さて、無言で歩きだしたむつきに僕は幻滅したんだ。「コケると痛い舗装されたルートをあえて選んだ」ってむつきが言ってくれたら僕は彼女の足を何度もひっかけてあげるつもりだったのに。
「次はちゃんとカメラを回してるときにコケるんだぞ。っていうか、もっとコケたいならなんか手伝おっか?」と僕はむつきにそう言葉をかけた。
「ひとりで転べるから大丈夫」と答えたむつき。「あともうカメラはいいから。亜男はしゃべりつづけるだけでいいから」
しゃべりつづける。それがどれだけ大変なことかむつきはわかっていないようだった。仮にこのとき僕が頭を怪我してなくて、それのみか歩き疲れてなかったとしてもしゃべりつづけるのは面倒だ。うん、面倒だ。
とはいうものの「亜男はしゃべりつづけるだけでいい」というむつきのその言葉を僕はいっさい悪く思わなかった。悪く思えないところがおもしろくなかった。
僕とむつきはペルハム・グレンヴィル・ウッドハウスの文章みたいに小気味好く山をくだっていった。その日の高尾山上空は小気味悪いほどよく晴れていた。僕はそんな空に目をやったり、崖っぷちでななめに立つ大木に目をやったり、おなじく崖っぷちでまっすぐ立つ電柱に目をやったり、その電柱と電柱のあいだの虚空にまとわりついてのびる黒い蔦に目をやったり、でそれからむつきに目をやって彼女にしゃべりかけたりとくだりでも現代人らしく目を回したよ四角四面に。
「眼鏡はずしたらどうだい、むつき。高尾山を満喫しなきゃ。ほら見てみなよあの木、えも言われぬ生命力を感じないかい?」と言って僕は電柱をゆびさした。そうそう、むつきがかけてたティルト・シフト・グラスは彼女のその突起した前頭部のおかげで無傷だったんだ。僕はその傷ひとつないティルト・シフト・グラスに霊的なものを感じてなんだかこわかった。
「満喫してるよ。ちゃんと自分の力だけで転んでるし」とむつきは言った。「でもまあいずれにせよ今の私に意味を持たせてるのは山ではなくティルト・シフト・グラスだけど」
「ずるいな、それは」と僕は言った。とはいえそう言いながらもティルト・シフト・グラスをかけてしゃべるだけでその言葉の体幹を不安定にさせるむつきの卑劣さに僕はすっかり感心しちゃってた。
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