僕は彼女の前から逃げ出したことを重ねて謝罪した。そしてたとえ翼が生えてきてももう逃げることはないと摩子に誓ったんだ。ちなみにレストランがホテルの一階にあることも僕は摩子に言われるまで分かってなかった……。
「亜男くん、この世界はフィクションなんじゃないかって思ったことある?」
いきなり摩子はそんなことを僕に訊いたんだ。僕はこう答えたのさ。
「いつも思ってるよ。僕の人生が虚構じゃなかったらあまりに不条理だもの」
「このノンフィクションだと思ってる世界がフィクションなら、その書き手はどんなやつなんだろうとか考えたことは?」
「そこまで考えたことはないね。いま思ったことだけど、仮に僕を書いてるようなやつと知り合う機会があっても、僕はそいつと友だちになりたいと思わないなあ」
「亜男くんの書き手さんだってそう思ってるかもよ。『亜男くんとは友だちになりたいと思わないなあ』って」と言って摩子は笑った。そして続けた。「君の書き手さんは君に嫌われることが正解だと思ってるのかもね。何にせよ、もし亜男くんの人生がフィクションなら大した書き手さんじゃないわ、悪いけど」
「とにかく良心的な書き手に書かれたかったよ、僕は」と言って僕は笑った。
「『とにかく良心的な書き手に書かれたかったよ、僕は――と言って僕は笑った』とタイプした亜男くんの書き手さん」と言って摩子は微笑んだ。摩子のその台詞に僕は大笑いしたんだけど、彼女はふいと真顔になってこう言ったのさ。
「でも、亜男くんを書く意味って何なのかしら?」
「書き手をかばうわけじゃないけど」と僕はあごに手をあてて言った。「それを書き手に尋ねるのは酷だよ。キーボードを叩く手が震えるさまが目に浮かぶもの。ハハハ。登場人物にフォローされたら書き手は終わりだね。ハハハ。意味なんてないと思うよ、きっと。と、いま僕にそう言わせたってことは、やっぱり意味などないってことなんだよ、うん。意味があるならこのかぎかっこ内で僕に何か言わせるはずだし。まあそんなことより、僕は君の書き手のほうが気になるね」
「私に書き手なんていないわ」と摩子は僕をじっと睨んで言った。「この世界がフィクションだなんて私は思わないもん。もしフィクションなら、亜男くんの物語の脇役として私を登場させてほしい。そしてもう二度と私を登場させないでほしい。まあ亜男くんの書き手さんが私を書けるわけないんだけど――あ、気を悪くしないで、亜男くん。私は自由でいたいだけなの」
「君は自由さ。今までもこれからもね。君はチェリーボーイハンターにもなれるし、ピッグ・ラテンをブタの鳴き声に音訳することだってできる。僕だって自由さ。不自由なのは僕を書いてるかもしれない書き手だけだよ。僕を書かなくちゃいけないんだから」
「それじゃあ亜男くん、もう私が君の物語に登場しないよう君は君の書き手さんを説得できる?」
「もちろん。全力で説得するよ。僕の書き手が君を書くなんてそんなこと絶対にあってはいけない。でもさ、もうこれ以上この話を広げるのはよくないんじゃないかな? 君にとっても僕にとっても。僕の書き手にとっても」
「逃げるの?」
「『うん』と書き手は荻堂亜男にそう言わせた」と言って僕は笑った。と、タイプしてる僕。
つづく
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