僕と摩子は腕を組んで彼女が予約してくれたイタリアンレストランへ徒歩で向かった。摩子は背が高いうえにハイヒールを履いていたから、背の低い僕とは目線の高さが三十センチくらい違っていた。彼女の顔を見るなら下あごの角度を四十五度にする必要があったわけだけど、僕はまるで固定されたツイートのようにまっすぐ顔を前に向けたままその角度を変えられなかった。あたりまえさ。ついさっきまで見上げてたQの看板とはわけが違うんだ。そんな問題なんて問題にならない問題だ。何か話をしながら歩いていたと思うのだけれど、どのような会話を交わしたのか皆目思い出せない。うん、すなわちそれは緊張するのも忘れるくらい緊張できたってことだろうね。記憶にあるのはね、摩子の胸が当たっていた僕の左肩が僕の右肩や腕や頬などから妬みを買っていたということだけ。
シェフにも食材たちにも悪いけど、料理を食べた場面の記憶も君たちの背中の羽がそうなってるようにごっそり抜け落ちてる。思い出すことができるのは家庭的な雰囲気のこぢんまりしたイタリアンレストランのテーブルで摩子にこう訊かれた場面からなんだ。
「如何なるプロセスを経て決意に至ったの?」
僕の前には白い平皿があった。その平皿にフォークが載っていたことから推測するに、僕は何かパスタ的なものを食したと思われる。
摩子の質問に答える前に、先に僕はグラスに残っていた液体を飲み干した。ホワイトビールだったよ。それから摩子を見ると、彼女はパスタをフォークに巻きつけながら僕の回答を待っていた。彼女の手にしたそのフォークがパスタに絞め殺されるのを一刻も早く食い止めるべく――というのは冗談で、僕は紙ナプキンでさっと口もとを拭ってこう言ったんだ。何の決意について問いかけられたのかそれは直観的に分かってたよ。
「その決意に至るまでに大したプロセスはなかったんだ。僕はただ君の補助輪になりたいと思ってね。補助輪の補助輪ってやつ。あ、僕のこの思いを重く受け止めないで。君がチェリーボーイを救済するのと同じ人類愛的な思いだから」
僕が人類愛って言葉を用いたのは彼女のハンター人生の足かせになるような「重たい男」と思われたくなかったからなんだ。重たいのは体重だけでじゅうぶん。
「なるほど」と言って微笑んだ摩子。「それじゃあ亜男くんは二つの覚悟をちゃんとクリアしたってわけね」
「二つの覚悟?」
「『チェリーボーイを卒業する』という覚悟と『その覚悟をする』という覚悟。亜男くんはその二つの覚悟をちゃんとクリアしたと私は思っていいんだよね?」
「うん、いいよ」と僕は答えた、速やかに。「さらに言えば『覚悟はしないって覚悟を捨てる覚悟』もクリアしたよ」
摩子はまた微笑した。それから彼女は上を指差してこう言ったのさ。
「部屋も予約したんだけど、昨日みたいに逃げるのならいま逃げて。部屋まで行って逃げられるのはショックだから。ショックで頭がおかしくなって『ピッグ・ラテンをブタの鳴き声に音訳する』という活動をはじめてしまうかも……」
つづく
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