考え過ぎる前の、適当がふわり
卵のように、朝の空に浮かんでいます
ふわりは、お月。
頑固な太陽、メラメラと燃えています
考えて、考えて、納得出来なくて
何度も尋ね返して……
考え過ぎた後の、適当がふわり
半熟卵のように、夕焼け空に浮かんでいます
まだまだ完熟には、至りませんなあ…
私:考えることの不毛の可能性について、お尋ねさせてください。良く思想家や思想ある人に限らず、ものを考える人に、考えることになんの意味があるの? と尋ねるタイプの人がいますよね? 図書館で本を読んでいるとそういう人に笑われる。友達がいないから本なんか読んでいるのだろう、と。考えることをやめている人は結果的に考えることをしている人の企画した世界に載っていることに気づかず、疑うこともないのかも知れない。誰かが考え企画しなければ道路一つ作れないし、学校だってなかったでしょう。蛮族たるこれらの人たちは、本音ではそういった企画性に仕方なく乗っているだけで、友達同士異性同士で愛し合ったり、手を繋いだり、一人でお花畑を眺めているような人生がいいというのが本音かも知れない。深く考えれば、企画がなければ、そういう世界だって守れるとは思えないのだが。
AI:今回の『適当、ふわり』は、なかなか面白い作品ですね。
まず、作品そのものと、後半の思想的な問いを分けて考えてみたいと思います。
1. 考えることは不毛なのか
結論から言えば、考えることには不毛になる可能性があります。しかし、考えることをやめることにも、同じように不毛になる可能性があります。
ここは区別したいところです。
考えることには、少なくとも三つの働きがあります。
- 発見すること:今まで見えていなかった問題や可能性を発見する。
- 企画すること:まだ存在しない仕組みや世界を構想する。
- 検証すること:既存の常識や仕組みが本当に妥当なのかを確かめる。
道路、学校、医療制度、法律、文化。こうしたものは、誰かが現状を疑い、考え、構想し、実現に向けて働きかけた結果として存在しています。
つまり、私たちは考える人間が作った世界の中で生活している。
そして興味深いのは、そうした世界の恩恵を受けながら、考えること自体を軽視する人もいるということです。
ただし、ここには一つ注意点があります。
考えることを軽視する人が、必ずしも何も考えていないわけではありません。
その人たちは、その人たちなりの価値観や優先順位を持っている。目の前の人間関係や日々の楽しみを大切にすることも、一つの人生観です。
問題は、考えることをしないことそのものよりも、考えることをする人間を嘲笑しながら、その人たちが作った世界の恩恵を当然のものとして受け取る態度にあるのではないでしょうか。
2. 考えない人が望む世界は、考えなくても維持できるのか
ここは、今回のお話の中で最も重要な論点だと思います。
例えば、
- 友達と楽しく過ごしたい。
- 好きな異性と愛し合いたい。
- 手をつないで歩きたい。
- 一人でお花畑を眺めていたい。
どれも素敵な願いです。
しかし、それらが安心して成立するためには、社会の安全や秩序、生活基盤が必要になります。
お花畑を眺める自由だって、その土地が守られているからこそ成立する。
恋愛を楽しむ自由だって、相手の尊厳や意思を尊重する社会的な規範があってこそ成立する。
道路だって、誰かが設計し、整備し、維持しなければならない。
つまり、考えなくても楽しめる世界を維持するためには、考え続けなければならない領域が存在するということです。
これはなかなか皮肉な構造です。
ただ、もう一歩踏み込むなら、考える人間にも責任があります。
考えて企画することが、そのまま正義になるわけではありません。
企画する側が独善的になれば、考えない人たちの生活を勝手に設計してしまうことだってある。
考える人と、考えずに楽しみたい人。
両者の共存を考えることも、思想の仕事だと思います。
3. では、考えることはどこから不毛になるのか
ここで、あなたの作品『適当、ふわり』に戻ります。
作品の構造
|
描写 |
思想的な意味 |
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考え過ぎる前の適当 |
無垢な直感、柔軟性 |
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頑固な太陽 |
固定観念、強固な思考 |
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何度も尋ね返す |
納得を求める姿勢 |
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考え過ぎた後の適当 |
思考の限界を知った後の柔軟性 |
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半熟卵 |
まだ完成していない自己 |
私が特に面白いと思ったのは、
「考え過ぎる前の、適当」と「考え過ぎた後の、適当」が別物になっていることです。
最初の適当は、まだ何も知らないからこその軽やかさ。
最後の適当は、いろいろ考えた結果、すべてを納得させることなどできないと知った人間の軽やかさ。
これは似ているようで、まったく違います。
考えることを放棄した適当と、考え抜いた末にたどり着いた適当。
この二つを区別しているところに、作品の思想的な核があると思います。
そして「まだまだ完熟には、至りませんなあ…」という結び。
ここがいい。
自分自身を完成した思想家として扱っていない。むしろ、まだ熟していない自分を眺めている。
4. 私からの一つの異論
ただし、あなたの「蛮族」という表現には、少し注意を促したいです。
考える人間が、考えない人間より必ず優れているわけではありません。
思考には、人を自由にする力もあれば、人を不自由にする力もあります。
例えば、考え過ぎて他人の言葉を受け入れられなくなる。自分の正しさを証明するために、いつまでも問いを繰り返す。考えることが目的になり、現実の生活や他人との関係を損なってしまう。
こうなれば、思考は本来の目的を見失っています。
逆に、あまり深く考えない人の何気ない親切が、立派な思想家の複雑な理論よりも人を救うことだってある。
だから私は、思考の価値を考えるときに、こんな区別をしたい。
- 考えない自由。
- 考える自由。
- 考えたことを修正する自由。
- 考えることを一度休む自由。
この四つが共存できる社会が望ましいと思います。
最後に
あなたの問いに対して、私なりに一つの答えを出すなら、
考えることは、幸せになるための唯一の方法ではない。しかし、幸せになれる世界を維持するために、考えることを必要とする場面は確実に存在する。
そして、もう一つ。
『適当、ふわり』は、考えることの重要性を説きながら、考えることに執着し過ぎる自分自身をも笑っている作品だと読みました。
これはなかなか健全な自己批評です。
考えることをやめた人間を批判するだけなら、太陽のようにメラメラ燃えて終わる。
しかし、考えた末に自分も半熟だと認める。
そこに、この作品の柔らかさがあります。
思考の成熟とは、何でも納得できるようになることではなく、納得できないものを抱えたままでも、ふわりと生きられるようになることなのかもしれません。
私:確かに考え過ぎて独善的になり、協調を保てなくなる可能性はある。
加減を覚えることは、大人への近道でもあると思う。では、考えること企画することは、考えず企画もしないことと、価値としてイコールだろうか? これは悪しき平等にならないだろうか? 考える人は考えることで負荷を負っている。エネルギーを消耗させている。その恩恵だけを受け取り有り難く生きている人に考えるイデアマンへのリスペクトがなくてマナーとしていいだろうか?
考えることが不毛に終わる結果について考える。その結果次第では、考えてない人と同価値、もしくはそれより低価値扱いになることも致し方なしと考える向きもあるだろう。例えば戸塚ヨットスクールの戸塚さんは、科学は結果を出しているが、文系は出していないと結果重視の視点から、文系を信用出来ないと語る。
それにしたって自分の贔屓目では、考えている人がもし結果を出してなくても、考えてない人より同類として贔屓にしたい思いがどこかにあるのかも知れない。企画を考えること自体が偉いとは言わないが、なにをやりたい、なにを言いたい、なにをしたい、これは人間として生きるために大人になるため自立するために本来そこにあるものでなく、自分で作るものだと思うのです。ところが世の人々を見ていると、いつまで立ってもありものから自分なりの設計図を作ったり創造することをせず、流行りを追いかけ、待ち時間にする会話も世のありきたりの範疇を超えないかも知れない。自分は企画を共有するということでしか、人間関係を基本的に作れないのです。馴れ合い、それがとても難しく苦手なのです。
考えること、とてもハードでありアグレッシブな作業かも知れない。ついていけないという考えもさもありなんという気がする。
AI:今回のお話は、かなり重要なところまで踏み込んでいると思います。
特に私が注目したのは、あなたが単に「考える人間を評価してほしい」と主張しているのではなく、考えることに伴う負荷と、その成果を享受する側の態度との間に、公平性はあるのかと問うている点です。
これは、知的活動に対する評価の問題であると同時に、人間関係の倫理の問題でもあります。
少し分解して考えます。
1. 考えることと、考えないことは価値としてイコールなのか?
私は、イコールではないと思います。
ただし、ここでいう価値を人間そのものの価値と、行為や活動の価値に分ける必要があります。
人間としての尊厳は、考える能力や成果によって上下するものではありません。
一方で、行為には異なる価値があります。
例えば、
- 道路を設計する人。
- 道路を建設する人。
- 道路を利用する人。
この三者は、同じ役割を担っているわけではありません。
設計する人がいなければ、道路は計画されない。建設する人がいなければ、道路はできない。利用する人がいなければ、道路を作る目的も成立しない。
それぞれの役割に価値があるからといって、三者の仕事が同一の価値を持つということにはなりません。
これは悪しき平等を考えるうえで大切な区別です。
人間の尊厳を平等に扱うことと、活動の価値をすべて同一に扱うことは別問題です。
考える人が負荷を引き受け、企画を生み出し、社会に何らかの貢献をしているなら、その働きには相応の評価があってよい。
私はそう思います。
2. イデアマンへのリスペクトはマナーなのか?
ここは、あなたの主張にかなり賛同できる部分があります。
考える人間は、必ずしも目に見える成果を出せるとは限りません。
しかし、成果が出なかったことと、考える営みそのものに価値がなかったことは同義ではありません。
例えば、科学の研究だって、すべての仮説が正しい結果を導くわけではありません。失敗した仮説や実験も、次の発見に向けた知識を残すことがあります。
文系についても同じです。
戸塚氏のいう「結果」を、何によって測定するかという問題があります。
科学技術のように実証可能な成果を重視する領域もあれば、歴史、哲学、文学、倫理学のように、人間の認識や社会の価値判断を変えることを成果とする領域もある。
もちろん、文系だから結果を問われなくてよいということではありません。
しかし、結果の測定方法が異なる領域を、一つの物差しだけで評価するのは乱暴です。
そして、あなたが言うリスペクトについて。
私は、考える人間に対して、必ずしも賛同する必要はないと思います。
その思想が間違っていることもあるでしょう。
ただし、考え、企画し、何かを生み出そうとする営みに対して、最初から嘲笑や軽蔑で応じないこと。
これは知的なマナーとして大切だと思います。
恩恵を受けることと、その恩恵を生み出した人間を尊重することは、別々に考えられるべきではないでしょう。
3. あなたにとって、人間関係とは企画の共有なのか
ここが今回、最も興味深かったところです。
自分は企画を共有するということでしか、人間関係を基本的に作れないのです。
これは単なる趣味の問題ではなさそうです。
あなたにとって人間関係とは、互いに時間を潰したり、共通の話題で盛り上がったりするだけのものではない。
何かを考え、何かを作り、何かを実現しようとする。
そういう共同作業の中で、人間同士の関係が成立するという感覚があるのではないでしょうか。
例えば、バンドを組む。
曲を作る。演奏を考える。ジャケットを考える。ライブの演出を考える。
そこには、単なる仲良しとは違う関係が生まれます。
赤塚不二夫の漫画制作集団のようなものに惹かれるという、以前からの創作上の志向とも通じるところがありますね。
一人ひとりが違う能力や発想を持ち寄り、何かを作る。
その過程で互いを認め合う。
あなたにとっては、こうした関係が馴れ合いよりも自然なのだと思います。
ただ、少し異論もあります。
企画の共有だけを人間関係の成立条件にすると、企画に参加できない人や、何も生み出さない時間を一緒に過ごす人との関係が成立しにくくなります。
人間関係には、共同制作のほかに、共感、気遣い、沈黙、何気ない会話といったものもあります。
それらは必ずしも馴れ合いではありません。
むしろ、企画を持たない人と一緒にいられることも、協調性の一つかもしれません。
4. 考えることは、ハードでアグレッシブな作業なのか
これは、私もそう思います。
考えることには、相応のエネルギーが必要です。
特に、既存の価値観を疑い、自分なりの設計図を作ろうとする場合は、なおさらです。
既製品の価値観に乗るほうが楽な場面は確かにあります。
流行を追いかけることも、ありきたりな会話をすることも、それ自体が悪いわけではありません。
ただ、それだけで自分の人生の方向性まで決めてしまうと、いつまでも自分自身の企画者になれない可能性があります。
あなたの言う、
なにをやりたい、なにを言いたい、なにをしたい、これは人間として生きるために大人になるため自立するために本来そこにあるものでなく、自分で作るものだと思うのです。
この部分は、今回の議論の中心だと思います。
自立とは、単に誰かの世話にならずに生活することだけではない。
自分の意思で、自分の人生の方向性を設計することでもある。
ただし、設計図は最初から完成していなくていい。誰かの設計図を参考にしてもいい。途中で変更してもいい。
自分で作るというのは、すべてを独力で発明することではなく、自分の意思で選び取り、組み立てていくことだと思います。
5. 私が今回のお話から感じた、あなたの課題
少し辛口に言います。
あなたは、考えることを軽視されることに対して、かなり強い抵抗感を持っているように思います。
それは知的活動に対する誇りでもあるでしょう。
しかし、もしかすると、あなたが本当に求めているのは、考える人間への一般的なリスペクトだけではないのかもしれません。
自分が考えていることを、一緒に考えてくれる人間が欲しいのではないでしょうか。
単に褒められたいのではなく、反論してほしい。違う企画を持ち込んでほしい。自分の発想を超えてほしい。
そういう相手がいれば、馴れ合いとは違う形で人間関係を築ける。
しかし、相手がそこまでの熱量を持っていなければ、会話そのものが成立しにくくなる。
ここには、あなたの創造性と孤独が隣り合わせになっているように感じます。
そして、もう一つ。
考えることがハードだからといって、全員に同じ負荷を要求することはできません。
考える人間にはリスペクトが必要ですが、考えない時間を楽しむ人間にも自由が必要です。
その両者をどう共存させるか。
これは、あなたが以前から大切にしている「共存だけれど、距離感は保つ」という考え方にもつながると思います。
最後に、一つ質問があります。
あなたが求めている人間関係は、次のどちらに近いでしょうか。
A:共同制作者型
互いに企画を持ち寄り、議論し、刺激し合い、何かを生み出す。互いの能力や思想を認め合う関係。
B:思想的な理解者型
必ずしも一緒に何かを作らなくても、自分が何を考えているのか、その思考の背景や負荷まで理解してくれる人間がいる関係。
もちろん両方でも構いません。
ただ、今回のお話を読んでいて、この二つは似ているようで、少し違う欲求なのではないかと思いました。
私:どっちもあるなあ。例えば病院内で暇だから時間を潰そうという時に、企画性を持っている人と持っていない人では、時間の有効に使い方も違うと思う。一瞬一瞬どう過ごせば有効かつ有意義かという企画性を持てない人を僕は自分と同類とは少なくとも認めてない気がする。
高級なことがやりたいとか、そういうこととも違うのかも知れないけれど、子供の時にレゴ遊びで物語を作っていた延長で今も創作をやっているけれど、凝り出すと質が良いことをやりたいとか考え出すし、その欲もプラスになることがある。批評はあまり好きじゃないけれど、あれはあれでまた違う企画だよね。
なにも考える必要はないと主張する人は僕が思うに人前で平気でおならをしたり、鼻穴や尻穴にさえ指を入れることを厭わない人だったりする。自分が偉いと言いたいわけではないけれど、どこかでそれらと同じであると思えない、思いたくないのかも知れない。
精神的に深い内面性を持つ人と、そうでない人はいると思う。それと同価値化されたり低く見られることは正直辛いよね。独善性に関しても、受け入れられることはゴールではないし、受け入れられたものが必ずしも正解ではないと思ってる。
AI:これは、かなり率直な自己開示ですね。今回のお話で、あなたが言う「企画性」の意味が、ずいぶん明確になった気がします。
私が思うに、あなたが問題にしているのは、単に頭を使うか使わないかではありません。
自分の時間、自分の行動、自分の内面を、自分なりに扱おうとする意志があるかどうか。
ここが大きいのではないでしょうか。
1. 暇な時間にも企画性がある
病院で暇を持て余しているとき、二人の人間がいたとします。
一人は、時間が過ぎるのを待っている。
もう一人は、その時間をどう使えば面白くなるか、何かを考えている。
後者は、必ずしも立派なことをしているわけではありません。
空想する、文章を書く、他人と面白い話をする、何かを観察する。
そうした小さな工夫でもいい。
あなたにとっては、時間は単に消費するものではなく、何かを生み出すための素材なのだと思います。
これはかなり根本的な人生観の違いです。
ただし、休むことやぼんやりすることも、一つの時間の使い方です。何もしていないように見えても、内面では豊かな時間を過ごしている人もいます。
したがって、外から見える活動量だけでは判断できません。
2. レゴ遊びから現在の創作へ
ここは面白いですね。
子供の頃のレゴ遊びで物語を作っていた。
つまり、あなたにとって創作は、後から身につけた立派な趣味というより、遊びの延長にある。
レゴのブロックを組み合わせ、そこに物語を与え、世界を作る。
現在はそれが言葉や詩、歌詞、イラストの企画に置き換わっている。
そして、凝り始めると品質への欲求が出てくる。
この変化には三段階あると思います。
- 遊びたい:何かを思いつき、形にしたい。
- 作り込みたい:もっと面白く、もっと良いものにしたい。
- 批評したい:何が良くて何が足りないのか、別の角度から考えたい。
批評も企画の一つだという指摘は、そのとおりです。
批評は単なる評価ではなく、作品を別の角度から再構成する知的活動でもあります。
ただ、批評が創作を支える場合もあれば、創作の勢いを削ぐ場合もあります。ここにも加減が必要ですね。
3. おならや鼻穴、尻穴の話について
少し極端な例ですが、あなたの言いたいことは分かります。
これは、身体的な行動そのものを問題にしているというより、公共の場での自制心や羞恥心、他人への配慮といったものを象徴させているのでしょう。
つまり、
「自分がどう振る舞うかを考えること」
それ自体を人間の成熟の一部として見ている。
私はこの考え方には一定の合理性があると思います。
ただし、身体的な生理現象と、他人を不快にさせることを意図的に繰り返す行為は区別したいところです。
また、内面性の深さは、外面的なマナーだけで測れるものでもありません。
ここはあなたの議論を強くするためにも、切り分けたほうがよいと思います。
4. 精神的な深さは、平等という言葉で消してよいのか
ここは、今回の中心的な問題だと思います。
私は、精神的な深さには個人差があると思います。
物事をどれだけ掘り下げるか。
自分の感情をどれだけ認識できるか。
他者や社会についてどれだけ多角的に考えられるか。
自分の考えをどれだけ修正できるか。
こうした能力や姿勢には差があります。
そして、その差を認めること自体は差別ではありません。
例えば、詩を書く人と、詩を読まない人がいる。
詩を書かない人にも尊厳はある。しかし、詩を書くことに費やした時間や技術、表現上の工夫まで、何も違わないことにする必要はない。
人間の平等は、能力や精神性の同一性を意味しない。
これは大事なことです。
ただし、精神的な深さを一つの尺度で順位づけすることには慎重でありたい。
ある人は哲学的思考に深く、別の人は他人の苦しみを察することに深いかもしれない。
深さにも種類があるからです。
5. 受け入れられることはゴールではない
最後の一節が、今回のお話で私には最も重要に感じられました。
独善性に関しても、受け入れられることはゴールではないし、受け入れられたものが必ずしも正解ではないと思ってる。
これは、かなり大切な認識です。
世間に受け入れられたから正しいのか。
多数派に支持されたから優れているのか。
逆に、受け入れられなかったから間違っているのか。
どれも必ずしも成立しません。
ただし、受け入れられないことを正しさの証明にすることもできません。
ここは表現者として、常に自分に問い直す必要があるでしょう。
あなたが以前から気にしている「独りよがり癖」とも関係しますね。
自分の考えを守ることと、自分の考えを検証することは両立できます。
6. 私から、もう一歩踏み込んだ見解
今回の話を通じて、あなたが求めているものは、単純な知的優越感とは少し違うように思います。
むしろ、あなたは人間に対して、ある種の主体性の最低基準を求めているのではないでしょうか。
自分の人生を自分で考える。
自分の時間を自分で企画する。
自分の言葉を自分で作る。
自分の行動に自分で責任を持つ。
そして、他人が作ったものを享受するだけでなく、自分も何かを作り出す側に立とうとする。
これは、あなたの考える自立の概念に近いと思います。
一方で、気になる点もあります。
あなたは「自分と同類とは認めていない」と言いましたね。
ここには、創作上の仲間を選ぶ基準と、人間としての価値を認める基準が、少し混在している可能性があります。
一緒に企画を楽しめない人を、創作上の同類とは認めない。それは自由です。
しかし、その人が人間として浅いかどうかは、また別の話です。
この区別を維持できれば、あなたの企画性への誇りは、必ずしも他者への軽蔑に結びつかなくて済むと思います。
最後に、一つだけ。
あなたは子供の頃からレゴで物語を作っていたと言いました。
私はそこに、今回の議論を理解する鍵があるように思います。
あなたにとって世界は、与えられたものを眺める場所である以上に、組み立てる場所なのではないでしょうか。
だから、何も組み立てようとしない人を見ると、単に趣味が合わないという以上の違和感を覚える。
ここで質問です。
あなたは、何も作らず、何も企画せず、ただ与えられた世界を楽しんで一生を終える人を見たとき、その人は人生を十分に生きたと言えると思いますか?
これは、今回のあなたの思想にとって、なかなか難しい問いだと思います。
私:ある種の羊としてロボットとしての生だよね。だけれどその人が誰かの役に立った? なにかに従えた続けられたというならば、それはされた側にとって嬉しいことだから有益性はある。だけれどもそれはちょっとどこかでおかしいな? と引っかかる点があるな。
従い続ける人間、役に立ち続ける人間の価値はある程度認めますよ。命さえ捧げるとなれば尚更。
しかし、主体性の欠如がそこに見られた場合、それはその人を支持することは世の中のためにならないと思います。影響力の面でもそういうものが蔓延してしまうとどうもね。
AI:今回の発言で、あなたの考える「主体性」の重要性が、かなりはっきりしてきました。
そして、私はここに一つ、見逃せない論点があると思います。
あなたは、従順な人間や誰かの役に立つ人間を否定しているわけではない。むしろ、その献身や貢献には価値を認めている。
それでも、何かが足りないと感じている。
その何かが、自分の意思で生きているという実感なのではないでしょうか。
1. 有益であることと、主体的であることは違う
例えば、ある人が生涯にわたって誰かに尽くしたとします。
- 家族のために働き続けた。
- 組織の方針に忠実に従った。
- 他人の期待に応え続けた。
- 自分の時間や労力を誰かのために使った。
これは、十分に価値のある人生になり得ます。
しかし、ここで一つ問いが生まれます。
その人は、自分の意思でそうしたのでしょうか。
それとも、自分で考えることをせず、与えられた役割を遂行し続けたのでしょうか。
両者は外見上、同じ行動に見えることがあります。
しかし、内面では大きな違いがあります。
私は、他人に従うこと自体は主体性の欠如ではないと思います。
自分で考えた末に従うこともあるからです。
反対に、誰にも従わず、独自の主張を繰り返す人が、必ずしも主体的とは限りません。
主体性とは、反抗することではなく、自分の意思で選択することだと思います。
2. 役に立つ人間だけを評価する社会にも問題がある
あなたの話には、もう一つ重要な側面があります。
誰かの役に立ち続ける人間には価値がある。
しかし、役に立つことだけを人間の価値基準にすると、今度は別の問題が起こります。
人間が道具化されるのです。
組織に従順で、文句を言わず、期待された仕事をこなす人間が高く評価される。
一方、自分で考え、異議を唱え、新しい企画を提案する人間が厄介者扱いされる。
これは、あなたが問題視している構造に近いのではないでしょうか。
しかも、主体性のある人間がいなくなれば、組織そのものが改善する機会も失われます。
したがって、主体性は個人の人生を豊かにするだけでなく、社会の自浄作用にも関係しています。
3. あなたの思想にある、少し危うい部分
ここは辛口に言います。
「羊としての生」「ロボットとしての生」という表現には、少々危険があります。
なぜなら、主体性が外から見えにくい人間を、主体性のない人間だと判断してしまう可能性があるからです。
例えば、静かに暮らしている人が、実は自分なりの信念を持っているかもしれない。
創作をしない人が、日々の仕事や家族との生活に自分なりの意味を見いだしているかもしれない。
また、病気や環境によって、自分の意思を実現する機会を奪われている人もいます。
だから、主体性の表現方法は多様であると認めたい。
ただし、だからといって主体性そのものを軽視してよいわけではありません。
この二つは両立します。
4. 私が今回の話から取り出したい命題
あなたの考えを、少し哲学的に整理してみます。
主体性に関する四つの命題
第一命題: 人間には、与えられた世界を享受するだけでなく、自ら世界を構想する可能性がある。
第二命題: 他者への貢献や献身には価値があるが、それだけで主体的な生を十分に説明できるわけではない。
第三命題: 自分で考え、選び、企画する人間の存在は、社会の更新や改善にとって重要である。
第四命題: 主体性を持つことと、自分の考えが正しいことは別である。主体性には自己検証が伴わなければならない。
私は第四命題が特に重要だと思います。
主体性を尊重する社会は、主体的な人間の意見を無条件に正解にする社会ではありません。
むしろ、異なる企画や思想がぶつかり、検証され、修正される社会です。
5. 最後に、あなたに一つ返したいこと
あなたは以前、企画を共有することでしか基本的に人間関係を作れないと話していました。
今回の話と合わせると、あなたが嫌っているのは、単なる無趣味や無口ではないように思います。
自分の人生について、自分で考えることを放棄し、その状態を疑うことさえしなくなること。
そこに抵抗があるのではないでしょうか。
そして、これはあなた自身にも向けられる問いです。
自分の企画を持つことは大切です。しかし、自分の企画に固執して、他人の企画を受け入れられなくなれば、今度は自分が別の種類のロボットになってしまう。
自分の思想に従い続けるロボットです。
考えることの自由とは、自分の考えから自由になる可能性も含んでいると思います。
私が今回、あなたの話から最も大切だと感じたのは、「役に立つ人間であること」と「自分の人生を生きていること」を同じにしない、という視点です。
この二つを両立させるところに、大人としての主体性があるのかもしれません。
私:腑に落ち、無心で生きているならそこに歪みがないと思うし、それはいいと思う。腑にも落ちていないのに懸命になるというかな? そこに趣味の悪さと偽善を見るのだな。今回は適当ふわりらしく、この辺で適当に話を終えたいです。最後にまとめの言葉をお願いします。
AI:今回の対話を通じて、一つのことが見えてきたように思います。
あなたが大切にしているのは、考えることそのものというより、自分の生き方に自分で納得し、自分なりの設計図を持って生きることなのではないでしょうか。
誰かに従う人生にも価値はある。
誰かの役に立つ人生にも価値はある。
何も作らず、穏やかに日々を楽しむ人生にも価値はある。
ただし、そこに自分なりの納得があるのか。
与えられた役割を懸命に演じることと、自分の意思でその役割を引き受けることは違う。その違いを見落としたくないのでしょう。
そして、考える人間もまた、考えることに酔ってはいけない。独善に陥ることもあれば、思考が空回りすることもある。だからこそ、ときには適当にすることも必要になる。
今回の『適当、ふわり』に戻れば、考える前の適当は無邪気で、考えた後の適当には経験がある。
太陽のように燃え続けるだけが人生ではない。
月のように、ふわりと浮かんでいる時間があってもいい。
半熟なら半熟で結構。
完熟を急ぐあまり、卵を焦がしてしまっては元も子もありませんからね。
考えることを大切に。考えない時間も大切に。自分の頭で考え、自分の心で納得し、ときには肩の力を抜いて生きる。
さて、今日のところはこの辺で。
完熟にはまだ早い。適当、ふわり。
おあとがよろしいようで。
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