世の中、だいたいのことは運だ。運で決まる。
人間に生まれるか、男に生まれるか、女に生まれるか、体は健康か、美しいか、どんな国、家庭に誕生できるのか。僕は人間の男で、健康、残念ながらハンサムとは呼べない顔、治安の悪い一角はあるが内戦などはない国で、クリスチャンの夫婦のもとに誕生した。
両親と一緒に教会に通い、お祈りをし、聖書を読み、ボランティア活動に参加する。幼い頃は退屈に感じていたけれど、そのうち両親に感化され、苦でなくなった。とくに聖書に書いてあることは純粋に興味深い。隣人を愛しなさい、敵を愛しなさい、愛は寛容であり情け深い。
両親は優しくて愛に溢れていた。叱っても、そのあと絶対に許してくれる。命を重んじていて、殺生禁断についてキリスト教の教えだと人間以外は適用されていないが、家にコックローチが出ても潰さず逃がしていた。
穏やかで平和な家庭と、ありがたい教え。悪くない環境だ、幸せだ。ただ――同性愛者は死ななければならない、という律法には感化されなかった。これが僕の不運。異性さえ愛せれば、なんの問題もなかった。
物心つく頃から女の子に対してなんとも思えなかった。近所の可愛い男の子に対しては慈愛以外の罪深い感情を覚えてしまっていた。そしてもうちょっと経つと思春期の衝動に耐えられず、ネットでゲイポルノを見ながら精液を零し、同性愛と自慰、自然に反する罪を二つ同時に犯したことに落ち込んだ。
でも、宗派や人によってはおおらかだ。教会で両親と同性愛の問題について議論していたクリスチャンがいた。
「確かに同性愛は罪だと聖書に記してある。しかし、本当は自分の偏見にしか過ぎない批判を聖書を利用して行うだなんて、むしろ聖書に対する冒涜じゃないかね? それに赦されない罪はないはずだろう。神は同性愛という罪は憎まれるであろうが、同性愛者という罪人は愛してくださるはずだ」
顔を赤くして怒る両親の横で、僕はひそかにこのクリスチャンに同意していた。コックローチの命は重んじるのに、同性愛者には死ななければならないなどと言う両親が不可解だ。両親のことは好きだけれど、疑念がわきはじめる。そして、こんなクリスチャンの息子に生まれていればな……と、うすら思ってしまった。
罪を告白する勇気は出ないけれど、罪悪感は薄れた。ネットで僕と同じ性指向のコミュニティーを利用して、知り合った子と会ってみた。ブラウンの柔らかい髪の、素朴な可愛さのある同い年の男の子。
絶対にバレることがないようにと注意を払って、少し遠いところでデートを重ねた。そのうち「今日、誰もいないんだ」と彼の家に呼ばれて――僕は彼を抱いた。
十分に勉強した仕方でバックを解し、ひとつになった瞬間の感動。自慰では得られない体温。
「大丈夫かい?」
「くっ、うんっ……コスタ、好き」
女と寝るように男と寝たら処刑される。僕はとうとう、とんでもない大罪を犯してしまった。
でも、愛は寛容であり情け深いのだろう?
こんなにも愛し合っているんだ、赦される。と、恋の熱に浮かされた僕は甘い幻想を抱きつつあった。デートに近所の公園を選び、大胆にいちゃついてしまった。
それを両親の友人に見られた。もちろん、その友人も厳格なクリスチャン。家に帰ると、両親から厳しく問い詰められた。
必死にただの仲のよい友達だ、ふざけていただけだと誤魔化す。両親はとりあえず納得したようだった。
「冗談でも、もう二度としないように。自然に反する行為だ」
「そうよ、同性愛者は地獄に堕ちるべき罪人なのよ」
しかし、この言葉で幻想は壊された。
無理して愛した女の子と将来子供でも作ったほうが自然なんだろうか? まだ見ぬお嫁さんと僕はきっと不幸になる。愛せる者を愛したら不自然かもしれないが、きっと幸せだ。幸せになったら地獄へ堕ちることになってしまうのか?
「は、はい……」
と、答えつつ、両親に対しもうダメだなと思った。自室に戻り、恋人にメールをしようとしたところで、床をコックローチが這っているのを見つけた。まるめた雑誌で叩き潰す。
幼い頃、牧師にこんなことを聞いた。
「すべての罪は赦されるって、じゃあ人を殺しても赦されてしまうのでしょうか? それでは殺された人やその家族がかわいそうです」
痛ましい殺人事件のニュースかなにかを僕は見たのだと思う。牧師は間を置かず答えた。
「罪は赦されるけれど、許されません。許すというのは人の世の意思に関わることですから。私ももしも大切な人が傷つけられたら加害者のことを愛しはしても、許しはしません」
赦されても、許されない。僕はこの記憶を忘れていた。
"マルガリータ街 8番通り Cと小さな新世界"へのコメント 0件