夏夜子は、勉強がニガテだ。連絡帳も、よく書き忘れる。今日こそはと思って、先生の話をじっと聞いていても、先生の言葉のなにか一つから連想の橋が架かり、遠い国へ行ってしまったりする。夏夜子は、そんな自分が、ほとほと情けなかった。
ある日の下校時、遠回りしていて、そこを見つけた。一帯に茂る背の高い草やぶに一箇所、茂みの薄くなっている所があったので、分け入って行くと、小さな住宅街に出たのだった。
その住宅街は家が六軒あるきりで、石畳の道路は長方形を描いて閉じられ、まわりは草やぶに囲まれているから、たとえばそこの車庫に停められているたいそうクラシックな車などは、どこにも行けないように思われた。
さらに六軒の家というのが、どれもたいそう奇妙だった。青々した葉っぱの茂る大木の幹に窓や扉がついているお宅、ブリキを継ぎ合わせてつくられた巨大なキノコのお宅、たくさんの塔も大門もたいそう小さい、お城のミニチュアみたいなお宅、大きな目覚まし時計の形をしたお宅、いくつもの小屋をがちゃがちゃと積み重ねた積み木のようなお宅、そして、見上げるばかりの巨大なワイングラスが立っているだけな(お宅と言っていいのかもわからない)お宅であった。
路上に人はなく、窓にも庭にも人影はなかった。夏夜子は不思議な家々を眺めながら、住宅街をぐるりと回った。残念なことに、すでに暗くなっていたので、その日は帰った。
翌日の放課後、親友の抄子を連れて行くと、草やぶを抜けて出たそこに住宅街はなく、なにかごみだらけの、浮浪者が住んでいた跡地のような空き地があるばかりだった。昨日の模様を熱心に語る夏夜子を、抄子はたいそう心配し、肩に腕を回して説得しいしい、家まで送った。
その夜、なかなか寝つけずに夏夜子は、いっそ両親にも打ち明けてみようかと、よっぽど思ったけれども、その方向で考え出したとたんに眠れそうだったから、もう少し様子を見ることにして、目を閉じた。
翌日一人で行ってみると、草やぶの先は昨日の荒れた空き地ではなく、清潔な四角い広場になっていて、真ん中に大穴が開いていた。覗き込むと、穴の壁面に階段がついていたので、そろそろと下りて行った。そうして穴の底に足を置いた夏夜子は、大都会のビルの屋上に立っていた。
見上げても、空があるばかりだ。足元には、さっき足を離れた階段の最後の一段が、一つのブロックになって転がっていた。ブロックに足を乗せると、大都会はなくなって、丸い空を見上げる穴の、壁面の階段に立っている。最後の一段を降りて底に立つと、高いビルの屋上で、見果てない大都会が広がっている。
見渡す限りの彼方まで栄えた大都会だった。夏夜子はビルの外階段を下りて、コンクリートジャングルの底に立った。そうして、狭くて汚い路地を見回すと、向こうに一人のトランペット奏者が――それというのもその人は、トランペットを持っていたので――なんだかうなだれて立っていた。
夏夜子は、危険を感じながらも、なにぶん高揚した気分でもって、モシ、と声をかけた。
トランペット奏者は夏夜子を見て、少し驚いたようだったけれど、なにも尋ねてはこなかった。夏夜子が名乗ると、トランペット奏者は、ものすごいだみ声で、ニッチモと呼ばれていますと答えた。
ニッチモは、プロのトランペット奏者なのだけれど、この時代と土地には聞き手の姿が全然なくて、なんとかありついた仕事は、なかなか契約通りにお金を払ってくれず、生活はままならないし、仲間もいないし、まったくおのが人生を呪っているのだということだった。
やがて安そうな腕時計に目を落とすと、今から副業に出かけるがついてきますかと言った。夏夜子は屋上にブロックの転がるビルを見上げて迷ったすえ、ついて行った。
ニッチモは大きなボウリング場に入って行った。そうして、靴を入れておくロッカーのコイン返却口に、取り忘れた人のコインがちらほらあるのを拾って行った。
軽く一周めぐっただけで、ズボンのポケットがふくらむくらいの銅貨が集まった。外の屋台でハンバーガーとコーラを買って、二人仲よく、公園で食べた。
どこに住んでるのと聞くと、安い宿があって、ちゃんとベッドに寝てますよと答えた。トランペットを聞かせてと頼むと、迷惑にならない場所がないと答えた。ゆっくりと日が暮れた。元の路地でニッチモと別れ、ビルの外階段を上り、屋上に転がっているブロックに足をかけると、大穴の壁面の階段に立っている。夏夜子は上って行った。
翌日の放課後、夕飯を家族で外食する予定だったからそんなに長居はできないのだったが、少しならよかろうと、寄り道し、一人で草やぶを抜けると、六軒の住宅街であった。
その時夏夜子は不意の尿意をもよおしていたのだったが、旅の恥はかき捨てだと思って、一番近くの、大木の幹に窓や扉のついたお宅のノッカーを叩き、顔を出したたいそう背の低いおじさんに、お手洗いを貸してくださいと頼んだ。たいそう背の低いおじさんはにこやかにうなずいて、夏夜子を家の中に招き入れ、床に穴が開いているきりの小部屋に案内してくれた。
トイレを済ませて出てきた夏夜子に、たいそう背の低いおじさんは自家製のもちもちしたケーキをふるまってくれた。夏夜子は恐縮しながら卓についてケーキを呼ばれた。夕食に差し支えそうだったけれども、たいそうおいしいケーキで、一緒に出されたお茶の香りにはいっそう胸を打たれた。
おじさんは夏夜子の素性を色々と聞いて、しばらくなにか思案しているふうになると、やがてウム。とうなずき、この住宅街は君を歓迎するよと言った。どういう意味か、詳しく聞きたかったけれど、タイムリミットが迫っていたので、なまじちょっと聞いてしまうよりも、すっぱりあきらめて、夏夜子はねんごろに御馳走のお礼を言うと、大木の家をおいとまし、住宅街をあとにして、家に帰った。
翌日親友の抄子を連れて草やぶを突っ切ると、やっぱり荒れ果てた空き地だったので、抄子は夏夜子の背中を撫でさすりながら家まで送った。
その翌日一人で草やぶを抜けると四角い広場に大穴が開いていた。壁面の階段を下りて大都会のビルの屋上に立ち、外階段を下りて路地を見回すと向こうでニッチモがトランペットを抱えて座り込んでいた。二人はボウリング場に行って、コインロッカーの返却口から銅貨をたくさん摘み取ると、公園で仲良く、ホットドッグとソーダの食事をいただいた。
翌日は土曜日だったので、昼から出かけ、夏夜子は一人で草やぶをかき分けた。
六軒の住宅街に出た。イトトンボのように痩せた、たいそう背の高い女の人が石畳の道路を掃いていた。こちらに気がつくと、箒を持った手をとめ、物凄く大きな目を細くして――それはにっこり笑ったのに違いなかった――手招きした。そうして夏夜子は、ブリキを継ぎ合わせてつくられた巨大なキノコのお宅に招待された。
キノコの内部は大きな一室でたいそう広かった。そこここの丸い窓から射し込む外光が白々した家具を照らしていた。上にゆくにしたがってゆるやかに狭くなる壁に梯子がくっついていて、高い丸天井の隅にくり抜かれた穴へもぐり込み、二階へと続いていた。
夏夜子は甘い水となにかサクサクした果物を御馳走になりながら、二階について尋ねた。するとイトトンボのように痩せた、たいそう背の高い女の人は、上は図書室よ。と答えた。外から見たらキノコの頭の部分にあたる。ふっくらと外側にたわんだ壁にずらりと詰まっている本を、天窓の明かりで読むのだそうな。白々した揺り椅子に腰かけて。
天井から視線を戻し、床の隅にある広やかな穴について尋ねると、女の人はウーンとうなって、
「わたしとあなたとは、ちょっと違うものね。――そうねえ、いわゆる、脱皮みたいなものかしら。脱ぐわけではなくて、時間が経つと窮屈になってくるので、ただ柔らかくほぐすんだけど、その時にざぶんともぐって、ぷかぷか浸かっておく所なの。けっして不潔な所じゃないのよ」
それから、イトトンボのように痩せたたいそう背の高い女の人は、そのいわゆる脱皮のようなことを、夏夜子もやってみるかと言った。夏夜子はびっくりして、自分がやっても危険はないかと尋ねた。女の人は、ないと請け合った。それで夏夜子は、手を引かれるまま穴の所へ行って、二人一緒にざぶんともぐり、ぷかぷかと浸かった。
浸かりながら夏夜子は、この世が、この世であることが、嬉しくて嬉しくて、心がぴかぴかと光るようだった。勢いあまってコップから飛び出した魚が、そのまま空へ泳いで行った。どんどん泳いで行って、天から一面に垂れさがった花ふさの一つへと、静かに吸い込まれて行った。
日曜日の朝早くから一人で草やぶを突っ切ると、大穴が開いていた。ビルの屋上に下り立つと、そこにニッチモがいて、大都会を見下ろしながらトランペットを吹いていた。
仕事(ボウリング場でのコイン拾い)に行こうよと誘うと、今日は晩に本業があるから、副業はしませんと答えた。夏夜子はぜひともニッチモの本業を見に行きたかったけれど、ニッチモは笑って、本業の職場は子どもに居心地のいい所ではないから。と断った。
夏夜子は暗くなるまでニッチモの練習を聞きながら、ビルの屋上で過ごした。お昼は、ビルの下にサンドイッチの屋台がきたので、二人下りて行って買い、屋上で食べた。
翌日の放課後、六軒の住宅街。招待されたミニチュアのお城の大門を這いつくばってくぐり抜けると、中は豪華絢爛、はるか高くに吊り下げられた特大のシャンデリアが丸めた背中にちくちく刺さる。夏夜子を招いた城主も背中を丸めて、差し向かいでいかにも窮屈そうに座っていた。
住人たちのうち、お城のサイズに適当なのはたくさんの召使いたちだけで、みんな忙しく働いていた。城主と夏夜子の、あぐらをかいた猫背の二人は、召使いたちが三十人ほどで運んできた普通のサイズのカップとお皿から、ジュゴンのお乳をたっぷり入れたコーヒーを飲み、ジュゴンの形をしたクッキーを食べた。ジュゴンがお好きなのですねと聞くと城主は、以前はジュゴンの飼育員だったものですから。と答えた。
「ところで、」と城主は言った。「夏夜子さんは、ここの町長には会われましたか」
「いいえ」
と答えると、城主はうんうんとうなずいて、
「巨大なワイングラスのように見えるお宅がありましたでしょう。そこに住んでおいでです。紹介状を書いて、届けておいてあげますから、今度お立ち寄りの際に訪ねなさい」
翌日、ニッチモはビルの屋上で眠っていた。揺り起こそうかと思って近づくと、たいそう酒臭い。夏夜子が呆れて見つめていると、ニッチモはごろりと転がって向こうを向き、なにかぶつぶつ寝言を言った。
寝言にしても変な声だったから、回り込んで顔を覗くと、たくましくて陽気なニッチモは、眠りながら泣いていた。トランペットは、だいぶ離れた所に落ちていた。
夏夜子は柵にもたれてしばらく大都会を眺めていたけれど、やがてふり返ると、ニッチモを起こさずに、ブロックを踏んだ。
翌日、大きなワイングラスのお宅は留守だった。城主を訪ねようかと迷っていると、大きな目覚まし時計のようなお宅から、耳の尖った女の子が出てきて、夏夜子を呼んだ。
夏夜子が行くと、耳の尖った女の子はぴょんとお辞儀して、そのまま、いくつもの小屋をがちゃがちゃと積み重ねた家に夏夜子を連れて行った。そうして、
「城主さんはちゃんと紹介状をお届けになりましたよ。ただ町長は、急な用事で隣町に行かなければならなくなったので、あたしがご案内させていただきます」
そう言って、話し始めた。
「木のおうちとキノコのおうちとお城のおうちは、もうお訪ねですね」
それから、いくつもの小屋をがちゃがちゃと積み重ねた家を指さして、
「ここは、町長が色々な芸術家に、無料で貸し与えているアパートメントです。現在住んでいるのは、風景画家と、詩人と、舞台役者と、彫刻家と、カントリー・アンド・ウェスタンの楽団のかたがたですね。そのうちお会いになるでしょう」
それからさらに強く、積み木のような家を指さして、
「町長が許可さえなされば、誰でも住んでいいのです。住み方は自由で、ちょっと泊まって去ってしまった人もありましたし、何百年も住んでいらっしゃるかたもいます」
夏夜子は少々たじたじとして、
「――でもわたしは、芸術家じゃありませんけど……」
「それがそうでもないのです」と耳の尖った少女は言った。「町長のご意見では、旅人などは、かならずしもその限りではないのですけれど、迷子というのは、まあまあ芸術家だとおっしゃるのです。このたび一つの部屋があなたに開かれました。昨日、みんなで掃除もしておいたの。みんなって、あなたがもうお会いになった人々です。アパートメントの住人たちは、なにしろ芸術家たちだから、手伝いは頼みませんでした」
夏夜子は、しばらく迷っていたけれど、やがて決心して、耳の尖った女の子に、一つお願いをした。耳の尖った女の子は、少々詳しく聞き返すと、大賛成してくれた。
翌日、路地でうなだれていたニッチモの手を引いて、ブロックに足をかけると、大穴の壁面の階段に立っている。驚くニッチモと手をつないだまま、階段を上った。
ニッチモを連れ帰った夏夜子に、両親は仰天した。けれども事情を聞いて、ニッチモの礼儀正しいことがわかると、歓迎してくれた。その晩は御馳走が出て、夏夜子が起きていられずに寝てしまったあとも、両親とニッチモは三人でお酒を飲んでいた。
翌朝、両親の許可を得て学校を休み、ニッチモと二人で草やぶを抜けると、六軒の住宅街に出た。まっすぐにワイングラスのお宅を訪ねると、おーいと声がし、見ると目覚まし時計の家から耳の尖った女の子が走ってきて、通訳です。とお辞儀すると、さっそくですが。と言って、ニッチモにトランペットの演奏を頼んだ。
ニッチモが高らかにトランペットを吹き始めると、住宅街の住人たちがやってきた。いくつもの小屋を積み重ねたアパートメントからも、芸術家の人々がちらほらと出てきた。
短い曲が終わり、わっと拍手の起こる中、空にグラスを合わせたような音が響き渡ったと思うと、巨大なワイングラスの側面を雫が垂れ落ちてきた。雫はそのままお堀の池に入って、中の金魚がぷるぷると泳いだ。
耳の尖った女の子はニッチモに深々とお辞儀して、「町長の許可が下りました」と言うと、アパートメントの鍵を差し出した。
その夜、住宅街の中央にある共同の中庭で、ニッチモの歓迎会が開かれた。アパートメントに住む楽団による陽気な演奏が始まると、ニッチモもちょこちょこ参加して、ふたたび喝采を浴びていた。
夏夜子はしばらく一緒に騒いで、そのまま誰かの家に泊まりたかったけれど、みんなから優しくさとされ、しぶしぶ家に帰った時にはだいぶ遅かった。けれども両親は怒らなかった。ニッチモが迎え入れられたことを聞いて、たいそう喜んだ。
翌日、夏夜子が一人で草やぶを抜けると、そこは荒れ果てた空き地だった。夏夜子はそれからしばらく、毎日通ったけれど、もう六軒の住宅街も大穴も現れなかった。
"異世界からの紹介者"へのコメント 0件