破滅派作品
永滝ほと
お母さんは今日も壁を拭いている。お母さんはお掃除が好きなんだよ。お部屋が汚いとすぐに怒るし、電話をはじめたら必ず布巾で机を拭く癖が見られる。昨日も一昨日も、もうお母さんが壁を拭きはじめて一週間近く経つ。これは僕がなにを言ってもやめないんだろうなと思うけど、もうそろそろやめさせなきゃお母さんが疲れちゃうよなと気がかりではあるんだけど、お母さんに話しかけていいものかとためらっているんだ。ちょうど一週間前にお母さんは言った。
「この家出ていかなあかんくなった」
そう言えばお母さんの薬指からなにかがなくなっている気がする。だからお母さんは気の抜けたようにうつろだった。
僕は今日も学校へ行く必要はなかった。だからいつものように本を読んでいたんだけど、お母さんに見つかるとなにか言われるような気がしていたから自分の部屋にこもっていたよ。お母さんは僕の頭がいいことを知っているはずだけど、僕が読書に熱中していることを知らない。それどころか勉強よりも読書をしているから最近の成績が悪いことを知ったらいったいどんな顔をするか分からない。
もう少しで春休みがやってくるんだ。近所の公園にある桜たちは今どれくらい咲いているのだろう。別に外へ出ることを許されていないわけではないけど、僕だって今くらいはお母さんのそばにいてあげなきゃいけないということくらい理解しているからずっと家にいるんだ。と言ってもすっかりお母さんは僕に口をきかないけれどな。
「そうなんや、どうして?」
そう聞き返そうとしたんだけど、お母さんの悲しそうな目を見ていると聞いてはいけないような気がしてやめた。昔はもっと明るかったはずなんだけど、しかたがなかった。
部屋の窓に春の陽気がうつされていた。ここからでも分かるくらいにぽかぽかとうららかだ。下の階にいるお母さんにも見してあげたいと願ってついほほがゆるんでしまったことを後悔した。お母さんは春が一番好きなんだよ。けどたぶん今はそれどころじゃないから、来年になれば一緒に花見へきっと行けるかな。
僕は目が覚めてから陽が沈むまで本を読んでいた。読む本がなくなれば隣のお部屋へ行く。そこには山積みの本がある。まるで学者さんの研究室みたいなんだ。それとも作家さんの書斎。僕が立ち入ることは禁止なんだけど、今はお母さんに気づかれないようにその本たちを読み漁っているんだ。なんだか春だから心が浮かれてしまうのも無理はないよな。
部屋が薄暗くなってきたから下へ降りることにしたよ。そろそろお母さんも壁を拭くのをやめて夕ご飯の準備をはじめる。お母さんは料理が上手なんだ。
階段を降りていくとなにか煮物の香りがしてきた。けれど部屋へ入るといっきになまぐさい匂いが鼻にささる。この家が建ってまだ一年も経っていないから壁はまっしろなはずなんだけど、一週間くらい前からまっかに染まっている。その赤い壁が異臭をはなっているんだよ。今では赤色はかわいて変色してもう少し褐色気味になっているのに、とても生々しいままだ。
お母さんは台所に立ってなにかを作ってくれているけど、やっぱり今日も元気はなさそうだった。僕はこの部屋があまり好きじゃなかった。呼吸を最小限にとどめて、顔をかがめて食卓に座るようにしている。少し待っていればお母さんが美味しいご馳走を持ってきてくれるから、それまでの辛抱だと思って待つんだよ。
食事はずいぶんと静かになったな。お箸が食器と擦れる音とか咀嚼する音くらいしか聞こえてこないからよけいに部屋が気味悪いものに感じてしまうんだけど、やっぱりお母さんのご飯は絶品だった。
どうしてこの家を出るんだろう。それが分からないわけではないんだけど、なんというか、僕も今は心の整理がついていないのかな。それかやっぱりこの家が気に入らなかったのかな。春は出会いと別れの季節っていうものだし、しかたのないことだとは分かっているけれど、それでも僕だってお母さんみたいに悲しい目はしないようにしてる。僕までいなくなってしまったらお母さんが壊れちゃうからな。
「味薄くない?」
お母さんの口癖だった。
「うん、美味しいよ」
僕は泣き出してしまいそうなのをぐっとこらえた。あれから毎晩毎晩我慢を続けていたよ。
冬が明けてからというもの、少しだけ日暮れがのびた。外は夕焼けにおかされている。だからまだ部屋の壁がありありとてらされていた。どれぐらい日が経てば忘れることができるんだろう。いいや、忘れる必要なんてないんだけど、やっぱり心にそっとしまっておきたいというのが本音ではあるんだよ。
あの日、怒号や罵声、大きな物音が聞こえたので心配になった僕は下の階へ急いで向かった。そこで見た光景は地獄そのものだったと記憶している。お父さんがお母さんから包丁をとりあげているところで、お母さんは床に崩れ落ち、お父さんは家を出ていこうと手のひらに布を巻きつけていた。
「わたしも行く」
「あほか、こどもがおるやろ」
お父さんが腕にしがみつこうとするお母さんをふりほどいてどこかへ行ってしまった。壁や床には血飛沫が飛び散っていて、お父さんの手のひらから血がぽたぽたとたれ落ちていた。それをたどればお父さんにもう一度会えるのかななんて思ってはみたけど馬鹿らしくて、お母さんにたずねるのも失礼だし、その夢は見ないようにしていたんだ。それに今はお母さんのもとにいてあげなくちゃいけない。けどやっぱり僕はもう一度お父さんに会ってみたいな。だって読書を教えてくれたのはお父さんだからな。もし今度会えたらこう聞くよ。
「僕は感謝してるねんで、けどなにがあったんかは教えてほしい、なんでお母さんがあんな目にあわなあかんかったん、なんでこんな地獄に落とされないとあかんかったんや」
お母さんも食事をはじめた。そう言えばお母さんはお行儀に厳しかったな。そう言えばお母さんはお酒をやめたのかな。あんなに好きそうだったのにどうしてなんだろう。
日はすっかり沈んでいた。春風に揺られたお庭の葉っぱやお花がどことなく楽しそうだった。僕は前を向いた。壁は暗さの中でもその赤黒い染みを隠そうとしなかった。僕は前を見続けてお母さんについに口を開いた。
「来年は一緒に花見いけたらいいな」
「ごめんね、来年こそはね」
お母さんの口の中で筍の煮付けがしゃきしゃきと音をあげた。僕は春だなと呑気なことを考えてしまっていた。
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