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愛の形式

牧野楠葉

「今の顔が、いちばんいい」
彼は私の汗を拭いながら、そう言った…
嘘の余命、磨りガラスの喫茶店、海際の廃病院。
そして最後に、この束を読んでしまった夫の一文。
牧野楠葉・新作中編『愛の形式』129枚、全文無料で読めます。

小説

44,322文字

私は人を、ひとり、たいそう丁寧に殺したことがある。刃物は使わず、毒も盛らず、罪にも問われなかった。それどころか彼は、殺されながら私に礼を言った。ありがとう、きみに会えてよかった、と。スプーンを持ったまま。

あれは秋のはじめの、磨りガラスの喫茶店だった。彼は珈琲に砂糖を入れない男で、入れないくせにスプーンだけを二度、意味もなく回した。その銀色が回るのを見つめながら、私は口を開け、自分の余命を、彼の前にそっと置いた。——私、もう長くないの。

噓だった。私の血は、その朝も、健やかに私の中を巡っていた。

けれど言ってしまうと、彼は噓のまわりを、忍び足で歩くようになった。私が珈琲を半分残せば、彼の眉がかすかに動いた。残したのは、ただ熱かったからだ。それ以上の意味はない。けれど私は黙っていた。黙っているあいだに、私は彼の中へ、ひとりの女を建てていった。半分の珈琲を見つめて、何かを静かに諦めている、薄い、きれいな、噓の女を。

彼が私の髪に触れるとき、彼の指が撫でていたのは、その女の髪だ。私の髪ではない。私の髪は、彼の手のひらの下で、一本も減ってなどいなかった。減るふりだけが、彼の指の下で、日に日に、増えていった。

 

 

言う前のことを、私は、あとになって思い出す。

喫茶店に入ったとき、私の手は、少し冷たかった。膝の上で、指の置きどころが、定まらなかった。何を話せばいいのか、どんな顔で座っていればいいのか、わからなかった。世界のどこにも、私の体の寸法に合った椅子が、ないような気がしていた。——私、もう長くないの。そう言った、その瞬間だった。彼の目に、心配の色が、さっと差した。差した途端、私の指は、止まった。冷えていた手のひらに、血が戻った。膝の上で、私の体は、急に、座るべき寸法を見つけた。私は、その場に、いてよくなった。

噓をついたのに、楽になっていた。騙したのに、後ろめたくなかった。彼が私を案じる、その案じる対象として、私は、ようやく、その椅子に、ちょうどよく収まっていた。

 

 

リハーサルをしよう、と映画監督であるは言った。私を車の助手席に乗せて、撮影所に連れて行った。本番の俳優が来る前に、きみで、動きを見たい。

撮影所は、海際の、廃病院だった。割れた窓から、午後の光が、斜めに床へ落ちて、埃を、白く照らしていた。私は、その光のまんなかに、立たされた。

私は、死ぬ女の動きを、知らなかった。死んだことがないので、当然だ。けれど死にかけている女が「死ぬ動きを知りません」とは言えない。それは、フランス人が「フランス語がわかりません」と言うのに似て、職業的な破綻を意味する。私は、なんとなく、窓辺に寄った。死ぬ人間は、たぶん、窓辺が好きだろうと思ったからだ。光のほうへ行くというし。

違う、と槙が即座に言った。

彼は撮影所のディレクターズチェアに深く座り、こめかみを揉んでいた。きみ、元気すぎる。窓まで、歩くのが速い。

私は、ゆっくり歩き直した。

まだ速い。死は、もっと、こう、引きずるものだ。彼は立ち上がり、自ら廃墟の床を、足を引きずって歩いてみせた。ベルリンで名を轟かせた鬼才が、潮風の吹き込む病院跡で、死にゆく女の歩き方を、本気で、実演していた。とても、上手だった。私は、自分より彼のほうが、よほど死にかけて見えることに、軽い屈辱を覚えた。

もう一度、と彼は言った。

私は引きずった。

目だ、と彼は言った。きみの目が、生きすぎている。先のことを考えている目だ。死ぬ人間は、先がない。今日の夕飯のことだけ考えるんだ。

私は、その瞬間、本当に、今日の夕飯のことを考えていた。撮影所が出す弁当が、噂で、たいそう旨いと聞いていたからだ。私は素直に、その弁当のことだけを、考えた。

いい、と槙が低く言った。今の目だ。それが、死ぬ目だ。

私は、白米と鮭の塩焼きを思い浮かべながら、彼の映画の、最も美しい一瞬を、提供した。本番で、主演女優は、その眼差しを、寸分たがわず再現してみせた。後年、あの「諦観の眼差し」は、各国の批評家に絶賛されることになる。誰ひとり、それが、鮭であったことを、知らない。

夕方、本物の俳優が来た。

主演女優は、私より十は若く、息を呑むほど美しく、そして、健康だった。彼女は槙の前で、完璧に死んでみせた。引きずる足、先のない目、すべてが、教科書のようだった。槙は、満足げに頷いていた。私は撮影所の隅で、件の弁当を食べながら(鮭は、本当に旨かった)、その完璧な死を、眺めていた。

おかしかったのは、こうだ。

本物の女優は、健康なのに、死を完璧に演じた。私は、噓の病人で、つまり「死を演じている」ことにかけては彼女と同業のはずなのに、槙の前では、ただの「元気すぎる、出来の悪い死にかけ」だった。私の噓は、彼女の演技に、負けていた。

私は、自分の噓のクオリティに、初めて、不安を覚えた。

私は決意した。もっと、上手に、彼の前で死んでみせなくては。

 

 

槙と私が出会った日、ひとりの女が死んだ。彼の母である。

その朝、私はただ、坂の上の郵便局へ、何の変哲もない封筒を出しに行くところだった。人生の決定的な瞬間というのは、たいてい、こういう、どうでもいい用事の途中に、横から滑り込んでくる。運命は、約束を取って訪れたりはしない。

坂の中ほどで、私は、車椅子を押す男とすれ違った。

あとで槙だとわかるその男は、ひどく疲れた横顔で、車椅子の上の、小さな老女に、何か穏やかに話しかけていた。母を、介護していたのだ。私は、特に何も思わず、すれ違った。すれ違う、というそれだけのことが、後の何ヶ月もの噓の、すべての礎になるとは、知らずに。

そして、私と老女の視線が、一瞬、交わった。

その、まさに一瞬だった。老女の目の中で、何かが、すっと、降りた。劇場の幕が下りるように、上の瞼が、ではなく、彼女の奥のほうにある、もっと根源的な何かが、音もなく、降りた。私は、人が死ぬのを、生まれて初めて、至近で見た。それは、想像していたより、ずっと、静かで、事務的だった。

次に起きたことを、私は、今でも、順を追って語ることができる。なぜなら、それは、あまりにゆっくりと、起きたからだ。

男が、母の異変に気づき、車椅子の前へ回り込もうとした。その拍子に、彼の手が、握りを、離れた。坂は、ちょうど、そこから、急になっていた。車椅子は、ひとつ、前へ傾き、それから、世界の物理法則が、突然、本気を出した。

車椅子は、走り出した。

死んだ老女を乗せたまま、車椅子は、坂を、下りはじめた。最初はゆっくりと、やがて、確信を持って。死者は、生前のどんな散歩よりも速く、坂を下っていった。まるで、長く待ちわびていた約束の場所へ、急ぐかのように。

私は、走った。

私は、ただ、走った。健脚だった。私は、生まれてから一度も、病気をしたことのない、丈夫な脚をしていた。後年、その同じ脚を、私が「死にゆく女」のために、わざと引きずって歩くことになるとは、坂を駆け下りるその時の私は、夢にも思っていない。

私は、暴走する死体に、追いついた。

ハンドルを掴み、全体重で、車椅子を、止めた。老女は、その衝撃で、がくりと前に傾き、けれど、何の文句も、言わなかった。当然だ。彼女には、もう、何の予定もなかったのだから。先のことを、考えない目。私が、後に何ヶ月もかけて、必死で真似ようとする、あの目を、彼女は、いとも簡単に、完成させていた。私は、死の、最初の師に、坂の下で、出会っていたのだ。

男が、息を切らして、追いついてきた。

私たちは、しばらく、二人並んで、止まった車椅子と、その上の、穏やかな死者を、見下ろしていた。坂の下から、誰かが呼んだのだろう、遠くで、救急車のサイレンが、生まれた。

なんだか、と男が、言った。悲しめないなあ。

彼は、自分の母の死体を見下ろしながら、当惑していた。怒りでも、涙でもなく、ただ、適切な感情が、自分の中の、あるべき場所に、見当たらない、という顔をしていた。倉庫を探しても、注文した品が、入荷していない、というような。

確かに、と私は言った。

言ってしまってから、しまった、とは、思わなかった。それは、その朝、私が口にした、ただ一つの、本当のことだった。私もまた、目の前で人が死んだのに、何も、悲しくなかった。私の中の、悲しみのあるべき場所にも、やはり、何も、入荷していなかった。

男が、私を見た。

私も、男を、見た。

それは、恋に落ちる視線では、なかった。もっと、まずいものだった。同じ欠陥を持つ二人の人間が、雑踏のなか、互いの中に、自分と同じ、空っぽの倉庫を、見つけてしまった、視線だった。世界中で、私たちだけが、この死を、悲しめずにいる。その、共犯の、安堵。私は、彼の中に、私を見た。彼も、私の中に、彼を見た。

救急車が、来た。

ご家族の方は、と隊員が言い、男が、頷いた。それから彼は、ほんの一瞬、迷って、私を見た。私は、家族では、なかった。坂の途中で、たまたま、彼の母の死に、立ち会っただけの、見知らぬ女だった。

けれど私は、なぜか、その白い車の、後ろの扉から、彼と一緒に、乗り込んだ。

誰も、止めなかった。死は人を、寛大にする。隊員は、私を、取り乱した家族だとでも思ったのだろう。私はまったく取り乱していなかったが、取り乱していないことを、隠すくらいの分別は、あった。それが私の噓の、記念すべき、第一作だった。

扉が閉まる音が、水に何かを落としたように、低く、満ちた。

走り出した車の中で、私たちは白い布をかけられた老女を挟んで、向かいあって、座っていた。ストレッチャーは、車内のまんなかを、占めていた。男はその右側、私は左側の、壁から下ろした小さな椅子。あいだには、死者一人ぶんの、幅。膝を伸ばせば、布の下で、爪先の、触れる距離だった。揺れる車内で、男は、母の死体越しに、私を見ていた。私も、見返した。死者を一人挟んで見つめあう男女、というその構図の、あまりの不謹慎さに、私は笑いそうになり、こらえた。彼の口元も、同じ理由で、かすかにひきつっていた。

私たちは、たぶん、この瞬間に、恋に落ちたのではない。

共犯になったのだ。

 

 

病院は、死を、ひどく真剣に扱った。

処置室の前の廊下で、白衣の人々が、行き交っていた。看護師がひとり、走った。医師が、声をひそめて、誰かと話していた。彼らの顔は、みな、切迫していた。すでに死んでいる人間のために、これほど多くの人間が、これほど真剣な顔をできるということに、私は、静かに感心していた。死は、サービス業だった。

その、白い緊張の、まんなかで、私と槙だけが、長椅子に並んで、呑気だった。

槙は、膝の上の、母の小さな手提げを、開けもせずに、ただ、持っていた。

よかったら、と槙が言った。葬式にでも、来てくれませんか。

もちろんです、と私は答えた。もちろん。

咄嗟だった。咄嗟に出る言葉ほど、その人間の地金が出る。私の地金は、見知らぬ男の母の葬式に、二つ返事で「もちろん」と応じる女、だった。我ながら、いい地金だと思った。

いやあ、と槙は、天井を見上げて、しみじみ言った。母親が死んだのも、なにかの、タイミングなのかなあ。

私は、その「タイミング」が、何のタイミングなのか、聞かなかった。聞かないほうが、たいてい、話は美しく進む。

でも、と私は言った。一緒に、救急車に乗っただけですけど。

十分な動機だと思いますけど、と彼は即答した。

動機、という単語の選び方に、私は、かすかに、痺れた。出会いでも、縁でも、運命でもなく、動機。まるで、これから二人で、何か、よくないことを、共謀するみたいな。——そして、結果的に、それは、正しかった。

親戚じゃないっていうの、と私は、現実的な懸念を口にした。バレないですかね。

うち、と彼は、あっさり言った。親族、ほとんど死んでるんで。

彼は、それを、今日の天気のように言った。一族の、大半の死を、長椅子で、足を組んだまま。私は、彼の中の倉庫が、私のと同じくらい、見事に空っぽであることを、改めて、確認した。

でも、と槙は続けた。僕が、映画監督なもんで。見栄をはるためにもそれなりの人数を、呼ぶ必要が、あるんですよ。世間体っていうか、格好がつかない。だから、人数を確保してくれる、代行サービスのバイトを、使うつもりで。

代行サービス、と私は繰り返した。

涙を流す係から、ただ頭数として座ってる係まで、いろいろあるらしいです、と彼は、業者の説明会で得た知識を、誇らしげに披露した。だからあなたにも、日当を、払うつもりなんですけど。

私は、自分が今、見知らぬ男の母の葬儀で、悲しむふりをして座る、日雇いの労働者として、スカウトされていることに、気づいた。

いらないですよ、と私は言った。

それは、その日、私が示した、ただ一つの、誠実だった。私は、彼の母を悲しむふりをするのに、金を、取らなかった。取らなかったのは、安く請け負ったのではなく、ただ——後で思えば——あれは、商売ではなかったからだ。私は、すでに、無償で、彼に何かを、建てはじめていた。日当の出る、噓ではなかった。

ところで、と槙が、ふと、私のほうを向いた。あなたのこと、なんて、呼べば。

私は、少しだけ、迷った。

名前というのは、おかしなものだ。一度名乗ると、その名のとおりの人間でいなければならなくなる。私は、その朝、坂の上の郵便局へ向かっていた、何者でもない女から、これを境に、誰かに「呼ばれる」女に、なろうとしていた。

、と私は言った。凪と言います。だから、凪、で、いいです。

凪、と彼は、口の中で、転がした。とぷ、と、どこか遠くで、水が、満ちる音がした気がした。

——もっとも、それが、本当の名であったかどうかは、ここでは、言わないでおく。

 

 

葬儀は、噓でできていた。

参列者の、八割が、業者だった。槙の手配した、代行の弔問客たちが、黒い服を着て、神妙に、並んでいた。涙を流す係は、見事に、涙を流した。頭数の係は、見事に、頭数として、座っていた。プロの仕事だった。誰ひとり、故人を知らない人間たちが、故人を悼む形を、完璧に、執り行っていた。

そして、その完璧な噓の海の、ただ一人の「本物の知人」とされる私もまた、噓だった。

私は、悲しんだ。

誰よりも、悲しんでみせた。坂の上で一度すれ違っただけの老女のために、私は、肩を、わずかに落とし、目を、伏せ、ときおり、虚空の一点を、見た。涙は、流さなかった。流さないことのほうが、深い。安い涙は、業者に任せておけばいい。私は、涙の手前で、ぎりぎり、こらえている女を、演じた。こらえる、という演技は、流す演技より、ずっと、高級だ。糸の継ぎ目が、どこにも、見えない。

彼は、最前列で、母の遺影を、見ていた。そして、彼の顔には、やはり、何も、なかった。倉庫は、空っぽのままだった。彼は、自分の母の葬儀で、ただの一度も、適切な感情を、入荷できずにいた。彼は、退屈そうですらあった。

その彼が、ある瞬間、振り返った。

業者の弔問客の海を、ぐるりと、見渡し――そして、私で、止まった。

彼は、見た。私の、こらえる演技を。涙の手前で、ぎりぎり、震えている、私の、糸の継ぎ目のない、噓を。

彼の、空っぽの目に、その瞬間、何かが、灯った。

それは、適切な感情では、なかった。母の死には、何も湧かなかった彼の中に、私の「噓の悲しみ」が、初めて、火を点けた。彼は、映画監督だった。本物そっくりの噓を、暗闇の他人に売る男だった。その彼が、生まれて初めて、自分が騙される側の、本物そっくりの噓を、見たのだ。それも、彼の母の、棺の前で。

彼は、母を悼めなかったが、私の偽りの悼みには、撃たれた。

ここから彼の落下が始まる。

焼香の列の最中、彼は、喪主の位置を、離れた。離れて、私の、隣に、来た。それは、葬儀の作法の、完全な、逸脱だった。業者たちが、戸惑った。涙の係が、涙を止めて、彼を見た。けれど槙は、もう、私しか、見ていなかった。

すごいですね、と彼は、私に、ささやいた。葬儀の、まんなかで。

何がですか、と私は、こらえる演技を、崩さずに、答えた。

あなただけ、と彼は言った。本物だ。

私は、危うく、笑いそうになった。この男は、世界でただ一人、すべてが噓でできたこの部屋で、最も巧妙な噓である私を、ただ一つの本物だと、断じた。彼の鑑識眼は、完璧に、正しく、完璧に、間違っていた。彼は、最も精巧な贋作を、唯一の真作と、見抜いた。そして、その瞬間に、贋作に、恋を、した。

私は、こらえる演技の、その奥で、ひとつ、確信した。

――この男は、墜ちる。

 

 

火葬場には二人だけが残った。

業者は、頭数の務めを終えて、解散した。涙の係は、駐車場で、煙草を、吸っていた。親族は、ほとんど、死んでいた。だから、炉の前に立ったのは、喪主の槙と、坂の上で母の死に立ち会っただけの、見知らぬ女、私だけだった。

炉が、低く、唸っていた。

しばらく、誰も、何も、言わなかった。私たちは、並んで、火が、ひとりの女を、ゆっくりと、骨に、戻していくのを、待っていた。やがて、係員が、私たちを、呼んだ。骨を、拾う段に、なったのだ。

白い台の上に母がいた。

もう、母ではなく、ただ、形を、なくしかけた、白い、いくつかの、かけらだった。槙は、長い箸を、手に取り、けれど、動かさなかった。彼は、母の骨を、見下ろして、立ち尽くしていた。

その横顔に、初めて空っぽ以外の何かがあった。

悲しみ、ではなかった。もっと、奇妙な、何かだった。困惑に、似ていた。倉庫に、ついに、注文の品が、入荷したのに、その品の、開け方が、わからない、というような。

悲しめないんだ、と彼は、また、言った。あの日と、同じ言葉だった。母が、こうなっても、まだ、なんにも、湧かないんだ。僕は、たぶん、どこか、壊れてる。

その瞬間、私は、噓を、つかなかった。

私もです、と言った。

それは、こらえる演技でも、高級な悼みでもなく、ただ、白い骨の前で、私の口から、勝手に、こぼれ落ちた、本当だった。私もまた、目の前の、この死に、何も、感じていなかった。私たちは、二人、並んで、ひとりの女の骨の前で、何も感じないという、その一点だけを、完璧に、分かちあっていた。

その、共犯の、しん、とした安堵。

槙が私を見た。

骨を、挟んで。けれど、あの日と、違ったのは、彼の目だった。彼の目は、もう、空っぽではなかった。そこには、私がいた。私の、噓の悼みと、本当の空っぽが、ごちゃ混ぜになった私が、まるごと、彼の目の中に、建ちはじめていた。

お願いがある、と槙は、言った。

火葬場の、白い、午後だった。

あなたが、本物なのか、噓なのか、僕には、わからない。たぶん、一生、わからない。でも、と彼は、母の骨の前で、続けた。だから、いいんだ。本当のことは、言わなくていい。一生、僕に、本当のことを、言わないでくれ。噓でいいから、ずっと、いてくれ。

私は、彼を、見た。

それは、求婚に、似ていた。求婚よりも、ずっと、まずいものだった。

私は、世界でいちばん、その願いに、応えられる女だった。

いいですよ、と私は、言った。

とぷ、と、どこか遠くで、水の満ちる音がした。けれど、その凪いだ水の、ずっと底のほうで、何かが、もう、静かに、動きはじめていた。

彼は、笑った。母の骨の前で、ほんとうに、嬉しそうに、笑った。

その笑顔を、私は、たぶん、一生覚えている。理性を失った人間の、いちばん最初の、いちばん幸福な顔だった。

 

 

窓のそばに槙が立ち、私は部屋の奥の低いソファに座っていた。灯りを消した室内では、彼の横顔だけが街の光で薄く削られていた。テーブルの上には、飲みかけの水が二つ、距離を置いて並んでいた。

ずっと、映画監督でいるつもりはないんだ、と槙は、言った。

夜だった。私たちは、彼の住む高層階の、灯りを消した部屋で、窓の外の、街の光を、見ていた。彼は、当てる映画を撮る男だった。世界中の暗闇の他人に、噓を信じさせて、その見返りに、こんな高いところに住んでいた。その彼が、その夜、ひどく、低い声で、言った。

世界中を、旅して、まわりたい。

彼は、窓に、額を、つけた。

『さすらいの二人』の、ジャック・ニコルソンみたいに、と彼は言った。他人に、なりすまして。ロープウェイに乗って。そこから、思いきり、体を、前に、突き出してみたい。彼は、その姿勢を、暗い部屋で、実際に、してみせた。両手を、大きく広げ、見えないロープウェイの籠の縁から飛び出して。世界を捨てた人間の、姿だった。

いまの生活は、つまらない、と彼は言った。

私は、何も、言わなかった。なりすまして、と彼が言ったとき、私の中で、何かが、ひやりと、した。彼は、知らない。今、彼の隣に座っている女が、まさに、なりすましの、ただなかにいることを。死にゆく女に、なりすまして、彼の前に、座っていることを。彼は、なりすましに、憧れていた。そして、本物のなりすましを、本物の悼みと、同じように、見抜けずにいた。彼の鑑識眼は、いつも、いちばん近くの噓にだけ、効かなかった。

でも、と槙は、窓から、額を、離した。

死ぬ前の、カフカみたいな、優しさは、持っていたい。

カフカ、と私は、繰り返した。

死ぬ間際にね、と彼は言った。校正をしながら、枕元の、花瓶を、見て、こう言ったらしい。——花瓶に、押し込められている、そのいちばん下の花が、苦しまないよう、気をつけなくては。どうすれば、いいだろう、って。

彼は、それを、暗闇で、ゆっくりと、口にした。

自分が、もう、死のうとしているのに、と槙は言った。花瓶の、いちばん下の、押し潰された花のことを、心配したんだ。僕は、母が死んでも、なんにも、湧かなかった男だ。たぶん、やっぱりどこか壊れてる。でも、カフカが一番下の花のことを想ったくらいの優しさは、持ち合わせていたいんだ。気球に乗って、世界を捨てて、他人になりすましても、いちばん下の花のことだけは、忘れないくらいの。

私は彼の横顔を見ていた。

おかしな男だと思った。自分の母の死は悼めないのに、百年以上前に死んだチェコの作家が心配した架空の花の苦しみには心を痛めている。彼の優しさは、いつも、遠くにしか届かなかった。近くの母には、届かず、遠くの花には、届く。近くのなりすましは、見抜けず、遠くの噓(映画)は、自在に作る。彼は、近くのものにだけ、壊れている男だった。

そして私は、いま、彼のいちばん近くにいた。

凪、と彼は、私の名を、呼んだ。風の来ない海の名を。

あなたと、と槙は言った。優しくて危険な旅がしたい。

優しくて、危険。私は、その二つの言葉が、並んで置かれたことに、痺れた。優しさと、危険は、本来、反対のものだ。それを、平気で、隣に並べる男。——けれど、考えてみれば、それは、私たちのこれからのすべての、正確な名前だった。私が、彼につく噓は優しくて危険だった。彼が、私に捧げる愛も優しくて危険だった。

いいですよ、と私は、言った。

その日、私は、彼に、三度目の「いいですよ」を、言った。

とぷ、と、遠くで、水が、満ちた。

凪いだ、平らな、水面の、底で、何かが、もう、はっきりと、目を、覚ましていた。それが、愛なのか、それとも、もっと、悪いものなのか――その水面に、最初の、小さな、さざ波が、立つのは、もうすぐだった。そして私は、あの喫茶店で、——私、もう長くないの。と言った。

 

 

槙が私のところへ来たのは、彼の映画が、いちばん大きくなろうとしていた、その途中だった。

撮影は、三分の二まで進んでいた。あとは、最後の、いちばん金のかかる場面を残すだけだった。私は、その撮影所に、何度か顔を出していた。何百人もの人間が、一人の男の指の動きで、動いていた。照明が組まれ、レールが敷かれ、衣装の女たちが走り、彼が小さく頷くだけで、その全部が、いっせいに、息を吸った。彼は、その中心にいた。世界が、彼を軸に、回っていた。

ある朝、彼は、現場に行かなかった。

理由は、私のところにいたかったから、というだけだった。彼は私の部屋に来て、何でもないことを話し、私が珈琲を淹れるのを、座って見ていた。携帯が、鳴った。彼は、出なかった。また鳴った。出なかった。三度目に、彼はそれを、裏返して、テーブルに置いた。画面の光が、机の木に、ぼうっと滲んで、消えた。

その日から、携帯は、鳴りやまなくなった。

制作会社から、かかってきた。彼は出なかった。出ないと、留守電が入った。何十件も。私は、彼が風呂に入っているあいだに、一度だけ、それを聞いてしまったことがある。最初は、丁寧だった。体調は大丈夫か、いつ戻れそうか。それが、日を追って、変わっていった。声が、上ずり、早口になり、やがて、抑えた怒りで、震えはじめた。一日の損失が、いくらになるか。スタッフの何人が、宙ぶらりんになっているか。あなたの名前で、いくらの金が、動いているか。彼は、それを、一件も、聞かなかった。聞かずに、消した。私の淹れる珈琲の湯気を、見ながら。

助監督が、マンションまで、来た。

若い男だった。インターホンの画面に、青ざめた顔が、映っていた。槙さん、と彼は、絞り出すように言った。お願いします、現場が、止まってます。みんな、待ってます。一言、一言でいいんです。槙は、ソファに座ったまま、その声を、聞いていた。表情は、動かなかった。私が、どうするのと、目で問うと、彼は、ただ、首を、横に振った。私たちは、息を殺して、座っていた。やがて、インターホンの男は、諦めて、帰っていった。階段を下りる足音が、遠ざかった。槙は、そのあいだずっと、私の手もとの、湯呑みを、見ていた。私が、それを、口に運ぶのを。喉が、上下するのを。

電話が鳴ると、彼の顔から、何かが抜けた。

画面に制作会社の名が出る。彼はそれを、長く見る。出ない。けれど切りもしない。鳴りやむまで、ただ見ている。そのあいだ、彼の顔は、奇妙に、平らになった。生きるとか死ぬとかの手前の、何の表情もない、ただの面になった。私は、それを、何度か見た。スーツの内ポケットで、伝票や名刺の束を指で繰るとき。郵便受けの封筒を、開けずに裏返すとき。財布の中の、いくつもの会員証を、意味もなく並べ替えるとき。彼が、自分の暮らしの、現実の手ざわりのあるものに触れるたびに、彼の顔は、その平らな面に、戻った。

それから、彼は、私のほうを見た。

死にかけているはずの女のほうを。すると、抜けていた何かが、戻ってきた。目の奥に、灯がついた。彼が生き返るのは、現実から目を上げて、私の噓を見るときだけだった。

彼の目は、その、私が水を飲む、というだけのことに、世界の何より、釘付けになっていた。

助監督は、毎日懲りずにやってきて、帰り際に、何かを、置いていった。

夜、ゴミを出しに扉を開けると、それは、まだそこにいた。雨に湿った紙袋だった。台本の束の角が、口から覗いていた。輪ゴムで留めた、スタッフパス。「槙様」とだけ書かれた宅配の伝票が、湿って、波打っていた。何百人の現場が、紙袋一つに畳まれて、扉の前に、座っていた。

槙が、後ろから来た。

私が拾うより先に、彼は、それを、跨いだ。視線を、落としもしなかった。廊下の手すりまで歩いて、夜の街を一度だけ見下ろし、戻ってきた。戻りながら、もう一度、跨いだ。彼が書き込んだその台本は、それきり、彼の手には戻らなかった。数日して、袋は、雨で、形を失った。

映画のほうは、彼を置いて、完成した。別の監督が残りを撮って繋ぎ、彼が最初に見つけたあの眼差しは、他人の手で、無事に世に出た。仕上がった作品のどこにも、槙の名は、なかった。

 

 

主演女優からも、連絡が来た。

彼女は、メッセージを送ってきた。槙が、私に、画面を見せた。なぜ見せたのか、わからない。誇るように、でもあった。──現場、どうするんですか。私たち、どうなるんですか。あなたを信じて、ここまで来たのに。文面は、それだけだった。何ヶ月もかけて、死ぬ女を完璧に演じてみせた、あの健康な女優。槙が、ずっと探していた「死にゆく女」を、誰より上手に演じた女。その彼女が、いま、生きた声で、彼に、すがっていた。槙は、その文面を、しばらく見て、それから、携帯を、ふたたび裏返した。

私は、それを、見ていた。

彼が、何を捨てているのか、私には、はっきりと、見えた。仕事を。何百人もの人間の、何ヶ月もの労力を。彼は、それを、一つずつ、テーブルの上で裏返し、画面を伏せ、光を消していった。そうやって全部を消した手で、彼は、私のほうを、向いた。何の未練もない、晴れ晴れとした顔で。

全部、捨ててきた、と彼は言った。

もう、あれは撮らない。あんなもの、どうでもいい。彼の声には、安堵さえ、あった。重い荷を、ようやく、降ろした人の声だった。彼は、私の手を取った。これで、僕には、きみしか、いなくなった。きみだけを、見ていられる。彼の目が、私を、見た。あのぎらぎらした目で。

私は、ぞっとした。

彼が捨てたものの、大きさのぶんだけ、彼が私に求めているものの、大きさが、見えたからだ。これだけのものを引き換えにして、彼が、私に、欲しがっているもの。それは、私では、なかった。私の、健康でも、笑い声でも、生きている時間でも、なかった。彼は、これだけの世界を捨ててまで、たった一つ、私の、消えていくところを、見たがっていた。一人の人間が、現場も、金も、名前も、社会も、全部、燃やして、その焼け跡に立って、欲しがっているのが、誰かの死だった。

その焼け跡の上で、彼は、私の食事を、数えはじめた。

 

 

私は、生まれて初めて誰かにまるごと、見られていた。建てる側だった私が、初めて誰かの目のただなかに、建てられていた。それは——認めるのは、難しいが——めまいが、するほど、甘かった。私の空っぽの倉庫に、初めてそれだけの重さの何かが、運び込まれていた。荷の名は、わからなかった。ただ、重かった。

 

 

外の世界は、しばらく、扉を叩きつづけた。

制作会社の番号も、助監督の声も、主演女優のすがるような文字も、彼はもう画面を伏せたきり、開かなかった。携帯は机の隅で、ときどき思い出したように光っては、また暗くなった。光るたびに、捨てられた何百人もの誰かが、まだ私たちを諦めていないのが、わかった。けれど画面を伏せてしまえば、その誰かは、いないのと同じだった。私たちは灯りを落とした部屋で、世界をひとつずつ、伏せていった。

部屋の中だけが、私たちの国だった。

昼と夜の境が、ゆるんでいった。カーテンは引いたままだった。彼は外へ出なかった。出る理由が、もう、なかった。撮るべき映画も、行くべき現場も、保つべき名前も、彼はすべてテーブルの上で裏返してしまっていた。残ったのは、私が半分残した珈琲と、私が窓辺までゆっくり歩くことと、私が息をすることだけだった。彼の世界は、その三つに縮んでいた。

私は、その狭い国の、たった一人の住人を、演じた。

葬儀のときとは違った。あのときは見せる相手が大勢いて、私は噓の海の中で、一人だけ本物を演じればよかった。けれどここには、観客が一人しかいなかった。一人しかいない観客は、休みなく私を見ていた。朝も、昼も、夜中も。だから私は、休みなく、死ななければならなかった。

私は覚えていった。珈琲は半分でやめること。立ち上がるときは一度、窓枠に手をつくこと。廊下を歩くときは、あの撮影所で彼が引きずってみせた、あの速度を守ること。笑いそうになったら、その手前で、息を止めること。——息を止めるのは、わけもなかった。私たちはもともと、息を潜めて暮らしていたのだから。

言葉は、少なかった。けれど、なくなりはしなかった。

夜、灯りを消した部屋で、彼は私の手首に二本の指を置いて、——まだ、痛くない? と聞いた。痛くない、と私は答えた。ほんとう? ほんとう、と私は言った。それは、その日、私が口にしたただ一つの本当だった。私はほんとうに、どこも痛くなかった。健やかな血が、その夜も、彼の指の下を強く打っていた。彼はその健やかさには気づかず、私の「痛くない」を、けなげな噓だと信じて、目を伏せた。私の本当は、彼の中で、いちばん美しい噓になった。

きみがいなくなったら、と彼は、別の夜に言った。僕も、すぐに行くよ。

いなくなる、という言葉を、彼は旅にでも出るように軽く言った。彼は私の死を、決して「死ぬ」とは言わなかった。いなくなる、消える、行ってしまう。いつもやわらかい布で包んで口にした。そのやわらかさが、私にはいちばんこわかった。はっきり「死んでくれ」と言われたなら、私はたぶん逃げられた。けれど彼は優しかった。優しく、私を終わらせようとしていた。私は、どこへ、とは聞かなかった。

ときどき、扉の向こうで、エレベーターが止まった。

誰かが降りて、廊下をこちらへ近づいてくることがあった。そういうとき、私たちはどちらからともなく口をつぐんだ。低い声も、珈琲をすする音も、止めた。二人で息を潜めて、足音が扉の前を通り過ぎるのを待った。足音が遠ざかると、彼はふっと肩の力を抜いて、悪戯の見つからなかった子供のように笑った。私も笑った。世界中で、私たちだけが、捨てた世界から、息を潜めて隠れていた。その、共犯の、しん、とした安堵。

一度、彼が風呂に入っているあいだに、気づいたことがある。誰も見ていないのに、私は台所まで、病人の速度で歩いていた。窓枠に手をついていた。彼の目がどこにもないのに、私の脚は、もう勝手に引きずっていた。私はわざと、健やかな足どりで二、三歩、歩いてみた。脚はすぐにそれを忘れて、また引きずろうとした。演技は、彼の前だけのものでは、なくなりはじめていた。

けれど、伏せた携帯の光は、消えなかった。

ある日、郵便受けに、白い封筒が何通も差し込まれた。役所の名や、知らない事務所の名が、印刷されていた。彼はそれを開けずに、流しの下の暗いところへ押し込んだ。封筒は日ごとに増えた。インターホンは、もう鳴らなかった。鳴らない代わりに、私たちの伏せた世界は、紙になって、扉の下からにじり込んできた。

この部屋は、もう、狭すぎた。

彼が捨てた世界は、捨てられたことを、まだ承知していなかった。それは封筒になり、足音になり、伏せた画面の光になって、私たちの国の薄い壁を、外から押していた。ここでは私は、いつまでも安全には死ねなかった。誰かがいつか扉を開けて、私の脈を、私の戸籍を、私の本当の名を、確かめにくるかもしれなかった。噓を最後まで美しく保つには、この国は、人が多すぎ、言葉が、通じすぎた。

彼も、たぶん、同じことを考えていた。

ある夜、彼は伏せた携帯を裏返したまま、ふと遠くを見る目をした。あの『さすらいの二人』の、ロープウェイから身を乗り出す姿勢を、暗い部屋でもう一度してみせた。世界を捨てた人間の姿で。けれど今度は、その腕の中に、私を抱き込んでいた。私ごと、見えない籠の縁から、どこか遠くへ、身を乗り出そうとしていた。

とぷ、と、遠くで、水が満ちた。

凪いだ平らな水面の底で、目を覚ましたものが、もう、岸を離れたがっていた。

 

 

彼は、そのまま私の部屋にいればよかったはずだった。実際、この何日か、彼はそうしていた。現場から逃げ、電話から逃げ、助監督の声から逃げて、私の淹れる珈琲の湯気と、私の喉が水を飲み下す音だけを、頼りにしていた。

けれど出発は、私の部屋からではだめだったのだと思う。私の部屋には、私の鍵があり、私の下着があり、私が自分で選んだコップがあり、私が戻ろうと思えば戻れるだけの生活が、まだ散らばっていた。そこから連れ出せば、私は途中で、靴を履き替えることも、薬を忘れたと言うことも、やっぱり行かないと言うこともできた。

彼は、その余地を、ひとつずつ、私から片づけたかったのだと思う。

玄関で、私は、自分の靴を履いた。

履きながら、おかしなことに気づいた。鞄は、もう、彼の肩にあった。いつ持たれたのか、わからなかった。私の手には、何もなかった。鍵だけが、指先に残っていた。私は、それで、自分の部屋に、鍵をかけた。かちり、という音が、廊下に、妙に大きく響いた。毎晩聞いてきた音のはずだった。けれどその夜だけ、それは、閉める音ではなく、何かを、終える音に聞こえた。

エレベーターの鏡に、二人が並んで映った。

鞄を提げた男と、手ぶらの女。知らない誰かの、引っ越しの晩のようだった。鏡の中の女は、荷物を、ひとつも持っていなかった。持たされていなかった。私は、その軽さを、見ていた。軽い、ということが、これほど、身ぐるみ剥がされたことに似ているとは、知らなかった。

タクシーの中で、彼は、行き先だけを、運転手に告げた。

私には、何も、告げなかった。私も、どこへ、とは、聞かなかった。聞かないほうが、たいてい、話は美しく進む——いつもの言い訳が、頭をかすめ、けれどその夜は、それは言い訳ですらなかった。聞いても聞かなくても、行き先は、もう、決まっていた。窓の外を、私の知っている街が、後ろへ、流れていった。私の部屋の灯りは、もう、どの窓だか、わからなかった。

彼の部屋には、前にも、行ったことがあった。

けれどその夜、向かっているそこは、帰る場所でも、訪ねる場所でもなかった。もっと、別のものだった。それが何かは、着いてから、わかった。

 

 

高層階の窓の下に東京があった。無数の灯りが、回路のように瞬いていた。雨が降りはじめていて、窓ガラスを、細いいくつもの線が、流れた。流れる線の向こうで、街の灯りが、にじんで、ふくらんだ。槙は窓を背に立ち、私は、部屋のまんなかに、立ったままだった。座る、という段取りを、その夜は、二人とも、忘れていた。

彼は、何も、言わなかった。

部屋を出る前に、彼は、いくつかのことをした。

まず、携帯を手に取り、画面の通知を、一つずつ、消していった。着信。伝言。届かなかったままの、たくさんの名前。彼は、それを、削除した。一件ずつ、ていねいに、最後の一件まで。消し終えると、画面は、何も知らない、まっさらな黒に戻った。彼は、それを、少し、見ていた。

次に、彼は、部屋の鍵を、テーブルの上に置いた。

持って出る、という発想が、はじめから、ないようだった。戻る場所として、そこを残しておく気が、なかった。鍵は、何の意味も失って、ただの金属になって、テーブルの木目の上に、転がった。——そのとき、もう一度、携帯が、光った。消したばかりの画面に、また、制作会社の名が浮かんだ。彼の手が、ほんの少し、震えた。私の手より、先に。死にかけているのは、どちらなのか、わからなくなる手つきだった。彼は、その光る携帯を、裏返した。表を、伏せた。

そして、上着の、内側から一枚の紙を出した。航空券だった。私の手のひらにそれを載せ、そして、私の指を、上から一本ずつ折り曲げて握らせた。彼の手は私の手より熱かった。爪のあいだに、知らない街の埃のようなものがあった。何日も洗っていない手だった。その手が、私の手を、包んで、ぎゅっと、閉じた。

握らされた紙の端が私の手のひらに、食い込んだ。私はそれを開いて見た。片道だった。帰りの便は、なかった。行き先の、地名を、私は、知らなかった。発つのは、明日の朝だった。

行くか、とは、彼は聞かなかった。聞く、という手続きを、彼はもう省いていた。彼の足元に、鞄が二つすでに、置いてあった。一つは、彼の。もう一つは、たぶん、私の。私が何を、持っていくかさえ、彼は、決めてしまっていた。

私はその強引さのただなかに立っていた。

逆らう、ということを、私は考えなかった。考える、より先に、私の指はもう航空券を、握っていた。誰かが、私の人生の行き先と、出発の朝と、鞄の中身まで、勝手に、決めてしまう——その、暴力のような丁寧さを、私は生まれて初めて味わっていた。そしてそれは、こわい、より、先に、脳を焼いた。

彼が、私の額に唇をつけた。長く。まるで、熱を測るように。離れたとき、彼の顔は、満ちていた。私が、明日、この街を、捨てることに、ではなく——その奥の、もっと遠い何かに、満ちている顔だった。私はその奥を、見ないことにした。見れば、甘さが終わる気がしたから。

翌朝はまだ暗かった。

タクシーが、濡れた首都高を走った。窓を、ネオンの、赤と、青が、流れて、消えた。とぷ、と、私の握ったままのペットボトルの水が揺れて鳴った。海はまだ、私の中に、あった。

空港は、白い、強い、灯りで、満ちていた。

まだ人の少ない、出発ロビーで、私たちは、椅子に、並んで、座って、待っていた。アナウンスが、天井から降ってきて、便名を呼んだ。私たちの便だった。

私は立ち上がった。

飛行機が、雲を抜けた。眼下で、日本の灯りが、夜明けの青に溶けて、消えていった。槙は、私の手を握って離さなかった。窓の外にはもう、何の灯りもなかった。これから、私たちは、世界のどこか知らない、明るい海辺へ、降りていく。彼は、それを、優しくて危険な旅と呼んだ。

 

 

国境は、机だった。

乾いた、灰色の机の向こうで、制服の男が、私の旅券をめくった。知らない言語が、頭の上を、行き交っていた。槙が、先に通った。彼は、振り返らなかった。私は、入国の紙を、書かされた。名前の欄で、ペンが、一瞬、止まった。どの女の名を、書くのか。——私は、旅券の綴りを、一字ずつ、書き写した。他人の名前を、書類から書類へ、写す事務員のように。スタンプが、がん、と降りた。その音が、私のどこかに、押された気がした。

扉の外は、熱だった。

夜なのに、空気が、厚かった。タクシーは、古いビニールの匂いがして、窓が、半分しか閉まらなかった。その隙間から、知らない街が、入ってきた。埃と、獣と、潮の匂い。白い壁が、ヘッドライトの中に、現れては、消えた。道の端を、ロバが、荷を積んだまま、夜のなかを歩いていた。槙が、行き先の紙を、運転手に見せていた。ここでも、私は、どこへ、と聞かなかった。

死にに来た、という実感は、なかった。

あったのは、もっと単純な、体の感覚だった。——連れてこられた。荷物のように、丁寧に、関税を抜けて。

 

 

窓の外には海峡の夜があり、黒い水の向こう岸にヨーロッパの灯がまばらに点っていた。手を伸ばせば届きそうで、けれど海ひとつ隔てた別の大陸の光だった。私はそのいちばん端の一つを目で追っていた。波に紛れて消えそうになっては、また浮かび上がる。捨ててきたはずの岸が、夜ごとこちらを覗き返してくるようだった。

タンジールは白い街だった。昼に見ると海からせり上がるように密集して白かったが、その白さは近づくほど剥げていて、塗り直しては剥げ、また塗られた層がどの壁にも古い痣のように残っていた。誰でもなくなりたい人間が自分の顔を捨てに来る街は、街自身ももとの顔を忘れている。私には居心地がよかった。私も何度も塗り替えられてきた女だったから、剥げかけた壁を見ても咎められている気がしなかった。

開いた窓から海峡の生ぬるい風が入り、薄いカーテンを息のようにふくらませた。旧市街のほうから夕べの礼拝を呼ぶ声が昇ってきて、白い迷路の屋根の上を細く長く渡っていく。

白い街だ、と私は胸のうちで何度も名づけた。海からせり上がる白、死者のための白、と。名づけるのはたやすかった。この街は、いくらでも神話にできた。

けれど名づけたそばから、街は匂いに戻った。坂を下りれば、路地の角ごとに鰯を焼く煙が立ち、薄荷と、香辛料と、獣の湿りが、白い壁の裏にむっと澱んでいた。白は、遠目の噓だった。死ににきた街は、隅々まで、生き物くさかった。

私たちの暮らしも、その白のなかで呆れるほど所帯じみていた。崖の上の一間には、縁の欠けた琺瑯の洗面器があり、洗った下着が、窓の桟に二人ぶん並んで乾いた。槙のシャツと、私の——死にゆく女の、はずの——肌着が、同じ潮風にぱたぱたと鳴った。神話の裏は、いつも洗濯物だった。

その洗濯物の下で、私は健やかだった。朝、腹が減った。減ったことを隠した。枕元の水は二口でやめた。三口めを欲しがる喉をこらえるのが、この街での私の日課だった。海峡だの、対岸のスペインだのを、私はろくに見なかった。私が一日じゅう見張っていたのは、風景ではなく、勝手に生きたがる自分の胃と、脈と、喉のほうだった。窓の下の水が、夜も昼も止まらずに流れているのと同じだった。私の体も、止まらなかった。

そのひとときも止まらない水の上に、白い街は積み上がっていた。そして街のいちばん高いところで、私たちは、時間を止めようとしていた。

 

 

槙は窓を背に立っていた。両腕を脇に垂らし、指先まで力を抜いて、背中を夜の海峡のほうへあずけている。立っているというより、落ちていく途中で一度だけ踏みとどまった人の姿勢だった。輪郭の向こうで対岸の灯がかすかに揺れ、彼はその光ごと、いまにも後ろへ倒れていきそうに見えた。

もう映画は撮りたくないんだ、と彼は言った。声はこちらへ届いたが、目は届かなかった。誰でもいたくない。そう続けたとき喉が一度上下して、私はその動きのほうを見ていた。言葉はいくらでも飾れるが、喉だけは長くは噓を隠せない。

彼が窓を離れて前に来ると、背後でカーテンが大きくふくらんでしぼんだ。彼の手が私の手首をすくい、指が内側の脈の上に置かれた。医者がするようにしばらくそこを押さえている。私の脈はその朝も健やかで、彼の指の下を強く規則正しく打ち返した。

彼の眉のあたりがわずかに翳った。

その夜、私は彼の目がいつ明るくなるかを数えていた。私が笑うと視線はすべり落ち、長く喋ると彼は黒い海峡のほうへ目を逃がした。けれど夜気が喉に触れて私が一度咳をしたとき、彼の目は戻ってきて私に留まり、奥のほうが灯った——窓の向こうの、消えそうで消えない対岸の光と、ちょうど同じ温度で。彼の体がその咳のほうへ引き寄せられるように傾いだ。

逃げよう、凪。世界のどこでもいい。どこにだって行こう。

彼の手が頬に触れた。汗ばんでいて、海峡の風と同じ湿り気がした。彼の顔がはじめて私をまるごと見た。けれどその満ちた優しさが顔に行きわたったのは、次の言葉の上でだった。

最後は二人で死のう。

死のう、という音の上で彼の顔がほどけた。長く探していた部屋の鍵を、ようやく掌に握りあてた人の顔だった。下の街で、礼拝の声がちょうど途切れた。

君の病が重くなればなるほど。

重くなるほど、という音の上で、彼は微笑んだ。

私の手首は彼の指の下でまだ強く打っていた。その脈を、私は隠したくなった。手を引き、汗ばんだ掌から頬を外す。そうしながら、自分の丈夫な心臓がこの部屋でいちばん後ろ暗いものに思えてくる。息をしていること、明日も明後日も生きてしまうこと、それが彼の前では、どんな噓よりも重い秘密に変わっていた。彼が愛おしげに覗き込んでいるのは私の輪郭の内側にいる別の女で、その女は日ごとに薄れ、痩せ、やがて消えるはずだった。私はその女によく似た、けれど致命的に健康な贋物だった。

対岸の光はまだそこにあった。海ひとつ越えれば届く、生きている岸の灯。私はもう一度それを目で探した。

とぷ、という音はしなかった。窓の下で海峡が黒く凪いで、何も言わない。気づくと私の体は、ドアのほうへ半分向いていた。そうしようと決めるより先に。

 

 

目を覚ますと、部屋は白かった。

壁も天井も、漆喰の白で、朝の光がそこに溜まって、薄い卵の殻のような色に光っていた。タンジールの、スパルテル岬の崖の上にあるホテルだった。窓の下の斜面に、同じ白の家々が段々に積み重なり、その隙間を縫って、乾いた風が、絶え間なく吹き上げてくる。風には、崖の下の磯の匂いと、どこかで鰯を焼く煙が、薄く混じっていた。夏の北風が心地よい。風はカーテンを膨らませ、シーツの端をめくり、私の頬の産毛を撫でて通り過ぎていく。気持ちのいい朝だった。気持ちのいい朝にも、私は、すぐには起き上がらなかった。

いつからか、私の体は、ゆっくり目覚めることを覚えていた。槙がまだ眠っていても、誰も見ていなくても、私は仰向けのまま、まず指先を、それから手首を、関節を一つずつ確かめるように動かしてから、ようやく身を起こす。病人が、自分の残量を点検するように。——いま、こうして書いている私の手も、その手だ。あのころ毎朝、残量を点検した指で、私は、これを書いている。書いている手首の下で、脈は、健やかに、ある。何度数えても、ある。誰のためでもなく、もう習慣だった。噓は、もう、大きな噓だけのものではなかった。それは、生活の、いちばん細かいところにまで、毛細血管のように、行き渡っていた。パン屋で名を聞かれれば、口は勝手に、その日の気分の名を答えた。答えたあと、手が、髪ではなく、服の裾を、直した。それが、噓の、締めの仕草だった。年齢を問う書類には、三つ違いの数を書き、けれど誕生日の月だけは、なぜか、本当を書いた。一箇所だけ本当を混ぜると、噓は、ぐっと、本当らしくなる。それは、もう、考えてすることでは、なかった。

白い布のかかった小さなテーブルに、籠に盛られたパンと、蜂蜜の壺と、皮の張った無花果が、無造作に置かれていた。給仕の老人が、私たちの知らない言葉で何か言って、笑った。私も笑い返したが、意味はわからなかった。言葉の通じない土地は、噓をつく女には、優しい。説明を、求められないから。

槙は、向かいで、珈琲を飲んでいた。

私は、パンを一つ取って、二つに千切った。湯気が、ほんの少し、立った。私はその片方を、さらに小さく千切り、口もとへ運び、けれど、唇の手前で止めて、皿に戻した。死にゆく女の速度で。食べられない女の、食べようとする仕草だけを、私は、彼の前に、丁寧に並べた。鳥がついばむほどの欠片を、時間をかけて齧り、海のほうを見て、またパンを置く。その一連を、私は、もう、考えずにできた。

槙の目が、私の手もとを、見ていた。

彼は、私が食べないことを、見ていた。咎めるのでも、心配するのでもなく、ただ、見ていた。私の皿の上で、パンが、減らずにいることを。彼の視線は、私が食べようとして食べられない、その手前の震えの上に、いちばん長く、留まった。彼が見ていたのは、私ではなく、私の輪郭の内側で、日ごとに細くなっていくはずの、別の女だった。その女が、今朝も、ちゃんとそこにいることを、彼は、確かめていた。確かめて、わずかに、満たされていた。

ところが、その朝、私は、しくじった。

無花果が、よく熟れていた。皮を裂くと、内側が、濡れた紅で、蜜の匂いがした。私は、ふりのつもりで、一口、含んだ。含んだら、止まらなかった。気づくと、私はそれを食べ終え、指についた蜜を、舌で、舐めていた。パンも、いつのまにか、一切れ、本当に、腹に入っていた。

顔を上げると、槙が、黙っていた。

怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。ただ、珈琲のカップを、口の手前で止めたまま、私を、見ていた。彼の沈黙には、温度があった。皿の上で減らずにいるはずだったパンが、一切れ、減っている。たったそれだけのことが、彼の中の、何かを、静かに、冷やしたのが、わかった。私は、舐めかけた指を、そっと、膝の上に、降ろした。蜜が、まだ、甘かった。

昼前に、槙は、薬を買いに行くと言って、白い坂道を、下りていった。

この街に、私の飲むべき薬など、ありはしなかった。彼は、いつも、何かしらの薬を、探していた。ありもしない病の薬を。彼の背中が、白い家々の角を曲がって消えるまで、私は、テラスから、見送った。

一人になると、体から、何かが、ほどけた。

私は、坂を、下りた。さっきの、病人の速度ではなく、自分の脚で。健やかな膝が、石畳を、軽く蹴った。村の広場の隅に、小さなパン屋があって、開いた扉から、焼きたての匂いが、風に乗って、流れ出していた。私は、吸い寄せられるように、そこへ入った。

名も知らぬパンを、指さして、買った。まだ、熱かった。店を出て、白い壁の影に、身を寄せ、誰も見ていないのを確かめてから、私は、それを、裂いた。

湯気が、立った。

私は、それに、かぶりついた。

熱い屑が、口の中で、ほどけた。塩と、小麦と、香ばしい焦げの味が、舌の上に、いちどに、広がった。私の胃が、正直に、よろこんだ。噓を一つもつかない、私の、健康な胃が。私は、立ったまま、夢中で、それを、食べた。頬を膨らませ、指で口の端を拭い、また齧った。誰の前でもない、誰のためでもない、ただ、腹が減っていたから、食べた。生きている体が、生きるために、食べた。それは、この何ヶ月かで、私が、自分の体に、許した、たった一度の、本当だった。

半分ほど食べたところで、不意に、鼻の奥が、熱くなった。

なぜだか、わからなかった。理由は、いくつもあった。いくつもあるということは、と、いつもの言い訳が、頭をかすめて、けれど、その先が、続かなかった。私は、パンを、握ったまま、白い壁に、背を、つけた。喉の奥が、塞がって、もう一口が、飲み込めなかった。おいしい、ということが、こんなに、こたえるとは、思わなかった。私の体が、こんなに、簡単に、生きたがっているとは。

私は、泣かなかった。

泣く代わりに、残りのパンを、最後まで、食べきった。涙のように、一口ずつ、飲み下した。食べ終えると、私は、指についた屑を、丁寧に、払った。何ごともなかったように。風が、白い壁を、撫でていた。海は、坂の下で、青く、けれど、もう、何も、言わなかった。

ホテルへ戻る坂を、私は、また、病人の速度で、上った。

 

 

その街で、槙は手帳をつけはじめた。食卓はいつも窓際に置かれていた。皿は私の前、手帳は槙の右手の下、海は彼の背後にあった。鉛筆の先が紙に触れる小さな音だけが、朝の白い部屋でやけにはっきり聞こえた。

彼の肩ごしの窓の向こうで、海峡は朝の仕事のさなかにあった。貨物船が一隻、水平線をゆっくり横切り、対岸からの連絡船が港へ滑り込み、夜のうちに漁を終えた小舟が、銀色の山を甲板に積んで帰ってきた。鴎がその上で輪を描き、争い、鳴いた。海の向こうの世界は、人と食べものを休みなく運んでいた。その窓の手前で、一人の男が、鉛筆で、女の食べなかった四口を、数えていた。

黒い、掌に収まるほどの古い手帳だった。食事のあと、彼はそれを開いて短く何かを書きつけ、書き終えると輪ゴムで留めて胸のポケットに戻す。最初は気づかないふりをした。けれど毎食のことだったから、やがて私は彼が書く数字を想像するようになった。パン、四分の一。無花果、なし。水、二口。死にゆく女の収支報告だった。かつて何億の予算の映画をコンマ以下まで管理した男が、いまは一人の女の減っていく食事を、几帳面に計上していた。

おかしなことに、私はそれに応えはじめた。

彼の手帳のために、私はちょうどいい量を残すようになった。多すぎず、少なすぎず、昨日よりほんの少しだけ少なく。台本のト書きを女優が寸分たがわず演じるように、私は自分の食事を毎日わずかずつ減らしていった。減らすことにためらいはなく、むしろ誇りのようなものさえあった。私が一口減らすたびに、彼の手帳の中の女は正しく衰えていく。私たちは二人がかりで、一人のいない女を、丁寧に殺しにかかっていた。

 

 

几帳面さの別の顔を見たのは、ある昼の、安い食堂でだった。

坂の下の油じみた店だった。蠅が、卓の上を、ゆっくり回っていた。椅子は片脚が短くて、座るたびに、ことり、と鳴った。槙は汗をかいていた。麻のシャツの背中に、地図のような濃い染みがあった。暑さに、彼は弱かった。世界を捨てた男は、ただ暑さに不機嫌な、中年の男でもあった。私たちは、名も知らぬ煮込みと、固いパンを食べた。

会計のときだった。

給仕の少年が、皿の脇に、数字を走り書きした紙を置いた。槙は、それを、長いあいだ見ていた。それから財布を出し、硬貨を、卓の上に、一枚ずつ並べはじめた。並べ終えると、もう一度、指の先で寄せながら、数えた。そして、顔を上げた。

違う、と彼は言った。日本語で。

少年は、わからない、という顔をした。槙は、紙の数字を指で叩き、それから卓の硬貨を指で叩いた。多く取られている、と言いたいのだった。たぶん、一枚か二枚の、ごく小さな硬貨のことだった。パン一切れにもならない額だった。

彼は、引かなかった。

言葉の通じない少年に向かって、彼は同じ仕草を繰り返した。紙を叩き、硬貨を叩き、首を横に振る。声は荒げなかった。荒げる代わりに、低く、執拗に、繰り返した。何億という予算を、コンマ以下まで管理した男だった。その同じ几帳面さが、いま、蠅の回る食堂で、少年から小銭を一枚取り返そうとして、引かなかった。

奥から主人らしい大男が出てきて、少年の肩に手を置いた。槙は、その大男にも、同じ仕草をした。紙、硬貨、首。大男は、面倒くさそうに、硬貨を一枚、卓に放った。ちゃり、と鳴った。槙は、それを拾い、財布のいちばん奥にしまった。勝った、という顔はしなかった。当然のものを当然取り返した、という顔だった。帳尻が合った、という顔だった。

私は、その横顔を見ていた。

ベルリンで名を轟かせた鬼才の、世界を捨ててまで誰かの死を欲しがった男の、その横顔が、いま、小銭一枚で、こんなにも小さかった。哀れで、けち臭くて、ただの、暑さに弱い中年の男だった。怪物では、なかった。怪物なら、まだ、よかった。怪物には、惚れたと言える。けれど私は、この、小銭を数え直す指の前で、何ヶ月も、死にかけてやっていたのだった。

その指を、私は知っていた。

毎晩、私の食事を手帳に計上する、あの指だった。パン四分の一、水二口。少年から小銭を取り返す指と、私の減っていく食事を書きつける指は、同じ几帳面さの、同じ指だった。

食堂を出ると、白い坂が、目を刺すほど光っていた。

彼は、また汗を拭いた。さっきの硬貨のことは、もう忘れた顔だった。私の歩く速度に合わせて、ゆっくり坂を上った。優しかった。さっき少年に見せた執拗さと、いま私に向ける優しさが、彼の中では同じ一つのものなのだと、私にはわかってしまった。どちらも、帳尻だった。——この男のために死ぬのは、ばかばかしい。私は、初めて、はっきりと、そう思った。

ばかばかしい、と思っているのに、坂の上の白い部屋まで、私の足は、一度も、病人の速度を、やめなかった。

 

 

昼の薬局は、港へ下る坂の途中にあった。棚には知らない文字の箱が、色ごとに整然と並んでいた。槙はその前に立ち、私は入口の影で、帽子の縁を指でいじっていた。

彼は薬も集めた。前に見つけた薬局に通っていた。私も連れて行かされた。言葉の通じない薬剤師に向かって身振りで私の症状を演じた。胸を押さえ、こめかみに指を当て、咳をしてみせる。薬剤師は戸惑いながらも客の必死さに負けて、何かしらの箱を彼に持たせた。彼はそれを宝物のように持ち帰り、外国語の読めない薬が棚の上に一列、二列と増えていった。幽霊のための薬局だった。

薬局の帰りは、いつも、プチ・ソッコの脇を抜けた。

メディナの中の、小さな広場だった。安食堂が、何軒も、口を開けていた。昼どきには、土地の男たちが、円い卓を囲んで、よく食べていた。円錐の土鍋の蓋が取られると、湯気が、どっと立った。鶏と、檸檬の塩漬けと、油烟の匂い。隣の卓では、老人が、豆のスープに、ちぎったパンを沈めていた。給仕の少年が、銀の急須を高く掲げて、細い湯気の糸ごと、薄荷の茶を、グラスに注いだ。茶は、砂糖で、どろりと甘いのだという。男たちは、それを、音を立てて、すすった。

誰も、急いでいなかった。誰も、量を、数えていなかった。

食べる、ということが、ここでは、ただの昼だった。罪でも、記録でも、収支でもなく、ただの、騒がしい、油くさい、昼だった。私は、ありもしない病の薬の包みを提げて、その脇を、病人の速度で、通った。鰯の煙が、坂の下から、流れてきた。私の胃が、包みの陰で、小さく、鳴った。槙は、気づかなかった。彼は、湯気の立つ卓のあいだを、何も見ずに、歩いた。この街でいちばん大きな音——他人が生きて食べる音——だけが、彼には、聞こえていなかった。

死にに来た街で、生きている人間たちは、よく食べた。私たちだけが、食べない芝居の、続きを歩いていた。

 

私はその薬を飲むふりをした。彼の見ている前で口に含み、水で飲み下す真似をして、頬の内側に隠す。彼が背を向けた隙に、手のひらへ吐き出す。そしてなぜだか、捨てる前に数えた。今日は三錠、昨日は二錠。白い錠剤を洗面台の縁に並べ、一つずつ確かめてから流した。数えたところで意味はなかった。誰に報告するわけでもない。ただ、数えずにはいられなかった。噓をついた証拠を、私は捨てる前にいちいち勘定していた。何の帳尻を合わせようとしていたのか、自分でもわからなかった。

薬の箱を、彼は、丈の順に、並べた。

窓辺の棚に、ラベルを正面に向けて、一列に。毎朝、一ミリのずれを、直した。祭壇のようだった。その同じ男の洗面台は、汚れていた。石鹸に、剃った髭の粒が、黒く混じったままだった。脱いだ靴下は、丸まって、椅子の脚もとに、何日も、転がった。饐えた匂いがした。拾うのは、私だった。死にゆく女に洗濯をさせていることに、彼は、気づかなかった。彼の几帳面さは、彼の祭壇のためだけに、働いた。

その祭壇は、私の体のことなら、何でも知っていた。

今朝の体温。昨日の食事。水を何口。その日の歩数。噓の数字が、几帳面な字で、一行も漏れずに、揃っていた。けれど、私がどこで生まれたか、母が何という名だったか、海をきれいだと思う女かどうか——その欄は、なかった。聞かれたことが、一度も、なかった。

私の名前さえ、彼は、聞かなかった。

両替のレートは三軒比べる男が、毎晩抱いて寝る女の本当の名には、釣り銭ほどの関心もなかった。当然だった。本当の名は、帳尻の合わない数字だ。

聞かれていたら、私は、何と答えただろう。

その答えを、私は、いまでも、用意できていない。

 

 

この土地にも、退屈な日があった。

雨の日だった。海は灰色で、白い街は、濡れて、ただ薄汚れて見えた。剥げた壁が、雨で、いっそう剥げて見えるだけの日だった。槙は朝から腹をこわしていた。ゆうべの煮込みのせいだった。彼は何度も便所に立った。死にゆく女の食事を計上する手帳は、その日は、開かれなかった。彼自身の腹のほうが、忙しかったからだ。

昼ごろ、雨がやんだ。

私たちは、することがなかった。槙が、両替に行こう、と言った。前に行った銀行のレートが悪かったから、別の店を探す、と。彼は、こういうとき、いちばん元気になった。私たちは、坂を下りた。観光客が、何組か、歩いていた。日傘をさした白人の老夫婦が、地図を広げて、何か言い争っていた。

両替屋は、なかなか見つからなかった。

槙は、三軒回った。一軒目は閉まっていた。二軒目はレートが悪かった。三軒目で、彼は、しばらく粘って、十円か二十円ぶん、得をした。私は、店の外で、待っていた。日陰がなく、暑かった。腹をこわした男が、十円のために、三軒目の窓口で身振りをしているのを、私は、ぼんやり眺めていた。死ぬための旅の、これが、昼の風景だった。

団体の観光客と、すれ違った。

日本人だった。中年の、賑やかな一行だった。添乗員が、旗を持っていた。そのうちの一人の女が、私を見て、あら、と言った。日本の方? こんなところで珍しい。私は、笑って、頷いた。新婚旅行? いいわねえ。女は、勝手にそう決めて、勝手に羨ましがった。私は、否定も肯定もしなかった。女の連れが、写真を撮りましょうよ、と言い出した。せっかくだから、と。

私は、その輪の端に、立たされた。

知らない中年たちに挟まれて、白い壁を背に、立った。はい、チーズ、と誰かが言った。私は、笑った。健康な、観光客の女の顔で、笑った。死にゆく女の速度も、引きずる脚も、半分残す手も、そのときは、どこにも、なかった。私はただ、旅先で写真に収まる、なんでもない日本人の女だった。シャッターが、何度か鳴った。撮った写真を、彼らは私に見せなかった。見せずに、礼を言って、旗のほうへ、戻っていった。

両替を終えた槙が、出てきた。

今の、知り合い? と彼は聞いた。ううん、と私は言った。写真、撮られてた。彼は、ふうん、と言った。それだけだった。彼は、たった今、私が、健康な観光客の女として、知らない誰かのカメラに収まったことに、何の関心も示さなかった。彼が見たがる私は、そんなところには、写らない。彼の見たい私は、白い部屋の、白い服の中にしか、いなかった。

帰りに、彼は、果物を買った。値切った。

私たちは、坂を上った。雨上がりの石畳は、まだ濡れていて、ところどころ、滑った。槙の腹が、また鳴った。彼は顔をしかめて、足を速めた。私は、その後ろを、ついていった。引きずる速度は、忘れていた。彼が、こちらを見ていなかったからだ。見ていない男の背中を追うときだけ、私は、自分の脚で、歩けた。

部屋に戻ると、また、いつもの白だった。

 

 

それから彼は、私の服を選びはじめた。

朝、目を覚ますと、椅子の背にその日の服が掛けてある。いつも淡い色だった。白か、生成りか、水で薄めたような青。私の鞄の底には、赤いスカーフと夜の色のワンピースが、いつのまにか沈められていた。彼は私から色を少しずつ抜いていった。鮮やかなものは、生きている女のものだったから。私の衣装は日ごとに淡く、軽く、儚くなり、鏡の中の私は輪郭からにじみはじめていた。

午後の部屋には、強すぎる光があった。窓辺の床だけが白く焼け、ベッドの上には昨日の服が小さく畳まれていた。階段を上る足音が、壁の外から、ひとつずつ近づいてきた。

彼は白い箱を抱えて坂を上ってきた。

めずらしく頬が上気していた。映画の初号試写を待つときでさえ、彼はこんな顔をしなかった。彼は箱をベッドの上に置き、蓋を開け、薄紙をめくった。白いワンピースだった。薄い麻の、ほとんど透けるほどの白で、裾が長くゆったりとしている。彼はそれを両手で広げ、どうだというように私に見せた。少年のようなはにかみが目もとにあった。それはたしかに贈り物だった。そして同時に、衣装だった。彼が頭の中で何ヶ月も前から書いていた、あの「死にゆく女」の最期の場面の、衣装だった。

私はそれを受け取って、窓の光にかざした。

風が生地をふくらませ、薄い白を光が通り抜けた。透けて、向こうの青い海がぼんやり見えた。きれいだった。きれいすぎて、何かに似ていた。私の口は、考えるより先に動いた。

「病院のカーテンみたい」

そして、笑った。

悪気はなかった。ただ本当に似ていたのだ。日に焼けた病室の、洗いざらしのあの白いカーテン。揺れると向こうの空が透ける、あれ。私は自分の冗談に声をたてて笑った。生きている人間の、無防備な笑いだった。

彼の顔から、上気が引いた。

潮が引くように、はにかみが消え、目もとが固くなり、口の両端がわずかに下がった。彼は何も言わなかった。広げたままの白い服を私の手から静かに取り返すと、丁寧に畳んで箱に戻し、薄紙を元のようにかけ、蓋を閉めた。その一連の手つきが、葬儀のようにゆっくりしていた。

ごめんなさい、と私は言った。

彼は答えなかった。箱を戸棚の上に置き、窓辺に立って海のほうを見ていた。背中が、また落ちる途中のあの姿勢に戻っていた。私の笑い声はまだ、部屋の白い壁に跳ね返って残っている気がした。たった一度の無防備な笑いが、彼の何ヶ月もの丁寧な夢をひび割らせた。私の中の生きている部分が漏れるたびに、彼の中の何かが傷つくのだった。

それから白い服は、私たちのあいだの亀裂になった。

彼はその服を私に着てほしがった。口には出さなかった。ただ朝、椅子の背に淡い服ではなくあの白を掛けるようになった。私は着なかった。着れば彼の夢に加担することになる気がした。着ないでいると、彼は不機嫌になった。不機嫌は言葉ではなく、沈黙と、長くなる薬局通いと、いっそう細かくなる手帳の数字になって現れた。私が水を一杯多く飲んだだけで、彼の鉛筆が止まった。

私たちは消耗していった。

彼は眠らなくなった。夜中にふと目を覚ますと、彼が肘をついて私の寝顔を見ていることがあった。私がまだ息をしているか確かめるように。あるいは、まだ息をしていることに落胆するように。頬はこけ、目の下には青い隈ができていた。死にゆく女を看取ろうとしている男のほうが、よほど死人の顔をしていた。私も痩せた。今度はふりではなく。演技を保つことと彼の機嫌を宥めることの両方が、私を削っていった。私たちは二人ともぼろぼろになりながら、それでも相手を離さなかった。離れれば自由になれるはずだった。けれど離れることを考えると、奇妙な寒さがした。夜、白い服は椅子の背に掛かっていた。私と槙は、その服を挟んで立っていた。窓は開いていて、海風が裾を少しだけ揺らした。揺れたのは服だけで、私たちはどちらも動かなかった。

ある夜、私たちはその白い服を巡って激しく言い争った。

些細なことだった。彼がまた椅子にそれを掛け、私がまた別の服を着た。それだけのことから声が大きくなった。彼は初めてはっきりと言った。あれを着てくれ、と。なぜ、と私は聞いた。槙の手が、椅子の背に触れた。白い布を掴むでもなく、撫でるでもなく、指先だけをそこに置いた。彼の喉が一度動いた。答えは出なかった。布だけが、彼の代わりに白く黙っていた。彼は答えに詰まった。答えられないということが、答えだった。私はそれを知っていて聞いた。意地の悪い問いだった。彼の顔が歪み、私の顔もたぶん歪んだ。知らない土地の白い部屋で、ありもしない病の衣装を一着挟んで、私たちは互いを傷つけ合った。

言い争いの果てに彼は黙り込み、私も黙った。

長い沈黙のあとで、私は立ち上がった。戸棚から白い箱を降ろし、蓋を開け、その服を取り出して、彼の見ている前で着替えた。薄い麻が肌に落ちて、軽くひやりとした。裾が足首で揺れた。私は鏡の前に立った。

鏡の中に、死にゆく女がいた。

痩せて、淡く、輪郭のにじんだ女。彼が何ヶ月も夢に見ていた、あの女。私はその女になっていた。なってみると、それは思っていたよりずっと楽だった。もう演じなくてよかった。鏡の中の女は生きたがらなかった。腹を空かせもしなかった。無防備に笑ったりもしなかった。

背後で、槙の顔がほどけた。

張りつめていた目もとがゆるみ、肩から力が抜けた。彼はベッドに腰を降ろし、安堵の息をついた。家に帰り着いた人のような息だった。私は鏡越しにその安らいだ顔を見ていた。

白い裾が爽やかな風に揺れた。病院のカーテンのように。私はもう笑わなかった。海は窓の下で青く、何も言わなかった。私たちはその白い服の中に、ようやく二人で住みはじめた。

 

 

白い服を着るようになってから、私はうまく病人になった。

朝の光は、袖口から入ってきた。私はベッドの端に腰を下ろし、裾を両膝の上で整えてから立った。槙は窓際にいて、何も言わなかった。ただ、私が立ち上がるまでの時間を、静かに見ていた。

うまく、というのは、たとえばこういうことだ。朝、食卓で水を一杯多く飲む。それだけで槙の鉛筆が止まる。とぷ、と喉が鳴ったのを、彼は聞いている。私は彼が聞いていることを聞いている。私たちはそうやって、互いの音を盗み合っていた。鉛筆がまた動きだすまでの数秒、私はコップを置く速度を選ぶ。早すぎれば健康に見える。遅すぎれば芝居に見える。その中間に、彼の安心する速度がある。私はそれを覚えてしまった。覚えてしまった、というところに、たぶん私の罪がある。

売店の女が、菓子パンを紙に包んでこちらへ差し出した。私のためではない。後ろの子供のためだ。それでも私の手は、半分だけ前に出た。指が、紙の温かさの手前まで行って、止まった。止めたのは私だが、出したのは私ではない。手は、私の許可を取らずに動く。私はその手を、白い服の袖に戻した。槙は見ていなかった。見られていなかったことに、私はなぜか、少し負けた気がした。

午後、カフェ・ハーファまで、歩くことがあった。

崖に、白い段々のテラスが、海峡へ向かって、何段も降りていく古い店だった。昔から、書く人間や、流れてきた人間が、ここで何十年も、海を見てきたのだという。卓は青く塗られ、塗りは剥げ、椅子は固かった。土地の男たちが、何をするでもなく座って、薄荷の茶を、何杯も飲んでいた。茶は、グラスの底に砂糖が積もるほど、甘かった。

槙は、茶に、口をつけなかった。甘すぎる、と言った。珈琲に砂糖を入れない男だった。彼は、茶の代わりに、海峡を見ていた。崖の下で、波が、岩を、規則正しく洗っていた。磯の匂いが、潮の満ちる夕方には、テラスの上の段まで、届いた。

私は、飲んだ。

病人がすするほどの、ひと口ずつ。けれど、その甘さは、ひと口でも、暴力だった。熱くて、青くさくて、ばかみたいに甘かった。喉から胃まで、甘さが、生きて、降りていった。死にゆく女に、こんなに甘いものは、要らないはずだった。私は、グラスを置く速度に、気をつけながら、底の砂糖まで、匙でかきまぜて、飲んだ。槙は、海峡を見ていた。対岸の、生きている大陸を、見るともなく見ている男の隣で、私は、砂糖の澱を、静かに、飲み干した。

 

階段を下りるとき、私はもう普通には下りられない。下りられない、のではなく、下りない。一度、考えごとをしていて、健康な速度で三段下りた。途中で気づいて、残りを病人の速度に戻した。手すりに手を置き、体重を半分あずけて、ゆっくり。下から槙が見上げていた。彼の顔に、何かが満ちるのがわかった。怒りではない。安らぎだ。

彼は私を殴らない。一度も。彼が触れるのは、手首と、唇と、首のうしろだけだ。朝、彼は私の手首を二本の指で押さえて、しばらく黙っている。脈を数えているのだと、最初は思った。たぶん違う。彼は数えていない。彼は、私の中でまだ動いているものを、確認しているだけだ。動いていることに、彼は少し不満そうな顔をする。唇に指を当て、乾きを確かめ、満足する。私の身体が乾いていくのを、彼は庭の仕事のように見ている。水をやらない庭。彼の手は優しい。優しいから、こわい。

体温計を渡される朝もあった。私は、数字を見る前に、まず、槙の顔を見た。数字は、それからでよかった。私の熱は、水銀の柱ではなく、彼の顔のほうに、出た。

薬は、飲むふりをした。でも、たまに本当に飲んだ。もう何がなんだかわからなくなってきていた。薬を数えるとき、生きるために捨てているのか、芝居を続けるために捨てているのか、飲んでいるのか、その境目が、もう自分でもわからない。たぶん両方だ。両方であることが、私という女の正確な形だ。

白い服は、思っていたより重かった。裾が長く、歩くたびに脚にまとわりつく。速く歩こうとすると、布が止める。布が私を病人の速度に保つ。槙が選んだ布だ。彼は布に、私の歩き方を覚えさせた。脚はまだ、走りたがっている。脚は馬鹿だ。胃と同じくらい馬鹿で、正直だ。私は脚に、おとなしくしていろ、と命じる。命じるたび、脚はほんの少し、私に逆らう。

鏡の前に立つと、知らない女がいた。頬がくぼみ、鎖骨が浮き、目だけが大きい。私はその女を見て、ひとつのことを思った。——この女なら、愛される。

思ったあとで、私は鏡から目をそらした。そらしたのは、恥ずかしかったからではない。その考えが、あまりにすらすら出てきたからだ。すらすら出てくるということは、もう何度も思っているということだ。私は自分が、いつからそれを思いはじめたのか、思い出せなかった。

ある朝、立ち上がったとき、世界が一度だけ傾いた。ふらついたのだ。

ほんの一瞬だった。海が、横に滑った。とぷ、と耳の奥で鳴った。私は窓枠に手をついた。手が、私を支えた。手はまだ生きている。胃も、脚も、まだ生きている。生きているものたちが、私を窓枠の方へ引っぱった。

そのとき槙が、すっと立って、私の背に手を添えた。

その手が、あまりに美しかった。彼の顔が、私が一度も見たことのないほど、優しく晴れていた。彼は何も言わなかった。ただ、私のふらつきを、長く待っていた人の顔をしていた。私はその顔を見て、——また、と思った。また、こうなりたい、と。傾けば、この顔が来る。倒れれば、もっと来る。

思った瞬間、胃が鳴った。場違いに、大きく。生きているものが、私の企みのまんなかで、馬鹿正直に主張した。私は笑いそうになった。笑えなかった。

 

 

ある夜、私は本当に熱を出した。

演技ではなかった。慣れない水のせいか、削れた体が音をあげたのか、夕方から関節が軋み、夜には体の芯が燃えはじめた。部屋の灯りは、枕元の、小さなランプ一つに、落とされていた。私は白いシーツの中で震えていた。寒いのに汗が出た。天井の白がぐらぐらと溶けて、自分がどの国のどの部屋にいるのかも、わからなくなった。私は小さく、槙の名を呼んだ。

すると彼が、変わった。

それまで何日も張りつめていた何かが、ふっと、ほどけたのだった。彼の動きが、急に、静かで確かなものになった。彼は冷たい水で布を絞り、私の額に当てた。乱れた髪を指で梳き、汗を拭い、毛布をかけ直した。その手つきは、これまで見たどの彼よりも、優しかった。彼はもう手帳をつけなかった。薬の箱にも手を伸ばさなかった。枕元の水差しだけを、黙って、少し、私の近くへ、寄せた。小卓の遠い縁から、枕の際へ、掌、二つぶん。ただ枕もとに座り、燃える私を、穏やかな目で、看ていた。何日も眠っていなかったはずなのに、その顔から、疲れが消えていた。

私の額に手を当てたまま、彼は、ほとんど祈るように、つぶやいた。

「今の顔が、いちばんいい」

熱に溶けた頭の隅で、私はその言葉を、聞いた。

彼は気づいていなかった。自分が何を言ったのか。彼は本気で私を案じ、本気で私の汗を拭い、その同じ口で、私がいちばん死に近いいまの顔が、いちばんいいと、言ったのだった。

私は震えながら、彼の安らいだ顔を見ていた。

誰かに、消えることを、こんなにも望まれている。熱で朦朧とした頭には、それが、ひどく優しいことのように思えた。私はその夜、生まれて初めて、本当に死んでもいいような気がした。

それが、何より、こわかった。

朝には熱が引いていた。

目を覚ましたとき、体は、噓のように、軽かった。

頭の芯の燃えていた場所が、冷えて、澄んでいた。関節は、もう軋まなかった。私は仰向けのまま、その軽さを、しばらく味わった。——味わってしまってから、それが、よろこびではないことに気づいた。軽い、ということは、治った、ということだった。治った、ということは、また健やかな女に戻る、ということだった。私の体は、ゆうべの坂を、もう引き返してしまっていた。下りかけた坂を、勝手に上りなおしていた。私は、それを止められなかった。胸の奥で、あの馬鹿正直な心臓が、けろりと、規則正しく打っていた。なんでもない、健康な、朝の脈だった。私は、その脈を、はじめて、疎ましく思った。

隣で、槙が目を覚ました。

彼はまず、私の額に手を当てた。ゆうべと同じ手つきで。けれど、その手が私の額の熱を探して、見つけられないのが、私にはわかった。彼の指が、私の冷えた健やかな額の上で、ほんの一瞬、止まった。探していたものが、そこに、なかった。

彼の顔から、何かが引いていった。

ゆうべ、祈るようだったあの安らぎが、潮のように引いた。

彼は何も言わなかった。私も言わなかった。

彼の目もとが、また、固くなった。

彼は手帳を開いた。枕元の水差しは、いつのまにか、もとの遠い位置に戻されていた。掌二つぶん、ゆうべ寄ったぶんだけ、正確に。

私は、もう一度、熱を出したいと思った。

その思いに気づいたとき、私は、逃げなければ、と思った。

 

 

その問いは、穏やかな午後に来た。

私たちはまた別の街にいた。海に張り出したテラスのある、古いホテルだった。その日は、めずらしく、争わなかった。熱の夜以来、私たちのあいだには、燃え尽きたあとの灰のような静けさが続いていた。槙は籐の椅子に深く座り、私は手すりにもたれて海を見ていた。風がぬるく、光が白く、何も起こらない午後だった。

彼は膝の上で指を組み、しばらく海を見ていた。それから、ごく静かな声で、まるで天気でも尋ねるように、言った。

「もうすぐ死ぬって、どんな気分なの」

私は、海のほうを向いたまま、その言葉を聞いた。

彼に悪意はなかった。残酷さの自覚も、たぶん、なかった。彼の声には、好奇心と、憧れと、奇妙な甘さがあった。

私の中で、何かが、静かに、満ちた。

怒り、ではなかった。怒りなら、まだ言葉にできた。それは、もっと底のほうから来る、波のないものだった。

私は、手すりから離れて、彼の前に立った。

彼が見上げた。穏やかな、何も知らない顔で。その頬を、私は、平手で、ひっぱたいた。

乾いた音が、テラスに響いた。

手のひらが、じん、と痺れた。階段を駆け下りて着地したときの、あの痺れに、似ていた。生きている体が、生きているというだけのことで、跳ねた感触だった。私はこの何ヶ月かで初めて、ふりでなく、宥めるためでもなく、ただ自分の体が望むままに、何かをした。それは演技の対極にあった。それは、まぎれもなく、本当だった。

槙は、頬を打たれたまま、私を見上げていた。

驚いてはいなかった。痛がってもいなかった。彼の目には、むしろ、怯えのようなものが、走っていた。私の手のひらの強さに。打たれた頬の、はっきりとした痛みに。その痛みが、生きている女の手から来たことに。彼が何ヶ月も愛してきた、消えゆく淡い女には、こんなに強く、人を打つ手は、なかった。彼は、自分の頬の上で、自分の夢が、割れる音を、聞いたのだった。

私の手の跡が、彼の頬に、赤く、浮かびはじめた。

私たちは見つめ合った。打った私の手のひらと、打たれた彼の頬と、そのあいだに、初めて、噓でないものが、一つ、立っていた。

彼は、頬に手を当てなかった。

ただ、私を見上げたまま、長いあいだ、動かなかった。やがて彼の口が、わずかに、動いた。何か言いかけて、やめた。私も、何も言わなかった。言葉は、もう、いらなかった。一発の平手が、この何ヶ月かのすべての口論より、はっきりと、ものを言っていた。

その夜、私たちは、別々の側を向いて眠った。

背中越しに、彼がまだ起きているのが、わかった。彼はきっと、暗闇で、自分の頬に触れていた。私の残した赤い跡を、確かめていた。私もまた、暗闇で、自分の手のひらを、見ていた。まだ、かすかに、熱を持っていた。生きている手だった。私はその手を、握ったり、開いたりした。閉じると、手のひらに、まだあの一発の痺れが残っていた。開くと、それが逃げていった。

この手は、まだ、人を打てる。

私は暗闇で、その手を、もう一度、ゆっくりと、握った。

 

 

海の名前を、私は知らなかった。槙が、この海がいい、と言ったから、来た。死ぬのに、ふさわしい海だ、と。その海沿いの街に着いたころには、私たちはもう、ほとんど言葉を交わさなくなっていた。部屋は海に向いていた。ベッドは壁際、白い服はその上、槙は窓を背に立ち、私は扉の近くにいた。坂の下から、音楽が細く上がってきた。逃げ道だけが、私の背中のすぐ後ろにあった。

槙は、見るたびに痩せていった。眠らず、食べず、私の体だけを食べて生きているようだった。彼の目は落ち窪み、その奥だけが、私を見るときにぎらぎらと光った。私が衰えるのを待つ男が、私より先に、燃え尽きようとしていた。私たちは、海に面した古いホテルの一室で、互いを看取り合うように、向かい合っていた。

その夜、彼は、白い服を、ベッドの上に、広げた。

あの、病院のカーテンの白だった。彼はそれを、丁寧に、皺を伸ばして広げ、それから、私の手を取った。指が、私の手首の脈の上に、置かれた。けれどその夜、彼の指は、いつもより、弱く、頼りなかった。彼は、囁くように言った。もう、いいだろう。もう、じゅうぶん、頑張った。彼の手が、私の体を、撫でた。壊れものに触れるように。糸を、たぐるように。いまにも切れる、細い糸を。

彼は、私を、終わらせようとしていた。

彼の手のひらの下で、私は、自分が、もう、ほとんど、消えかけているのを、感じた。何ヶ月もかけて、私は本当に、薄く、淡く、なっていた。彼の夢の中の女に、もうすぐ、なりきれるところまで、来ていた。あと一歩で、私は、彼の望む形に、完成する。その一歩が、こんなにも、近かった。

そのとき、坂の下から、音楽が、聞こえてきた。

どこかの店の、灯りと、人の声と、生きている音楽だった。風に乗って、開いた窓から、それは入ってきた。ぬるい夜気と、潮と、誰かの笑い声と一緒に。生きている世界が、まだ、すぐそこに、あった。坂を一つ下りれば、届くところに。私の中で、何かが、その音のほうへ、跳ねた。あの、階段を駆け下りた膝が。あの、隠れて貪ったパンが。あの、彼の頬を打った手のひらが。

私は、彼の手を、振りほどいた。

そして、ベッドの上の、白い服を、掴んだ。

彼が、顔を上げた。私は、その服を、両手で、握りしめた。そして、声を、出した。何ヶ月も、呑み込んできた声が、いちどに、出た。私は、死なない。私は、一度も、死にかけてなんか、いなかった。私の心臓は、こんなに、丈夫で、私の胃は、こんなに、空いて、私の脚は、こんなに、走りたがっている。あなたが愛していたのは、私じゃない。私の、死ぬところだ。私は、あなたのために、死んでなんか、やらない。

 

 

彼の顔から、血の気が、引いた。

彼の顔に浮かんだのは、喪失だった。深い、底のない、喪失。彼が何ヶ月も愛してきた、消えゆく淡い女が、いま、私の口から出た真実によって、殺されたのだった。彼女は、最初から、どこにも、いなかった。彼は、いない女を、愛していた。そして私が、その女を、たったいま、本当に、殺した。彼の目が、その死を、見ていた。彼は、私が生きていることに、撃たれていた。

その表情が、すべてを、証明していた。

私は、白い服を持ったまま、部屋を出た。坂を、駆け下りた。病人の速度ではなかった。途中で、私はその白い服を脱いで、夜の海のほうへ、力いっぱい、投げた。薄い麻が、夜気をはらんで、白く、ふわりと、開き、それから、黒い水の上に、落ちた。死にゆく女の経帷子が、暗い海に、ゆっくりと、沈んでいった。私は、振り返らなかった。背後の、白いホテルの窓に、槙が立っているのが、見なくても、わかった。彼は、暗い水に浮かぶ白を、見下ろしていただろう。沈んでいく、自分の夢を。

 

 

投げた瞬間、わかったことがある。

手を離れたそれは、もう、経帷子ではなかった。夜気をはらんで開いたのは、ただの、軽い麻だった。何ヶ月も私を病人の速度に保った布が、私の手を離れたとたん、ただの布に戻った。

息が、上がっていた。

駆け下りた坂のぶん、心臓が、強く、速く、打っていた。私はしばらく、その音を、聞いていた。隠さなくていい鼓動を、聞くのは、何ヶ月ぶりだった。汗が、背中を、一筋、降りた。夜気が、首筋と、剥き出しの腕に、じかに触れた。あの白を、もう、着ていない肌に。風は生ぬるく、潮で湿っていて、私はそれを、肺の底まで、吸った。

歩き出すと、靴の中で、足の指が、地面を掴んだ。

石畳の凹凸が、靴底ごしに、一つずつ、足の裏に届いた。膝が、よく、働いた。坂を駆け下りても、笑いもしなかった膝が、まだ、いくらでも走れる、と言っていた。私は、誰の速度でもない速度で、歩いた。速すぎると咎める目は、もう、後ろの白い窓の中にしか、なかった。

遠くで、音楽が、鳴っていた。

風が向きを変えるたび、近くなり、また遠くなった。弦と、太鼓と、人の笑い声。その方角から、油と、焼けた魚の匂いが、流れてきた。私の胃が、はっきりと、鳴った。誰にも聞かれない場所で、好きなだけ、鳴った。

 

 

海沿いの道を、私は、歩いた。

歩くほどに、奇妙な心細さが、湧いた。自由のはずだった。それなのに、足が、軽くなかった。私は、振り返って、白いホテルのほうを、見たくなった。槙の目の中にいた、あの淡い女が——薄く、儚く、消えゆく、あの女が——もしかしたら、本当の私だったのではないか。生きて、走って、人を打つこの体のほうが、噓なのではないか。彼の夢の中でだけ、私は、美しかった。その夢を、いま、私は、海に捨ててきた。捨ててきたものが、急に、惜しくなった。

そのとき、灯りが、見えた。

海に張り出した、小さなバーだった。裸電球が、葡萄棚のような屋根の下に、いくつも灯り、その黄色い光が、足もとの黒い波に、揺れて、映っていた。生きている人間たちが、グラスを傾け、笑っていた。私は、吸い寄せられるように、その光の中に、入った。

カウンターの端に、座った。

隣に、男が、いた。日本人だった。日に焼けた、何でもない男だった。足もとに、使い込んだ鞄が置いてあり、その口から、黒い、ごつごつしたカメラのレンズが、覗いていた。写真を撮る男だった。彼は、私のグラスを見て、何飲んでるの? と、聞いた。くだらない質問だった。私は、答えた。彼は、笑った。

それから、私たちは、話した。

何でもない話だった。彼が今日撮った、市場の、魚の写真のこと。明日、東へ向かうこと。旅行中に食べた、まずい料理のこと。私の、なんでもない、噓でもない、答え。彼は、一度も、私の体調を、聞かなかった。私の顔色を、読まなかった。私が水を飲んでも、彼の何かが、止まったりしなかった。彼の目に映っていたのは、ただ、一人の、健康な女だった。バーの椅子に座って、酒を飲み、よく笑う、生きている女。それは、何ヶ月ぶりかで、本当のことだった。

彼が、ふと、カメラを、持ち上げた。撮っていい、と聞いた。私は、頷いた。

シャッターが、一度、鳴った。

彼が撮ったのは、消えゆく女では、なかった。死にゆく形でも、なかった。いま、ここに、生きて、笑っている、私だった。彼は、撮った写真を私に見せなかった。ただ、カメラを鞄に戻し、腹減ったな、と言った。

その雑さに、私は救われた。

彼は、勘定を見もしなかった。

皺の寄った札を二枚置き、釣りを受け取ると、数えずにポケットへ入れた。

槙なら、絶対に数えた。

その雑さに、私はまた少し救われた。

その夜、私は、彼と寝た。

槙は、私を、糸のように扱った。いつも。抱くときでさえ、彼は、私を、いまにも切れる細い糸のように、こわごわと、惜しむように、扱った。私が、消えてしまう前の、最後の数日を、慈しむように。彼の優しさは、いつも、私の死を、撫でていた。

この男は、違った。

彼は、私を、生きた体として、扱った。壊れない、確かな、血の通った体として。彼の手は、私を、惜しまなかった。消えゆくものとして、ではなく、いま、ここに、ある女として、私に触れた。私は、久しぶりに、自分の体の、重さを、感じた。骨の、確かさを。肌の、熱を。私は、消えかけた女ではなく、生きて、汗をかき、息を乱す、一人の女だった。私は、糸では、なかった。

 

 

朝、私は彼の隣で目を覚ました。

知らない天井だった。窓から、ありふれた朝の光が入っていた。隣で、男がまだ眠っていた。だらしなく口を開けて、無防備に。少しも美しくなかった。私はその、少しも美しくない寝顔を、しばらく見ていた。槙の寝顔は、いつも美しかった。落ちていく途中の、あの姿勢のように。この男の寝顔は、ただ生きているだけの、退屈な顔だった。

私はその退屈を、たぶん、愛しはじめていた。

起き上がると、体が軽かった。何ヶ月ぶりかで、私は自分の脚で立った。病人の速度を、忘れていた。窓の外で、海が朝の光に白く光っていた。とぷ、と、どこかで水が鳴った気がした。久しぶりに。あるいは、気のせいだったかもしれない。

男が、目を覚ました。

彼は私を見て、少し驚いたような、それから、嬉しいような、間の抜けた顔をした。昨夜の女が、朝も、まだそこにいたことに。彼は何も、たいそうなことを言わなかった。腹減ったな、とだけ言って、伸びをした。骨の鳴る音がした。私は、笑った。呑み込まない、本物の笑いだった。

日本に帰る、と私は言った。一緒に来る?

たいした口説き文句でも、決意の告白でもなかった。旅先で隣り合った相手に、次の電車を教えるくらいの軽さで、私はそれを言った。彼は、少し考えて、いいよ、と言った。それだけだった。世界を捨てようとした男の、あの重たい愛の、対極にある軽さだった。重たい愛は、私に死を求めた。この軽さは、ただ、朝飯を求めていた。

私は、荷物をまとめた。

手紙は書かなかった。槙には、何も。世界を捨てようとした壮麗な男を、私は白いホテルに置いてきた。彼はきっと、暗い海に浮かぶ白い服を、まだ見下ろしているだろう。沈んでいく、自分の夢を。私は、その夢の中の女には、もう、ならなかった。

空港へは、二人で向かった。

男は、私の鞄の重いほうを、当たり前のように、持った。糸を持つようには、持たなかった。荷物を持つように、持った。私たちは、何も劇的なことを話さなかった。彼の国の通貨のこと、機内食のまずさのこと、乗り継ぎの時間のこと。くだらない、生きている人間の、なんでもない話を、しながら歩いた。

飛行機が、海の上を飛んだ。

眼下で、異国の海が青く遠ざかっていった。どこかの暗い水の底に、白い服が一着、沈んでいるはずだった。私の、死にゆく形が。私はそれを置いてきた。隣で、男が、機内食のトレイを覗き込んで、これ何だろうな、と言った。くだらない質問だった。私は答えた。彼は笑った。そうやって、なんでもない言葉を、いくつも交わしながら、私は生きて、楽しくて退屈な男と、日本へ帰った。

 

 

日本に帰ってから、私はその男と所帯を持った。

彼は写真で食べている男だった。雑誌の料理写真や、誰かの結婚式や、商品の箱を、毎日、淡々と撮っていた。芸術ではなかった。当てる映画を撮る男の、対極にいる仕事だった。彼のレンズは、目の前にあるものを、あるとおりに写すだけだった。皿の上の料理を、料理として。新郎新婦を、新郎新婦として。彼は、噓を、撮らなかった。撮れなかった。たぶん、そういう才能が、もとから、なかった。私は、その才能のなさに、救われていた。

私たちの暮らしは、退屈だった。

朝、彼は出かけ、夕方、帰ってきた。私は、家にいた。私たちは、なんでもない言葉を、毎日、交わした。今日の天気のこと、隣の犬のこと、夕飯のおかずのこと。劇的なことは、何も、起きなかった。

彼は私を、見ているようで、たいして見ていなかった。

槙は、私の食事を一口ずつ数えた。黒い手帳に、パン四分の一、水二口、と書きつけた。夫は、私が何を食べるか、見てもいなかった。ある晩、私が茶碗に二杯、白い飯を食べたことがあった。久しぶりに、腹いっぱい食べた。夫はそれに気づきもしなかった。自分のおかずの魚の小骨を、不器用に取ることに夢中だった。私が二杯食べたことを、彼はたぶん一生知らない。槙なら、その二杯目を、永遠に忘れなかっただろう。

彼は、写真で食べている男なのに、撮ったものの整理がひどく雑だった。撮影データの名前を、適当につけた。日付すら、ときどき間違えていた。何万という予算をコンマ以下まで管理した槙の、あの几帳面さの対極だった。夫のパソコンの中で、私たちの暮らしは、名もない番号のまま、乱雑に積み重なっていった。

そして彼は、私の寝顔を撮らなかった。

一度も。写真家なのに。槙は夜中に肘をついて、私が眠るのを、まだ息をしているかと覗き込んだ。夫は、私の寝顔にレンズを向けようとさえしなかった。私が眠っているあいだ、彼もただ、隣で眠っていた。ある夜、私がわけもなく、夜中に目を覚ましたことがあった。暗い天井を、しばらく見ていた。隣で、夫は口を開けて深く眠っていた。私が起きたことに、気づきもせず。槙なら、私が目を覚ませば、彼も目を覚ました。私が眠れない夜は、彼も眠らなかった。夫は、ただ、眠っていた。

はじめ、それを、寂しいと思った。

けれど、しばらくして、わかった。見られていないということが、こんなにも楽だとは。私は彼の前で、何も演じなくてよかった。二杯食べてもよかった。夜中に起きてもよかった。私の寝顔は、誰のレンズにも収められなかった。誰の手帳にも書きつけられなかった。私はただの名もない番号の一つとして、彼の雑なパソコンの中で、安らかに生きていた。

 

 

私は、米を研ぐのが、下手だった。

研ぎすぎて、よく指を切った。彼は、それを見て、笑った。なんで毎回切るんだ、と。私にも、わからなかった。槙の前では、私は、何ヶ月も、糸のように完璧な女を、演じきった。一度も、しくじらなかった。それなのに、この退屈な台所では、私は、毎週のように、指を切った。血が、白い米に、点々と、垂れた。痛かった。その痛みが、私は、嫌いではなかった。それは、生きている女の、不器用な、本物の血だった。

ある晩のことを、覚えている。

その日も、私は米を研いでいた。研ぎながら、ぼんやり、別のことを考えていた。何を考えていたかは、思い出せない。たぶん、何も。指のことなど、見ていなかった。研ぎ桶の縁か、まな板の隅か、とにかく何かの硬いところで、左手の人差し指の腹を、すっと、切った。痛い、と思うより先に、血が出ていた。

白い米の上に、赤が、点々と、落ちた。

水を張った桶の中で、その赤は、糸を引くようにほどけて、薄まり、米のあいだに、消えていった。私は、その色を、しばらく見ていた。きれいだ、とは思わなかった。ただ、本当だ、と思った。私の体が、私の許しも待たずに、勝手に出した、本物の赤だった。

あ、また切った、と私は言った。

夫は、食卓で、新聞を見ていた。顔を上げて、ああ、と言った。絆創膏あったかな、と立ち上がり、戸棚の引き出しを、がさがさと探した。古いのしかないけど、と言って、一枚、よこした。彼はそのあいだ、一度も、私の指を、見なかった。血を見たのでも、傷を見たのでもなく、ただ「絆創膏という用事」を、片づけていた。よこすと、彼はまた、新聞のところへ、戻った。

私は、流しの前で、指を、口にふくんだ。

鉄の味がした。それから、絆創膏を、巻いた。古い糊が、もう利かなくて、すぐに、端がめくれた。私は、それを、そのままにした。

槙なら、と私は思った。

槙なら、この二滴の血で、ひと晩じゅう、私の指を見ていただろう。傷の縁を撫で、痛いかと何度も聞き、私の答えを、けなげな噓だと信じただろう。彼なら、この赤を、見逃さなかった。たった二滴を、世界でいちばん大事な、私の死の前ぶれのように、覗き込んだだろう。

夫は、見なかった。

彼は私を、愛していた。たぶん、槙よりも、ずっと、まともに。けれど、その愛は、私の指の二滴の血を、見なかった。新聞の活字より、明日の天気より、隣の犬より、私の血は、彼の目を引かなかった。

私は、めくれた絆創膏の指で、また、米を研いだ。

血の混じった水を捨てて、新しい水を張った。今度は、切らなかった。切らなければ、何も起こらなかった。何も起こらない水の中で、米が、白く、沈んでいた。台所は、しずかだった。夫が新聞をめくる音だけが、ときどき、した。私は、その音を、遠くに聞いていた。本物の血を流しても、誰も、こちらを見ない部屋の、いちばん奥のほうで。

幸福だった。たぶん。

けれど、その幸福を、私は、少し離れたところから、眺めているようだった。

 

 

夫は、私を、凪とは呼ばなかった。

あたりまえだ。それは、槙の前でだけ使った名だった。夫は、戸籍の名で、私を呼んだ。台所に立つ私の背中に、その名をかけた。——けれど、呼ばれるたび、私は、ほんの一拍、遅れて振り返った。それなのに、その名は、私の体の半歩うしろを歩いていて、私に追いつくのに、毎回、一拍を要した。凪、と呼ばれたなら、私は、振り返るより先に、もう振り返っていただろう。噓の名のほうが、私には、よほど、しっくり来た。本当の名で呼ばれるたびに、私は、ほんの少し、寒くなった。

私の中の、あの空っぽの倉庫は、結婚しても、埋まらなかった。退屈な幸福は、その倉庫を、埋めはしなかった。ただ、倉庫を、安全な場所に、置いてくれた。雨の当たらない、誰にも踏み込まれない場所に。私は、空っぽのまま、安全だった。夫の隣で、私は、何も感じないことを、誰にも、気づかれずに、いられた。それは、ありがたいことだった。けれど、夜中に、その空っぽが、やっぱりひどく、寒かった。

ときどき、私は槙を思い出した。

彼自身を、ではなかった。彼の、あの、ぎらぎらした目を。私の死を覗き込もうとした、あの目を。あの目の中でだけ、私は、まるごと、見られていた。たとえそれが、噓の私だったとしても。退屈な夫は、私を、愛していた。けれど、夫の愛は、静かで、平らで、私の表面を、撫でて通り過ぎた。槙の愛は、噓だったが、私の中の倉庫まで、土足で、踏み込んできた。

いちばんこわかったのは、ある夜、ふと、思ったことだった。

もう一度、誰かに、死にかけた女だと、信じさせたい。もう一度、あの、ぎらぎらした目に、覗き込まれたい。もう一度、糸のように、扱われたい。——気づいたとき、私は、ぞっとした。私の中の何かが、また、噓を、建てたがっていた。安全な幸福の中で、私の倉庫は、また、あの危険な充溢を、欲しがりはじめていた。

 

 

私は、書きはじめた。

夫が出かけたあと、私は、机に向かった。机といっても、台所の、いつものテーブルだった。午前の光が、醤油差しの影を、紙の端まで、伸ばしていた。私はそこで、槙のことを、書いた。坂の上で死んだ彼の母のことを。火葬場の骨の前で交わした約束を。タンジールの白い壁を。海に沈めた、白い服を。書いているあいだだけ、倉庫の寒さが、和らいだ。書くことは、噓を建てることに、似ていた。けれど、誰も、傷つけなかった。私は、紙の上にだけ、もう一度、死にゆく女を、建てた。書き終えると、その束を、クローゼットの、冬物の下に、隠した。夫には、見せなかった。見せられる種類のものでは、なかった。

書きながら、私は、おかしなことに気づいた。

私が槙にされたことは、ぜんぶ、これと同じだった。淡い服を着せられ、薬を丈の順に並べられ、食べなかった四口を手帳に書きつけられること。

——あれは、看病ではなかった。執筆だった。

ただ一つ、書かれなかったものがある。台所で米を研ぐたびに、勝手に出る、あの血だ。あれだけは、誰にも書かれず、ひとりでに出た。最初から本当の、私の体だった。それなのに私は、その本当の血より、紙の上の噓の死のほうを、ずっと、美しいと思っていた。

けれど、書いても、書いても、倉庫は、また、寒くなった。

紙の上の死にゆく女では、もう、足りなくなる日が、来るのが、私には、わかった。いつか、私は、また、本物の誰かを、巻き込む。また、誰かの目を、ぎらぎらさせる。また、白い服を、誰かに、買わせる。その予感は、台所で指を切るより、ずっと、はっきりと、痛かった。

ある朝、夫が出かけたあと、私はいつものように机に向かった。けれどその日は、ペンを取らなかった。代わりにスマホを取った。指が震えていた。私はその震える指で、近くの精神科の番号を探した。

その番号にかけながら、私は、考えていた。

どう言えば、いちばん本当らしく聞こえるだろう。

いつから、と聞かれたら、なんと答えよう。子どものころから、と言えば、根が深く聞こえる。最近、と言えば、切迫して聞こえる。噓の余命のことは、話すべきか。話せば、信じてもらえるだろうか。信じてもらうには、どの順で、どの表情で——気づくと、私は、初めて会う医者のための、台詞を、組み立てていた。本当のことを打ち明けるために電話をかけながら、私は、その本当を、どう語ればいちばん本当らしいかを、考えていた。

呼び出し音が、鳴りはじめた。

私は、ぞっとした。

助けを求める、その電話の中でさえ、私の口は、もう、噓を建てようとしていた。本当を語る、ということが、私には、できなかった。本当を、いちばん効く噓に、仕立て直すことしか。

いや、と私は思った。仕立て直す、ではない。私は本当を、噓のかたちでしか持てない。——違う。私のいちばん強い本当が、いつもいちばんよくできた噓の顔をしている。——違う。噓のほうが、本当より私を正しく言い当てる。もっと短く。私は噓でできている。もっと短く——そこで、はっとした。呼び出し音の鳴るあいだじゅう、私は助けを呼ぶかわりに、自分という女の、いちばん短い定義を彫り直していた。どう彫っても、決まらなかった。決まらない、ということだけが決まっていた。言い直すのがやめられない。やめられないことが、たぶん私の病の名だった。——「たぶん」では、まだ弱い。もっと正確な一語が、あるはずで、

五回目の呼び出し音で、誰かが、出た。

はい、と、相手が言った。

その瞬間、私の中で、組み立てたばかりの台詞が、すっと、引いた。喉まで来ていた、いちばん本当らしい一文目が、出てこなかった。受話器の向こうの、なんでもない、生きた声を聞いた途端、それは、ばらばらと、崩れた。私は、口を、開けた。けれど、用意した噓も、用意できなかった本当も、どちらも、出てこなかった。

あの、と私は言った。それから、黙った。

長い、沈黙だった。受話器の向こうで、相手は、急かさなかった。ただ、待っていた。私は、震える受話器を、握っていた。台所で米に血を垂らす、あの、不器用な手で。その手の中で、脈が、打っていた。誰にも清書されていない、書かれていない脈だった。ただ生きているだけの体が、受話器を、握っていた。生まれて初めて、私は、何も建てずに、ただ、誰かに、つながっていた。

予約の日が、決まった。

それを、私は、手帳に書きつけた。槙が私の食事を書きつけたのと、同じ、几帳面さで。けれど、そこで何を話すかは、書かなかった。書こうとして、書けなかった。手帳のその先は、白いままだった。

その白い一行だけが、この、噓で建てた束の、どこよりも、本当に近かった。

私は、その空白を、しばらく、見ていた。書き足したくなる手を、押さえながら。

 

 

(夫による後書き)

 

この文章の束のことを、私は前から知っていた。何年か前、冬物を出すときに見つけた。最初の頁だけ読んだ。男のことと外国のことが書いてあった。そこで読むのをやめて、元のとおり冬物の下に戻した。

彼女が夜中に起きているのは知っていた。寝息が止まると、天井を見ているんだなとわかる。私は寝たふりをしていた。手を伸ばせば届く距離だったが、伸ばさなかった。声をかけたあとのことを考えると億劫だった。郵便局に行くと言って本屋の袋を提げて帰ってきた日も、そうか、とだけ言った。気づいていなかったわけではない。そうか、と言うのがいちばん楽だった。

今になって思えば、ああいうとき妻は気づいてほしかったのだと思う。確かめたわけではないからわからない。ただ、私が気づかないことにしているのを、彼女のほうも気づいていた気はする。お互いそのままにした。何年もだ。

日付は春のひとつだけだと思っていたが、束の途中に何枚かおきに別の日付があった。最後の日付は、彼女がいなくなるふた月前だった。

いまこれを、台所のテーブルで最後まで読んでいるのは、彼女がもう隣にいないからだ。

束の最後に、妻は、病院の予約を取ったと書いている。日付もある。病院の名も、調べればわかると思う。電話をかけて、その日に妻が来たのか、来たならそのあとどうなったのかを、聞くこともできる。たぶん、できる。

けれど、私は、しないと思う。

聞けば、また、何かをしなければならなくなる。妻がいたころと、同じだ。私は、今でも、知らないでいるほうを選んでいる。そのほうが、楽だからだ。私が、そういう男だったから、妻は、私の知らないところで、知らない男と、知らない国へ、行ったのかもしれない。今となっては、それも、そうか、と思うだけだ。

ここまで書いて、私は、妻を見なかった、と何度も書いていることに気づいた。書いていくと、わかった気になる。けれど、こう書けば片がつくから、書いているだけかもしれない。妻を見ないでいたのと同じに、いまは、書くことで見ないでいるのかもしれない。

読み終えたら、この束は元の場所に戻すつもりでいる。ほかにどこへ置けばいいのかわからない。米は今も私が研いでいる。一人分の量が、まだうま

© 2026 牧野楠葉 ( 2026年10月14日公開 )

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