐輪場の外に出ると、肌寒さを感じた。漕ぎ出すと冷たい風が耳をかすめた。子どもはやさしかったから、頭痛がおさまらないという母のために、ドラッグストアに向かい、頭痛薬を買おうと思っていた。
ドラッグストアは自転車で五分もかからない。今月のお小遣いはまだ二千円ほど残っているし、いつも母が買う薬の名前も教えてもらった。子どもは快調に漕ぎ進めた。薄暗くなってきたのでライトをつけた。薬の名前を呪文のように何度も唱え、首からさげた財布を祈るように片手で抱いた。自転車は信号にさしかかっていた。
薄闇を、ヘッドライトもつけないで右折してくる車が見えた。見えた、と思ったとき子どもは潰れた自分を想像した。
クラクションが耳をつんざいた。車はなんとか止まって、ドラマで聞いたような、ありきたりな怒声を浴びせかけた運転手は、グッとハンドルを切って、急激にスピードを上げ去っていった。倒れかけた自転車を起こして、子どもは再びペダルを踏んだ。
結局のところ、ドラッグストアに目的の頭痛薬はなかった。店内を何度か回ってみたり、棚の奥をのぞき込んでみたり、となりの薬を手に取ってみたりしてみたものの、望んだ薬は手に入らなかった。
何度も往復する子どもを周りの客は不審がった。見るからに疎ましそうな顔をする人もいた。悔しさと情けなさを自覚すると、鼻の奥がツンとしてきた。
子どもは何も買えずに店を出た。外はもうほとんど夜になろうとしていた。寒さによるものか、悔しさによるものかわからない震える足で自転車にまたがった。子どもは獲物を捕まえそこねた弱い親鳥のような心持ちだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
一漕ぎごとに言葉が溢れた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
対向車のヘッドライトの強い光が目を眩ませ、すぐそばを追い抜かす際の気流の冷たさに身を切られ、鼻水をたらしながらアパートの見えるところまで帰ってきた。子どもは感覚を刺激するものすべてに怯えていた。
少し坂になっている駐輪場の入り口までの道を、力を込めて登った。一瞬、黄緑色の虫の姿がライトに照らされた。
子どもはブレーキをかけた。クシャリと乾いた音が聞こえた。鎌を胸元に引き寄せ、羽根を衣のように広げたカマキリの姿が脳裏に焼きついていた。
ゆっくりと自転車を前進させると、タイヤの下から、潰れたカマキリが出てきた。アスファルトに張り付いていた透明な羽根が、タイヤの回転にそってぺりぺりと音をたてて剥がれた。
そして、ほとんど黒に近い茶色をした内臓が眼下にあらわれた。車輪はカマキリを腰のあたりから轢いたらしく、上半身は潰れることなく、鎌は胸の前に構えられたままだった。
やさしい子どもは木の幹に逃がしたときと同じところを右手で掴み、ふさがっていないもう片方の手で器用に自転車を止め、鍵を抜いて階段へ向かう。
蛾を左手で払いのけ、うずくまる蜘蛛を追っ払う。子どもは戦隊ものの武器を手に入れてしまったような気持ちで階段を駆け上がる。
もう治らない母の頭痛が治りますように、と願うカマキリの死骸を捧げるため、子どもは自宅のドアに手を伸ばした。
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