Adan #30

Adan(第30話)

eyck

小説

4,573文字

渚のアストロロジー〈5〉「うん。僕に味方はいないけど、僕はずっと君の味方だよ」と僕は渚ちゃんにそう言ったんだ。

ゾンビとなった僕は二日酔いの頭痛という古代から酒飲みを起こしてきたトラディショナルな目覚まし時計に叩き起こされたんだ。

 

ゾンビの僕が命懸けで上半身を起こすと——いや、ゾンビなのに命懸けとはおかしな話で、ゾンビが二日酔いで目覚めるというのもそもそもおかしなことなんだかどうだかもよく分からないんだが、まあとにかく、必死に精一杯の力を振り絞って上半身を起こすと、そこは誰もいないいつもの綺麗な僕の家の居間だった。

 

上体を起こしてから、僕は右手に無理やり握らされたそれに気がついたんだ。手鏡さ。その手鏡を僕に握らせた悪党は、ゾンビになった僕にゾンビであることをすぐ自覚させたかったようで、僕が手からそれを放さないようガムテープでぐるぐる巻き[注1]にしてあった……ええと、ここでみんなにアドバイス。手にした成功を放したくなかったらその手をガムテープでぐるぐる巻きにしておくことをおすすめする。放したくても放せないから。

 

「申しわけございません、坊っちゃん」とキッチンからやって来てそう言ったのは姫宮ひめみやさん。「戒めのために放っておけと亜利紗さまからのご命令で。それから坊っちゃんのそのゾンビメイクは——」

 

「利亜夢だね」と僕は姫宮さんの口からその名が発せられる前に言ったんだ、手鏡の中の自分の顔を見ながら。「素晴らしいメイクだ。むくみが一切気にならない。よし! それじゃあ僕はゾンビの礼にしたがって、今から利亜夢を殺しに行くとしよう。僕に殺されても利亜夢は自業自得さ。僕をゾンビにしたのは彼だからね。それにしても僕をゾンビにしたことを後悔させてあげられないのが残念だ。彼自身がゾンビになってしまったあとでは、後悔したくてもしきれないだろうから。いや、利亜夢は僕に噛み殺されてゾンビになりたいのかもしれない。だとしたら一刻も早く彼の願いを叶えてあげなければ!」

 

僕は頭痛の種である二日酔いの頭痛に見舞われた頭を励ましながら立ち上がった。そしてゾンビらしい重い足取りで備瀬家の部屋へ行こうとしたんだ。

 

「待ってください、坊っちゃん」と姫宮さんが僕を止めた。

 

「止めないでくれ、姫宮さん」と僕は振り向かずに手鏡に向かって言った。僕の背後にいる手鏡の中の姫宮さんに向かってね。「ゾンビは話の通じる相手ではないんだ。頭上からどんなもっともな道理を降らせようとも、ゾンビからしてみればそれは霧雨くらいどうってことないものなんだ」

 

「道理をわきまえているゾンビもわきまえていないゾンビも私はどちらも存じ上げませんが」と手鏡の中の姫宮さんは言った。「亜利紗さまと利亜夢坊っちゃんはチャッキーを連れてドッグカフェへお出かけになったんです、十分ほど前に」

 

僕は振り返って姫宮さんを見た。

 

「利亜夢坊っちゃんはゾンビになり損ねたようで」と言って僕に頭を下げた姫宮さん。

 

「運のない子供だ!」と叫んだ僕。

 

で、姫宮さんについて。前にも少し話したけど、姫宮さんは僕の家の家政婦さんだ。でも姫宮さんは家政婦と言っても終日僕の家にいるわけじゃない。彼女は毎朝八時に来て正午頃には帰る。姫宮さんの仕事は部屋の掃除と服をクリーニングに出すことと酒の補充だけ。炊事は契約外だ。ママが炊事を一切しなかったからなのか、僕は家庭料理というものを好まない。僕は生粋のジャンクフーディストなんだ。大学に入ってから姉の手料理を食べるようになったけど、それも週に一度か二度くらいさ。うん、姫宮さんのことで一つ告げ口しちゃおう。彼女はゴリラみたいな顔と体を有しているくせに、炊事がまったくできないらしい。自身の子供たちはスーパーマーケットの惣菜で育てたといつか話していた。ゴリラみたいな顔をしているおばさん(姫宮さんのことをゴリラみたいだと言う僕を差別主義者だとみなす者は、ゴリラを見下している差別主義者だ!)は料理が上手だって認識を僕は持っていたのだけれど、それは勝手な思い込みだった。人を見かけで判断してはならない、おそらくゴリラも。ゴリラみたいな顔をしているくせに炊事のできない膝上丈のメイド服を着たツインテールのおばさんがいたかと思えば、若いのに星を正確に読める渚ちゃんのような娘もいるのだ。きっとゴリラのくせに星を読めるメイド服を着たゴリラも存在するに違いない。

 

僕が起きたのは正午前だった。ベッドに手招きされたけど、僕はベッドのその誘いを丁重に断った。つまり二度寝を断念したのさ。で、僕は冷たいシャワーを頭から浴びて死者から生者に戻ったあと、グラスに注いだターメリックジュースを一気飲みして外出したんだ。僕には大切な用事があったのさ。その用事がなければ僕はドッグカフェを襲撃していたことだろうよ。

 

僕は愛車のフォード・GTに乗り込んでからアイフォンでマカロンの販売店を調べた。すると自宅マンションからそう遠くないリゾートホテル内にその店はあった。したがって僕はそのリゾートホテルに車を飛ばした。

 

僕はリゾートホテルの一階にあるケーキ屋で女子の口に収納されるためだけに生まれてきたと思われるカラフルな自家製マカロンを買った。そして僕はそのホテル内にあるレストランで昼食をとって、そのあと家に帰って夕方まで眠った。眠ったら利亜夢への仕返しのことをすっかり忘れてしまった(運のいい子供だ!)。

 

僕が起きて車でパーラー百里へ向かいそこに到着したのは午後六時を少し過ぎた時間だった(もちろん僕はしっかりと身なりをこしらえたさ。丁寧に体を洗って、念入りに歯磨きをして、そうしてブラジリアンワックスで鼻の中に巣くう目立ちたがり屋な暴徒を一斉検挙してやった。服装はと言うと、渚ちゃんが好きそうなニューエラのヤンキースキャップ、シュプリームのTシャツ、ステューシーのデニムパンツ、ティンバーランドのイエローブーツ、といった具合さ)。

 

僕が店に入ったとき渚ちゃんはいなかったけど、それは想定内だった。前の日、渚ちゃんは六時半頃に現れたのさ。なので僕はタコライスを食べながら渚ちゃんの到着を待つことにした(田古田さん夫妻とちょっと喋ったけど大した話はしなかったからスキップさせてもらうね)。

 

渚ちゃんが現れたのは七時ちょうど。僕が三皿目のタコライスを完食し、四皿目に突入しようかどうか占っているときだった。

 

僕は席を立った。そして占術業務の準備をしている渚ちゃんに声をかけたんだ。

 

「やあ! 今日も晴天で星読み日和だね! 天気によってリーダビリティが変わってしまうものなのかどうかはよく分からないのだけれど」

 

彼女は少し驚いた素振りを見せた。でもすぐに口元を緩め、挨拶してくれた。

 

僕はテーブルを挟んで渚ちゃんの正面の迷える子羊たちが腰かける椅子に迷いなく座った。そして昨晩さっそく事故に遭ったことを彼女に報告した。どこか怪我はなかったですか、どういった事故に遭われたんですか、と渚ちゃんに訊かれたから、僕はこう答えたんだ。

 

「言葉の弾丸を頭に何発も喰らったんだ。かと言ってその弾丸それ自体を嫌いになったわけじゃないよ。弾丸自体に悪意はないし。善意もないけど。もし体内に弾丸が残ったままでも、僕はそいつらと共存できる心と体を有しているから大丈夫。というかむしろ味方がこの世に一人もいないことが分かってその弾丸たちの存在に感謝してるくらいさ。『孤独なマジョリティ』っておそらく僕みたいな奴のことを言うのかもね」

 

「世界から同情されたり擁護されたりするようなマイノリティに属するくらいなら、孤独なマジョリティとして生きたほうが格好良いですよ」と渚ちゃんはそう言ってミルクフェドのショルダーバッグから前日に書き留めた僕の裸とも言える円グラフ的なものがプリントされた紙を取り出したんだ。「マイノリティの方々がどのような思いを抱いていらっしゃるのかは分からないのですが、時代に擁護されるのってなんだか格好悪い気がしません? 孤高でいられるのなら差別され続けても構わないですけどね、私は。だから私のこういった発言が誰かに共感されると不愉快になる……。普通に生きていれば嫌でも味方はできます。悪魔にだって味方ができるどころか崇拝されることもある。なので味方がこの世に一人もいない亜男さんの存在は必要悪より貴重ですよ。どうでしょう、亜男さん。自分に素直に生きるということは自分を傷つけ続けるということですが、ぜひ素直に生きて人間は独りでも生きていけることを世界に証明して見せては? 選ばれた人にしかできないことです、いえ、皮肉ではなく。あ! ディオレッツァを逆行させているのは亜男さんなのかもしれないですね! まあそんなことはさておき、今の社会をぶち壊せるのは女性だけです。偉人たちが築き上げた男社会を現代のひ弱な男たちがぶっ壊せるわけない。でも悲しいかな、世の中にはプラスチックゴミみたいな厄介な女も大勢います。特に私が嫌いなのは男に貢がせる女! 私は貢がせ女とゴミ捨て場で会ったらこう言ってやるつもりなんです。『あなたがゴミを捨てたんじゃない。ゴミがあなたを捨てたんだよ。ゴミのほうがあなたの手から放れたんだよ。そしてあなたがゴミを分別しているわけでもなく、ゴミがあなたを分別しているんだよ』ってね。そうそう、カメラに向かってピースサインする女子のそれは全て『男根を切ってやる』ってサインなのでご注意を」

 

「うん。僕に味方はいないけど、僕はずっと君の味方だよ」と僕は渚ちゃんにそう言った。そしてマカロンの入った紙袋を彼女に渡したんだ。

 

渚ちゃんは紙袋の中を覗いて驚いていた。マカロンは透明のプラスチックケースに入っていたから、彼女はそれがすぐにマカロンだって分かったみたい。でね、それから僕は意を決して口頭でそのマカロンに次のような焼印を押したのさ。

 

「そういうことなんだ」

 

僕のその台詞を聞くと渚ちゃんは紙袋の中に再び視線を落とした。彼女は僕の焼印入りマカロンの意味をすぐに理解できた様子だったよ。

 

僕らはしばらく沈黙していた。渚ちゃんの視線はと言うと、彼女のそれは依然として紙袋の中にあった。そう言えばこのとき店内にはジャマイカン・イン・ニューヨークが流れていたっけ。Oh, I’m an alien, I’m a legal alien.

 

咳払いして僕は言ったんだ。「渚ちゃん、今日、星に訊いて欲しいことは一つだけなんだ。僕は明日、何をプレゼントすればいいのかな?」

 

渚ちゃんは僕と一秒間だけ目を合わせたあと、厚さ0.1ミリほどの例の僕の裸に視線を移した。このとき彼女は星と会話していたのかなあ。僕にはそれを知る由もないけれど、とにもかくにも、彼女が次のような星のお告げを僕に授けてくれるのにそう時間はかからなかったよ。

 

「星はこう告げています。『腕時計をプレゼントしなさい』と」

 

つづく

 

[脚注]

1.ぐるぐる巻き

2020年2月5日公開 (初出 https://note.mu/adan

作品集『Adan』第30話 (全83話)

© 2020 eyck

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