第5話

マニア(第5話)

じゃじゃ馬ぴえろすたー

小説

10,516文字

天野さんを乗せた救急車の音が遠くなる。

僕は拳を握りしめた。

午前7時。僕は家の前で佳祐を待っていた。すぐに佳祐はやって来た。

「渉〜おはよ〜」

僕はあっと声を上げた。

佳祐の顔は傷だらけで、額には大きなガーゼ。頬や、口の横あたりに絆創膏が貼られていた。左目の周りには痣が浮き出ている。

半袖のシャツから伸びる腕は擦り傷と痣だらけで、もはや絆創膏を貼るのをやめていた。

拳も腕と同様擦り傷が目立ち、半ズボンから出ている脚にも傷と痣が見えた。

「ちょ、佳祐、大丈夫?」

「ん、あぁ。大丈夫だよ。慎二がブロック持ち出した時はさすがにビビったけどな」

笑って答える佳祐。僕の怯えたような表情を見た佳祐は続けた。

「や〜、でも惜しかったんだぜ?俺だって負けっぱなしじゃ無かったんだけどな。」

「佳祐、優しいから…」

僕がそう言うと、佳祐が、ハハハと大きな声で笑った。

「やっぱ、あいつも友達だし。途中、色々思い出しちゃって、ダメだったわ」

笑顔の中に悲しそうな表情が混じっている。

「佳祐……」

「あ、ほら。これ。渉の靴」

佳祐は僕に靴の入ったビニール袋を渡した。それは、紛れもなく僕のものだった。

こんな僕の靴のために…、傷だらけになる必要なんてなかったのに…。

「ありがとう…佳祐…」

「おう、学校まで時間あるし公園で2人で話さね?久しぶりだしさ」

僕は大きく頷いた。

公園のブランコに2人並んで座り、僕は緩やかな揺れに身を任せた。

佳祐と話すのは久しぶりで、最近あったことをたくさん話した。佳祐が新しいゲームを買ったとか、佳祐が違うクラスの男子に告白されたとか。

僕も何か面白いことを話したかったけど、良い話題が出てこなかった。

「そういえば。」

佳祐が思い出したように口を開いた。

「最近麻美とどう?」

僕は「昨日も揉めたよ…」と苦笑いで答えた。

「揉めたって、別れたのか?」

「いや、別れてはないんだけど…」

「そっか…。何かさ、悪いことしたかなって思ってたんだよ」

「悪いこと?」

「ああ、俺たち麻美が渉のこと好きって知ってから、引っつけてやろうなんて軽い気持ちでやってたからさ」

「佳祐たちのせいじゃないよ。」

最終的な決断は、結局自分にあるのだから、僕は誰も責めることなんて出来ないと思った。たとえ佳祐たちが僕と麻美ちゃんを引っつけようとしていたとしても。

「でも俺とかは渉は流されやすいって知ってたのに。本当ごめん」

「いいって、これがあって僕も色々学んだし…」

佳祐は複雑そうな表情で顔の傷を撫でた。

少しずつ通学する生徒が目立ってくる。

僕達の会話が少し止まる。

多分、低学年の子たちが通学しているのが見えた。5人くらいのグループで楽しそうに話しながら歩いている。

もうすぐ小学校生活も終わるのに。僕達はこんな感じで最後を迎えるのか。そう考えると残念な気がした。

「なあ」

佳祐が心ここに在らずと言った感じで言った。

「ん?」

「俺たち、中学に上がっても友達だよな」

僕は佳祐の方に顔を向けた。佳祐はボーっと前を見ている。

「当たり前だよ。」

小さく微笑を浮かべて言う。

佳祐は、いま何を考えているんだろう。

そっか。と一言言うと遠くの方を見て黙り込んだ。

こんな傷だらけになって、やはり身体もそうだけど、精神的にもダメージが大きのだろうか。

「慎二…、何であんなんになったんだろうな」

佳祐がボソッと呟いた。僕は少し考えたが、いまいちわからなかった。慎二は天野さんのことをそんなに好きだったのだろうか。

「わからない…」

「天野さんが渉の方ばっかり行くからって…、あんなの絶対おかしいって。」

僕の答えは沈黙だった。はっきりした原因は分からないけど恐らく僕が慎二をあんな風にさせてしまったからだと思ったから。

今日はいい天気で青空が広がっていた。何か起こりそうな。そんな気がした。 その時、佳祐がぼーっと言った。

「てかさ…」

「なに?佳祐。」

「今何時…?」

顔が青ざめ背筋に電気のような感覚が走る。僕達はブランコから飛び降り急いで学校に走った。

学校の校門を抜けたのは8時15分だった。

警備員のおじさんに見送られ僕達は下足箱へ向かった。

息を切らす僕の背中を軽く叩く佳祐。

「危なかったな、ギリギリセーフだ」

「ほ…、ほんとにね……」

呼吸を整え、僕達は教室に向かうための階段を上る。2階と3階の間にある踊り場についた時、廊下を歩く天野さんが見えた。

「あっ……」

思わず声が出てしまう。天野さんは何気なくこちらを見たようで、僕達の姿を確認して同じく、あっ。としたふうな表情を見せた。

何故か緊張して、その場で立ち止まってしまう。

「ハハ。俺先行っとくわ」笑って佳祐が階段を上っていき、天野さんの横を過ぎようとした時だった。

「飛永くん、昨日は…」

それはホントに一瞬で、僕や佳祐。天野さんにはまるで予測もできなかった。

天野さんの後ろに、佐藤たちのいつものメンバーが歩きながら話している姿が見えた。

そして階段を降りようとしたかと思うと佐藤がわざとらしく強く天野さんにぶつかった。

異変に気付き、体勢を崩した天野さんに大きく手を伸ばす佳祐。天野さんも手を出したが、それも虚しく、2人の腕は空を切った。

「天野さん!」

踏みとどまろうとするも、天野さんは前のめりになって階段を勢いよく落ちた。 頭を打ち、腕は放り出され階段の角に強く叩きつけられた。

佐藤たちは驚いた風に天野さんを避けた。

身体を階段の角に打ち付けながら転落する天野さんに向かって、僕は何も考えず階段を駆け上がった。

僕は彼女が目の前に来た時、一瞬の判断で、衝撃を与えないように優しく包み込む感じで受け止めようとした。しかしそれが失敗だった。

少し腰をかがめ、下からすくい上げようとしたが、転落の勢いがあったため天野さんを受け止めた際同時に僕も巻き込まれた。

天野さんの頭を右腕で包み込み、腰あたりを左腕でしっかりと掴んだ。頭を打たないように首を丸める。僕達は大きく転がっていった。そして踊り場まで落ちたところで、転落は止まった。

「渉!!」

佳祐が慌てて階段を下りてくる足音と、周りの生徒がざわめく声が微かに聞こえる。心臓は大きく脈打ち、頭を打ったからか、興奮状態だからかは分からないが周りの声をまともに判断出来ない。

僕は強く抱いていた天野さんの身体から腕を解いた。側頭部や背中。腕、腿あたりにズキズキと打撲の痛みが走る。痛みを我慢し、ゆっくり身体を起こす。横に倒れている天野さんに目をやった。

「渉!大丈夫か!?」

佳祐が僕の横にしゃがんで、言った。

「僕は大丈夫…、それより天野さんが……!」

天野さんは「うぅ…」と、小さく唸りながら目を閉じていた。

「天野さん!大丈夫!?」

天野さんはまともに返事をせず、苦しそうに唸るばかりだった。

苦しそうな彼女を見て、僕は天野さんが死んでしまうんじゃないかと思って、目頭が熱くなり、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ぼ、僕先生呼んでくる!!」

僕が立ち上がろうとした時、佳祐が僕を止めた。「いや、俺が行くから渉は天野さんの側いてやれ!」そう言って階段を駆け下りて行く佳祐。

僕が再び天野さんに目をやると、彼女の手が僕の裾を弱々しく掴んでいることに気づいた。すぐにその手を握り、声をかけた。

「あ…、天野さん…、死なないで…お願い死なないで……」

周りに人が集まっていたのだけど、僕の涙と嗚咽は止まらなかった。

天野さんは虚ろな目で、力ない吐息交じりの声を出した。

「……とび…な…が…くん……」

「天野さん…!」

天野さんの手を両手で優しく握りしめる。

その時佳祐が先生を多分2人くらい連れてきて、救急車を呼んだとか、天野大丈夫かとか、僕にも大丈夫かを聞いてきたと思うのだが、それに対応する余裕はなかった。

僕の頭の中は天野さんとの記憶で埋め尽くされ、もしも天野さんが死んでしまったらどうしようということばかり考えていた。

気付くと救急隊員が車輪付きの担架を踊り場の下に持ってきていた。

天野さんは救急隊員に運ばれ、担架に乗せられた。僕も彼女の手を握ったまま、救急隊員と共に救急車の方まで移動した。僕は彼女の名前をずっと呼んでいた。

校門に止まっている救急車の近くに着く。

僕は最後まで泣きながら彼女の名前を呼び続けることしかできなかった。天野さんも虚ろな目で僕をずっと見ていた。

僕と天野さんの手が離れる。

救急車に乗せられ病院へ走っていく救急車を見送る。サイレンの音が遠ざかっていく。

「わ、渉……、大丈夫か……」

呆然と立ち尽くす僕の後ろから、佳祐が僕の肩に手を置いた。

「大丈夫だよ……、階段から落ちたくらいじゃ人間死なねえよ………」

佳祐と居た先生が「そうだよ飛永…、天野は絶対大丈夫だ。」と元気づけるふうに言ったが、僕は何も答えなかった。

現実味の無い、宙に浮いているような感覚。鼓動が早く、少し震える。

拳を強く握りしめた。

「渉…?」

僕は早歩きで歩き出した。

先生と佳祐も小走りで僕の後を追った。

職員室前で先生が「ちょっと先生職員室に用事あるから先行っててくれ。すぐ行く」と言ったが、僕はそれを聞こうともせず教室に向かった。

佳祐が後ろから「渉、大丈夫か?」と声をかけるが、僕は黙って教室への階段を上った。

教室前に着き、ドアを開ける。

僕が教室に入ると外まで聞こえていたざわめきが無くなり、みんなが僕に視線を集めた。

僕は歩みを止めなかった。

向かったのは、佐藤たちのグループの席だった。佐藤がこちらに睨みをきかせている。

いつものように佐藤を囲むように麻美ちゃんたちがいた。佐藤の座る椅子の後ろ側に立つ。

佐藤が、なに?と机に肘をつき僕を睨んだ。

他のメンバーも「どうしたの?」「渉くんなんで泣いてるの?」など、口を挟む。麻美ちゃんは何も言わなかった。

「何かあるなら言えば?」

そう佐藤が言った瞬間、僕は佐藤の胸ぐらを掴み上げ、後ろの机に叩きつけた。

クラスが再びざわつき出す。

「お前…、自分が何したのかわかってるのか……」

佐藤は歪んだ笑顔で「はあ?何もしてないんですけど。ただの事故じゃん」と言った。

僕は顔に血が上るのを感じ、拳を振り上げた。

「渉落ち着け!!」

佳祐が僕を羽交い締めする形で抑えたが、それを振り払い佐藤へと戻る。

「わ、渉…やめろって!」

佐藤の取り巻きがビビっているのとは打って変わって、「ふざけんな!」と佐藤は僕に掴みかかろうとした。しかしすぐに僕の手が佐藤の首を捕らえる。

ぐっと、声を漏らす佐藤。僕の顔を殴ったり引っ掻いたりしたが、そんなこと関係なくさらに腕に力を入れていった。

佐藤の顔が真っ赤に染まっていく。

「やめて!!渉くん!!」

そう言った麻美ちゃんの声も僕はまるで聞かなかった。

その時、僕は誰かに思い切り腰あたりを蹴られ、僕はこけてしまった。衝撃で佐藤の首から手を離してしまう。

蹴られた方向を見ると、そこには慎二が立っていた。

慎二も顔や腕に痣があったが、佳祐よりは全然マシだった。

「やめろよ渉。女に手出したらダメだろ?」

佳祐の傷が頭に浮かぶ。また怒りが込み上げた。

「なんだよ、やるのか?」

前にある椅子を蹴り飛ばし、前進した。

「やめろ渉!!やばいって!!」

僕は耳を裂くような怒号と共に、慎二に飛びかかった。

周りの男子生徒は「やれやれー!!」とまるでプロレスでも見るかのように歓声を上げ、女子生徒は怯え、泣く生徒まで出ていた。

慎二が机と吹っ飛ぶ。僕は慎二に馬乗りになり、顔面を3発思い切り殴った。

「てめぇ…!!ぶっ殺すぞ!!」

僕の顔面を殴り飛ばす慎二。しかし興奮状態の為か痛みはそれほど感じなかった。ふらっと立ち上がる僕の顔めがけて慎二の足が伸びた。

顔を逸らしたが、そんなの避けられるわけもなく、僕はまともに顔面で蹴りを受け止めてしまった。その場に倒れる。耳が聞こえない。そんなことはお構いなしに、僕を何度もサッカーボールのように蹴り続ける慎二の足を掴んだと同時に立ち上がり、こちらに力強く引っ張った後、慎二の顔面を全力で肘打ちした。

慎二は倒れ、僕は横にあった椅子を持ち、振り上げた。そして振り下ろそうとした時、最近慎二とつるんでた2人が僕に掴みかかってきた。椅子の落ちる大きな音。

「離せ!!」

腰に掴みかかってきた奴の後頭部をハンマーを振り下ろすように、拳で強く殴った。

短い悲鳴の後、痛えぇ!!と言いながら倒れていく。

「…の野郎!!」僕の後ろいた奴が振り向きざまに僕の顔面に一撃を加えた。

大きく尻餅をつく。立ち上がり、反撃しようとした時。

「お前らなにやってるんだ!!」という先生の声が聞こえ、僕達全員の動きが止まった。

僕は息を切らしその場に座り込んだ。俯き、息を吸い込む。もう何だか訳が分からなくなって、また涙がボロボロと出てきて僕は大声で泣いた。鼻水が赤く、床には何滴もの血が落ちた。

天野さんの記憶が僕の脳味噌を駆け巡る。

彼女は僕を守ってくれた。僕を魅了した。夏休み前…、公園で一緒にセミを取ったあの日から僕は彼女のことが好きだったのに。夏休みに僕が中古のゲームを買いに行ったあの日、彼女が公園で1人ベンチに座って僕の腕にしがみつき少し震えてたあの日も、きっと父親にまた虐待を受けていたんだ。だから天野さんは僕に助けて欲しくて電話をかけたし、会えるかも分からないあの公園でひとりぼっちで座ってたんだ。なのに僕は…、僕は…。天野さん、天野さんに会いたい。会いたい。天野さんに。

僕は床に倒れ込み、溢れてくる涙を情けない声と共に垂れ流した。

「お前とお前来い!!」

先生が声を上げている。

まず僕に掴みかかった慎二の取り巻き2人が呼ばれ、その後「飛永と福本も来い!」と言ってまるで幼稚園児のように泣いてる僕の腕を引っ張る。慎二はふらふらと引っ張られている。

「お、俺も行きます!」

佳祐がそう言ってついてきてくれた。

僕達は先生に引っ張られ、ぐちゃぐちゃの教室をあとにした。

僕は。大切なものを失って初めて、それがどれだけ大切だったのかを理解する、そんな人間だった。

その日、天野さんが階段から落ちたことと、僕達の喧嘩が原因で、僕達のクラスは別の先生が担当していた。もっとも、僕や佳祐や慎二。それに佐藤たちは、授業を2時間ほど抜けていたのだが。

僕たちは保健室に行ったあと、相談室という部屋で話し合いとなった。

結論としては、天野さんが階段から落ちた件は、佐藤の不注意による事故として片付けられ、僕達の喧嘩も友人同士のいざこざが原因となり喧嘩に発展したものとして、その場は収められた。

きっちりと親に報告も行くらしいが、僕はそんなことはどうでもよく感じていた。

それよりも天野さんが心配で、一刻も早く様子を見に行きたかった。

教室に戻る時、佐藤が陰口を言っていたのが聞こえたがそれすら気にならず、僕は佐藤たちの方を一回も見ることなく教室に戻った。

給食の時間。僕はあまり食欲がなく、パンを小さくちぎりながらボソボソと食べていた。

天野さん……。大丈夫だろうか。結構思い切り頭も打ってたし…。

佐藤のやつ…、許せない。あんなぶつかり方…絶対わざとに決まってる……。

……麻美ちゃんが昨日のことを言ったのだろうか……。それで佐藤が………。

「渉…」

佳祐が僕の肩を叩いた。ゆっくりと振り返る。佳祐は心配そうに僕を見ていた。

「佳祐…どうしたの……」

「顔、結構傷ついたな…」

僕の顔は佐藤に引っかかれた傷と、慎二たちとの喧嘩でついた痣ができていた。それに、さっきあんなに泣いたから目も腫れている。

「いいよこれくらい…」

「……食欲ないのか…?」

「うん…、佳祐食べたかったらあげるよ……」

「俺もう食べたよ、ちゃんと食わねぇと元気でないぞ?」

佳祐は笑って僕にそう言った。僕は俯き、スプーンを手に取ってスープを口に含んだ。口の中の傷がしみる。

「今日、放課後天野さんのとこ行くんだろ?」

「うん、そのつもりだよ……」

佳祐が机の前に移動してしゃがみ込んだ。

「俺も行くよ。」

「え…?」

「大丈夫。天野さんとの邪魔はしないからさ。」

笑顔で佳祐が言う。僕も嬉しくて、少し頬が緩んだ。佳祐が居てくれると、僕も心強かった。

「佳祐……、ありがとう……」

「いいってことよ」

給食のあとの昼休みも、5時間目も、僕は何をするわけでも無く、ボーっと机に伏せて天野さんの席を眺めていた

前から3番目の日の当たる窓際。天野さんが漫画を読む姿。

いつしか天野さんは僕の心の拠り所になっていた。彼女がいないと退屈で、空しい気持ちになる。いつだって一番会いたいのは、天野さんだった。

「早く会いたい……」

僕は小さく、そう呟いた。

放課後、ホームルームが終わり僕はすぐに先生の元へ向かい、天野さんがいる病院を訊いた。どうやら学校から少し歩く場所にある病院にいるらしい。

僕はそれを佳祐に伝え、2人で下足箱まで向かった。

その途中廊下で後ろから僕は名前を呼ばれた。

「渉くんっ…」

相手は、麻美ちゃんだった。僕は表情を変えることなく振り向き、返事をした。

「なに?」

「も、もう帰る?」

「うん。」

麻美ちゃんは目を泳がせ、落ち着きのない感じだった。スカートの裾を握ったり、離したり、また握ったりしていた。佳祐も気まずそうに僕と麻美ちゃんを見ている。

「い…一緒に帰れないかな……」

「ごめん。今日用事があるんだ。」

「用事って……なに…?」

僕は黙って麻美ちゃんを見ていた。何も言わず、ただ沈黙で答えた。麻美ちゃんは察したらしく、ゆっくり口を開いた。

「…天野さんの所に行くの?」

「まあまあ、帰ったら説教が待ってるから、2人で駄菓子屋でも寄るんだよ。なあ?渉?」

佳祐が僕と麻美ちゃんの間に入って、彼にしては下手な笑顔でその場を取り繕うとした。

「そうだよ。今から病院に行く。」

虚ろな目で、麻美ちゃんを見て言った。

「お、おい渉…」

麻美ちゃんは目を逸らして、そっか…。と呟いた。僕はさっきと同じトーンで続けた。

「麻美ちゃん。」

「なあに…?」

麻美ちゃんが不安そうにこちらを見る。

「昨日は、ごめんね。」

「あ…、いや………、こっちこそ一人で帰っちゃって………」

「あの後、考えたんだ。今までのこと。」

「うん…」

「それで、気付いた。自分の気持ち。」

「ちょっと待って…、それ以上はもういい…聞きたくない…」

麻美ちゃんが耳を塞ぐ。しかし僕は続けた。

「僕は…」

「やめて!!」

「麻美ちゃんとこれ以上やっていけない。」

小さく聞こえた叫びと共に、麻美ちゃんの目から涙が落ちる。

「もう…、終わりにしよう。」

麻美ちゃんは足を引きずるようにして僕に近づいた。俯きながら僕の腕を掴む。

「…やだ…そんなこと………言わないでよ……」

「今更で、ごめん。」

僕は麻美ちゃんの手を腕から離そうとしたが、彼女はさらに力を入れた。

「私、やだよ…?渉くんと別れたくない……」

「離して…、麻美ちゃん。」

静かに言う。

「やだ……やだあ………」

麻美ちゃんの力は弱くなっていき、彼女はズルズルと膝から崩れ落ちた。

「少しの期間だったけど、ありがとう…」

そう言い残し僕は彼女に背を向け歩き出した。

彼女の泣く声が、聞こえた。

下足箱で靴を履き替え、外に出る。後ろにいた佳祐が横から顔を出して僕に話しかけた。

「渉、良かったのか…、あ……」

僕の目からは、ポロポロと涙が流れていた。

半袖のシャツで思い切り拭き取る。

これから天野さんのお見舞いに行くのに、今までの麻美ちゃんとの思い出が出てきていた。それを思い出す度、胸が締め付けられる感覚に陥り、涙がまた出てきた。

恋人との別れというのは、こんなに悲しい事なんだなと実感した。

16時頃。僕は病院のトイレで顔を洗っていた。鏡を見る。酷い顔だ。傷だらけで、目が腫れている。

しかし、こればっかりはもう仕方ない。すぐに治る訳でもないし。僕はトイレをあとにした。

待合室にいる佳祐の元へ戻る。

「おう、渉。もういけるか?」

「うん。行こう」

僕達は受付で天野さんの部屋を訊き、部屋に向かった。

「513号室。ここだ。」

「それじゃ、俺はここにいるからよ。渉、行ってこいよ。」

佳祐はニコッと笑って僕の肩をポンポンと叩いた。

「佳祐……、うん。行ってくるよ」

スライド式のドアに手をかける。

中には6つのベッドがあって、おばあさんや、小さな子供がいた。右奥のベッドの上に天野さんの姿を確認する。

他の人に頭を下げながら天野さんの元へ向かった。

「天野さん…」

彼女は眠っていた。頭と左腕に包帯を巻いており、右足にはギプスがつけられている。

ベッド近くにあったイスに座り、天野さんの眠る顔を眺めた。

彼女の寝顔は落ち着いており、命に別状はないようだった。その時、天野さんの目がゆっくり開いた。

「あ…天野さん…!」

「飛永くん……」

「よかった…」

「…来てくれたんだ……」

天野さんは弱々しい声だが、微笑んで言った。

「うん…来たよ…、すごく心配で…」

僕の顔をまじまじと見る天野さん。

「顔の傷…どうしたの…。目も腫れてる…何かあったの……」

僕は苦笑いを浮かべて、「ううん、何でもない、こんなの大丈夫だよ」と言った。

「そっか……来てくれてありがとうね…」

天野さんがそう言って僕は照れ笑いを浮かべた。すると彼女はゆっくりと左手を上げ、手招きをした。

「ねえ飛永くん…もっとこっちに来て…」

「うん…」

イスを引き、ベッドの上の天野さんに近づく。天野さんが僕の頬を弱い力で撫でた。

「飛永くん…、本当に会いたかった……」

「僕も……」

天野さんの手を握る。彼女は、そのまま続けた。

「昨日は…ごめんね。気まずかったよね…」

「いや…天野さんがああ言ってくれて僕嬉しかったよ…」

「…ならよかった…」

僕と天野さんはじっと見つめ合った。

好きだった。僕は彼女のために出来ることを、これからしていきたいと思った。

天野さんが小さく口を開く。

「…ねえ飛永くん。今まで、ちゃんと伝えられなかったこと…言ってもいい…?」

天野さんの目から僕は目をそらさず、頷いた。

「私…、飛永くんが好き。世界で一番好き。一生、飛永くんといたい……」

心臓が大きく脈打った。そして僕はすぐに答えた。

「僕もだよ…天野さんのこと好き。気付いたら、天野さんのことばっかり考えてる…夏休み、天野さんから連絡が来ない時もすごく寂しかった…誰と居ても何だか物足りなくて…。いつも思い出すのは天野さんだった。」

「ホントに…?」

「ホントだよ。僕、天野さんと一緒にいたい…」

天野さんは初めて照れた表情を見せた。微笑んで、赤くなった顔を逸らした。

「だから…これからはずっとそばに居るよ。」

こちらに向き直し、赤い顔のまま僕の目を見る。

天野さんは少しぼーっとした。そして右手で布団を掴み、その中にゆっくりと沈んでいった。

「あ、天野さん…?」

その時、さっき言った自分の発言に、僕は何だかとても恥ずかしくなって、顔を真っ赤に染め上げた。

「飛永くん……」

細い声。天野さんが顔半分布団から出して、僕を見つめる。

「2人で、頑張っていこうね…」

僕は天野さんの手を取り、両手で優しく握った。そして頷いた。

今なら、僕なりにではあるのだけれども、頑張るの意味を見つけた気がする。

僕は、天野さんを守っていきたい。

虐待を受けている天野さんの気持ちを、普通の家庭で育った僕が理解出来るわけないのかもしれないけど、それでも僕は天野さんのために、彼女を理解し、そして支えになれるように努力したいと思った。

時間を見ると、5時前になっており「今日はそろそろ帰るね。また来るよ」と言って僕は椅子を立った。ニッコリと笑って「またね。」と手を振る天野さん。僕は笑顔で頷き、手を振った。

ドアを開き、外に出る。

「もう終わったか?これから家に帰ったら説教が待ってるぞ〜」

佳祐が僕の肩に腕を回し、笑って言った。

「そんな事言わないでよ、帰りたくなくなるじゃん」

僕も佳祐の肩に腕を回して、ぐったりとダレた。

今日は最悪な日だったけど、悪いことばかりではなかったから、僕の顔には笑顔が浮かんでいた。

2人で廊下を歩いている時だった。

前方からスーツを着た男が焦ったふうな雰囲気で、早歩きをしながら向かってきた。

どことなく、誰かに似ている。

「おい渉、あれって…」

男が僕達の横を通り過ぎる。

僕と佳祐は肩を組んだ状態で、振り返った。

男はさっき僕達が出てきた513号室に入っていった。

「よかったな!渉、挨拶でもしと…」

佳祐が冗談を言うふうに言ったが、僕はそれを最後まで聞くことなく、彼の肩から腕を離し天野さんのいる病室に向かった。

「わ、渉…?」

ドアの前で立ち止まる。

待て、今僕が入ったらどうなる…。また天野さんに被害が及ぶに違いない…。

僕はドアの奥の音に耳をすませた。

何やらブツブツ言っている声は聞こえるが、荒れてはいないようだった。

ここは病院だし、他の患者もいる…。さすがにこんな場所では何もしないか…。

「おい渉、どうしたんだよ」

佳祐が心配そうに声をかけた。

「ごめん佳祐…、さっきの人が出てくるまで僕待ちたいんだけど…」

「えぇ〜?」

佳祐が困り顔で言う。僕は黙って下を向いた。すると佳祐は頭をポリポリと掻きながら言った。

「まあ、渉1人にしたら何が起こるか分からないからな。俺もいるけどさ。」

「ありがとう…、ホントごめんね。」

「渉のことだから何かあるんだろ?いいってことよ」

佳祐は僕の肩をポンと叩いた。

僕達は513号室前の廊下の角で待ち伏せをしていた。天野さんの父親らしき男は30分程して、病室から出てきた。

僕も佳祐も、やっと出てきたとため息をついた。

「やっぱり、あれ天野さんのお父さんだ。前に参観日の時来てたの見たことある…」

佳祐がじっと目を凝らして言う。

「うん……」

「でもさ、何でこんな事するんだよ?コソコソしなくたって、話しかけりゃいいのに」

「それができる相手なら…いいんだけど。」

僕がそう言うと佳祐の顔はさらに疑問に思う表情になった。時計をチラッと見る。

「渉、もう5時半だ。家に帰る頃には6時半とかになっちまう。今日のところは引き上げてまた明日来ようぜ。」

「うん…そうだね…」

本当は天野さんの病室にもう一度行きたかったところだが、天野さんも今日のことで疲れているだろうし、佳祐の言う通りうちに帰るのも遅くなってしまうので、僕達は引き上げることにした。

2019年4月24日公開

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