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『本』
「本」に纏わる短篇です。
MKシリーズ第一弾。

小説

9,088文字

「本がなくなりました」
守矢が事務所について、開口一番そう言った。
「誰の何の本?」
「大学の教授に借りた本です」
「弁償すれば」
「稀覯本でとても手が出ません」
「なんでそんなもんを失くすの」
「それがおかしいんですよ。講義のときもたしかに手元にありましたし、そのあとリュックサックに入れました。それで、ここに来るまでに自動販売機で飲み物を買おうとしてリュックを開いたら、今度はいつ間にかなくなっていました」
「自業自得だろ。自分で探せ」
「かわいそうだわ。知恵を貸してあげたら」
「どっかに落としたんだろ。終わり」
「本郷からここまでを歩いて探せって言うんですか」
「そう。誰かが交番に届けているかもしれないし、JRの落とし物に届けられているかもしれないからな」
「外で読んだ記憶はありません。鞄のチャックもずっと閉っていたし、落ちるはずありません」
「じゃあ自販機のところに落ちているんだろ」
「そんなはずありません。自販機の周りも探しました」
「じゃあスリだろ。電車でスられたんだ。人込みでは鞄は前側に背負っておくことだな」
「この時間帯に電車はそんなに混んでいなかったし、ずっと座っていましたよ」
「本当に鞄に入れたのはたしかなの? まだ講義室に置いてあるとか」
「たしかです。リュックサックに入れました」
「稀覯本って幾ら?」
「お金には代えられません。世界で一つしかないレベルのやつです」
「そんなものは禁帯出にしておけよ」
「教授に特別に借りた本ですから」
「お前も阿保だし教授も阿保だな」
守矢は珍しく本当に焦っているようだった。
「あんたはどうせ暇なんだし探してあげたら?」
円香が言った。
セルヴォーグ社の調査部の普段の法務事務は円香が一人で行っている。とくべつなことが起こらない限り綺燿に出番はない。
「なくなったらとんでもないことになります」
「ちなみになんていう本?」
「ハーヴェイの『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』の初版本です」
「やたら長い名前だな」
「教授は幾らで買ったの?」
「二億円くらいです」
「二億円って何ユーロくらい」
「百万ユーロくらいです」
「うちの城にあるクロイヤーの水辺の絵と同じくらいだな」
「そんなものを学生に貸し出す方がどうかしてるわ」
「……」
「なぜ黙る」
守矢はいつにもなく怯えている様子だ。
「実は勝手に教授の研究室から持ち出しました」
「まあ! そんなことをする子だったのね」
円香も驚いた。大人しい子だと思っていたのに。
「もっと自業自得じゃん」
綺燿は嗤っていた。
「だって、大学教授というものは、稀覯本や貴重な価値のある本を、大学の研究費で購入して、それを自分だけが見えるように隠して仕舞っているんですよ。そんなことが赦されていいはずがありません。僕ら学生は大した本を読めないんです。それじゃ研究が進みませんよ」
「お前、訴えられるぞ」
「だからお手伝いをお願いしているんです」
「教授って水國教授?」
水國教授は著名な外科の医学者で、メディア露出や著書も多い。だが、気の弱い守矢には、外科は向いていないので、そりが合わないらしい。
「そうです。指導教官ですから、一応」
「まじで言ってんの? 今から東大まで行くの」
「脅す訳じゃありませんが、僕がそういうことになったら、たぶん、請求は一番金持ちの親戚の社長に行くんだと思いますよ」
「巻き込むなよ。四親等の親族だろ」
「親同士は二親等です」
「あり得ないだろ。お前の家が破産して終わりだよ」
「あり得なくないわ。守矢君は一応うちの社員だし、親族ならあんたの家が補償金を払うこともあり得る」
「まじでふざけんな。何やってんだお前」
「だからすみませんって」
――――
結局、神泉から本郷まで戻って、少しでも手掛かりを探すことになった。
「電車や駅で落としてたら見つけようがないぞ」
「それはないです。リュックのチャックはずっと閉めてましたから」
「だからじゃあなんでそれで本がなくなるんだよ」
「でもたぶん東大から神泉の間にあるはずです」
「なんでだ?」
「なんとなくです。蓋然性の問題です」
「鞄の中から本がテレポートしたとでもいうのか」
「あり得ませんが、今のところそうとしか考えられません」
「こういうのは苦手なんだよな」
「たしかに論理パズルは苦手そうですもんね」
「ヴェロニクに連絡しよう」
懇意にしている警視庁の入沢ヴェロニク警部に電話した。
「仕事中です。勝手になんとかしてください」
当然切られた。
「真弓に電話しよう。ちょうど東大にいる」
瀬野真弓。綺燿の従兄弟で東大准教授。
「なあに?」
「優一の本が失くなった。知恵を貸せ」
「???」
よく考えたらこういうことには使えないやつだったので、やはり自分から切った。
「社長っていつも他力本願ですよね」
「うるせえ。今回はお前だってそうだろ」
頼りになりそうなやつ……。
「CX(セイクス)に連絡しよう」
「CX?」
Cyr Malvaux(シル・マルヴォー)。古典文献学者で上智大学に派遣されている。
「知り合いのフランス人だよ。こういうのは得意分野だ」
「日本に居るんですか?」
「バチカンから上智に派遣されている」
「Allô. CX ?」
「Quoi ? Vous m’agacez」
「Un livre a disparu. Ça devrait t’intéresser. La première édition latine de Harvey a disparu」
「J’arrive tout de suite」
シルは文字通り「本の虫」のような本マニアで、文献学者だ。すぐに喰い付いた。
こういうふうにフランス語を流暢にしゃべっている姿をみると、守矢も、綺燿のことを、「ああ、外国の人なんだ」と想い出す感じになる。
仏語。医学生としては、守矢は当然ドイツ語を第二外国語に撰んだので、いったい何を話しているのか全く文字通りちんぷんかんぷんだ。
シルが居るのは四谷なので、すぐに本郷にも着いた。
現れたのは黒衣に黒い革手袋の異様な青年だった。年齢は30歳前後だろうか。
後に聞くところによると、CXは古文書学の専門家で、本や紙片に皮脂や手汗がつくのを嫌って常に革手袋を付けているらしい。
「La disparition d’un exemplaire de la première édition de Harvey ? C’est grave」
「Il paraît qu’il vaut dans les deux cents millions de yens」
「Ce qui fait environ un million d’euros. Intéressant」
「Il n’y a rien d’intéressant là-dedans. C’est moi qui vais devoir payer」
「Tout de même, penser qu’un exemplaire de la première édition de l’Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibus se trouvait dans un laboratoire japonais…」
「Enfin, les Japonais sont parmi les meilleurs au monde en médecine」
「Sans aucun doute. En littérature, en revanche, ils sont même en dessous des Anglais」
守矢はなにを言われているのか全くわからなかったが、なんとなく悪口を言われているような気がした。
――――
「まずは神泉駅から本郷までの間を徹底的に探そう」
「いや、もうそれはやりました。駅員さんにも訊きましたが落ちていませんでした」
「大学の保安局は?」
「それも確認しましたが、ないです」
「じゃあまじでどこ行ったんだよ」
「だから、テレポートしたとしか……」
「お前それまじにリアルで言ってる?」
「それくらいしか可能性が思いつかない、ということです」
東大の前についたが、あまりにキャンパスが広いし、人も多いし、どうしようもなさそうだ。
「Demandez à Yuichi si ce genre de chose lui est déjà arrivé auparavant(優一にこれまでもこういうことがあったのかと訊いてみて下さい)」
「お前、これまでもこういうことあったのかってCXが訊いてるぞ」
「ありませんよ。本が消えるなんて言うこと」
「Non. Je vous demande si, par le passé, il vous est déjà arrivé de voler un livre à votre directeur de recherche(違う。私が訊いているのは、これまでにもあなたが指導教官から本を盗んだことがあるのか、ということです)」
「いや、本を盗んだことがあるのか訊きたいらしい」
「それは……」
優一は黙るしかなかった。たしかにこれまでに教授から本を「借りる」ことはよくあったからだ。
「お前、常習犯だな」
「でも、盗んだなんて。ちょっと借りてすぐ返しただけですよ」
「Intellexi. Quid re vera actum sit, fere perspexi」
「? 社長、マルヴォ―さんはなんといったのですか」
「わからん。今のフランス語じゃなかったぞ」
「Quia ne baccalaureatum quidem adeptus es, haec tibi accidunt」
「なに言ってんだお前」
――――
「駄目元で物理学的見地から今回の現象を考えてみるか」
ちょうど真弓は理学棟の研究室にいるはずだ。
ノックもせずに「瀬野真弓研究室」に飛び入る。
突然の訪問にも関わらず、この若い准教授・瀬野真弓は驚く様子もなく、さもそれが普通であるかのように対応してみせる。たまに彼の講義を受けることがあるが、これが演技なのか本当なのか、今でも優一はよくわからない。
「あ、キヨー。なあに」
「なあにじゃねえよ。さっき電話しただろ」
「しまじろうみてたの」
ふだんからこの調子だ。こいつには文学的な言辞では伝わらないので、まるでエクセルに数字を突っ込むように明確な量的条件を入力しなければまとも出力結果が得られない。
「176 × 121 mm、0.2〜0.4 kg程度の物体=『本』が、リュックを完全に閉じた状態で、本が破損せず、本全体が鞄の布を通り抜けて外側に現れる確率は?」
「つまり、you meanが言いたいことは、macroscopic quantum tunnelingみたいなことなのかな」
「そう」
「じゃあ、その確率は、T ∼ 10^(−2.6×10²¹)ってとこかな」
「どういうことだよ」
「つまり、三百グラム、障壁一ミリ、障壁高一電子ボルトくらいまで軽く見積もっても、起こり得る確率は、T ∼ 10^(−2.6×10²¹)」
「だからそれがわかんねえ」
「つまり、量子トンネル効果の式は、T ∼ e^(−2L√(2m(U−E))/ℏ)だから、だいたい君が言ったのを見積もるとT ∼ 10^(−2.6×10²¹)くらいになるよってことだにょん」
キヨウの周りには日本語が喋れないやつが多い。なんでこうなるのか。守矢も、今回のことは自分事ながら、綺燿に頼ればこうした意味不明の状況に陥らざるを得ないことにはほとほとあきれ返る。
「それは、何回やったら何回に一回起きるとか、そういう言葉にはできるのかな」
「うーん。仮に、すり抜けるのが一秒に一回の問題だとすると、今の宇宙の年齢が4.35×10^17秒で、期待待ち時間はおよそ10^(2.6×10^21) 秒だから、例えば今の宇宙の年齢で割ると、だいたい宇宙が十の二十六垓乗回繰り返すのに一回くらい起るみたいな確率かな」
「つまり、宇宙が何回必要?」
「つまり、宇宙が二十六垓桁ぶん回くらいあったら十分かな」
「なにその単位。垓?」
「垓っていうのは日本語で10^20 = 100,000,000,000,000,000,000のこと」
「まじで何言ってんだお前」
代わりに優一が答えた。
「垓。つまり一京の一万倍のことです」
「つまり無理ってことかよ。最初からそういえよ」
「無理じゃないよ。ゼロじゃないし」
「限りなくゼロに近い確率だろ」
「? でも、ゼロではないよ。あり得る(Possible)」
「あり得ねえよ!!」
すると、瀬野研究室に入ってからずっと黙っていたCXが言葉を挟んで来た。
「M。これはもう物理の問題ではないですよ」
もはやCXも普通に日本語をしゃべっている。
「じゃあなんなんだよ」
「単純に盗難の問題です」
「ていうか、マルヴォ―さんも日本語が喋れるんですね。じゃあ最初から日本語で喋って下さいよ」
「さすがに上智(Sophia)で学生に教えているのでね。それで、さっきも言いましたが、私にはもう真相がわかりましたよ。M。」
「なんだよ。早く教えろよ」
さっき? と思ったが綺燿はその点については流した。
「じゃあquestion à choix multipleで行きましょう」

Un「ユーイチの鞄の内部で量子トンネル効果が起こり本が鞄の外にテレポーテーションした」
Deux「実は大講義室に置き忘れていてそれを誰かが盗った」
Trois「我々はこのまま東大を捜索しても永久に本を取り返すことが出来ない」

「だからそのどれも正解じゃないから困ってるんだろ」
「本当にそうですか?」
「量子トンネル効果の確率はいかれ数字。誰かが盗ったとしても少なくとも保安所にはないし交番にも届け出はない。Troisの選択肢が正解なら、俺達はもはや本を見つけることが不可能だ」
「本当にそう?」
「アキネーターじゃないんだから」
「ユーイチの行動を逐一想い出してください。彼は大学に行きました。彼は大学教授の研究室から本を盗み出しました。その本を鞄にしまいました。講義を受けました。その後、君の事務所に向かう途中で、その本を失くした」
「なにもおかしなところはない。できることはすべてやった。優一ももう諦めるんだな。帰ろう」
「そりゃないですよ。本当に見捨てるんですか?」
「今回のはどうみたってお前の自業自得だろ。従兄弟のよしみ(と暇つぶし)で付き合ってやっただけだ。CXも平日に悪かったな。もう上智に帰れ」
「まあ、私はいいですけどね。おもしろい体験ができましたし」
「ちょっと、本当に見棄てるんですか???」
「Hum…まあ、このまま帰っても帰らなくても同じですがね」
「どういうことだ? 結局見付からないってことだろ」
「そうではありませんよ。見付かります。ただこのまま帰っても帰らなくても同じです」
「??? どういうことだ」
「じゃあ問題をもっと単純にします。あなたは当の『本』がいまはいったいどこにあると考えますか?」

Un『東大キャンパス内』、Deux『ユーイチの鞄の中』、Trois『本郷から神泉までの間』

「一番蓋然性が高いのはTroisだ。範囲的にも」
「本当にそうですか?」
「だからアキネーターじゃないんだから」
「答えを知ってるなら教えて下さい。このままでは夜も眠れません」
「それが答えです。あなたはそのままでは夜も眠れない」
「? 早く教えろよ」
「そうですねぇ。現物を見るのが一番早いかもしれません」
――――
水國研究室だ。
守矢は緊張しながらドアをノックしようとする。
「アポも取ってないんですよ。それに大事な本が一冊なくなってるんです。絶対に怒ってるに決まってます」
「いいから尋ねてみて」
CXの無駄に強い威厳と断定調に圧されて守矢は扉をたたいた。
こちらには社長もいるしどこぞのよくわからない黒衣のフランス人もいる。平気だ。
意を決したように守矢はドアをノックして研究室に入った。
「はい」
いかにも普通の様子で水國教授は応答した。
「守矢君じゃないか。どうしたの。それと、誰?」
「僕はMK。テレビで見たことあるでしょ。ていうかNEWSPICTUREの討論番組で会ったことあるよね」
「ああ、あなた。黒水社の対談ではお世話になりました」
そういえば綺燿は水國教授と対談もしていたんだった。水國教授の対談集で、対談相手の一人だった。綺燿は単著を出す風情ではないが、メディア露出があるのと、ヨーロッパ貴族の子孫というので経歴が目立つので、そういう仕事はちょくちょくあった。
CXは「誰?」という感じだったが、一番づかづか研究室に入って行った。
「上智大学の文献学者のマルヴォ―と申します。今日は、偶然、守矢君に、先生が貴重なハーヴェイの『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』の初版本を持っていらっしゃると聞いて、興味を持って訪問させていただきました。失礼でしたでしょうか」
水國教授は、CXのそもそもの圧と、外国人相手で少し驚いたのもあってか、なぜかまるで普通に旧来の知己をもてなすように蔵書を案内した。CXというのはそういうやつなのだ。
「そうそう。最近買ったの。これ」
出された本は、全く小さい、パンフレットのような薄い古書だった。
「これが二億?? 嘘だろ。カモられたんじゃねえの」
「いや、たしかに本物ですね。紙の質感や装丁の素材で明らかにわかります」
「それとあなたは触らないでください。手指の皮脂も唾も古書には大敵なので」
「俺が汚いってこと?」
「バカロレアも取らないで古文書学校で訓練を受けていないような素人がさわらないでください」
「うるせえ田舎もんが。俺はパリだぞ。お前はなんかベルギーの方のド田舎だろ」
「学歴はあなたより上です」
「うるせえ。俺はジュリアードだぞ」
「卒業してないでしょ」
そう言っている横で、守矢が信じられないという顔をしている。
「なんで、ここにあるんだ。たしかに取ったのに」
「種明かしをしましょう。こういうことです。Freudの1895年の論文『Obsessions and Phobias』に出て来る、若い女性の例はご存じでしょうか。あるいは、有名な『鼠男』の症例は?」
「Get to the point」
「つまり――ユーイチ、あなたはこういいました。『教授の部屋から本を借りるのは一度や二度ではない』」
「たしかにそういったような気もしますが……。そのことが今回の事件と何の関係が?」
「実際のところ、あなたは一度か二度くらいは本をバレずに借りることに成功していたのでしょう。そのたびにあなたがきちんと教授の部屋に本を返却したのか、それとも、そのまま借りっぱなしになっていたのかはしりません。あるいはそれ以前にあなたは借りた本を失くしたことがあるかもしれない。しかし、少なくとも今回は違います。あなたは一度もこのハーヴェイの初版本を盗んではいない」
そんなはずはない、と言おうとした口が、ごくりと唾を呑んだ。守矢自身――想い出してみれば、今日の午後の講義のあとの鮮明な記憶がない。
「あなたは本当に本を失くしましたか? あるいは、そもそも、本当に本を盗みましたか? あなたはただ、教授の部屋で見た本を、『欲しいな』と思っただけなのではなかったのでしょうか」
綺燿はもはや真相を察した様だった。優一にはまだ情況があまり呑み込めない。
「優一、お前……」
綺燿が笑い始めた。なぜかわからないが、バチ切れるモードのときの笑い方だ。この人はバチ切れるときに笑うという変な癖を持っている。
「ただの勘違いじゃねえか!!」
守矢はぶん殴られた。
扉のある壁の方まで吹っ飛んだ。
「そうです。極度の加害妄想です。ただし、普段からこういったことが頻発しているのでなければ、今回は金欠×水國教授への個人的な敵意×これまでの行為の罪悪感といった関数が突発的に掛け合わされたことによる偶然の事故、と言った方が正しいでしょう」
――――
馬鹿みたいなことで無駄に疲れた気持ちで、綺燿達三人は松濤のビルに帰って来た。
そういえば、CXがこのセルヴォーグ社のビルに来るのははじめてのことだったかもしれない。
「つまり、こういうこと? 本当は守矢君は一度もその本を盗んだことがなくて、なくしてもいなくて、他の時に幾度か『借りた』だけの本と、その本の記憶を混線して、うちに向う道路の途中で、『自分は教授から盗んだ本を失くした』っていう妄想に取りつかれてしまったと」
「Technicallyに言えば妄想ではありません。自覚のない強迫観念です。そういう症例はフロイトの研究で幾つも報告されています。自分が犯罪的行為をしてしまったという観念に取りつかれる患者は多いようです」
「普段は冷静なのにな。こういうこともあるもんだな。いや、普段が馬鹿真面目過ぎるんだよ。だからこういった少しことで、ストレスが噴出し、『自分でも訳が分からないうちに』やっちまうんだよ。普通は万引きでそういうのをやるんだけどな。つまり、お前は『万引きした』と思い込んだんだよな。馬鹿らしい」
「たしかに、今回は自分でも何が起こったのかわかりません。でも、そういえば前に『借りた』ジョン・スノウの本も、似た装丁だったような……」
「John Snowの『On Chloroform and Other Anaesthetics』のことですか?」
「ああ、そうです。その本だと思います」
「今回の君が『盗んだ』と思い込んだハーヴェイの初版本も、青のモロッコ革装で、大きさは17.6×12.1cmほど。スノウの当該本も、青いモロッコ革装で、21.8×13.1cmほどの大きさです。両方とも金文字の装飾があり、偶然にもRivière & Sonによる装飾です。記憶の取り違えには絶好の組み合わせと言えますね。とはいえ、初版年が200年も違う本なら、私なら間違っても取り違えるなんてことありませんが。ハーヴェイが1628、スノウが1858年です。紙の匂いや質感がまるで違いますよ」
「なんでそんなことそんなに細かく詳しく憶えてるんだよ。きも」
「私は古典文献学者ですからね。それくらいは当たり前です」
「本フェティッシュって本当にいるんだな。紙の匂いとかで興奮するの?」
「相変わらず下品な男ですね」
「シル・マルヴォーさんね。また初めましての人が増えたわ。紅茶はいかが?」
「私はイギリス人ではないので紅茶は飲みません。歯が黄色くなります」
「あら、綺燿とおんなじことを言う人が居るわ」
はじめて綺燿と似たような人物を見て、円香はつい笑った。
「コーヒーと紅茶は植民地主義の象徴ですから私は好まないのです」
「いや、コイツはアルデンヌ出身だから、シャンパーニュに嫌気がさして、朝から晩までシャトー・マルゴーしか飲まないんだ」
「だいぶ癖が強そうな人物ね」
「いずれにせよ、今回もこれでAffaire classéeですね」

© 2026 XAMAHA(天羽柊) ( 2026年9月23日公開

作品集『MKシリーズ』最新話 (全2話)

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