僕は轟さんに向かって頷いた。そうして僕は彼の背後に佇むローライダーに目をやったんだ。
僕はこのとき初めてローライダーと対面した。車種の選択も何もかもすべてママに――正確に言うとママの雇っている執事に任せていたのさ。
僕のローライダーは“The”をいくつも冠したくなるほどの絵に描いたようなアメ車だった。一九六四年型シボレー・インパラをカスタムしたものだった。で、その車は紅いもタルトを彷彿とさせる紫色だったのだけれど、僕はそんな車のカラーに失笑する時間も勿体ないと思った。外装は一瞥しただけで、僕は次の瞬間にはもう助手席に乗り込んでいた。
車を発進させた轟さんに僕は沖縄南インターチェンジの手前にある空き地の場所を説明した。彼はその空き地のことを承知していた。
「荻堂さま、この度はとても良いお買い物をなされたことと存じます。この車はそのへんの高級車三台分の価値があります」
轟さんは運転しながらローライダーについて熱く語っていた。が、僕は外装と同色のレザーベンチシートのその色に気分を害されていたから彼の話が僕の耳穴を青信号で通過することはなかった。
僕の指定した空き地に到着すると、轟さんはローライダーのトランクを開けて機器に関する説明を始めた。
トランクの中央部分には大きな魔法瓶みたいなステンレス素材の円筒が二つあって、一般的な車のバッテリーがその円筒の横に二組ずつ並んでいた。それらもすべてお馴染みの紫色でコーティングされていた。轟さんはトランクに搭載されたそのハイドロリクスシステムとかいう装置を指差しながら、オイル漏れがどうとか、バッテリーの充電がどうとか、アースグリップとかいう電線を接続しなければハイドロスイッチは働かないとかなんとか言っていた。とにかくこの車は油圧で車高が上がるらしかった。他にも色々説明を受けたのだけれど、頭の虹が消えてしまいそうなくらい、いや逆に頭の虹の色が増えてしまいそうなくらい僕の頭とは一切馴染まない知識だった。大学で「九連のチャイニーズリングを340手で解く方法」っていう題目の講演を偉い人から聞かされたときと同様の感情を抱いた(この世に不可能はないって話だったみたい。けれども僕にその話を理解させるのは不可能だったようだね!)。
「もう説明はいいから! とにかくホッピングのやり方を教えて欲しい!」と言って僕は轟さんの説明を遮った。強い口調だったと思う。「僕には時間がないんだ。神という見えない敵と戦ってくたくたになる欧米の誰かさんたちみたいに時間を浪費するわけにはいかない」
「申しわけないのですが、荻堂さま」と冷静な口調で轟さん。彼の視線は僕の頭にあった。「何の予備知識もないままこの車を運転させるわけにはいきません。あと言わせていただくと、不可避である見える敵だけと戦ってもくたくたになるのは不可避ですよ、どうせ」
融通が利かない石頭というのはなぜか仕事が出来る男たちのあいだで流行しているヘルメットのようなもの(本人たちは不安心から被っているのを自覚していない!)だが、僕はそのヘルメットの脱がせ方を承知している。嘘をつけばいいのさ。「後日ちゃんと教わるまで絶対に触れないからホッピングさせる操作装置はどこにあるのかそれだけ教えて欲しい」と僕は轟さんにそう言ったんだ。北風のように躍起になって吹き飛ばそうとするとかえってヘルメットを押さえてしまうから、太陽のように堂々とした態度で嘘をついて僕は轟さんの頭を蒸らしにかかった、そういうわけ。
僕は轟さんからホッピング操作装置の在り処を聞き出すことにまんまと成功した。〈ハイドロスイッチ〉と呼ばれるそれは運転席のハンドルの右下にあった。スイッチは紙巻煙草くらいの棒状で四つ付いており、左から順に前二輪、後二輪、左後輪のみ、右後輪のみを受け持っているらしかった。このスイッチを上げ下げすることにより車高が上がったり下がったりし、タイミングよくスイッチングを行えば車がホッピングする、と轟さんは僕に詳説した(彼が操作方法まで説明したのは僕の口車に乗せられたから。轟さんは本当に車が好きみたい)。
ホッピングは後日みっちり稽古をつけてもらうことになったから僕は轟さんのローライダー愛を聞き過ごす時間を過ごしたあとそのローライダーを運転してアルバイト先へ向かった。轟さんとはその空き地で別れた。彼を空き地に不法投棄したわけじゃないよ。部下を迎えに来させるから心配いらないとのことだったんだ。
いつも乗っているフォード・GTの乗り心地がよすぎるのか、はっきり言ってローライダーの乗り心地はよくなかった。運転慣れしていないせいもあっただろうけど、出勤時刻一分前にアルバイト先のスタッフ専用駐車場に着いたときにはもうぐったりしていた。道行く車の運転手がことごとく僕を二度見し、彼らが事故を起こしてしまわないかと危惧したことも僕を疲れさせた一因だ。
だからと言って僕に休息は許されなかった。僕はラジカセを担いで店の裏口のドアへ走ったんだ。
「クビになったからその腹いせかい?」
この台詞は店の裏口のドアから更衣室へ行くまでの廊下でばったり会った店長の口から放たれたものなんだけど、僕は店長のその誤解を解かなかった。聞こえなかった振りをした。なぜなら誤解を解く時間も気持ちもなかったからさ。店長のそばにはすでに店の制服に着替えた聖良ちゃんと正人くんが立っていた。聖良ちゃんはその澄んだ目を大きく見開いて僕の姿を食い入るように見つめていた。僕は聖良ちゃんにもっと見つめられたいと思ったんだけど、時間がなかったから彼女にウインクして更衣室へ走った。
「荻堂さん! 聖良のやつ王子さまを見るような目で――はたまた自分の牙が頭に向かって伸びるバビルサっていう死生観を我々に問う動物を見るような目で荻堂さんに見惚れてましたね!」と更衣室に入って来て興奮気味にそう言ったのは正人くんさ。
「大きな牙を持ったバビルサのオスはメスにモテるらしいけど、それは己に対して厳しい牙を剥くという意識の高さの顕示に成功してるってことなんだよね」とエアロビクスウェアを脱ぎ捨てながらそう言ったのは僕さ。「わざわざ頭に向かって伸びなきゃいけないバビルサの『牙の気持ち』も今なら分かってあげられるよ、うん。『ありがとう』って言葉は『どういたしまして』って返事を強要する悪い言葉だからあまり使用したくないんだけど、ありがとう! 正人くん!」
僕は急いで制服を着て更衣室を出、スタッフルームにあるタイムカードを押した。印字された時刻は『17:01』。遅刻だ。店の規定により一時間ただ働きだ。
つづく
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