浅野川の霧は、その朝、橋の欄干を一本づつ呑みながら、川上から這ひ上つて来た。卯辰の山も、茶屋町の屋根も、白い乳の底に沈んで、ただ水の音ばかりが、見えぬ岸を撫でてゐる。霧は病院の窓の下まで来て、息をひそめた。
水原良介が外科室の扉を押したのは、その霧の朝である。
患者は十時と札に書いてある。左の肩に小さな腫物、切れば半時の仕事で、麻酔も浅うて足りる。水原は器械を並べ、看護婦の延べた白布の皺をひとつ直し、それから窓を閉めた。霧は硝子の外で動かなかつた。
患者は十時に来た。
小松の旧家の内室で、名を志乃といふ。年は二十七八。女中がひとり、風呂敷包と傘を二本抱へて従いて来た。傘の一本は濡れてゐなかつた。降つてはゐない朝である。
診察のあひだ、志乃は水原の顔を見なかつた。見ぬのではなく、見ぬやうに努めてゐるのが、襟の合はせ目に出てゐた。
「麻酔を、深う、お願ひ申します」
「浅うても、事は足りますが」
「深う。……」
志乃の唇が、何か言ひかけて、閉ぢた。閉ぢた唇の端が、小さう震へた。水原は筆を措いた。
「……起きてをりますうちは、申せませぬ。薬の酔ひの、ほんの一息のあひだに、ひとことだけ、言はせて頂きとう存じます」
戸口で、女中が顔を伏せた。
「ただ、申しましたことは、先生、お聞き取り下さいまし。あとで、私が申しましたと、さう仰有つて頂きたいのでございます」
「承ります」
「お聞き捨てには」
「いたしませぬ」
志乃は、そこで初めて水原を見た。眼の底に、水が一枚、張つてゐた。
水原は筆を執り直した。診察簿の上で、筆は同じ一字を二度なぞつた。
廊下に、男が立つてゐた。
羽織の裾が、黒う濡れてゐる。三十を越えたばかり、色の白い、眉の優しい人であつた。水原と目が合ふと、男は会釈をした。丁寧な、病人の身内の会釈であつた。
看護婦に問ふと、
「お附添は、お女中さんお一人で」
と言ふ。
水原は、もう一度廊下を見なかつた。この町の霧の朝には、数の合はぬ客が来る。見れば、まだ居るやうな気がした。
外科室は、霧の色に曇つてゐた。
寝台に上る志乃のうしろ、床に、濡れた足の跡が一筋、廊下から続いてゐた。水原はそれを見て、見なかつた。
布が顔にかかる。薬の匂ひが、霧より先に部屋を満たした。看護婦が数を取る。志乃の唇は、ひい、ふう、みい、と動いて、やがて動かなくなつた。
その唇が、また動いた。
脈は早かつた。水原は手首を取つてゐた。その指を、一度離し、また当てた。窓の際に、いつの間にか男が立つて、袖に手を入れ、寝台のはうを見てゐる。看護婦の目は男を通り抜けて、器械の盆へ落ちた。
「……お帰りなさいまし」
志乃の声は、幼いほど平らであつた。
「もう、お上りなさいまし。水は、冷たうございませう」
男は動かなかつた。
「毎朝、お膳の向ひに居て下さいました。傘を二本、持ちました。雨の日も、降らぬ日も。……お帰りなさいまし。私は、まだ、参れませぬ。まだ、参られませぬ。お一人で、お上りなさいまし」
脈が、水原の指の下で、ひとつ打つて、ひとつ休んだ。
男は窓の硝子に手を触れた。触れた跡に、指のかたちの水が五つ残つた。男は水原に向つて、深う頭を下げた。水原は、会釈を返した。硝子の向うで、霧が、その背に寄つた。
扉は開かなかつた。男は、居なかつた。
水原はメスを執つた。手は、一度も揺れなかつた。
志乃が目を開けたのは、昼を過ぎてからであつた。
包帯の下で、肩が熱を持つてゐる。天井を見たまま、志乃は言つた。
「申しましたでせうか」
「承りました」
「何と」
「お帰りなさいまし、と」
志乃は答へなかつた。やがて、顔を壁に向けた。
「お忘れ下さいまし」
「忘れませぬ」
水原の答へは、早かつた。志乃の肩が、一度だけ上下した。
女中が迎へに来た。寝台の脇に立つて、志乃の背を見てゐたが、何も問はなかつた。傘は一本しか持つてゐなかつた。廊下の隅には、濡れてゐない傘が一本、立てかけたまま、取りに来る者もなかつた。
外科室に独りになつてからも、水原は窓を開けなかつた。
硝子の五つの指の跡は、半日経つても乾かなかつた。日の落ちる頃、霧は、呑んだ橋の欄干を一本づつ吐き返しながら、川上へ退いて行つた。それと入れ違ひに、指の跡が、ひとつづつ、下へ流れはじめた。最後の一つが敷居に届いて、見えなくなるまで、水原はそこを動かなかつた。
(了)
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