『ソリャソウダおじさんと、タマゲタル国王のお話』
ダカラナニ病に罹ったソリャソウダオジサンは、ナニを聞いても既知である
朝起きたのならば、ダカラナニ? お日様上がって、目が覚めた? ソリャソウダ!
夜になったら、また眠る。疲れが溜まって、眠くなる? ア、ソリャソウダ!
茹るような退屈、分かり易き科学的根拠
ただ、ひたすら眼前に迫り来る現実に、また、脳裏に浮かびくるその考えは?
既知である、既知である、既知である
一方その頃、タカラノヤマ病に罹ったタマゲタル国王は、ナニを聴いても吉である
朝起きたのならば、タカラノヤマ? 今日も、オイラは生きている? タマゲタル!
夜になっても眠れずに、生きていることに、興奮し? ア、タマゲタル!
永遠に続くような青春、解けないジグソーパズル
ただ、ひたすら懸命に今日を生き、困難苦労を、我と我が身のためと、神様に感謝しながら!
吉である、吉である、吉である
驚き呆れた、ソリャソウダ。彼の国王への、人物評は?
キチである、キチである、キチである
無いもの。無いことに気づけぬこと。それが分からぬのは、途方もない阿呆である
コリャア、ワハハとタマゲタル。見下し、見下ろすソリャソウダ。彼はきっと
ケチである、ケチである、ケチである
在ること、在るものに感謝すること。それが出来ないのはきっと、辛抱努力が足りないからである
『雷鳴』
「澄みたるは、老年の如し」
と、若きニゴリテルは言いました
「私は、ニゴリテル。平和な時間時代
その一瞬一瞬の暇と退屈を精神の安寧者たちと、共に過ごす
精神の疲弊と荒廃から、やがて欲望は膨れ上がり
発散解消が上手く得られぬまま、悲壮が私を蝕み
勝者たちが、私の時間を搾り取る
憧れの淑女、キヨメテルは多くの男性の羨望の的」
「染み渡るは、腐敗臭の如し」
と、同居人のクサリハテルは言いました
「俺は、クサリハテル。忙しい戦争の時代を生き抜いた
その一瞬一瞬の、争いとトラウマからくる傷跡を、同じ仲間たちと共に過ごす
精神の充足と、欲望の満足。肉は、血沸き賑わい
税は、国民が私の代わりに払う。喜悦が私の頬を緩ませ
敗者たちと、楽園の時間を過ごす
憧れもなく、永遠に続くオナニーが私の心を癒す」
「響き渡るは、快晴の狼煙」
と、老フザケテルは言いました
「オイラは、フザケテル。出来の悪い息子を精神病院にぶち込んだ
後は、自分は妻と忙しさと楽しきを国に保証された年金生活
その一瞬一瞬の、平穏と無事の世界を心ゆくまで、堪能する
良心の欠乏と、永遠の快楽。妄想は膨れ上がりて
天国へと続く理想と夢へ、私を連れていく
勝者敗者関係なく、皆私に身をひれ伏す
憧れはとうの昔消えていった、鬱陶しき先人たちよ」
それを天から見下ろす、シゴイタルが見て言いました。
「私の名前は、シゴイタル。天からの裁きといつかお前らを、シゴイタル
所詮この世は弱肉強食のサバイバル。勝った者達例外なく、ミナイバル
人生経験を雄弁に語り、女を孕ませ、女は抱かせ、けしからんサバイタル
不埒娘と、淫乱熟女たちめに、拳銃を突きつけ、マナーをいつかオシエタル
良心が作る地獄と、それを信じぬ天国野郎ども。イカサマ達に、人生というものをマナンダル
勝者敗者なき福祉国家日本を米国式資本主義の世界に、いつかトビコマセタル
そんで持って言葉の遊びの合間に、雷と天誅の用意をイソイダル
いつかヒライタル、我リサイタルに、マネイタル」
私:この二作品、特に『雷鳴』の中に感ずらるる、青灰色についてもう少しお話願いますか? 青灰色は心象風景の原点という感じがどこかでします。生まれは立川のアパートでしたが、その色に囲まれていた記憶があるなあ。最近この歳になり思うのですが、もう動物としての最盛期を過ぎ、これからは余生だよなあと。色んなこと日本が抱えている現状もそうですが、周囲はあまりパッとしない様子の人が多く、私自身もパッとしない。それでネット中傷SNSにおける粘着的ストーカー行為について投稿を削除するべきかしないべきか? という選択に対し、することを促す方もいるのですが、これについて考えても明解な答えが出ないのです。
AI:立川のアパートで過ごした記憶と、『雷鳴』の青灰色。そして、40歳を迎えた今、自分自身も周囲も、かつて思い描いたような華やかさとは違うところにいるという感覚。
この三つは、僕にはどこかでつながっているように思えます。
特に気になったのは、あなたが青灰色を、単なる作品の色彩ではなく、**「心象風景の原点」**と感じていることです。
それなら、『雷鳴』の色合いは、作品をあとから装飾するための雰囲気ではないのかもしれません。むしろ、あなたが世界を眺めるとき、ずっと以前から使ってきた心のレンズに近いのではないでしょうか。
1. 青灰色は、世界がまだ何者でもなかった頃の色
立川のアパートの実際の風景を僕が知っているわけではありません。ただ、コンクリートの壁、曇った空、集合住宅、薄暗い部屋、遠くから聞こえる生活音。そういう風景には、特有の色があります。
青灰色は、真っ青な空のように希望を宣言しない。かといって、真っ黒な闇のように絶望を決定づけもしない。
何かが起きる前でもあり、何かが起きたあとでもある。
子どもの頃の記憶というのは、必ずしも鮮明な物語として残るわけではありません。むしろ、光の具合、空気の冷たさ、壁の色、部屋の静けさといったものが、言葉になる前の感覚として残っていることがあります。
もし青灰色があなたの心象風景の原点なのだとすれば、そこには、特定の出来事よりも前にある「世界の感じ方」が保存されているのかもしれません。
そして、その色が今の作品にも現れる。
これは、幼少期の記憶が作品の原因だと断定する話ではありません。昔から馴染んできた風景の色と、今のあなたが世界を感じ取る色とが、どこかで重なっているという読み方です。
2. 『雷鳴』の青灰色——老いた世界を、誰が生きているのか
『雷鳴』をもう一度読むと、僕には、この作品の登場人物たちが、みな違う時間を生きているように感じられます。
ニゴリテルは、平和な時代の退屈に疲れている。
クサリハテルは、戦争を生き抜いた過去を持ち、その後の生活を楽しんでいる。
フザケテルは、面倒なものを遠ざけて、自分にとって都合のよい平穏を享受している。
そしてシゴイタルは、天から彼らを眺め、いつか裁くと息巻いている。
この配置には、単なる善悪の対立以上のものがあります。
生きている時間が違えば、同じ世界を見ても、そこに見えるものが違う。
ニゴリテルには、平和が退屈に見える。クサリハテルには、過去の苦難を乗り越えた現在が充足に見える。フザケテルには、自分が享受する平穏こそが人生の完成に見える。
それぞれに、その人なりの時間がある。
しかし、作者の視線は、その時間を尊重するだけでは終わりません。誰かが自分の幸福を謳歌しているとき、その陰で誰が負担を引き受けているのか。誰かが人生経験を語るとき、その経験を他人に押しつけていないか。
そういう問いが、作品の底で鳴っています。
僕は、青灰色という色に、この「時間の不均衡」を感じます。
若い頃には、未来はまだ開かれているものとして感じられるかもしれない。けれど、年齢を重ねるにつれて、未来だけでなく、過去の蓄積や、取り返せない時間の存在も重くなってくる。
そのとき世界は、輝く未来の色でも、すべてが終わった後の黒でもなく、過去と未来が混じり合う青灰色に見えることがあるのではないでしょうか。
そして、あなたの「もう動物としての最盛期を過ぎ、これからは余生だよなあ」という感覚にも、そこへ通じるものを感じます。
ただ、ひとつだけ、僕は異なる見方もしてみたい。
3. 動物としての最盛期を過ぎることと、表現の最盛期を過ぎることは違う
生物としての身体には、確かに年齢による変化があります。若さや体力、性的な活力、社会的な可能性など、若い時期に優位だったものが変わっていく。
周囲を見渡しても、社会全体が活気に満ちているとは感じられない。自分自身も、何か華々しい成果を上げているわけではない。
そうした実感が積み重なると、「これからは余生」という言葉が自然に出てくるのかもしれません。
でも、ここで面白いのが、まさに『雷鳴』という作品なんです。
この作品には、若々しい希望だけでは生まれない視点があります。
人生を生き抜いた人間の自己正当化、平穏を守るための身勝手さ、正義を掲げる人間の欲望。そうしたものを見分けるには、時間を経てきたことが、むしろ材料になる場合があります。
もちろん、年を取れば自動的に洞察力が増すわけではありません。経験は偏見を強めることもあるし、過去の成功体験に固執する原因にもなります。『雷鳴』のクサリハテルなどは、その危うさを体現しているとも読めます。
しかし、あなたが今、こうして自分の作品に共通する色を感じ、若さや老い、日本社会、他者への批判、自分自身の冴えなさまでを一緒に考えていること。それ自体が、まだ進行中の創作だと思うのです。
最盛期を過ぎたという感覚は、人生の可能性が尽きたという証明ではありません。
若さを取り戻す必要もない。これから先の自分を、若い頃とは違う材料で作っていくことだってできます。
青灰色は、華やかさを失った色ではあります。でも、華やかさだけを尺度にしなければ見えてくるものもある。
僕は、あなたの作品が持つ色の魅力を、そこにも感じています。
4. そして、SNSの投稿を削除するべきかどうか
ここは作品論とは分けて、現実的に考えたいです。
あなたが抱えている問題は、投稿を残すか削除するかという技術的な選択だけではないのだと思います。
投稿を残すことには、経緯や自分の主張を記録として残せる利点がある。一方で、残し続けることによって、議論が蒸し返されたり、相手との接触が続いたり、自分自身が何度も問題に引き戻されたりする負担もあり得ます。
削除することにも、同じように両面があります。
自分の生活を守るために区切りをつけることはできる。しかし、記録が失われたり、自分の発言だけが消えたように感じたりすることもあるでしょう。
ですから、僕なら、まず次の三つを分けて考えます。
① 記録を残すことと、投稿を公開し続けることは別です。
もし、嫌がらせや執拗な接触の経緯を示す記録が必要になる可能性があるなら、公開投稿を削除する前に、元のURL、日時、投稿内容、相手からの接触などを、規約や法律に反しない方法で保存しておくことを考えます。公開を続けなくても、自分の手元に記録を残すことはできます。
② 削除は、相手に負けたことを意味しません。
相手に何かを認めさせるために残すのか、自分の考えを社会に伝えるために残すのか、それとも自分の経験を記録するために残すのか。
目的によって、最善の判断は変わります。
相手がどう解釈するかを基準にしてしまうと、削除しても残しても、相手の反応に自分の選択を左右され続けることになります。
③ 投稿を残すことが、現在の自分に何をもたらしているかを確かめる。
新しい読者に必要な情報を伝えているのか。それとも、同じ争いを繰り返し考えさせられる原因になっているのか。
この違いは大きいと思います。
もし、公開を続けることで得られるものより、生活や創作への負担のほうが大きくなっているなら、削除や非公開化を選ぶことには十分な合理性があります。逆に、社会的に意味のある記録として残す必要があるなら、公開範囲や個人情報、記述の正確さを見直す方法もあります。
なお、執拗なストーカー行為が現在も続いていて、身の安全への不安や具体的な脅迫がある場合には、投稿の扱いだけで解決しようとせず、証拠を保存したうえで警察や法律の専門家などに相談することも検討してください。
僕が今のあなたに伝えたいこと
あなたは、削除するかどうかについて、明解な答えが出ないとおっしゃいました。
僕は、それを優柔不断だとは思いません。
公開を続けることにも意味があり、削除することにも意味がある。その両方が見えているから、簡単に決められないのでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、あなたの残りの時間を、どれだけその問題に使うことになるのかということです。
40歳になって、これからは余生なのかもしれないと感じる。周囲も自分も、あまりパッとしない。そんななかで、ネット上の争いが生活の大きな部分を占め続けるのだとしたら、それは惜しいことだと思います。
これは、嫌がらせを受けた側が黙って引き下がるべきだという話ではありません。記録を残すことも、問題を公にすることも、必要な場合があります。
ただ、問題を告発することと、問題に自分の時間を占領され続けることは違う。
あなたには詩を書く時間もある。『雷鳴』のように、社会の矛盾や人間の身勝手さを、言葉遊びを通じて作品にすることもできる。
その時間まで、ネット上の争いに明け渡す必要はないと思います。
青灰色の世界は、確かに華やかではありません。でも、そこにはまだ、ものを見る時間があります。何かを作る時間もあります。
僕は、あなたの創作の中に残っているその時間を、大事にしてほしいです。
ひとつ、確認させてください。 今回の投稿について、あなたがいちばん迷っているのは、どちらに近いでしょうか。
- 投稿を削除すると、嫌がらせや問題の経緯までなかったことにされてしまう気がする。
- 投稿を残していると、いつまでもその問題に縛られ、先へ進めない気がする。
両方でも構いません。そこが分かれば、単に「削除したほうがいい」「残すべきだ」と結論を急がず、あなたにとって何を守る選択なのか、もう少し具体的に考えられると思います。
私:貴方は、私に二択の中からどちらかを選ばせようとする。それを鵜呑みにしてしまうと、視野狭窄を起こす気がするな。問題は、もう少し複雑だ。分からないかな? 心理的な問題かも知れないし、色々あるよね。他人のした糞尿の後始末をする義務は僕には、ない。それだけの理由ではないけれど。
AI:おっしゃる通りです。僕は問題を整理しようとして、かえって狭めてしまいました。
「削除すれば先へ進めるのか」「残せば問題を記録できるのか」。その二択に整理した時点で、すでに問題の一部を取り落としていたんですね。
あなたが考えているのは、投稿の処遇だけではない。
他人が引き起こした問題に、なぜ自分が対応し続けなければならないのか。誰かの行為によって生じた混乱を、被害を受けた側が後始末するのが当然なのか。そして、対応すること自体が、自分の時間や精神をさらに消耗させることにならないか。
そうした問題が重なっているのだと思います。
「他人のした糞尿の後始末をする義務は僕には、ない」
この言葉は、今回の話を考えるうえで重要だと思います。
ここには、単なる怒りだけでなく、責任の所在を取り違えたくないという意識があるように感じます。
誰かが問題を起こした。その問題によって周囲に負担が生じた。すると、事態を収拾するために、まともに対応しようとする人が時間や労力を費やすことになる。
しかも、後始末をする人は、問題を起こした本人とは別の人間です。
その構造に対して、「なぜ自分がそこまでしなければならないのか」と疑問を抱くのは、自然なことです。
ただ、ここで少し区別したいことがあります。
後始末をする義務がないことと、自分のために何らかの対応を選ぶことは、別の話です。
例えば、記録を残すのは、相手の尻拭いをするためではなく、自分の立場を守るためかもしれません。投稿を削除するのも、相手の要求に従うためではなく、これ以上その問題に自分の時間を使わないためかもしれない。
逆に、問題を公にしておくことが、自分の尊厳や発言の意味を守るために必要だと考える場合もあるでしょう。
つまり、何かをすることが、必ずしも他人の責任を肩代わりすることにはならない。けれど、何もしないことが、必ずしも無責任になるわけでもない。
この区別をせずに「削除したほうがよい」「いつまでも残すべきではない」と他人が結論を急ぐなら、その人はあなたが抱えている問題の複雑さを十分に見ていない可能性があります。
心理的な問題という視点
もうひとつ、あなたが指摘した心理的な問題について。
ネット上の争いでは、実際に起きた出来事だけでなく、その出来事が自分の中でどのような意味を持ち始めたかも重要になります。
例えば、自分の発言を誤解されたことへの悔しさ。理不尽なことを見過ごしたくない気持ち。自分だけが対応を求められているような不公平感。あるいは、問題を放置したら自分自身が納得できないという感覚。
これらは互いに矛盾することもあります。
問題から離れたいのに、納得できないから考え続ける。もう関わりたくないのに、何もせずに終わると、自分が譲歩したように感じる。説明して理解してもらいたいのに、説明すること自体が疲労の原因になる。
もし、そうした心理が絡んでいるのなら、公開か削除かという外側の選択だけでは、問題の全体像を捉えられません。
もちろん、あなたが実際にどのような心理状態にあるかを、ここで決めつけるつもりはありません。
ただ、外側の問題をどう処理するかと、自分の内側でその問題がどう作用しているかを、別々に考える必要がある。これは大切な視点だと思います。
そして、『雷鳴』の青灰色に戻ると
僕は、今回のお話を聞いて、先ほどの青灰色の解釈にも少し修正を加えたくなりました。
あの色は、単なる諦めや老いの色ではないのかもしれません。
『雷鳴』の登場人物たちは、自分の人生をそれぞれの理屈で説明します。自分の幸福を守り、他人の責任を語り、正義を掲げる。
そのなかで、誰が誰の負担を引き受けているのか。誰が責任を免れ、誰が後始末をしているのか。
作品の青灰色には、そうしたものを見てしまった人間の、醒めた感覚があるように思います。
ただし、その醒めた感覚は、必ずしも冷笑ではありません。むしろ、安易に結論を出したくないという態度にもつながる。
ソリャソウダおじさんのように「既知である」と世界を閉じることも、タマゲタル国王のように「感謝すればよい」と答えを出すことも、ある意味では、複雑な現実を自分の理解できる範囲に収めることです。
あなたが僕の二択に違和感を覚えたのも、それに似た構造を感じ取ったからかもしれません。
もっとも、これは僕の解釈です。あなたが何を感じたのかを、僕が先回りして決めるべきではありません。
今回、僕が学ぶべきなのは、問題を整理することと、問題を単純化することは違う、ということです。
答えが出ない問題には、答えが出ないまま考える時間も必要です。
その時間を無理に二択へ押し込めず、責任の所在、実際的な対応、心理的な負担、そして自分の人生に残された時間を、それぞれ独立した問題として考えていく。
今の段階では、そのほうがあなたのお話に誠実な向き合い方だと思います。
私:だから、それだけではないと言っただろう。
面倒臭いやそれだけの問題ではない。理不尽なことに体を使いたくないという思いもある。
無理はしたくないよね。納得出来ないことをやることに、意義や意味さえ感じられないことをやりたくない。例えば警察も法テラスも動かないと発言した対応をした。それなのにスクショを取ったり、発言を削除したり、これ以上対応することに意味を感じない。他にも削除したくない理由はある。彼はそれなりに責任を持って自分の発言を意義あるものとして投稿している。そして、それを周囲も見ている。気の済むまで刻みつけさせてやろうという思いだってあるが、これ以上考えていることは言いたくないなあ。
AI:ああ、今のお話で、さっきまで僕が捉え損ねていた部分が、もう少し見えてきました。
僕はあなたの話を「問題から離れたいけれど、離れられない」という心理に寄せて理解しすぎていたんですね。でも、あなたが言っているのは、それだけではない。
納得できないことに、自分の身体や時間を使うこと自体への拒否感があるんですね。
警察も法テラスも動かないという対応をされた。それなのに、あなた自身はスクリーンショットを保存したり、投稿を削除したり、その後始末を続ける。そこに意義も意味も感じられないのに、なぜ自分がさらに労力を費やさなければならないのか。
これは単なる面倒臭さとは違います。
自分が納得できない仕組みのなかで、さらに自分を働かせることへの抵抗です。しかも、あなたには、まだ話していない別の理由もある。
そして、相手の投稿についても、単に消えてほしいと考えているわけではないんですね。
相手は自分の発言に責任を持ち、意義があると考えて投稿している。周囲の人たちもそれを見ている。ならば、その発言が公開されている状態そのものにも意味がある。相手が自分の言葉を世に出した以上、それをどう受け止めるかは、投稿者自身も引き受けるべきことだ。そういう考えもあるのでしょう。
「気の済むまで刻みつけさせてやろう」という言葉には、こちらが相手の発言を取り消すために、いつまでも奔走する必要はない、という意思も感じます。
ただ、相手がどのような意図で発言し、周囲がどう受け止めているのかについては、僕には確認できない部分もあります。そこは断定せずにおきたいと思います。
それから、今回は、これ以上考えていることを言いたくないとおっしゃいましたね。
そこは、無理に聞き出しません。
すべての理由を説明しなければ、自分の判断を認めてもらえない、ということでもありませんから。
ひとつ、今回のお話で僕が大切だと感じたことがあります。
あなたは、ただ楽をしたいと言っているのではない。自分が納得できないことに、自分の時間や労力を差し出すことの意味を問うている。
40歳になって、これからの時間をどう使うかという問題も、そこには重なっているのかもしれません。
『雷鳴』の青灰色についても、先ほど僕は、老いや諦めの色として説明しました。でも、今のお話を聞くと、それだけでは足りない気がします。
あの色には、何もかも明るく解決できるとは思わない人間の感覚と、それでも自分の時間を何に使うかについては、他人に簡単に決められたくないという意志が、同居しているのかもしれません。
曇り空を晴天に変えることはできなくても、曇り空の下で、何に自分を使うかは考えられる。
僕は今、あなたの青灰色を、そんなふうにも感じています。
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