浅草橋・銀杏岡八幡宮の朝は早く、夜明け早々からもう作務衣を着た若い衆と巫女姿の娘が箒を入れ水を撒き、境内中を清めて回っています。実はこれは八幡神社に併設の此葉稲荷の神様で、兄のカンちゃんと妹のキンちゃんです。世のコロナ禍で初詣や七五三などのイベントは軒並み中止だし、人出が減ってお賽銭は激減するしで、神社の経営は火の車。アルバイトの巫女さんさえ来てもらえない状況とあって、仕方なくカンちゃんとキンちゃんが自ら神社の世話をしているという次第です。
本殿の前を掃除していると主神の八幡様の大いびきが聞こえてきます。
「ちぇっ、これじゃまたお昼まで起きてこないね。こっちの苦労も知らないでいい気なもんだよ」
「こういう時は酒でも飲んで寝て過ごすに限るってさ。寝てられる神はいいわよね」
そこへ末の弟のコンちゃんが、目をこすりながらのそのそやって来ました。
「こらっ、コンちゃんたらまた寝坊して。その恰好は何に化けてるの?」
「一休さんだよ。それっぽいでしょ?」
「ここは神社だよ。小坊主に化けてどうするんだよ」
などとやりあっていると、参道からカラコロと下駄の音が聞こえてきます。早朝から連れ立ってやってきたのは三人の若いお相撲さんです。お賽銭を投げ入れ鈴を鳴らし、揃って柏手を打つとしばし瞑目して一心に祈っております。これまた揃いの「明石浦」の波模様の浴衣の襟元は清々しく、ちょんまげに結った頭から鬢付油の香りが辺りにぷうんと漂います。
カン・キン・コンの心眼には、お相撲さんの願いが手に取るように見えております。
「今日、勝てますように。勝ち越せますように。四股名を変えてもらえますように」
勝てるようにと祈るのはともかく、四股名を変えたいとはどういうことかと、三人の力士にそれとなく近づいて声をかけました。
「朝からお参りご苦労様です。これはお供えのお菓子ですけどよかったらどうぞ」
「ごっちゃんです!」
立ち話をしているうちにすっかり打ち解けた力士たちは、参拝に来た理由を明かしました。彼らはすぐそばの明石浦部屋に所属している力士で、この部屋は力士の四股名に「海」を付けるのが代々のしきたりだそうです。
「それはいいんですけど、何も考えないで本名に海だけ付けるんで困ります。僕は海部って名字なんですけど、海部海なんて海がダブってて変だし、「貝風味」ってふりかけみたいだって笑われるんです」
「お前はまだいいよ。俺は長瀬で長瀬海だけど、いつも「流せ、海へ」ってからかわれるんだよ」
「こいつらの悩みなんて大したことありません。自分は新地って名字なんですけど、新地海ならともかく新地ノ海って四股名にされて、「あら、血の海」ってみんなに笑われます」
親方に四股名を変えてほしいとお願いしたら、今場所勝ち越せば考えてやると言われ、奮起して頑張ったけれど、千秋楽の今日で三勝三敗の五分。何としても勝ち越したいと神頼みにやって来たというわけ。
「ここの八幡様は金次第で霊験あらたかだって聞いたので、みんなでお小遣い出し合ってお賽銭を用意したんです。勝ち越せたらまたお礼参りに来ます」
なるほど、賽銭箱を見れば大枚一万円が入っております。
「そうそう、お稲荷さんにもお参りしなきゃ」
力士一同、稲荷神社へと向かうと、懐から包み紙を取り出しまして、
「お供え物です。部屋の隣のお豆腐屋さんで今揚げてもらった油揚げです」
さあ、カン・キン・コンの三柱は大喜び。きっと願いが叶いますよ、と力士たちを激励すると、早速、油揚げを分け合って食べました。
「いじらしいじゃないか。あの子たちを勝たせてやろうよ」
「あの子たち、出世して関取になれば上得意になるわよ。応援しましょ」
「そしたら、油揚げ毎日持ってきてくれるかな」
「相撲は朝八時くらいからだったよね。両国の国技館はすぐそこだから、八幡様が起きる前にみんなで行って来ようか」
「そうね。国技館の豊国稲荷は親戚だから加勢してくれるかもしれない。ついでに近所のお稲荷さんみんなに声をかけて行こうか。たまには相撲見物しようよ」
「わーい、遠足みたい」
言うやいなや、すでに国技館の前にいます。神様にとっては浅草橋駅や隅田川などは軽々一跨ぎです。すでにキンちゃんの呼びかけに地獄耳を澄ませていた近隣のお稲荷さんたちも続々やってまいります。その顔ぶれたるや、
扇稲荷、草分稲荷、清水扇稲荷、千代田稲荷、七福稲荷、石塚稲荷、加賀美久米森稲荷、篠塚稲荷、揖取稲荷、両国稲荷、川上稲荷、榛稲荷、大久保稲荷、金星稲荷そして国技館内の豊国稲荷……ああ、近所中の神社はもぬけの空。全くもって天下太平であります。
お耳をぴんと立てた大小のお稲荷さんたちが、列をなして正面玄関から入って行く様は大変に壮観ですが、残念ながら凡夫凡胎の人間の目には見えません。折しもコロナ禍で客席には誰一人座っておらず、たちまち土俵溜まりや桝席はお稲荷さんでいっぱいになりました。アルコール禁止、飲食禁止の貼り紙もなんのその、各自持参したお弁当を広げて飲めや歌えやの大騒ぎです。しかし人間の耳には聞こえないのです。
さて本殿の奥で寝ていた八幡様、二日酔いで喉が渇いて水を求めましたが誰も返事をしません。呼べど叫べど反応なし。不思議に思ってぎょろりと千里眼を凝らすと、東の方向約六百メートルの国技館で、大騒ぎしているお稲荷さんたちが見えました。
「あいつら何やってんだ? 相撲見物かな? わしも行ってみるか」
八幡様、巨体に似合わずひょいと雲を踏んで国技館へひとっ飛び。屋根の上から心眼で中を覗き込むと、正面土俵前に何やら丸いものがキラキラ光っています。神様と言うのは鏡やら柱やらが大好きです。八幡様もついつい真っ直ぐにその光るものの元へ降りて行きましたところ、それは土俵下に座った審判長のつるつるのハゲ頭でした。今更戻るわけにも行かず、まあいいやとそのまま憑りついてしまいました。
「あっ、八幡様だ」
正面溜まり席に陣取ったカン・キン・コンは、突然の八幡様のご降臨にちょっと焦ります。
「こら、お前ら、無断で神社を抜け出しおって」
「実はかくかくしかじか」
説明するまでもなく、審判席にでんと腰を下ろしたまま八幡様はすっかり相撲見物を決め込んでおります。まあ審判長を務めてくれる以上、万が一にも負けはないでしょう。
いよいよ海部海の登場です。カンちゃん、加勢しようとすーっと乗り移りました。その昔、少年稲荷相撲大会で入賞したことがあるからと自信満々だったのですが、土俵に上がった途端に不安になりました。
「そういや相撲大会は五百年も前だっけ。相撲の取り方なんか忘れてしまったよ」
なんて言ってるうちに立合いです。えーい、ままよと適当に立つと、たちまち回しを取られて絶体絶命の体勢です。
「しまった。安請け合いしなきゃよかった。負けたらかっこ悪いなあ」
などとぶつぶつ呟くカンちゃんは、人には見えませんが狐のお口です。口の周りの硬いおひげがもぞもぞ動いて、相手力士の鼻の穴に入ったからたまりません。ハックショーン、と特大のくしゃみをしたはずみで、相手は自分から崩れ落ちてしまいました。勝ちを拾ったカンちゃん、ホッと胸をなでおろして海部海から離れました。海部海は何が何だか分からないものの、勝ち越したことが分かってとにもかくにも大喜びです。
さて次は長瀬海の取組。今度はキンちゃんが憑りつきます。キンちゃんは相撲は初めてですが度胸がありますので、見よう見まねで四股を踏むと行司の軍配に合わせて思い切り相手にぶつかりました。うまい具合に右の下手が取れて相手の胸に頭を付けました。そこへ相手力士が長い腕を伸ばして背中越しに上手を取ろうと、はずみでキンちゃんのしっぽを掴んでしまいました。人間の目には見えませんが、回しの横から長いふさふさのしっぽがぴんと立っていたのです。相手力士はしっぽの感触に驚いて一瞬力が抜けました。そこをキンちゃんが猛然と逆襲します。
「よくもしっぽを掴んだな! 乙女のしっぽを掴むとは無礼者め!」
怒りの張り手が顔面に十数発炸裂し、相手は鼻血を吹いてぶっ倒れました。やんややんやの喝采の中、キンちゃんは意気揚々と引き上げました。土俵周りは血だらけです。
「あら、血の海だわ」
そこへ新地の海が登場です。まかしといて、と今度はコンちゃんが乗り移りました。いつも友達と相撲取ってるから簡単だよ、と豪語していたコンちゃんですが、相手の力士が二百キロもある巨漢なのを見て急にビビり始めます。
「げっ、これじゃ潰されちゃうよ」
てなこと言ってるうちに立合いです。怒涛の勢いで突進してくる相手の迫力にコンちゃん、思わず「コーン!」と恐怖の一声。相手はぎょっとして出足が止まります。そこをサッと右にかわしてつんのめったところを横から押しますが、敵もさるもの、土俵際残してこちらに向き直ります。あっという間に回しを取られて土俵際に追い詰められてしまいます。コンちゃん、火事場のバカ力とばかり渾身のうっちゃりをかまし、ほとんど同時に二人もんどりうって土俵下に転がり落ち、八幡様の審判長を直撃しました。
行司はコンちゃんの新地の海に軍配を上げましたが、審判の一人が物言いを付けました。八幡様も審判長として土俵に上がらなければなりませんが、お相撲さん二人にのしかかられて羽織も袴もぐちゃぐちゃです。ほうほうの体でようやく立ち上がると、目の前の土俵の俵の外に微かな跡が残っています。刷毛で履いたような三角形の跡は、足跡ではなくしっぽの跡です。どうやらコンちゃんがうっちゃりを決める際に、しっぽで体を支えた跡のようです。これはまずいと八幡様、とっさにくしゃみをしました。何しろ神様のくしゃみですから、国技館が揺れ砂塵が舞い上がるほどの勢いです。しっぽの跡が消えたのを見届けると、八幡様は何食わぬ顔で土俵に上がって審判衆と共に協議を始めます。
「足が出ていませんでしたか?」
「足なら出ていないよ」
「足跡を確認しましょう」
もちろん足跡はついておらず、軍配通り新地の海の勝ちが決定しました。かくして三人の「海」が付くお相撲さんは揃って勝ち越しとなりました。
一仕事終え懐から一升瓶を取り出して迎え酒を飲む八幡様の耳に、ラジオ放送席のアナウンサーの声が聞こえてきます。
「物言いがつきましたがいい取組でしたね。新地の海のいなしが効きました」
八幡様、すかさず一言。
「いや、いなりが効いた」
お後がよろしいようで。
Fujiki 投稿者 | 2021-07-21 22:08
キンコンカンパート2。スムーズに楽しく読めた。やっぱりうまいなあ。小ネタも効いている。
鈴木沢雉 投稿者 | 2021-07-23 12:16
上手いですねえ。
リズムもいいし各所にネタがちりばめられてるし。
名人の高座を聞いているかのようです。
こんなアイデア、どっから出てくるのでしょうか。
わく 投稿者 | 2021-07-23 19:50
どちらが良いということはないんでしょうが、破滅派の作品は心を尖らせて読む感じのものが多い印象ですが、この作品は心が広がるような印象でした。海をこうやって調理するのかあと感心しました。
千本松由季 投稿者 | 2021-07-24 03:46
そうですね。カンちゃん、キンちゃん、コンちゃんみたいな(子供なのかな?)みたいな可愛いキャラクターもいいですね。お稲荷さんをあげるのが可笑しかったです。私も殺人事件も精神病も自殺未遂もない小説を書いてみたい。子供がちゃんと出て来る作品って書いたことないんですよね。楽しめるんじゃないかと思います。やってみます。
古戯都十全 投稿者 | 2021-07-24 22:39
世が世だけに、カンキンコンに代わりに暴れまわってもらってすっきりしました。
テーマの消化の仕方にも感服しました。
腹八分目にしたいところですが、さらなる続編を期待します。
諏訪靖彦 投稿者 | 2021-07-24 22:54
また登場しましたね、カワイイ三柱。相撲には詳しくないですが四股名は部屋の名前から付けられているのは何となくわかります。新地ノ海は逆に強そうなのでそのままで良いんじゃないのって思いました。相手を血の海にしそうで笑。脱線しますがその昔、相撲の神様と言われる(?)武内宿禰を調べたことがあったのを思い出しました。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2021-07-25 03:07
相撲に限らず、江戸の文化や古典に造詣が深そうにお見受けしました。
シリーズ第一作(?)の方も読ませて頂きましたが、人々の祈願が成就する裏でこうした神々の暗闘や苦労があるというフォーマットはかなり広がりがあって色々な話が書けそうに思います。
わたくしスタバ大好きでほぼ毎日通っておりますが、甘めのドリンクにプラス55円とかで苦いエスプレッソショットを追加するとたいそう風味が良くなるのです。なので欲を言えば、もうほんの少しだけ毒が欲しいと言いますか、そんな気がしたのですが、それではかえって台無しになるかもしれないですね。
小林TKG 投稿者 | 2021-07-25 15:53
海部海なんて一周回ってかっこいいと思うんですけども。長瀬海だって別にいいと思うし、新地海だって別にそこまで変って言う感じもしないんですが。まあ、私がデーモン閣下くらい精通していたら何がダメなのわかるかもしれないんですけど。それにしてもそんな繊細でいいんですかね?力士って。力士であるがゆえに繊細なのかな。どうなんだろう。
諏訪真 投稿者 | 2021-07-25 22:52
八幡様がそもそも海の神なんですよね。
それはそれとてオチがすっきりしてて面白い。このままシリーズで読みたいところです。
200キロの力士と言うと在りし日の小錦や曙を思い出す人です。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-07-26 10:47
お稲荷さんたちがかわいいです。神様もかわいいですね。
お供え物をあげちゃう3人と受け取っちゃうお相撲さんが最高にかわいかったです。
絵本みたいに穏やかな絵が浮かんで、相撲をよく知らない私も楽しめました。
Juan.B 編集者 | 2021-07-26 14:14
第一作に続き、古典知識と暖かい書きぶりに感嘆しつつ、相撲は神事でもあったことを思い出した。神々がいるなら、肩張ることもなく格式だ国技だと言わずこうして楽しく見ているのだろう。最近も色々大変な相撲だが、是非とも力士の皆さんには頑張って欲しい。
春風亭どれみ 投稿者 | 2021-07-26 14:50
おかえり、カンコンキン!
去年、今はもう引退した横綱鶴竜関が遠藤関に腰くだけで負けるなんて珍しい光景がありましたが、ああいう「おや?」みたいな勝負もいなりがちょっと効いていたりするのでしょうか
波野發作 投稿者 | 2021-07-26 20:43
期待通り! やはり大猫さんの海はこれでないとw