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面貌

吉田柚葉

寒くなってきました。暖かい国に行きたいです。

小説

2,260文字

経営者を対象とするオンラインサロン『裏方』の会員に、狂階段主と云ふ者がゐた。その奇怪な芸名は嘗てライバー時代に冠したものであり、現在はTikToker事務所を経営してゐる。最後に誰かが彼を目撃したのは、遡ること十日前、令和八年九月二十三日のことである。昼下がりから秋分の日没にあたる十七時二十五分にかけて、サロンの会員らによる『光と影』本音シェア会が催され、狂階段主もこれに名を連ねた。然しながら、狂階段主が会場を後にし、懇親会の場へと向かふ道すがら、連れが知らぬ間に、宵闇の包み始めた都会の雑踏の中に姿を消し、そのまま消息を絶つたと云ふ。

『X』上には、狂階段主から投資詐欺を受けたと云ふ報告が相次いだ。又、サロン会員限定の投稿欄には、彼の行方を推し量る言葉が幾通りも綴られてゐた。特に信憑性ありとして『X』で拡散されたのは、かねてより狂階段主と親交の深いYouTuberマサトが自宅で匿つてゐる、と云ふものである。噂は真実ではない。だが事実として、平生よりその五十億円の豪邸には絶えず怪しげな人たちが入り浸つてゐた。マサトはその様子を動画に収めて大金に換へてきたツケを払はされた格好であつた。然るに、事態を受けて撮られた緊急動画の「狂階段主、元気でゐてくれよ」と云ふ一言は、大いに燃えた。炎上に耐性を得てゐた彼にとつて、囂々たる非難の怒号も、潮が引くごとき登録者たちの離反も、その胸をひどく痛ましめるものではない。ただ、執拗を極める攻撃の前に、幾夜となく寝つきの悪い日々が重なつていつた。ある日の深夜、マサトはインターホンの音で浅い眠りから目覚めた。恐る恐る覗いたモニターにコートを着た長髪の女が呆然と佇んでゐた。彼はその女の懐手にギラギラと輝く巨大な銀の魚を見た。それが魚ではなく、一刃の出刃包丁であると知覚した途端、彼の意識はしばし現世を離れた。

女と見えた者の名は、下垣信之と云ふ。『ユリア』と名乗り、「男の娘」と称して配信業を生業としてゐた。狂階段主の事務所に所属し、投資を騙る不当な搾取に遭った者である。生配信にてその不遇を嘆いた折、一人のリスナーより「刺せば」と教唆された。信之の父は売れないお笑い芸人で、信之が十三の歳、痴情の縺れから女に刃物で刺された。父は幸いにも軽症に済み、不幸にもそれを理由に箔をつけた。曰く、女に刺されてこそ一人前の男。同級の野球少年に胸の動悸を覚え、自らの性に揺らぎを感じてゐた信之にとり父のこの言葉は如何にも無遠慮に響いた。「刺されてこそ男」ならば「刺してこそ女」。この幼稚な言葉遊びは、年月の内に信之の思想へ深く根を張つた。十八にして初めて尻の穴を捧げた男の裏切りは、彼をただちに出刃包丁へと向かはしめるに至つた。信之は駆けつけた警官四人を取り押さへられ、あへなく捕縛された。

この時、マサトの五十億円の豪邸の前にパトカーが二台停まるのを目撃し、これを写真に収めて『X』へ解き放つた男がゐた。二十四歳のフリーエンジニア、倉田雄吾である。彼は『裏方』の会員であり、一年前のオフラインイベントに於いて、狂階段主から「ビジネス戦闘力が低すぎる」と侮辱されたことを終生の恥と定めてゐた。この日は、さるキャバ嬢に振られた帰り道であつた。蒼く冴えたアスファルトの果て、倉田の眼前に広がつたその光景は、骨身に徹して憎んだ者の破滅と映つた。ユリア逮捕の報道に先立ち、倉田の手による写真は人々の掌にある無数の画面を駆け巡つた。

かくして狂階段主は、日本より時差九時間、大西洋の島国の海辺で自らの逮捕を知る。『X』の記載が真実ならば、ビーチパラソルの影でマルガリータを傾けるこの俺は、一体誰だといふのだ。誤報に違いない。だが、この写真はあまりに本当らしく見える。してみると、このパトカーはマサトを迎えに来たものか。さもありなん。そもそも狂階段主に黒服の男を紹介したのはマサトであつた。黒服の男は「空海の末裔」を自称し、矢継ぎ早に「世界の真実」を説いて聞かせた。曰く、世界は今、巨変の時を迎へてゐる。二〇一九年を境に旧体制は瓦解し、新勢力が実権を握つた。その資金源を牛耳るのが、旧日本軍の隠蔽財産や占領軍の接収資産から成る数百兆円の秘密資金、通称『N資金』を抱へる我ら『裏菊』である――。彼はその怪奇な世界観に魅了され、気づけば邪悪な企ての手先となつてゐた。資金も底を突き、窮した彼は、「儀式」と称する小児性愛の禁忌までも総て白状すべく、『光と影』本音シェア会へと赴いた。思へば、会場で配られた麦茶のペットボトルがいけなかつた。口にした瞬間から全身の血の気が引き、己の番が訪れた時にはまるで舌が回らなくなつてゐた。動悸を抑へつつ会場を後にしたところまでは記憶にある。目が覚めると知らない国のホテルの一室であつた。鏡の中には、見知らぬ男の顔がこちらを睨んでゐた。鞄から現れたパスポートの姓名にも覚えがない。ともすれば、真の自分は現実にあの豪邸で捕縛されたのではないか……。さう思はぬこともなかつた。

「何をぼんやりしてゐらっしゃるのです」

水着姿の女が、冷えたトロピカルドリンクの玻璃の杯を彼の頬に押し当てた。氷の生んだ露が一筋、首筋を滑り落ちて、遥か遠く世界の端に薄く染みをつくつた。彼はその冷徹な感触の中に、己の生涯の輪郭を刹那に辿つた心地がした。彼は何か応へやうとして口を開いたが、吐き出さうとした言葉はちょうど押し寄せた波音にざつと攫はれ、後はただ眩惑たる水平線を見つめるばかりであつた。

 

© 2026 吉田柚葉 ( 2026年11月3日公開 )

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