「肯定も否定もしないことを心がけている人って肯定も否定もしないことを肯定している人であると同時に肯定も否定もすることを否定している人だと思うの。つまり、肯定も否定もしないことを心がけている人というのは、肯定も否定もすることを心がけている人ってこと」
摩子はホテルのベッドの上で僕にそう言っていた。
僕は彼女の言っていることがよく分からなかった。
だけど、今なら分かるんだ。
僕は摩子のことを肯定も否定もしていない。
つまり、僕は摩子のことを肯定も否定もしているのだ。
摩子とはホテルで別れてそれから会ってない。でも彼女とはいつかまた会える気がする。そうだなあ、八年後くらいに――。
I
僕と摩子は高校二年生のとき同じクラスだった。けど摩子とは喋ったことはおろか、僕は彼女と喋りたいと思ったことさえなかった。今の僕からじゃ考えられないけれど、高校生までの僕は眼鏡をかけている娘を恋愛の対象から外していた。それは摩子のような美少女も例外ではなかった。僕は子供だったのだ。
僕と摩子は前世で何かあったんじゃないかなあ。いや、これは僕の勝手な想像なんかじゃないんだ。僕らは思わぬ場所で再会したのさ。そんなところで再び巡り会えるなんて普通あり得ないと思う。ベルリンだったのさ、うん。そう、僕と摩子が高校のとき以来の再会を果たした場所それはドイツ――ベルリンだったんだ。
まず僕がなぜドイツにいたのかというと、僕は傷心旅行に来ていた。又吉イエス先生を偲ぶ会で知り合ったマリアちゃんに振られて落ち込んでいたから、僕はアウトバーンをぶっ飛ばしに来ていたのだ。
さて、ここから少しドイツでの出来事を話すよ。ついて来てほしい。
ドイツ現地時間の正午過ぎにベルリン・テーゲル空港に到着した僕は、成田からおよそ十三時間の移動(ヘルシンキを経由した)によってもたらされた時差ぼけのもてなしを受けながら時を移さずベルリン中央駅のレンタカー営業所へ行った。どうしてかって? 予約していたポルシェ・911のキーを受け取りに行ったのさ。そいつでアウトバーンを攻め落とす気だったんだ。
で、僕はレンタカー営業所でキーを受け取ってさっそくポルシェに乗り込んだわけだけど、そいつですぐにアウトバーンに攻め入るようなそんな野蛮なことはしなかった。僕はドイツへ向かう飛行機の機内でこんな計画を立てていた。「車を貸りたらすぐさまカリーヴルスト(ベルリン名物のカレーソーセージさ)を買いに行こう。そして大量に買い込んだそいつを食らいながらアウトバーンに攻め入り、そのままミュンヘンまでぶっ飛ばしてやろう!」と。そういうわけで僕はポルシェを運転して子供の頃から何度も訪れている屋台みたいな趣のカリーヴルスト店へ向かったんだ。
カリーヴルスト店が開店しているのを確認した僕は、その店の裏手にある路上駐車場に車を駐めた。ベルリンマダムに笑われながらも何とか一桁台の切り返しで縦列駐車することができた。
僕は車を降りてカリーヴルスト店の行列に加わった。摩子と奇跡の再会を果たしたのはそのときさ。背後から肩を叩かれたから、僕は振り返ったんだ。
「荻堂亜男くん、だよね?」
これは摩子の放った台詞なのだけれど、僕は摩子にそう訊かれてもしばらく何も答えられなかった。自分が荻堂亜男であることを忘れていたわけじゃなくって、目の前にいるファッションモデルのような美女が誰なのか、さっぱり分からなかったんだ。その美女は鼻筋の通ったシンメトリーの顔を与えられていて、二重瞼で、瞳がブラウンで、そしてナチュラルにカールした長い髪も美しいブラウンだった。服装はベージュのワイドなチノパンツにグレーの軽いジャケットを羽織っているだけだったけど、その装いからは大人の余裕が感じられた。
「僕が荻堂亜男でないと言えばそれは嘘になります」
僕がそう答えると美女は微笑してジャケットの胸ポケットから眼鏡を取り出しそれをかけた。その眼鏡は摩子が高校生の頃もかけていたと思われる大きなフレームの赤縁眼鏡だった。
「私のこと憶えてない? 私が上原摩子でないと言えばそれは嘘になるのだけれど」
僕は摩子の口から名前を聞いてようやく彼女のことを思い出した。そんなわけで僕は語尾を上げて話しかけながら彼女に握手を求めた。すると摩子は握手に応じてくれた。彼女の手はとても柔らかかった。
摩子と握手した瞬間、僕は失恋のショックから立ち直った、完全に。一瞬でベルリンからミュンヘンに瞬間移動できたっていうか、床に落ちたパンケーキを未練がましく眺める暇があったらさっさと新しいパンケーキを注文したほうがいいってことを再確認できたっていうか、何にせよ、アウトバーンを攻め落とす必要がなくなったのさ。僕は摩子との再会に運命を感じずにいられなかった。遠い外国で美しく成長した元クラスメイトと再会する、それを運命だと思わない男がいるのかい? もしいるのなら、そいつはゲイだ(LGBTを差別してるわけじゃないよ)。
外国に来ると気が大きくなる。僕は女性との付き合いに慣れているかのような口ぶりで摩子を誘った。「ここのカリーヴルストとっても美味しいんだ。ご馳走するから近くの公園で一緒に食べないかい?」という台詞でね。すると摩子はこう答えたんだ。
「またの機会に」
うん、まああっさり断られたわけだけど、ここは外国――ベルリンだ。繰り返しになるけど僕は外国に来て気が大きくなっていたし、それに「またの機会」なんて考えられなかった。だから僕は食い下がれた。「それじゃあ連絡先だけでも交換しよう!」と僕は摩子に迫った。無私無欲の精神に支配された人間みたいにがつがつしたそんな僕に対して摩子の反応はどのようなものだったのかというと、ええと、彼女は苦い顔をしていたっけ。
僕が摩子の連絡先をゲットできたのはドイツに在住しているという彼女の親戚のおばさんがこの場面に登場してくれたから。そのおばさんは僕との連絡先の交換を渋る摩子に「連絡がきても嫌なら無視すればいいわけだし」とアドバイスしたのさ。斯くして僕は摩子と連絡先を交換することができた。
がしかし、ドイツで摩子に会ったのはそれが最初で最後だった。この日から一週間ドイツに滞在していたにもかかわらず、ね。例によって気が大きくなっていた僕は「美味しいフラムクーヘンを堪能できる店を見つけたんだけど一緒にどう?」とか「最高のツヴィーベルズッペを提供してくれる店を見つけたんだけど一緒にどう?」といった類いの軟派なメッセージを毎日摩子へ送り続けていた。けれども彼女から送られてくるのはスルーという返事だけだった。
失恋の相手は代わったけど当初の予定通りカリーヴルストを大量に買い込んでアウトバーンに攻め入ったのは滞在六日目の夜のこと。僕は本当にベルリンからミュンヘンまで、いや地の果てまでぶっ飛ばす気でいた。
でも実際のところ僕はアウトバーンをほんのちょっとしか走らなかった。僕はすぐホテルに引き返した。アウトバーンに攻め入ってほどなくして「もうこの国に居たくない!」という本心に気づいたのさ。
明くる日、僕は帰国の途に就いた。ホテルをチェックアウトする前いちおう摩子に「沖縄に帰ります」とメッセージを送った。当然ながら返信はなかった。
そんな摩子からメッセージをもらったのは沖縄に戻ってきた翌日、土産のバウムクーヘンとアンペルマン人形を姫宮さんに手渡したあとのことさ。目玉を飲み込んでしまいそうなくらいびっくりしたよ、ほんと。こんなメッセージだったんだ。
「今、那覇空港にいるよ」
つづく
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