「全裸の特異点はアナテマである」
そう言った高名な物体学者は、後に死亡した。いったい〈アナテマ〉とは何だったのか。その答えは、永遠にわからないのかもしれない。
関東ヤンキー大学は、異界観測学の最高学府だ。近いほうがいいだろうという理由で、S級検閲線――〈イベント〉後に人類が定めた境界線のすぐ外側に施設が再建された。以来、完全中立都市オーヴァゼアの中心部で、各方面からの汚い予算を吸い込みながら成長している。そして、今でも時おり出現する新たな〈裂け目〉を誰よりも早く観測するために、学内のヤンキーたちは眼を光らせている。
それでも、世界の〈裂け目〉を実際に見たことがある奴なんて、学部レベルではほとんどいない。俺もそうだった。
俺が見た〈裂け目〉は、一言で言えば五次元走馬燈のようなものだった。いきなりそいつが目の前に現われた時は、五次元的に死んだと思った。
子供のころに見た落書き。初めて盗んだ香水。壊れたトンファー。これから起業したい商社の株価。俺に妹はいないのだがその妹の結婚式――こいつが見えた瞬間は、確実に五次元的に死んだと思った。それでも俺は生きていた。走馬燈は止まっていた。目の前にいる大きな男は、いつまでたっても消えなかった。
「2Eキスおっ」
全裸の男は、そんな感じで発声した。もちろん意味はわからない。
「2Eキスお! 2Eキスお!」
としか聴こえない。
サイズは規格外だが、人型の男だ。とりあえず、いきなり俺を捕食しようとはしていない。
俺は、鞄の中から非常用キットを取り出し、不明言語消毒液〈バルベルキラー〉を自分の口内に噴霧してから、おそるおそる男に渡した。男が吸入器を握りつぶしでもしたら即座に煙幕をはって逃げるつもりだったが、相手は俺の意図を察したようだ。
「吸入型の翻訳機であるか」
俺をまねてバルベルキラーを摂取した男は、高い知能と多世界常識を持っているようだ。声が大きすぎて逆に聞き取りづらいが、会話はできるようになった。
「味は、まあ、悪ろし」
「それな」
地球標準に近い味覚をもっている相手には、毒だと思われても仕方がないほど酷い味だが、超科学者たちがそこを改良してくれる気配はまったく無い。無限に続きかねない主観的な要求については、例外なく入口でシャットアウトするのが奴らのポリシーだ。
このバルベルキラーに関しては、あまりにも高度な上にリスキーすぎて、修正屋たちも手をつけられない。薬液内でスリープしているナノマシンを口腔内やら骨迷宮やらで適度に増殖させる技術だけでも、人類のチャレンジ技術領域のさらに外側にある。
「で、小童、この世界は何をすればクリアだ」
「……え?」
「聴こえんか!」
男は、さらに大きな声を出した。それはもう、大声なんてものじゃなかった。並木の小鳥や校舎の陰の大蝙蝠が一斉に飛び去った。遠くにある実験林の上空まで騒ついている。そのくせ、あたりで人間が動く気配は無い。もしかすると、既にもうこの地点では何らかの異常な数値か魔力が観測されていて、誰もが遠巻きに様子をうかがっている段階なのだろうか。
「聴こえんのかあ!」
「きこえてます!」
俺は両手を前に出して叫んだ。あまりの存在力に圧倒されて、本能的に身の危険を感じてはいたが、話の通じない相手ではない。俺はまだ死んだりしない。五次元走馬燈はもちろん、従来の走馬燈も見えてはいない。
「きこえてますから、もう少し、ていうか遥かに小さな声で話してください」
「むう、そうか。で、どうすればこの世界はクリアだ」
「何を言ってるのかわかりません」
「まだわからんか。さっきのをもう少しよこせ」
「いくら吸っても同じです。単語レベルでは、きちんと通じてるんですよ」
互いの体内のナノマシン同士が通信していると言っても過言ではない状態だが、やはり限界はある。
「語法がおかしいか」
「たぶん、常識だと思う範囲が大きくズレてます」
俺は、いったん言葉を切った。これでも、入学当初は真面目に授業を受けていた。教わった通りにやるだけだ。
「質問します。あなたは「世界」を「クリア」する方法を知りたがっている、と私は信じていますが、私のこの信念は正しいですか?」
「正しい」
「喜ばしいことです。では、次の質問をします。「世界をクリアする」とは、どういう意味ですか?」
「そこか」
「はい。その文の意味するところがわかりません。これから、あなたの言う「クリア」についての質問をします。あなたは、世界を「クリア」したことがありますか?」
「なめるな小童ッ!」
「落ちついてください。異文化です」
「であるか。ふむ、なるほど。この世界は、あれか、世界アスロンを知らぬ者がおるのか」
セカイアスロン? まったくわからない言葉だ。世界と、何らかのアスロンの複合語? ナノマシンは、それ以上の翻訳を放棄したようだ。
「はい。私はまったく知りません」
「そのようなステージではないように感じたがのう」
「質問をします。「セカイアスロン」というのは、ゲームのようなものですか?」
「ゲーム? ピコピコか。あんなものと一緒にするでないわ」
「不適切な比喩でした。謝罪します」
「うむ」
「質問を変えます。「セカイアスロン」というのは、スポーツのようなものですか?」
「近い。しかし、それゆえに遠い」
「……は?」
「世界アスロンは、武道だ。昨今のスポーツ化した世界アスロンを、儂は苦々しく思うておる」
武道。専門外だ。教養課程で初歩的な講義を受けてはいるが、そこからヤンキー理工学部に進んだ俺は、異界の武道をほとんど知らない。それは、ヤンキー人間学部やヤンキー芸能学研究科の領分だ。
「わかりました。セカイアスロンは武道」
言いはしないが、もう一つ判ったことがある。目の前にいる、この男の分類だ。
ヤンキー理工学部の専門領域――超科学の構築者ではない。
ヤンキー法文学部の専門領域――超魔法の探求者ではない。
ヤンキー人間学部の専門領域――超存在そのものだ。
「然り。世界アスロンとは武道。世界を最速にてクリアする武道である。そして、この儂こそが、この身一つで三千世界の記録を塗り替える武道家――ゴータマ・ゴーザであるわ!」
超存在は名乗りを上げた。
「して、小童よ。この世界は、どうすればクリアだ?」
俺の名前はエンポリオです。
"第3話-M 全裸の特異点ぴょい伝説"へのコメント 0件
このページのコメントはもう閉じられてしまいました。新たにコメントを書くことはできません。