僕はむつきに殺意をいだいた。日本でいとこ婚は法律上みとめられているとはいえ、そんなジョークおもしろくもなんともない。
僕はむつきをじっとにらんだ。ひたいから血をながしているせいで彼女の顔はその不整合さがよりきわ立っていた。鼻毛も出てた。それゆえ僕は癒しをもとめて空に目をやった。すると空にはまた未確認飛行物体が浮遊していた。なんだかよけいに腹がたった。
「つまらないジョークは顔とその眼鏡だけでじゅうぶんだ、むつき。それに煩悩もまだ半分のこってる」
そう言って僕はむつきの手をひっぱり階段をおりた。僕がむつきの手をとった理由は彼女の誇りを傷つけたかったのと、そしてもうしゃべりたくなかったからさ。
むつきは僕の手をはらいのけようとしなかった。そのうえ彼女はおしだまったままだった。そんなむつきの柄にもないおとなしい態度がまたしゃくにさわった。だから僕は彼女の手を強くにぎったまま思わず想ったことを口にださずにいられなくなった。階段をおりきるまえに言いおえたいとなぜだかそう思ったから早口で僕は言った。
「泣いていいんだぞ、むつき。『涙こそ目の本質であり視覚ではない』と哲学者が言ってたって以前きみが言ってた。君の目のためにもそんな眼鏡なんかかけてないでひとつぶでも涙をながしてあげたらどうだい? 君らしく本質を裏返さずに。〈むつきの記憶〉にのこる涙をさ。美肌になって気づいたろ? 恋人ができないのはニキビのせいじゃなかったって。なんにせよ痛手はその原型をとどめないくらいぼろぼろになるまでひきずりまわさなきゃもったいないよ。あ、発言するなら正論を吐いて。正論のおしりのほうが着火しやすい。言葉の光度なんて気にしなくていい。なぜなら言葉の光の濃淡はその重要な影の価値になんら影響をおよぼさないから。現実逃避する人間の走力は尋常じゃないとはいえ、包装紙が気にいらないからプレゼント自体を変更するのもほどほどにすべき。休符の奏法は君の無意識が考えてくれるし、その無意識が導きだした答えが君の宝箱にはいるのかゴミ箱にはいるのか、それは君のその宝箱かゴミ箱にきくよりほかない。概していえばむつき、目に見えるものがすべてなんだよ」
僕がおわりかぎかっこをつけるとむつきは僕の手をふりほどいた。で、彼女は言った。
「目ん玉よこせ」
僕はそのとき生まれてはじめてむつきと目が合った気がしたなあ。それからむつきはいくども転倒しながら男坂を駆け上がって行った。僕はそんな彼女のうしろすがたをながめながら男前だなあと傾斜を深めさせられたのと同時に、こいつ死ぬな、と直感的にそう思った。彼女が死んだのはそれから半月後のことさ。
むつきの葬儀の日のことを思い出したいんだけどどういうわけか思い出せないんだよね。思い出したいという引力に従ってその記憶に近づいていくと斥力によってはね返されてしまうというか。ともあれ、むつきの鼻毛を見れなくなってしまったのは正直さみしい。自分の鼻毛を見るたびにむつきのことを思い出して切なくなるし(いろんな意味で)、その鼻毛をカットするたびに彼女との思い出までカットしているようで気がとがめる。まあそれでも僕は鼻毛を切る。
オカルト好きの読者はもう気づいただろうけど、夜な夜な高尾山にあらわれる眼鏡をかけたゴーストっておそらくむつきのことさ。噂によるとそのゴーストは「目ーんー玉ーよーこーせー」ってさけびながら襲ってきて目玉をくり抜いてしまうらしいね。うん、むつきでまちがいないね。そのゴーストの噂がたちはじめたのは彼女が死んだ時期とかさなるし。なんだって? なぜむつきが目玉をほしがるのかだって? それはね、彼女が明暗を分けられない娘だったからさ、いやメタファーじゃなくって。そう、むつきは生まれつき全盲だった。
男坂を駆け上がってったむつきをほったらかして僕は帰った。全盲のむつきをひとりにして僕がさっさと帰ったのは彼女の意思を尊重したからだよ。
むつきの家に帰ってきて僕はうづきおばさんに頭に包帯を巻いてもらった。けがのことやむつきのことをうづきおばさんは僕にいっさい訊いてこなかった。ただ彼女はへんなことを言った。「亜男の夢に出たときのことを私は憶えてる」って。
僕がソファーで横になりうづきおばさんが出てこなかった夢を見て起きたときもう日はおちてて部屋は暗かった。オープンキッチンの照明だけ点いてた。キッチンには眼鏡をかけたうづきおばさんがいて、彼女は立って本を読んでいた。よーく見るとうづきおばさんのかけてる眼鏡はティルト・シフト・グラスで、じつのところ僕も寝てるまに(愉快なことに)ティルト・シフト・グラスをかけさせられていた。でおまけにサイドテーブルにあるシャンプーハットをかぶった三十二面体の地球儀もティルト・シフト・グラスをかけさせられていた。
ソファーから僕はうづきおばさんに「むつきは帰ってきた?」と尋ねた。すると彼女は僕にこう問い返したんだ。
「むつき? 誰それ?」
ハハハ。うづきおばさんのバッドジョークさ。
ティルト・シフト・グラス〈終〉
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