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蒐集室 第一巻 螺鈿の櫛

蒐集室(第1話)

ゐで保名

預かるのは、あなたの生涯で「最も美しかった、ただ一つの瞬間」

タグ: #幻想文学 #耽美小説

小説

25,244文字

  第一章 疎水の離れ
 
 蔦代姉さんが世を去つたのは、大正十一年四月の、桜の散り終へた翌朝であつた。
 その年の二月の末から、姉さんは階下へ降りて来なくなつてゐた。祇園の置屋「夕霧」の二階、東向きの六畳に床を延べ、障子越しに、屋根瓦の霜の融けてゆくのを眺めて日を送つた。咳をするたびに、懐紙が赤く染まつた。医者は首を振り、「花の頃までやろ」と、女将さんにだけ告げた。わたくしは襖の蔭で、それを聞いてしまつた。
 わたくしは小糸といふ。その頃、十九であつた。八つの年から姉さんの手許で育てられ、舞妓の衿替へを済ませて、まだ二年にならぬ。姉さんは、わたくしの、たつた一人の身内であつた。
 蔦代姉さんは、五十になつてゐた。若い頃は、祇園甲部に並ぶ者のない名妓と謳はれ、座敷が静まるのは姉さんが襖を開けた時だ、と言はれたさうである。わたくしの知る姉さんは、舞扇を置いて久しく、置屋の奥で若い妓らの稽古を見る人であつた。細い、背筋の伸びた人で、笑ふと、目尻に長い皺が寄つた。その皺の寄り方が、わたくしは好きであつた。
 三月の初めの、よく晴れた朝のことである。
 粥の盆を運んで行くと、姉さんは床の上に起き直つて、鏡台に向かひ、自分で髪を撫でつけてゐた。
「姉さん、起きたらあきまへん」
「ええのどす。小糸、今日は、着替へさせとくれやす」
「どちらへ」
「行きたい所があるのどす」
 姉さんは、鏡の中のわたくしを見て、微笑んだ。
「あんたも、一緒に来ておくれ」
 わたくしは、止めようとした。止められぬと知つてゐたから、止めようとしただけである。姉さんは、決めたことを、決めた通りにする人であつた。
 鳶色の縮緬に、薄鼠の帯を締めさせた。紅は差さなかつた。差せば、頰の痩せが、かへつて目立つのである。姉さんは、それを知つてゐたので、さう命じた。
 門前に呼んだ人力車は、辰さんの車であつた。辰さんは、姉さんを抱き上げて座席に載せ、膝に毛布を掛けながら、「どちらへ」と訊いた。
「岡崎の、疎水の端どす。着いたら、教へますよつて」
 わたくしは、姉さんの傍らに、肩を寄せて乗つた。細い身体であつた。袂の下の腕が、箸のやうに軽かつた。
 車は、四条の通りを東へ上がつた。まだ桜には早い。八坂の塔の下を過ぎ、知恩院の裏手を廻り、粟田口の坂を、辰さんが息を切らして曳いていつた。空は水を溶いたやうに淡く、遠い山の背に、霞がかかつてゐた。
「小糸」
「へえ」
「何も、訊かんでおくれやすな」
「へえ」
「着いたら、わけが分かりますよつて」
 姉さんは、さう言つたきり、黙つた。膝の上の手が、小さな風呂敷の包みを押さへてゐた。包みの形から、わたくしには、それが何か見当がついた。櫛である。長い間、姉さんが桐の箱に仕舞つて、誰にも触らせなかつた、あの櫛であつた。
 
 岡崎の疎水は、琵琶湖から引いた水が、音もなく、しかし速く、石の岸を洗つてゐた。両岸の柳に、芽が吹き始めてゐる。水の面に、その薄緑が、濃く淡く、映つてゐた。
 辰さんの車は、疎水に沿ふ細い道を、ゆつくり進んだ。右手は、築地塀が続く。苔が塀の肩に厚く載り、瓦の継ぎ目から、羊歯が覗いてゐた。長い塀であつた。誰の邸とも知れぬ。門は、見当たらなかつた。
「そこどす」
 姉さんが言つた。
 辰さんが、車を止めた。築地の途中に、人の背丈の半ばほどの、潜り戸があつた。戸も、柱も、塀と同じ色に古びて、言はれなければ、塀の継ぎ目としか見えぬ。表札も、屋号もなかつた。
「ここで、待つてて。夕刻には、戻りますよつて」
「へえ。けど、姉さん、ほんまに、ここで」
「へえ、ここどす」
 辰さんは、不審げに戸を見て、わたくしを見た。わたくしも、同じ顔をしてゐたに違ひない。
 姉さんは、わたくしの肩を借りて車を降りた。足を地に着けるとき、一度、小さく息を詰めた。わたくしは、姉さんの腕を、強く支へた。
 潜り戸を押すと、軋みもなく、開いた。
 庭であつた。
 塀の外から想像もつかぬ広さの庭が、そこにあつた。苔の上に、飛び石が点々と続き、その両側に、椿が咲いてゐる。白と、紅と、絞りと。落ちた花が、苔の緑の上に、そのまま形を崩さずに散つてゐた。梅は、もう終はりである。老木の枝に、残り花が数輪、白く煙つてゐるだけであつた。
 音がなかつた。疎水の水音さへ、塀を越えると、遠くなつた。
「お待ち申してをりました」
 不意に、声がした。
 飛び石の先、母屋の縁の端に、いつの間にか、一人の老女が立つてゐた。背の曲がつた、小さな人である。手に竹箒を持ち、前垂れを掛けてゐた。
「……と申すのは、嘘で。どなたがお見えになつても、さう申すことにしてをります」
 老女は、皺だらけの顔で、にやりと笑つた。
「室守りの、類と申します。お足許の悪いこと。さ、こちらへ」
 姉さんは、笑はなかつた。ただ、深く頭を下げた。
 母屋の縁を伝ひ、渡り廊下を二つ、折れた。廊下の床板は黒光りして、足袋の底が、冷たかつた。庭の奥へ、奥へと、屋根が連なつてゐる。いつ、誰が建てたのか。柱の肌理は、数百年の脂を吸つた色であつた。
 廊下の突き当たりに、離れがあつた。
 茅葺きとも瓦葺きともつかぬ、低い屋根の小さな建物である。軒先に、風鐸が一つ下がつてゐたが、風がないのに、微かに揺れてゐた。
「ここから先は、私は参りません」
 お類さんが言つた。
「お帰りの折に、お茶を差し上げますで。……あの方は、ものを多う仰らぬお人です。お気を悪うなさらぬやうに」
 それだけ言ふと、お類さんは、箒を提げたまま、廊下を戻つていつた。
 
 板戸を引いたのは、姉さんであつた。
 中は、十畳ほどの座敷であつた。
 最初に目に入つたのは、壁である。
 三方の壁が、床から天井まで、小さな抽斗で埋まつてゐた。薬簞笥に似てゐる。が、薬屋のそれより、遥かに小さく、数が多い。黒ずんだ桐の抽斗が、隙間なく、整然と積まれてゐた。取手は、どれも小さな真鍮の環で、環のひとつひとつに、細い紐で、無地の木札が結んである。
 数へるともなく、数へた。端から端、上から下。百。それより一つも少なくなく、一つも多くなかつた。
 その抽斗の、いくつかが、微かに光つてゐた。
 閉ぢた抽斗の隙間から、細く、光が洩れてゐるのである。雪明りのやうに青白いもの、夕焼けのやうに赤いもの、春の水のやうに揺れるもの。光は、座敷の闇を、淡く染めてゐた。大方の抽斗は暗かつた。が、光つてゐる抽斗は、まるで眠つてゐる者の息のやうに、かすかに明滅した。
 座敷の窓際に、一脚の低い机があつた。
 机の前に、一人の人が座してゐた。
 男であつた。二十代の半ばかと見えた。白い小袖に、黒い羽織を重ねてゐる。髪は短く、前髪が眉にかかつてゐた。色の薄い、整つた顔立ちで、目は、伏せられたまま上がらない。膝の上に置いた手の、指が長かつた。
 窓の縁に、猫がゐた。
 白い猫である。毛足が長く、雪のやうに白い。わたくしたちの方へ向けた顔の、右の眼は藍、左の眼は金であつた。猫は、動かなかつた。ただ、藍と金の二つの眼が、まづ姉さんを見、次にわたくしを見た。わたくしは、胸の底まで見られたやうな気がして、思はず袖を握つた。
「座れ」
 男が言つた。
 声は低く、短かつた。顔は、まだ上がらない。
 姉さんは、わたくしの腕を離し、一人で、畳に座つた。わたくしは、一歩下がつて、板戸の際に膝をついた。
「その者は」
「うちの妹どす。小糸、いいます。ここに居つてもろてもよろしおすか」
「……構はぬ。見るだけだ。口は挟むな」
 男は、初めて、顔を上げた。
 わたくしは、目を伏せかけた。伏せきれなかつた。
 美しい、といふ言葉では、足りなかつた。美しいものを、あまりに長く見続けた人の、疲れが、その目に沈んでゐた。薄い茶の、硝子のやうな目であつた。その目は、わたくしを通り抜け、わたくしの後ろの、何もない所を見てゐるやうであつた。
「御影紫苑。ここの主だ」
 男は、それだけ言つた。
「蔦代と申します。祇園の、夕霧の者どす」
「知つてゐる」
 紫苑は、言つた。
「ここへ来る者につひては、みな、事情を知つてゐる。私が言ふことは、三つだけだ。心して聞け」
 姉さんは、頷いた。
「一つ。私が預かるのは、お前が、生涯で最も美しいと感じた、ただ一つの瞬間だ。他人の目に美しいものは、預かれぬ。偽りの美も、預かれぬ。偽れば、封は砕け、偽りの分だけ、お前に返る」
「二つ。預けた瞬間は、お前の内から消える。何があつたか、誰がゐたか、思ひ出せなくなる。その時に伴つた心も、薄れる。残るのは、空だ。理由の分からぬ空だ。お前の周りの者は、忘れぬ。忘れるのは、お前だけだ」
 姉さんの横顔は、動かなかつた。
「三つ。返すことは、一度だけ出来る。返せば、瞬間は戻る。だが、預けてゐた時の分だけ、色が変はる。褪せるか、濃くなるか。それは、私にも分からぬ」
 紫苑は、そこで一度、言葉を切つた。
「代はりに、金は取らぬ。ただ、問ひを一つ、置く。お前は、正直に答へよ」
「承知しとります」
 姉さんは、風呂敷の包みを、膝の前に置いた。結び目を、ゆつくりと解いた。桐の小箱が現れた。蓋を取ると、中の綿の上に、一枚の櫛が横たはつてゐた。
 螺鈿の櫛である。
 黒漆の地に、青貝を薄く磨いて、散らし嵌めにしてある。梅とも雪の結晶ともつかぬ文様が、櫛の背に、小さく浮かんでゐた。座敷の薄暗がりの中で、貝の肌が、青く、淡く、緑がかつて、光つてゐた。
 紫苑の目が、櫛に落ちた。
 それまで、何も映さなかつた硝子の目が、微かに、動いた。
「話せ」
 紫苑は言つた。
「お前が、最も美しいと思つた、一瞬を」
 姉さんは、背筋を伸ばした。目尻の皺が、一度、深く寄つて、すぐに消えた。
 窓の猫が、尾を、ゆるりと動かした。
 
  第二章 語り
 
 姉さんは、しばらく、櫛を見つめてゐた。
 それから、静かに口を開いた。わたくしが聞いたことのない、低い、遠い声であつた。
「明治二十三年の、二月の末どした。うちは、十八になつてをりました」
 紫苑は、動かなかつた。
「十四の年から舞妓に出て、四年。その春に、水揚げが決まつたのどす。相手は、西陣の織元の、鶴屋の大旦那はんどした。五十に近いお人で、気前はええし、顔も悪うない。置屋の母さんは、これ以上ない縁やと、喜んではりました。うちも、嬉しい顔をしました。嬉しい顔をするのが、仕事どすよつて」
 姉さんの口許が、僅かに歪んだ。笑ひとも、苦味ともつかなかつた。
「水揚げは、二月の二十七日と決まつてをりました。その前の晩のことどす」
 窓の外で、風鐸が、小さく鳴つた。
「話の前に、あの人のことを、言うとかなあきまへん。宗太郎、いふ人どす」
 わたくしは、膝の上の手を、握り締めた。その名は、知つてゐた。知つてゐたが、姉さんの口から聞くことは、ほとんどなかつた。
「円山派の、若い絵師どした。二十一。師匠の使ひで、置屋の奥座敷の襖絵を、直しに来はつたのどす。師匠の描かはつた松の、剥げたとこを、継ぎ足す仕事どした。一月ほど、毎日、通うて来はりました」
「無口な人か」
 紫苑が訊いた。
「へえ。口数の少ない人どした。座敷の隅で、絵具を溶いて、筆を持つてはる。うちが廊下を通つても、ちらつと見るだけで、また筆に戻らはる。他の客はんは、みな、うちを見て、何ぞ言うてくれはるのに」
 姉さんは、ふつと笑つた。
「それが、おもしろうて、うちから、声をかけたのどす。何を描いてはるの、て。そしたら、あの人、松の根方を指して、ここに、鹿を足すのやと言ひなはつた。師匠は、鹿を描かはらへんかつた。けど、あの人は、描きたかつたのどす。描いてええのか、分からへんので、悩んではつた」
「描いたか」
「描かはりました。ちゃんと、師匠の許しを取つて。……襖絵の、松の根方に、今も、小さな鹿が、一匹ゐてます。うち、毎朝、その前を通りました」
 姉さんの声が、そこで、僅かに揺れた。
 紫苑は、問ひを挟まなかつた。猫も、動かなかつた。
「あの人は、うちを、一度も、口説かはらへんかつた。ただ、絵を描きに来て、描き終はつたら、帰る。それだけどす。けど、うちが廊下に出ると、いつも、筆を止めはるのどす。筆を止めて、うちの背中を、見てはつた。気づいてをりました。うちは、振り返らなんだ。振り返つたら、何かが、始まつてしまふやろ。うちは、十八で、水揚げが決まつてをりました」
 わたくしは、俯いた。
 姉さんは、一度、咳き込んだ。袖口で口を押さへ、懐紙を取り出して、素早く畳み直した。わたくしの方へは、目を向けなかつた。
「襖絵は、二月の二十五日に、仕上がりました。あの人は、それきり、来はらへんようになつた。うちは、水揚げの支度で、忙しうしてをりました。お衣裳の寸法を合はせ、お披露目の挨拶廻りの稽古をし、……忘れよ、思うてました」
 姉さんは、膝の上の櫛を、見下ろした。
「二十六日の晩どす。夜が更けて、うちは、裏の庭に出ました。寝られへんかつたのどす。水揚げの前の晩は、どの妓も、さうどす。風呂を使うて、髪を解いて、母さんが寝静まつた後で、独りで、冷たい風に当たりたかつた」
 わたくしは、顔を上げた。
 姉さんの目が、いつのまにか、座敷の壁を通り抜けて、別の所を見てゐた。
「雪どした」
 紫苑の指が、膝の上で、ほんの僅か、動いた。
「その日の夕方から、降り出してをりました。春の雪どす。重たい、牡丹雪どした。裏庭の南天の葉に、ぼたぼたと積もつて、庭の石灯籠が、白い頭巾を被つたやうになつてゐた。うちは、縁側の下駄を履いて、庭へ降りました。足袋が濡れるのも構はずに」
「寒くはなかつたか」
「寒うおした。けど、あの晩は、不思議と、気にならへんかつた。うちは、髪を解いたままで、寝間着に袷を羽織つただけで、……傘も差さんと」
 姉さんは、目を閉ぢた。
「木戸が、鳴りました」
 座敷の闇が、深くなつたやうに思はれた。
「裏木戸どす。うちは、はつとして、振り向いた。木戸の向かうに、人がゐた。雪の中に、黒い影が一つ、立つてゐた」
「宗太郎か」
「へえ」
 姉さんは、ゆつくりと、目を開けた。
「傘もなく、羽織も濡れて、肩に雪が積もつてをりました。睫毛にも、雪がついてゐた。髪の先から、雫が落ちてゐた。長いこと、そこに立つてはつたのやと、すぐに分かりました」
「何と言うた」
 紫苑が訊いた。
 姉さんは、首を振つた。
「何も」
「何も」
「何も、言はらへんかつたのどす。一言も。うちも、何も言へなんだ。二人とも、雪の中で、黙つて、向かひ合うてゐた。……あの人が、懐から、小さな包みを出さはりました」
 姉さんの手が、膝の上の櫛に、触れた。
「油紙に包んだ、細長いもんどした。雪に濡れんやうに、何重にも巻いてありました。あの人の手は、赤うなつて、震へてをりました。包みを解いて、……中から、これが出てきた」
 わたくしは、櫛を見た。青貝の光が、座敷の闇の中で、息をするやうに、明るんだり、翳つたりした。
「螺鈿の櫛どす。あの人が、自分の持ち物を質に入れて、買うてきはつたもんやと、後で人づてに聞きました。けど、その晩は、何も知らへんかつた。ただ、青い貝の花が、雪明りの中で、光つてゐるのを、見てをりました」
 姉さんの声は、既に、わたくしの知る姉さんのものではなかつた。十八の娘の声であつた。
「あの人は、櫛を持つたまま、うちの方へ、一歩、歩いてきはりました。木戸の内に入つて、雪を踏む音が、きゅつ、と鳴つた。それから、手を伸ばして、……うちの、解いた髪に、触れはつた」
 紫苑の目が、細められた。
「触れ方は」
「恐る恐る、どした。壊れ物に触るやうに。髪を掬つて、耳の後ろに掛けて、……それから、櫛を、挿さはりました。右の耳の上に。ゆつくり、ゆつくりと」
 姉さんの右手が、自分の髪の、右の耳の上に、そつと上がつた。何も挿してゐない、白髪まじりの髪に、指が触れた。
「手が、うなじに触れました。冷たうて、……けど、指の先だけが、熱うおした。息が、かかつた。白い息が、うちのうなじを、湿らせた」
 姉さんは、目を閉ぢたまま、続けた。
「櫛が挿さつて、あの人の手が、離れた。それから、あの人が、半歩、下がつた。うちを見はつた。うちも、あの人を見ました。雪が、あの人の睫毛から、一粒、落ちた」
 座敷に、音がなかつた。風鐸さへ、止まつてゐた。
「あの人は、笑はらへんかつた。泣きもしはらへんかつた。ただ、うちを、見てはつた。うちが、……うちが、笑ひました。自分でも、笑うたとは、思はへんかつたのどすが、頰が勝手に、緩んだ。そしたら、あの人の目が、……」
 姉さんは、そこで、言葉を止めた。
「目が」
 紫苑が促した。
「あの人の目が、ほどけたのどす。縛られてたものが、解けるやうに。それまで、堅うに結んではつたものが、すうつと」
 姉さんは、目を開けた。濡れてゐた。
「それが、全部どす。それだけどす。あの人は、そのまま、木戸を出て行かはりました。うちも、引き留めなんだ。何も、言はなんだ。雪の中を、あの人の影が、遠ざかつていく。白い雪に、足跡だけが、点々と、残つてゐた。……うちは、櫛を挿したまま、立つてゐました。朝まで、といふ気がするほど、長う」
 わたくしは、拳を口に当てた。声を殺した。
「翌る日、うちは、水揚げを済ませました。櫛は、挿しませんどした。着物に合はへんかつたし、……母さんが、気づいたらあかんよつて」
 姉さんは、懐から、手拭ひを出した。目許に当てた。が、すぐに外した。
「その後の三十二年のことは、……あの人のことも、うちのことも、ここで話すことやおまへん。たくさん、ありました。会うて、別れて、また会うて。……あの人は、明治四十四年の秋に、亡うなりました。肺どした。うちが、駆けつけた時には、もう、息がなかつた。……間に合へなんだ」
 声が、掠れた。
「それが、年々、積もるのどす。雪のやうに。あの人の枕許に、間に合へなんだうちの、……あの時の景色が、年を経るごとに、あの晩の上に、重なつてくる。美しい晩やつたのに、思ひ出すたびに、後から、後から、悔いが降つてきて、……上から、埋めていくのどす」
「それで、封じるか」
「へえ。うちは、もう、長うおへん。死ぬ前に、あの晩を、悔いの下から、掘り出しておきたい。悔いの積もらへん所に、仕舞うておきたいのどす」
 紫苑は、しばらく黙つてゐた。
 それから、低く、問うた。
「問ひを一つ、置く」
「へえ」
「お前は、それを忘れても、守りたいか」
 わたくしは、はつとして、顔を上げた。
 忘れても。
 それは、確かに、さうであつた。封じれば、姉さんは、宗太郎さんを忘れる。雪の晩を、櫛を、あの笑ひを、全て忘れる。姉さんの内に、宗太郎さんは、居なくなる。
 居なくなつても、守りたいのか。
 姉さんは、ゆつくりと、手拭ひを畳んだ。その仕草は、少しも、乱れなかつた。
「忘れてもええのどす」
 はつきりと、さう言つた。
「覚えてることと、在ることとは、違ひますやろ。うちが忘れても、どこぞに、あの晩は、在る。誰かが覚えてをれば、それでよろし。……あんたはんが、覚えてくれはるのやつたら、うちは、安心して、忘れられます」
 紫苑の目が、一瞬、姉さんから外れ、白い猫の方へ、動いた。
 猫が、右の藍の眼を、細めた。
「偽りはない」
 紫苑は、言つた。
「受け取る」
 姉さんは、深く、頭を下げた。畳に、額が触れるほど。白い項が、露はになつた。そこに、ほつれた髪が、一筋、かかつてゐた。
 わたくしは、その項を見つめながら、思つてゐた。
 三十二年。姉さんは、一度も、わたくしに、この話をしなかつた。宗太郎さんの名を、口に出したことさへ、数へるほどであつた。わたくしが宗太郎さんについて知つてゐたことは、姉さんの部屋の簞笥の上に、桐の箱に入つた一枚の絵があること。それが、宗太郎さんが描ひた、櫛を挿した少女の絵であること。そして、わたくしを姉さんの許へ連れてきたのが、亡くなる直前の宗太郎さんであつたこと。
 それだけであつた。
 八つの年の秋、父を失つたわたくしを、病床の宗太郎さんは、枕許に呼び、姉さんに言つた、と聞く。この子を、頼む、と。それが、わたくしの、夕霧での暮らしの、始まりであつた。
 わたくしは、宗太郎さんの顔を、覚えてゐない。覚えてゐるのは、冷たい、骨張つた、大きな手が、わたくしの頭を撫でたことだけである。
 姉さんは、顔を上げた。
 その顔は、夕暮れの水のやうに、澄んでゐた。
 
  第三章 封じ
 
 紫苑が立ち上がつたのは、その時が初めてであつた。
 背が高かつた。白い小袖の裾が、畳を擦る音もなく動き、黒い羽織の袖が、燭台の方へ伸びた。座敷の隅に置かれた古い燭台に、火が点された。細い、白い炎である。炎は、他の灯りを一つも必要とせぬやうに、静かに立ち上がつた。
 窓の障子が、閉ぢられた。
 壁の抽斗の、微かな光だけが、闇の中に浮かんだ。青、赤、緑、金。百ある抽斗のうち、十ばかりが、それぞれの色で、呼吸してゐた。
 紫苑は、机の上に、黒漆の盆を据ゑた。盆の上に、白い絹を敷いた。それから、香を焚いた。香炉は掌ほどの小ささで、立ち昇る煙は、真つ直ぐに天井へ延び、天井の闇の中で、ふつと途切れた。白檀とも沈ともつかぬ、冷たい香りであつた。
「櫛を」
 姉さんは、桐の箱ごと、紫苑の前に差し出した。
 紫苑は、櫛を両の指の腹で挟み、燭の光にかざした。
 その時、紫苑の指が、止まつた。
 わたくしは、それを見てゐた。
 紫苑は、櫛の背を返した。棟の裏、黒漆の面に、燭の光が斜めに当たつた。そこに、何かが、あつた。わたくしの位置からは見えなかつた。が、紫苑の目が、そこに留まつたまま、動かなかつた。
 どれほどの間であつたか。
 窓際の猫が、音もなく立ち上がつた。白い尾が、真つ直ぐに立つた。藍と金の眼が、紫苑の手許を見つめてゐた。
 紫苑の親指が、櫛の背の、その何かの上を、ごく僅か、撫でた。
 紫苑は、自分の指先を、見た。
 それから、何事もなかつたやうに、櫛を盆の絹の上に置いた。
「いや」
 誰にともなく、さう呟いた。
「続ける」
 猫が、再び、腰を下ろした。
 姉さんは、気づいてゐなかつた。わたくしだけが、見てゐた。見てしまつたが、それが何であるか、分からなかつた。
「蔦代」
「へえ」
「櫛に、手を置け。もう一度、語れ。最後の一語まで」
「もう一度、どすか」
「一度目は、私に伝へる為の言葉だ。二度目は、この櫛に伝へる為の言葉だ」
 姉さんは、頷いた。
 右の掌を、櫛の上に、そつと重ねた。左手は膝に置いたまま。紫苑は、姉さんの正面に座した。両の手を、盆の上、櫛の上の宙に掲げた。触れてはゐない。指の影だけが、櫛を覆つた。
「語れ」
 姉さんは、目を閉ぢた。
 
「雪どした」
 
 最初の一語が、座敷に落ちた時、燭の炎が、傾いた。
 わたくしは、顔に、冷たいものを感じた。
 頰である。小さな、軽いものが、頰に触れて、消えた。わたくしは、目を上げた。
 雪が、降つてゐた。
 座敷の天井から、雪が、降つてゐた。
 牡丹雪である。大きな、重たげな雪片が、ゆつくり、ゆつくりと、闇の中を落ちてくる。燭の光を浴びて、一片ごとに、白く、金に、青く、光つた。畳の上に落ちても、積もらなかつた。触れた瞬間に、水にも、露にもならず、ただ、すうと、消えた。
 抽斗の壁が、雪の向かうに、霞んだ。百の抽斗が、遠い山並みのやうに、白い幕の奥へ退いていつた。
「南天の葉に、ぼたぼたと積もつて」
 姉さんの声は、座敷の中で、不思議に、近くも遠くもなかつた。雪の中から聞こえるやうであつた。
 座敷の隅に、赤いものが浮かんだ。南天の実である。雪を冠つて、雫を垂らしてゐる。石灯籠が、白い頭巾を被つて、闇の中に、うづくまつてゐた。
 いつの間にか、わたくしの足許に、飛び石があつた。苔の匂ひが、鼻先に漂つた。座敷の畳が、見えなくなつてゐた。
 雪の庭であつた。
 わたくしは、庭の端、縁側の際に立つてゐた。姉さんの語りに引かれて、わたくしが、その場に立ち会つてゐるのかと思つた。が、わたくしの身体は、板戸の際に膝をついたままである。庭が、座敷の中に、ひろがつてゐるのであつた。
 庭の中央に、娘が一人、立つてゐた。
 髪を解いて、背に垂らしてゐる。寝間着の上に袷を羽織り、素足に下駄を履いて、肩を窄めてゐた。
 若い。
 十八の姉さんであつた。
 座敷の畳の上で、目を閉ぢて語る五十の姉さんの顔が、雪の向かうの、庭の娘の顔と、重なつて見えた。五十の皺が、燭の揺れに、淡く薄れる。頰の窪みが満ち、目尻の皺が消え、唇に血の色が差す。重なつた二つの顔の、どちらが本当のものか、分からなくなつた。
「木戸が、鳴りました」
 庭の奥で、軋む音がした。
 木戸が、開いた。
 雪の中に、男が立つてゐた。
 顔は、はつきりとは、見えなかつた。雪の幕を通して、淡い影が見えるだけである。背の高い、痩せた人であつた。肩に雪が積もり、髪が濡れてゐた。
 わたくしは、その影を、見つめた。
 宗太郎さん。
 八つの年に、わたくしの頭を撫でた、あの冷たい大きな手の人の、二十一の姿が、そこに立つてゐた。
 娘と男は、雪の中で、向かひ合つてゐた。
 音がなかつた。雪の降る音すら、しなかつた。庭の全体が、息を殺してゐた。
 男が、懐から包みを取り出した。油紙を解く、かさかさといふ音が、ひどく大きく響いた。中から、細長いものが、現れた。
 螺鈿の櫛である。
 盆の上の櫛が、同じ光を放ち始めてゐた。
 庭の中の櫛と、盆の上の櫛とが、まるで一つのものであるやうに、青く、緑に、白く、息づいてゐた。貝の薄片が、雪明りを受けて、七色に、細かく砕けて、散つた。
「あの人は、櫛を持つたまま」
 男が、一歩、歩いた。
 きゅつ、と、雪を踏む音が鳴つた。
 娘の肩が、びくりと動いた。が、逃げなかつた。
 男の手が、上がつた。娘の髪に、触れた。
 わたくしは、それを、見た。男の指が、娘の黒髪を、恐る恐る掬ふのを。耳の後ろに、そつと掛けるのを。
 その手が、櫛を持つたまま、娘の耳の上で、ふと止まつたやうに見えた。が、雪片が一つ、視界を横切つた。わたくしの目は、娘の顔を追つてゐた。
 紫苑の両手が、盆の上で、微かに、震へてゐた。
 紫苑の目は、開いてゐた。が、わたくしの方も、姉さんの方も、見てはゐなかつた。庭の、二人の影の間を、見てゐた。薄い茶の目が、大きく見開かれ、瞬きもせず、一瞬、一瞬を、吸ひ込んでゐるやうであつた。
 櫛が、挿された。
 男の手が、娘の右の耳の上に、櫛を差し込んだ。
 青い貝の花が、黒髪の上で、雪明りに、燃えた。
 わたくしは、息ができなかつた。
 美しい、と思つた。
 何がどう美しいのか、言へなかつた。娘の顔も、男の手も、雪も、櫛も、南天の赤も、それぞれが美しいのではなかつた。それらの全てが、たつた一つの瞬きのなかに、集まつてゐた。その、一度きりの、二度と来ない、しかも永遠にここにある瞬間が、美しかつた。
 涙が、頰を伝つた。拭ふことを忘れた。
 娘が、笑つた。
 男が、娘を見てゐる。睫毛から、雪が、一粒、落ちる。
 男の目が、ほどけた。
 その時である。
 雪が、止まつた。
 一斉に、止まつた。降つてゐた雪片の全てが、宙に、その位置のまま、静止した。燭の光を受けた白い粒が、闇の中に、無数の星のやうに、浮かんでゐた。
 娘の笑顔も、男の目も、一枚の絵のやうに、動かなかつた。
 紫苑が、小さく、息を吐いた。
 その息に、宙の雪片が、一斉に、揺れた。
 次の瞬間、全ての雪が、櫛へ向かつて、流れた。
 雪片が、細い光の糸になつて、庭の闇から、座敷の闇から、盆の上の櫛へ、吸はれていく。娘の笑顔が、男の目が、南天の赤が、石灯籠の白が、一つ、一つ、光の粒になつて、櫛の青貝に、吸ひ込まれる。庭が、畳へ、畳が、壁へ、遠ざかる。
 櫛が、眩しく、光つた。
 わたくしは、目を瞑つた。
 瞼の裏にも、青白い光が、焼きついた。
 それから、光が、引いた。
 目を開けると、座敷に戻つてゐた。
 闇の中、白い燭の炎が、一つ、立つてゐた。畳には、雪の気配もなかつた。香炉の煙が、天井へ、真つ直ぐに延びてゐる。
 盆の上の櫛は、青貝の花の一つ一つに、深い、深い光を宿してゐた。前よりも、遥かに濃く、遥かに静かに、息をしてゐた。
 姉さんは、座つたまま、動かなかつた。
 右の掌は、まだ、櫛の上にあつた。が、その掌の力が、抜けてゐた。
「姉さん」
 わたくしは、膝で擦り寄つた。
「姉さん」
 姉さんの目が、開いた。
 濡れてゐた。頰を、涙が伝つてゐた。が、その目は、何も映してゐなかつた。空つぽの、水の面であつた。
「……小糸」
「へえ」
「うち、泣いてるのどすか」
「へえ。泣いてはります」
「どうして、泣いてるのやろ」
 姉さんは、頰に手を当てた。指先の涙を、不思議そうに見つめた。
「何ぞ、……大事なもんを、預けた気ぃはするのどす。ここに来たことも、覚えてます。あんたはんの顔も、覚えてます。けど、何を預けたんやろ。何を、話したんやろ。……思ひ出されへん」
 姉さんの声は、頼りなかつた。
「櫛のことも、ここへ持つてきたことは、覚えてます。けど、……なんで、その櫛を」
 言葉が、途切れた。
 わたくしは、姉さんの手を握つた。冷たかつた。姉さんは、わたくしの手を、握り返さなかつた。
「大事な……ものやつたのやろ」
 姉さんは、さう言つて、ぼんやりと、櫛を見た。
「綺麗な櫛どすな」
 それだけであつた。
 わたくしは、声を上げて泣きたかつた。が、泣けなかつた。わたくしだけが、全てを覚えてゐた。雪の晩を、木戸の鳴る音を、男の指の震へを、娘の笑顔を。わたくしの内には、あの瞬間が、まだ濃く、鮮やかに、あつた。
 姉さんの内には、もう、なかつた。
 紫苑が、盆の櫛を取り上げた。
 立ち上がり、壁の抽斗の前に、歩いた。最下段の、端に近い、一つの抽斗の前で、足を止めた。木札に字はなかつた。真鍮の環を引くと、抽斗は音もなく開いた。内側に、深い藍の布が敷かれてゐた。
 櫛を、その上に、横たへた。
 抽斗の内から、青白い光が、柔らかく立ち昇つた。雪明りと同じ色であつた。紫苑は、その光の中の櫛を、しばらく見下ろしてゐた。それから、抽斗を閉ぢた。
 環に結ばれた木札に、指が触れた。
 木札の無地の面に、墨のやうなものが滲んだ。字ではなかつた。ただ、小さな一つの印が、浮かんだ。櫛の形をしてゐた。
 紫苑は、わたくしたちの方へ、振り向いた。
「終はつた」
 短い言葉であつた。
 その目は、先刻より、深く沈んでゐた。美しいものを、また一つ、見てしまつた人の目であつた。
 窓の猫が、紫苑の足許に降りてきて、その脛に、頭を擦りつけた。紫苑は、屈んで、猫の背を一度だけ撫でた。
 わたくしは、立ち上がれなかつた。姉さんの肩を抱いて、座つたままであつた。姉さんは、ぼんやりと、閉ぢた抽斗を眺めてゐた。
 庭の風鐸が、また、微かに鳴つた。
 
  第四章 空虚
 
 帰りの縁側で、お類さんが茶を出してくれた。
 渋い煎茶であつた。姉さんは、両の手で茶碗を包み、一口含んで、「ええお茶どすな」と、微笑んだ。その微笑みは、穏やかで、少しも乱れてゐなかつた。わたくしは、茶碗を持つ手が震へて、一滴も飲めなかつた。
「お連れ様は、お顔の色が悪うございます」
 お類さんが、わたくしの耳許に、低く囁いた。
「覚えておいでなのは、貴女様のほうで。……お辛いことでせう。けれど、それが、お連れ様のお傍にゐる方の、役目でございますよ」
「役目」
「忘れた人は、忘れた分だけ、軽うなります。覚えてゐる人が、その分を、持つて差し上げるのでございます」
 お類さんは、声を落として言つた。
「重うなりましたら、またお越しなされませ。蔦代様はもう、いらつしやれませんでせうが」
 わたくしは、答へられなかつた。
 
 姉さんは、その夜、よく眠つた。
 これまで、夜の更けるごとに咳き込み、懐紙を血で染めてゐた人が、枕に頭を載せるなり、深い寝息を立てた。わたくしは、枕許に座つて、その顔を見てゐた。眉間の皺がなくなつてゐた。何十年も、そこにあつたやうな、細い溝が、きれいに消えてゐた。
 翌朝、姉さんは、自分で床を離れた。窓を開け、東山の方を向いて、大きく息を吸つた。
「小糸」
「へえ」
「胸が、軽いのどす」
 姉さんは、振り返つて、笑つた。
「何やら、重いもんを、降ろしたやうな。……あんた、昨日、うちを、どこへ連れて行つてくれはつたのやろ」
「岡崎の」
「ああ、さうやつた。疎水のとこの、お屋敷や」
 姉さんは、顎に指を当てた。
「何ぞ、預けてきたんやけど。……何どしたやろ」
「櫛を」
「櫛。ああ、あの螺鈿の」
 姉さんは、納得したやうに頷いた。
「古いもんやよつて、ええ置き場所を探してたのやつたな。あそこに置いてもろたんなら、安心どす」
 それだけであつた。
 わたくしは、姉さんの顔を、見つめた。姉さんは、きょとんとして、わたくしを見返した。
「どうしたの、小糸。怖い顔して」
「いえ」
「変な子ぉやな」
 姉さんは、笑つた。
 その日から、姉さんは、別の人になつた。
 別の人、と言ふのは、正しくない。姉さんは、姉さんであつた。声も、仕草も、少しも変はらなかつた。人を笑はせる口の利き方も、わたくしを叱る時の眉の動かし方も、同じであつた。
 ただ、何かが、一枚、薄くなつたのである。
 硝子を一枚、挟んだやうに。
 三日目の朝、わたくしは、姉さんの部屋の簞笥の上に、桐の箱を取りに行つた。箱の中の絵を、見せたかつたのである。
 絵は、一尺ばかりの小さな絹本であつた。縁の色が焼けてゐる。描かれてゐるのは、一人の少女であつた。右半身を向けて、俯き加減に立つてゐる。解いた黒髪が背に流れ、右の耳の上に、螺鈿の櫛が一枚、挿してある。顔は、はつきりとは描かれてゐなかつた。頰の線と、睫毛の影と、口許の僅かな綻びだけが、薄墨と淡い朱で、そつと置かれてゐた。
 その少女の背に、白い点々が散らされてゐた。雪である。
 わたくしは、この絵を、八つの年から知つてゐた。姉さんは、この絵を、簞笥の上に置き、毎朝、箱の蓋を開けて、一瞬だけ、中を見て、閉ぢた。何も言はずに。それが、姉さんの朝の習慣であつた。わたくしは、その習慣が、幼い心に、何か神聖なものに思はれてゐた。
「姉さん。この絵」
 わたくしは、絵を、姉さんの膝許に差し出した。
 姉さんは、手に取つて、しげしげと眺めた。
「ああ、これ。宗太郎さんの絵やな」
 声は、軽やかであつた。
「宗太郎さん。覚えてますか」
「そら、覚えてますとも。円山派の、襖絵を直しに来はつた絵師はんや。……あの人も、早う亡うなりはつたなあ」
 姉さんは、さう言つて、絵を見直した。
「けど、この絵、似てへんなあ」
「似てへん、て」
「誰を描かはつたのか知らんけど、うちとは、似てへん。顔が、ぼんやりしてて」
 姉さんは、絵を、膝の上に置いた。
「宗太郎さんは、絵はお上手やつたけど、人の顔は、ちょつと、苦手でしたな。うちを描かはつた時も、似てへんて、よう笑うたもんどす」
 笑うたもん、と姉さんは言つた。そして、笑つた。口許だけで。
 目尻の長い皺が、寄らなかつた。
 わたくしは、絵を、受け取つた。受け取つて、そのまま、箱に戻した。指先が、冷たくなつてゐた。
 宗太郎さんの名を、姉さんは、覚えてゐた。襖絵のこと、師匠のこと、亡くなつた年さへ、覚えてゐた。ただ、それらは全て、遠い誰かの履歴のやうに、淡々と、並べられた。そこに、熱がなかつた。
 あの人が、雪の晩に、何をしたか。
 それだけが、姉さんの内から、すつぽりと、抜けてゐた。
 抜けた穴の縁を、他の記憶が、器用に埋めてゐた。姉さんは、その穴があることさえ、気づいてゐなかつた。
 
 一週間が過ぎた。十日が過ぎた。
 姉さんの身体は、坂を下るやうに、弱つていつた。咳は戻つた。熱も出た。が、心は、不思議なほど、穏やかであつた。夜の苦しみが去つたかはりに、昼の無聊が、姉さんを包んでゐた。窓の外を眺めて、鴉の鳴くのを、聞いてゐた。
 わたくしが見たのは、姉さんの手であつた。
 姉さんは、何かの折に、右の手を、そつと上げる。右の耳の上、髪の生え際に、指先を触れる。何もないのを確かめるやうに、一度、撫でる。それから、はつとしたやうに、手を下ろす。
「どうしたん、姉さん」
「え。……何でもおへん」
 姉さんは、自分でも、何をしてゐたか、分からない顔をした。
 夜中、わたくしが厠に起きると、姉さんの部屋から、微かに、啜り泣きが洩れてゐることがあつた。襖の隙間から覗くと、姉さんは、仰向けに寝たまま、目を開けて、天井を見てゐた。涙が、こめかみを伝つて、枕に落ちてゐた。
 翌朝、訊くと、姉さんは首を傾げた。
「泣いてへんどすえ。夢も、見てへんし」
 泣きながら、泣いたことを知らない。
 それが、あの人の言つた、「理由の分からぬ空」であつた。
 その空は、姉さんの内で、大きくなつてゐた。何かを探すやうに、姉さんは、部屋の中を、見回す時があつた。簞笥、鏡台、屏風。その視線は、何にも止まらず、また、窓の外へ戻つた。
 わたくしに対する態度も、変はつていつた。
 最初の変化は、呼び方であつた。
 これまで、姉さんは、わたくしを「小糸」と呼び捨てにした。それが、ある朝、「小糸はん」になつた。姉さんは、気づいてゐなかつた。わたくしは、気づいたが、言へなかつた。
 次に、言葉が丁寧になつた。「あんた」が、「あんたはん」になり、命じる口調が、頼む口調になつた。わたくしが粥を運ぶと、「おおきに、ありがたいことどす」と頭を下げた。以前は、「ご苦労さん」と、顎で頷くだけの人であつた。
 その丁寧さが、わたくしには、耐へがたかつた。
 四月の初め、桜の蕾が膨らむ頃の、ある夕暮れであつた。
 姉さんは、窓の際に座つて、庭の柳を眺めてゐた。わたくしは、傍らで、繕ひ物をしてゐた。
「小糸はん」
「へえ」
「ちょつと、訊いてもええやろか」
「何どす」
「あんたはんは、うちの、何どすのやろ」
 針が、指に刺さつた。
 姉さんは、振り向かなかつた。柳の枝が、夕風に揺れるのを、見てゐた。
「いえ、あんたはんがようしてくれはるのは、ありがたいのどす。けど、なんで、うちが、あんたはんを引き取つたのか、……思ひ出されへんのどす。年を取ると、忘れつぽうなつて、あかんなあ」
 姉さんは、軽く笑つた。
「うちは、情の薄い女やつたのやろか。八つの子ぉを引き取つて、ここまで育てたことは、覚えてます。けど、なんで、そんなことしたのか。……ようけ、あんたはんには、世話になつてゐるのに、うちには、愛しいと思ふ、……思ふ気持ちが、よう、湧いてこえへんのどす」
 姉さんは、わたくしの方を見た。申し訳なさうな顔であつた。
「堪忍え」
 わたくしは、針を握つたまま、動けなかつた。
 宗太郎さんの、病床の言葉。「この子を、頼む」。
 その言葉を聞いたから、姉さんは、わたくしを受け入れた。わたくしは、それを知つてゐた。それを知つてゐたから、わたくしは、姉さんの愛を、疑つたことがなかつた。姉さんの愛の根は、宗太郎さんの愛に、繋がつてゐた。その根が、今、切られたのである。
 姉さんの内で、わたくしは、理由のない子供になつた。
「堪忍、堪忍どす」
 姉さんは、繰り返した。
「謝らんといておくれやす。姉さんは、何も、悪うおへん」
 わたくしは、声を絞り出した。
 姉さんは、安堵したやうに、微笑んだ。その微笑みが、一番、辛かつた。
 
 それが起きたのは、四月の五日であつた。
 夕霧の台所の女中が、血相を変へて、わたくしを呼びに来た。
「小糸はん、姉さんが、屑屋を呼ばはりました」
 二階へ駆け上がると、姉さんの部屋の前に、古物商の男が一人、立つてゐた。風呂敷を背負ひ、愛想笑ひを浮かべてゐた。
「ああ、小糸はん」
 姉さんは、簞笥の前に座つて、中のものを、膝の周りに並べてゐた。着物、帯、半襟、絽の羽織。
「身辺の整理をしようと思ひましてな。残された時間が、さう長うおへんよつて、要らんもんは、片付けとかな」
 姉さんは、さう言つた。穏やかな声であつた。
「古いもんばかり。……ほら、この手紙の束も」
 姉さんが、簞笥の奥から取り出したのは、麻紐で縛つた、薄い紙の束であつた。
 宗太郎さんの手紙である。三十二年の間に、あの人が姉さんに宛てた、数十通の手紙。姉さんは、それを、簞笥の奥の、絹の袋に入れて、他の誰にも触らせずに、持つてゐた。
「それは」
「ああ、これ。宗太郎さんからの、文どすな。昔の絵師はんの手紙やよつて、屑にはなるやろか」
 姉さんは、手紙の束を、ひょいと、古物商の方へ差し出した。
「いえ、ご隠居様、それは紙屑でございますな。ですが、絵師の筆跡ならば、多少は」
「さうどすか。ほな、纏めて」
「待つて」
 わたくしは、二人の間に割り込んだ。
「待つて、待つてください」
 手紙の束を、姉さんの手から、奪ひ取つた。
 姉さんは、驚いて、わたくしを見た。
「小糸はん」
「あきまへん」
「どうしたん」
「これは、あきまへん」
 わたくしは、手紙を、胸に抱いた。声が、震へた。
「あの絵も、手紙も、……櫛も。全部、全部、姉さんの、一番、大事なもんどした。三十二年、一番、大事にしてはつたもんどす」
 古物商は、気まずげに、後退つた。
「失礼を」
 男は、早々に、帰つていつた。
 姉さんは、座つたまま、わたくしを見上げてゐた。
「そんなに、大事なもんどしたか」
 姉さんは、ゆつくり、言つた。その声には、責める響きも、怒りもなかつた。ただ、純粋な疑問があつた。
「けど、うちには、よう分からへんのどす」
「分からんでもええ」
 わたくしは、言つた。
「分からんでも、わたくしが持つてます。わたくしが、預かります」
「さうどすか」
 姉さんは、頷いた。
「あんたはんが、大事なら、持つてなはれ」
 姉さんは、また、簞笥の中に、手を伸ばした。次の着物を、取り出した。
 わたくしは、手紙の束を抱いたまま、廊下に出た。
 廊下の突き当たりの、人気のない物干し台に、駆け込んだ。欄干に凭れて、手紙を握り締めた。
 夕焼けの空が、屋根瓦の向かうに、赤く、染まつてゐた。鴨川の方から、風が吹いてきた。
 声を殺して、泣いた。
 あれだけ、大事にしてゐた人が。三十二年、守り通した人が。たつた一日で、手紙と紙屑を、同じ高さに並べた。それも、悪意なく、微笑みながら。
 これを、あの人は、知つて、封じたのであらうか。
 わたくしは、風の中で、考へた。
 忘れても、どこぞに在る。覚えてくれる人があれば。
 姉さんは、さう言つた。
 その言葉を、思ひ出した。
 覚えてゐるのは、わたくしであつた。
 ならば、わたくしは、……。
 涙を拭つた。手紙を、袂に入れた。
 翌朝、わたくしは、夕霧に断りも入れず、辰さんの車を呼んだ。
 
  第五章 返却
 
 疎水の潜り戸は、わたくしが手を掛ける前に、内から開いた。
 お類さんが、箒を持たずに立つてゐた。
「お見えになるころと、存じてをりました」
 今度は、嘘ではないらしかつた。お類さんは、何も訊かず、先に立つて、渡り廊下を歩いた。飛び石の椿は、先日より、半ば散つてゐた。苔の上の赤い花が、潰れて、黒ずみ始めてゐた。
「紫苑様は、お離れにおいでです」
「お待ちでしたか」
「さあ。あの方は、お待ちになる、といふことを、なさいませんので」
 お類さんは、小さく笑つた。
 離れの板戸は、半ば開いてゐた。
 紫苑は、机の前に座つて、窓の外を見てゐた。猫は、その膝の上で丸くなつてゐた。わたくしが敷居際に膝をつくと、猫が、耳だけを動かした。
「来たか」
 紫苑は、振り向かずに言つた。
「はい」
「座れ」
 わたくしは、座敷に上がつた。壁の抽斗が、前回と同じ位置で、微かな光を放つてゐた。最下段の端、先日、櫛の入つた抽斗は、淡い青で、静かに明滅してゐた。
 わたくしは、畳に両手をついた。
「お願ひがございます」
「聞かう」
「姉さんの瞬間を、お返しください」
 紫苑は、ゆるりと向き直つた。薄い茶の目が、わたくしを捉へた。
「返せるのは、依頼した本人だけだ。お前が願つても、返せぬ」
「そこを」
「規則だ」
 紫苑は、言つた。
「規則を破れば、封が崩れる。崩れた封は、依頼者の内側へ、不揃ひに逆流する。あの女は、死ぬ前に、狂ふ」
 わたくしは、唇を噛んだ。
「では、わたくしの瞬間を」
「何」
「わたくしの、一番美しい瞬間を、差し上げます。それと引き換へに、姉さんの瞬間を」
「それは出来ぬ」
 紫苑は、即座に言つた。
「第一に、お前の瞬間は、お前に縁の器にしか、宿らぬ。他人の瞬間の代はりには、ならぬ。第二に」
 紫苑の声が、僅かに、低くなつた。
「お前は、まだ、封じるに足る瞬間を、知らぬ」
「……知りませぬ」
 わたくしは、俯いた。
「それは、不幸ではない。これから先、知るだらう。一つだけではないかも知れぬ。その中から、お前は、一つを選ぶことになる。選べるうちは、封じてはならぬ」
 紫苑は、さう言つて、猫の背を撫でた。
 しばらく、沈黙が落ちた。
 窓の外の風鐸が、鳴つた。
「わたくしは」
 わたくしは、顔を上げた。
「わたくしは、あの人が、怖うございます」
「あの人とは」
「姉さんです。……いえ、姉さんが、怖いのではありません。姉さんの、あの笑顔が。あの優しさが」
 喉が詰まつた。
「あれだけ、わたくしを、慈しんでくだすつた人が、わたくしに、頭を下げるのです。堪忍え、と。……わたくしを、愛しいと思へぬ、と、謝るのです」
 涙が、畳に落ちた。
「あんまりでございます。あの人が、わざわざ頼んだことでございます。あの人が望んで、手放したことでございます。それは、分かつてをります。それでも」
「それでも、返して欲しいか」
「はい」
「何の為に」
 紫苑が訊いた。
「あの女の為か」
 わたくしは、口を開きかけて、止めた。
 嘘を、言つては、ならない気がした。
 この人の前では、嘘は、すぐに崩れる。そんな気がした。
「いいえ」
 わたくしは、言つた。
「わたくしの為でございます」
 紫苑は、目を細めた。
「わたくしが、もう一度、姉さんに、愛されたい。ただ、それだけでございます。……あの人が、苦しまうが、悔いに沈まうが、そんなことは、二の次でございます」
 恥ずかしかつた。
 けれど、言つてしまうと、胸の底が、少しだけ軽くなつた。
 紫苑は、黙つて、わたくしを見てゐた。それから、ふと、猫に視線を落とした。
 猫が、藍の右眼で、紫苑を見上げた。
「さう言へる者は、少ない」
 紫苑は、言つた。
「多くは、あの人の為に、と言ふ。お前は、正直だ」
「正直なのではございません。嘘が、つけなかつただけでございます」
「同じことだ」
 紫苑は、さう言つて、膝の上の猫を、床に降ろした。
 立ち上がつた。
 壁の抽斗の前に歩き、最下段の端、青く光る抽斗の前に立つた。環を握り、引いた。
 藍の布の上に、螺鈿の櫛が、横たはつてゐた。
 青い光が、抽斗の中から溢れ、紫苑の白い小袖を、淡く染めた。
「見よ」
 紫苑は、言つた。
「お前には、開けぬ。この櫛は、お前の目には、ただの櫛に見える。だが、私には、あの晩が、見える。……お前に、見えぬものを、語つてやる」
 わたくしは、息を呑んだ。
「あの女は、お前に語つた通り、あの晩を語つた。嘘はない。だが、あの女が語らなかつたことが、一つある。語れなかつた、と言つた方が、正しい」
「語れなかつた」
「人は、自分の瞬間の、半分しか見ぬ。自分に見えた半分だ。もう半分は、相手の側にある」
 紫苑は、櫛を見下ろした。
「あの男は、櫛を挿す前に、一度、手を止めた」
 わたくしは、身じろぎした。見たやうに思つたあの手の止まりは、見間違ひではなかつたのか。
「木戸の内に入り、あの女の髪を掬ひ、耳の後ろに掛けた。そこまでは、女が語つた通りだ。それから、男は、櫛を持つた手を、女の耳の上で、止めた」
 紫苑は、右の掌を、宙に掲げた。
「長い時だ。女の目には、短く見えたであらう。だが、男は、迷つてゐた。挿していいのか。この女は、明日、他の男のものになる。明日、他の男のものになる女の髪に、自分の贈り物を挿すことは、残酷ではないか。……男の手が、震へてゐた」
 わたくしの胸の奥が、きゅうつと締まつた。
「女は、それを、待つてゐた」
 紫苑は、続けた。
「待ちながら、待つてゐないふりをした。男の迷ひが、分かつてゐたのだ。男が、自分を傷つけるのを恐れてゐることも。……女は、動かなかつた。動けば、男は、手を引くからだ。動かずに、そこに立ち、雪を被り、ただ、待つた」
 紫苑の声は、低く、平らであつた。
「男の手が、動いた。櫛が、挿された。女は、笑つた。その笑みは、安堵であつた。男に、挿してもらへたことへの。……男の目が、ほどけたのは、その安堵を、見たからだ」
 わたくしは、両の手で、顔を覆つた。
「その、手を止めた長さ、待つた長さ。それが、あの晩の、最も美しい部分だ。二人の間を、雪が降る音だけが、満たしてゐた」
「姉さんは、それを」
「覚えてゐなかつた。あの女が覚えてゐたのは、櫛を挿された時の、冷たい指と、笑ふと目が解けた男の顔だ。その前の、待つた長さは、あの女の記憶には、薄くしかなかつた。だが、封じた時、あの女は、それを、全て、櫛に渡した。……あの女も、知らずに、美しかつたのだ」
 紫苑は、抽斗を閉ぢた。
 光が、消えた。
「美しかつた」
 紫苑は、短く言つた。
「それ以上は、言へぬ」
 わたくしは、顔を覆つたまま、長く、泣いた。
 窓の風鐸が、鳴りやんだ。猫が、わたくしの膝許に、近寄つてきた。藍と金の眼が、涙で歪んだ視界の中で、静かに光つてゐた。
 
 泣き止むのを待つて、紫苑が言つた。
「返却について、教へておく」
 わたくしは、頷いた。
「返すのは、依頼者本人だけだ。本人が、此処に来て、自らの口で、求めなければならぬ。此処の外では、櫛は開かぬ。ただの櫛に過ぎぬ」
「姉さんは、動けませぬ」
「ならば、此処に連れて来い。動けぬならば、人力車でも、担架でも」
「けれど、姉さんは、……何を返してもらふのか、分からないのです」
「さうだ」
 紫苑は、頷いた。
「忘れた者は、何を望むべきかも、忘れてゐる。だから、お前が語れ」
「わたくしが」
「お前は、あの女の語りを聞いた。私の語りも聞いた。全てを、あの女に語り、あの女に、選ばせろ。本人が望まぬものを、奪つて返すことは、私にも出来ぬ」
「選ぶ、とは」
 紫苑は、少し、間を置いた。
「返せば、どうなるか。それも、知つておけ」
 わたくしは、背筋を伸ばした。
「返された瞬間は、あの女の内に戻る。雪の晩の記憶も、男への想ひも、お前への情も。……だが、戻るのは、それだけではない」
 紫苑の声が、冷えた。
「あの女は、あと幾日も、持たぬ。戻つた瞬間は、死の床で、再び、悔いに囲まれる。男の臨終に、間に合へなかつた悔い。三十二年の積み重ね。……封じる前よりも、悔いは重くなるかも知れぬ。あの晩が、美しく見えるだけに」
 わたくしは、膝の上の手を、握つた。
「それでも、望むか」
 紫苑が、問うた。
 問ひであつた。が、わたくしに対する問ひではなかつた。
「それを決めるのは、あの女だ」
 紫苑は、言つた。
「お前の役目は、語ることだ。決めることではない」
 わたくしは、深く、頭を下げた。
「承知いたしました」
 畳に額を付けたまま、わたくしは、言つた。
「あの人に、語ります。一言も、偽らずに」
「頼む」
 紫苑は、さう言つた。
 わたくしは、その言葉に、驚いて、顔を上げた。
 紫苑は、既に、窓の方を向いてゐた。窓の外の庭に、椿の花が、一つ、落ちた。音もなく。
 猫が、鳴いた。初めて聞く、細い、短い声であつた。
 
 帰りの廊下で、お類さんが、茶を勧めた。
 わたくしは、断つた。その代はりに、一つだけ、訊いた。
「紫苑様は、……いつから、あの離れに」
 お類さんは、首を傾げた。皺だらけの顔が、一瞬、遠くを見た。
「私が、ここへ参りました時に、もう、おいででございました。……私の前の室守りの時も、さうであつたと聞いてをります」
「お年は」
「さあ。お訊きしたことがございませんので」
 お類さんは、さう言つて、微笑んだ。
「ただ、一つだけ、存じてをります。あの方は、抽斗を閉ぢる時、いつも、同じやうに、お指をお見つめになります。……何を、お探しなのかは、存じませぬが」
 わたくしは、先日の、櫛の背を撫でた紫苑の指を、思ひ出した。
 けれど、それを口にすることは、しなかつた。
 わたくしは、辰さんの車に乗つた。疎水の水が、夕陽を受けて、金色に光つてゐた。
 
  第六章 櫛
 
 わたくしが姉さんに語つたのは、その夜から三晩に亘つてであつた。
 一晩目は、雪の晩の、娘の語りを。二晩目は、紫苑様の見たものを。三晩目は、返却の意味を。
 一言も偽らぬ、と決めたから、手紙を奪ひ取つた日のことも、疎水の離れで泣いたことも、隠さなかつた。姉さんが、「堪忍え」と言つた夕暮れに、わたくしがどれほど惨めであつたかも、隠さなかつた。
 姉さんは、床の中で、黙つて聞いてゐた。
 枕許の行灯が、姉さんの横顔を、薄く照らしてゐた。頰は、ひと月前よりも、ひどく痩せてゐた。咳は、夜ごとに深くなつてゐた。が、聞く間だけは、姉さんは、咳をしなかつた。
 一晩目の終はりに、姉さんは、言つた。
「ええ話どすな」
 わたくしは、顔を上げた。
「雪の降る晩に、若い絵師はんが、水揚げ前の娘に、櫛を挿しに来はる。……絵になるお話どす」
「姉さん、それは」
「分かつてます。うちの話どすやろ」
 姉さんは、天井を見たまま、言つた。
「あんたはんが、嘘をつくお人でないことは、知つてます。そやから、ほんまのことや、と思うてます。……けど、不思議なもんどす。人様のお話を、聞いてるやうなのどす。うちが、そこに居たとは、とても思へへん」
 声は、穏やかであつた。
「堪忍な。聞いてる最中に、ええ話やなあと、感心してしもた。当人やのに」
「いいえ」
 わたくしは、首を振つた。それ以外に、仕様がなかつた。
 二晩目、紫苑様の語つた、あの手を止めた長さのくだりに至つた時、姉さんの目から、涙が溢れた。
「……あら」
 姉さんは、自分の頰に、手を当てた。
「また、泣いてるわ」
「へえ」
「なんでやろ。ちつとも悲しないのに」
 涙は、止まらなかつた。拭はうともしない姉さんの目尻を、わたくしは、手拭ひで押さへた。
「待つたん、やなあ。うち」
 姉さんは、ぽつりと言つた。
「その人の手が、止まつてる間、……動かんと、立つてたん、やなあ」
「へえ」
「覚えてへんのに、……分かる気ぃがするのは、なんでどすやろな」
 わたくしは、答へられなかつた。ただ、その手拭ひを、姉さんの頰に当て続けた。
 
 三晩目の語りを終へた後、長い沈黙があつた。
 四月の夜の、湿つた風が、障子を鳴らした。
 わたくしは、全てを語つた。返せば、雪の晩が戻る。男への想ひも、わたくしへの情も、戻る。けれど、同時に、男の臨終に間に合はなかつた悔いも、戻る。ひと月余りの間に、色を変へて。
「選ぶのは、姉さんどす」
 わたくしは、言つた。
「紫苑様は、さう仰言ひました。わたくしは、語りました。決めるのは、姉さんどす」
 姉さんは、目を閉ぢてゐた。眠つたのかと思つた。が、長い睫毛が、微かに震へてゐた。
「小糸はん」
「へえ」
「あんたはんは、返してほしいのやろ」
「へえ」
 わたくしは、嘘をつかなかつた。
「わたくしは、……返してほしいどす。もう一度、姉さんに、愛されたいどす」
「正直やなあ」
 姉さんは、目を閉ぢたまま、笑つた。
「うちも、さう、思ふのどす。あんたはんが、あれだけ尽くしてくれはるのに、うちは、愛しいと思へへん。……情のない女やなあ、と、自分で、思ふ。そやから、取り戻したら、ええのやろな、て」
「姉さん」
「けどな」
 姉さんは、目を開けた。
 行灯の火が、その瞳に映つて、小さく揺れた。
「うちは、ええ話を、聞いたのどす」
「え」
「今夜まで、三晩、あんたはんが語つてくれはつたお話。うちは、ほんまに、ええ話やと思うた。人様の話みたいに、思うたけど、それでも、……胸が、温うなつた」
 姉さんは、ゆつくりと、言葉を探した。
「もし、あの晩を、うちが取り戻したら。うちは、また、悔いに囲まれる。雪の晩は、悔いの下に、埋もれていく。……それは、嫌どす」
「はい」
「けど、このまま、忘れてゐても、あの晩は、無うならへん。あんたはんが、覚えててくれはる。あの御方が、覚えててくれはる。……うちは、今夜、はじめて、それが、ほんまに、ええことやと思へたのどす」
 姉さんは、枕の上で、小さく頷いた。
「覚えててくれはる人が、おる。それで、よろし」
 わたくしは、姉さんの手を、強く握つた。
「死ぬ前に、悔いに沈むより、ええ話を聞いて、笑うて死にたい。……これは、うちの我儘どす」
「我儘では」
「我儘どす」
 姉さんは、微笑んだ。
「返さんことに、しますわ。預けたままで」
 わたくしは、堪へきれず、姉さんの膝に額を押し当てた。
 姉さんの手が、わたくしの髪に触れた。そつと、撫でた。が、その撫で方は、母が子を撫でるやうでは、なかつた。親切な他人が、泣く子を撫でるやうであつた。
 それが、わたくしの、悲しみであつた。
 けれど、わたくしは、その悲しみを、受け入れようと思つた。
 
 姉さんが、言ひ出したのは、それから幾日か経つた、桜の盛りの夕暮れであつた。
 窓の外に、八重の桜が、風もないのに、花弁を落とし続けてゐた。夕霧の庭の、老桜である。一片、また一片、薄紅の雪のやうに、畳の縁まで運ばれて来た。
 姉さんは、もう、起き上がる力がなかつた。床の上で、仰向けになり、桜の落ちるのを見てゐた。
「小糸はん」
「へえ」
「鏡台の、二番目の抽斗に、黄楊の櫛が、入つてますやろ」
 わたくしは、立つて、鏡台の抽斗を引いた。小さな、使ひ込まれた黄楊の櫛が、紙に包まれて入つてゐた。姉さんが、毎朝、髪を梳くのに使つてゐた櫛である。歯は摩り減り、背は、手の脂で、飴色に光つてゐた。
「持つてきて」
 わたくしは、櫛を、姉さんの枕許に運んだ。
「ここに、座つて」
 姉さんは、枕から、僅かに頭を起こした。わたくしは、その傍らに、膝をついた。
「向かうを向いて」
 わたくしは、横顔を、姉さんに向けた。
「髪を、少し、解いてくれはる」
 わたくしは、結ひ髪の鬢を、指で、そつと解いた。黒い髪が、右の頰に垂れた。
 姉さんの手が、櫛を持つた。
 その手は、震へてゐた。萎びた細い指が、飴色の櫛を、危ふげに、挟んでゐた。
 姉さんは、わたくしの方へ、手を伸ばした。
 わたくしの髪に、櫛を挿さうとした。右の耳の上に。
 その手が、止まつた。
 宙で、ぴたりと。
 わたくしは、動かなかつた。
 紫苑様の言葉が、耳の奥で、響いた。
 長い時だ。女の目には、短く見えたであらう。
 わたくしは、待つた。
 待ちながら、待つてゐないふりをした。動けば、この手が、引かれてしまふ。動かずに、そこにゐて、ただ、待つた。
 桜の花弁が、窓から、一片、舞ひ込んだ。
 姉さんの指先が、わたくしの耳の後ろの髪に、触れた。ひんやりと冷たく、指の先だけが、ほのかに温かかつた。
 櫛が、挿された。
 黄楊の櫛は、わたくしの右の耳の上に収まつた。
 姉さんの手が、離れた。
「……なんでやろ」
 姉さんが、呟いた。
「なんで、こんなこと、したくなつたのやろ。あんたはんに、この櫛を、あげとぉなつた」
 わたくしは、振り向いた。
 姉さんの顔が、そこにあつた。
 笑つてゐた。
 目尻に、長い皺が、寄つてゐた。
 わたくしが、八つの年から、好きだつた、あの皺である。ひと月の間、どこかへ消えてゐた皺である。
 わたくしは、声を上げて泣いた。幼い子供のやうに。姉さんの胸に、顔を伏せて、泣きじゃくつた。
 姉さんは、やはり、親切な他人のやうに、わたくしの背を、さすつてくれた。
 けれど、その手は、確かに、温かかつた。
「よう分からへんなあ」
 姉さんは、天井を見て、呟いた。
「分からへんけど、……ええ気持ちどす」
 桜の花弁が、窓から、また一片、舞ひ込んだ。
 
 姉さんが息を引き取つたのは、その九日後であつた。
 桜は、前の日に、散り終へてゐた。庭の苔の上に、薄紅の花弁が、うつすらと降り積もつてゐた。
 夜明け前、わたくしは、枕許に座したまま、うとうとしてゐた。気がつくと、姉さんの呼吸の音が、止まつてゐた。
 顔は、穏やかであつた。眉間に皺はなく、唇は、微かに綻んでゐた。
 右の手が、枕の横に、置かれてゐた。わたくしは、その手を握つた。まだ、温かかつた。それから、少しづつ、冷えていつた。
 窓の外に、朝が来た。
 障子の桟に、薄い光が、差してゐた。
 
 四十九日が過ぎた、初夏の日のことである。
 わたくしは、疎水の離れを、もう一度、訪ねた。
 椿は終はり、庭の緑が、濃くなつてゐた。お類さんは、黙つて、わたくしを迎へ入れた。
 離れの中は、前と変はらなかつた。百の抽斗が、整然と、壁を埋めてゐる。青い光が、最下段の端で、変はらず明滅してゐた。
 紫苑は、机の前に座つてゐた。猫は、窓の縁にゐた。
「亡くなりました」
 わたくしは、敷居際に膝をついて、言つた。
「さうか」
 紫苑は、それだけ言つた。
「返却は、なさいませんでした。……『覚えててくれはる人が、おる。それで、よろし』と」
「聞いてゐた」
 紫苑は、言つた。
「聞いてゐた、とは」
「あの女の瞬間は、私の内にある。あの女が、最後に何を選ぶかは、私にも伝はる」
 わたくしは、深く頭を下げた。
「ありがたうございました」
「礼を言はれる筋合ひはない」
 紫苑は、首を振つた。
「私は、受け取つただけだ」
 わたくしは、顔を上げた。
「紫苑様。一つだけ、お訊きしてもよろしうございますか」
「訊け」
「姉さんは、忘れて逝きました。わたくしは、覚えて生きてゆきます。……どちらが、幸ひだつたのでございませうか」
 紫苑は、しばらく、答へなかつた。
 窓の風鐸が、鳴つた。
「知らぬ」
 紫苑は、やがて、言つた。
「ここへ来る者の、誰ひとりについても、知らぬ。私は、見るだけだ。……ただ」
 紫苑は、わたくしの右の耳の上に、目を留めた。
 黄楊の櫛が、そこにあつた。飴色の背が、窓の光を、柔らかく返してゐた。
「お前のその櫛は、……美しい」
 紫苑は、言つた。
「あの女の瞬間とは別に、お前の瞬間が、その櫛に宿つてゐる。いつか、お前が、此処へ来ることがあれば」
 言葉は、そこで、切れた。
 わたくしは、もう一度、頭を下げた。
 板戸の前で、わたくしは、振り返つた。
 紫苑は、立ち上がつてゐた。最下段の端の抽斗の前に、立ち、環を握つて、引いてゐた。青い光が、白い小袖を染めた。藍の布の上の櫛を、紫苑は、取り上げた。燭にも光にも透かさず、ただ、掌に載せ、棟の裏を、指でなぞつた。
 それから、自分の指先を、じつと見つめた。
 猫が、窓の縁から降りて、紫苑の足許に寄り添つた。
 わたくしは、それ以上、見なかつた。
 廊下の風が、頰を撫でた。庭の緑が、風に鳴つてゐた。
 七十を越えた今も、わたくしは、あの黄楊の櫛を、右の耳の上に挿してゐる。
 飴色の背に、あの日の指の温みが、まだ残つてゐるやうな気がする。
 わたくしは、まだ、自分の瞬間を封じに、あの疎水の離れを訪ねたことがない。
 けれど、あの離れの、百の抽斗のどこかで、一枚の螺鈿の櫛が、青い光を、放ち続けてゐるはずである。
 雪の晩の、その長い、待つた時を、抱いたまま。
 
(了)

© 2026 ゐで保名 ( 2026年11月7日公開 )

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