「あらゆる脱獄は食い逃げである」
20世紀後半から21世紀の初頭にかけて、芸能と犯罪と空手の評論において他の追随を許さぬブログを書き続けた男がいた。そのことはさておいても成立する一般的な原理として、あらゆる脱獄は食い逃げである。刑法というものが飲食店のメニューのようなものであるならば、死や懲役という正当な対価を支払わずに脱獄する行為は、社会の根幹を揺るがす食い逃げに他ならない。とある連続脱獄魔は「パブリックエネミーNo.1」と呼ばれ、その首席は長らく明け渡されることがなかった。脱獄とは、原理的に最悪のメタ犯罪だったのである。
しかし、〈イベント〉以後の世界では全ての序列が変動した。関東ヤンキー大学の最深部に位置する大学刑務所には、〈12のゼロ〉と呼ばれる12人の教授が収容されている。懲役1兆年。定住革命以後の人類史を一言で表現するなら籠城1万年だが、懲役1兆年は文字通りに桁違いの超越史論的刑罰である。その量刑には、「〈イベント〉を絶対に許さない」という単一世界派の総意が込められていた。
「〈教授〉に〈会〉いに〈来〉た」
「所定の形式で申告してください」
窓口で雑に面会を申し入れた乱菊実写謎舞踏に対して、喪服姿の刑務官は冷たい声で応じた。
「てめ、〈規律訓練型権力〉も〈空気必読〉にしとけよ」
「所定の形式で申告してください」
実写謎舞踏は、床に唾を吐いてから振り向き、俺の隣にいるゴータマ・ゴーザに眼をやった。
「〈まなざし〉りゃ〈存在了解〉んだろ。〈超存在論的転回〉すぎる〈超存在〉なんだよ、この〈異人〉わ。〈オヤジ〉以外で〈話〉になる奴がいんなら〈連〉れてこいよ」
「所定の形式で申告してください」
「ハイハイ。ヤンキー人文学研究科博士課程所属の乱菊実写謎舞踏でーす。脅威水準未定の〈超存在〉との緊急面通のためS級知性囚No.09乱菊魔法少女深淵教授の〈閲覧〉願いまうす~~」
「少々お待ちください」
刑務官は、手元の端末をいじりはじめた。
乱菊実写謎舞踏は中空に大きく息をはき、こちらにまた眼をやった。俺は斜め下に眼をそらしたが、この刑務所内の空間は、どこを見ても落ち着かない内装で満ちている。
監視デバイス。制圧設備。篆書の呪符や梵字の卒塔婆。辺りを徘徊するケルティッシュ生命体。3学部12研究科の多様な教員たちを多様に封印するためのあらゆる手段が詰め込まれている。そして、〈12のゼロ〉の脱獄を阻止するためには、この措置ですら充分とは言えない。必要と判断されれば、この刑務所自体が戦略級発勁を叩き込まれて消滅する可能性もある。関東ヤンキー大学の中でも、最も危険な空間だ。
「エンポリオ、具合はどうだ?」
「わりと最速で進行しているみたいな感じです」
俺は、ゴーザの質問に対して曖昧に答えた。もちろんテキトーだし、そもそも「世界のクリア」というゴーザの目的が何を意味しているのかも俺は知らない。しかし、そのあたりもひっくるめて、この世界と異界について最も詳しい賢者たち――〈12のゼロ〉の内の1人との面会が、まもなく実現しようとしている。
「詳しき者との面会、能うか?」
「たぶん、いけます」
修士による閲覧申請が却下されることは、基本的に無いと聞く。
「承認されました」刑務官が乱菊実写謎舞踏に告げた。「当該超存在の暫定脅威水準を勘案した結果、当該書庫へは刑務官8人が同行することになりました。平素とは異なる対応ですが、例外的措置として御承知おきください」
「8人? 〈余裕〉すぎるだろ。俺1人で〈毎年黙祷〉しちゃうよ?」
「ゴキゲンだな、実写謎舞踏」
⁉
面会窓口の奥にある詰所から、新手の刑務官が出てきた。黒いスーツは定法通りだが、両手に漆黒のOFGが追加されている。見るからに、総合憑物落としの達人めいたスタイルだ。
乱菊実写謎舞踏は、一瞬だけ闘気を発した。
「……〈ムラさん〉すか。ちっす」
「おう。結局、人文学研究科が一番乗りだったな」
「まあ。〈ウチ〉の〈特攻〉は、〈仕事〉の速さがどこより強いんで」
たしかに、ここへ到るまでの各所で、乱菊研究室の特攻隊は他のヤンキーを暴力的に排除しながら道――刑務所までの最短ルートを作っていた。
「ほどほどにしとけよ。生命学研究科がおとなしくなったら、人文学研究科も何人か収容むだけの予算は通るからな」
「あいかわらず、〈二正面作戦〉は〈禁忌〉すか」
「まあな」
「つか、なんで今日はムラさん? もしかして、無事〈左遷〉な感じっすか?」
「新人教育中なんだよ――おい、行くぞ」
詰所から、さらに7人の刑務官がぞろぞろと出てきて横一直線に整列した。恐る恐るといった表情で、こちらをうかがっている。
「ムラさんと7人ぐれーの〈新人〉ですか。やっぱり〈余裕〉っすね♡」
「おいおい、公的機関での発言には気をつけろよ。大学刑務所じゃあ、面会人の1人や2人が消えちまうことくらい、何も珍しくはないんだからな♡」
輕く火花を散らし合ってから、刑務官――ムラさんと呼ばれた男は、俺たちを〈書庫〉へと導いた。
「閲覧シーケンスに入ります」
「閲覧シーケンスに入ります」
「第一圏開錠!」
「第一圏開錠!」
新人刑務官2人は、巨大なゲートの左右に分かれて同時に鍵をひねった。
俺とゴーザと乱菊実写謎舞踏は、刑務官たちに囲まれて、ゲートの奥へと足を踏み入れた。呪具とデバイスと名状しがたい生命体の密度が、さらに増した。3段積みの雑居房に放りこまれている学部レベルの短期囚たちが、歩く俺たちをじっと見つめている。雑居棟を抜けた先にあるエレベータ――〈フマニタス・ドグマ〉と名付けられている超常エレベータは、最下層まで直行はせず、1フロアごとに厳重なチェックを受けた。
「第九圏開錠!」
「第九圏開錠!」
「第九圏開錠!」
「第九圏開錠!」
最下層に到着すると、刑務官4人は昇降籠の左右の壁面から端末を引き出し、競い合うような勢いでキーボードを叩きはじめた。仮想地獄で生成された地獄学的数値の群れが二重所属ハッシュ関数の〈門〉を抜けて異界へと流出していく。そしてその対価――古の銀貨30枚分に相当する暗黒通貨が採掘された瞬間、〈ドグマ〉の扉が開いた。
⁉
扉の向こう――大学刑務所最下層にある牢獄は氷の世界だった。蒼い。白い。寒さは感じられないが、そもそも知覚の対象がほとんど無いように感じられる。自分が今、酸素を吸えているのかどうかすらもわからない。無数のルートをたどる帰納的演繹的思考を悉皆く凍結させてしまう絶望的な氷の大山脈が、かぼそい昇降路を取り囲んでいた。氷は何も映さない。光は何も意味を持たない。あらゆる象徴と想像を許容しない氷の世界には、絶対零度のエクリチュールだけが刻まれている。ヤンキー人文学研究科が日夜蒐集している超絶の学識群が運搬されて行き着く〈奥の院〉――乱菊魔法少女深淵の独房空間だった。
「おう。ちっと待っとれ」
声が響いた。どこから聴こえてくるのか。耳元でささやかれているようにも聴こえる。
⁉
彼方の氷壁に穿たれた窪みの中に、1人の男が座っていた。距離はあるが、その姿は真冬の星のように明瞭と見える。存在がでかいからだろうか。
白髪まじりの癖毛。口髭と短い顎髭。本部以蔵や刈田升三を連想させる風貌だ。出生時から投獄に到るまで、数多のバージョンの顔写真とコラ画像が、ネット上で今も増殖している。ヤンキー人文学研究科教授、乱菊魔法少女深淵。〈イベント〉を引き起こし、この世と異界を交配させた最悪の交配師。俺は人類史上最悪の賢者と対面していた。
"第6話-M 升田幸三に激似の乱菊教授"へのコメント 0件
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