一.
力強い朝日に照らされて、思わず強く目を閉じる。朝っぱらから、こんなにも激しく主張してこなくていいのに。
満員電車は、照り付ける朝日から逃れるスペースさえも与えてくれない。せいぜい、首を痛めることを覚悟のうえで、顔を背けるくらいだ。
〈結婚準備丸わかりセット!〉
婚約をしたら最初に読む教科書的立ち位置として一人勝ちしている、雑誌の広告が目に飛び込んでくる。
思わず舌打ちをしたくなる衝動を抑えて、今度は逆の方向へと顔を向ける。
優先席と、その横にあるトイレが目に入る。優先席には、八十代くらいの男と、その横に、自分と同年代くらいの若い男が座っている。
若い男は、上下とも着古したスウェット生地のだらしがない服装で大股を広げて座っている。青く染められた髪が、男の無遠慮な横柄さを表している。男のキツい香水の匂いが、少し離れたこちらまで届いてきそうである。
トイレから出てきた中年男は、まだ春にもなっていないというのに、額が汗で光っている。
具合が悪いのかと心配になるくらいに発汗している男は、洗ったかさえ定かでない手で満員電車の人混みをかき分け、ドアの前へ移動する。
かき分けられた人がこちらに押し寄せてき、足を踏まれた。
少しでも体調を心配したのが馬鹿みたいだ。
乗り換え地点の駅に到着し、満員電車から弾き出されるように解放されると、心地よい風が頬を撫でた。春はもう、すぐ傍まで来ている。
ゆっくりと春を感じる間もなく、改札口へ向かうために、階段を駆け降りる。別に駆け降りなくても、次の電車には間に合う。
しかし、同時に降りた人々が、まるで一つの群れになるようにして押し寄せてくるのだ。この群れは、横柄で利己的だ。いくら道を譲ろうとも、必ず舌打ちと体当たりをされる。
それらを避けるためには、自分が彼らの先を行き、追い付かれないようにしなければならないのだ。転げ落ちそうになるくらいの前傾姿勢で、一息で階段を降り、勢いそのままに改札を通過する。
徒競走に例えると、この改札がゴールテープの役割を果たすわけだが、無論そこに拍手や歓声はない。
むしろ、ここで失敗をしようものなら、犯罪者でも見るかのような目を向けられる。
ICへのチャージ不足だろうか。二つ隣の改札で、頭の禿げ上がった男が通過に失敗し、流れが止まる。私にまで聞こえるほど大きなため息が、男の後ろにいた長身の女性から漏れる。
朝の改札には、独特のピリついた緊張感がある。私は昔から、その失敗を許さない空気が大嫌いだ。
乗り換えを急いだおかげで、次の駅のホームでは時間に余裕ができる。ここで、溜まっているメッセージを返信するのがルーティンだ。
祐樹から、今週末に行くレストランの候補がいくつか送られてきていた。いずれも、食通の彼らしい、こだわりの強そうな店だった。
私は正直、彼と話すことができるならどこでも構わない。ところが彼は、楽しい会話と美味しい食事が揃って初めて、楽しい時間が完成するという考えを持っているらしい。
私の食への無関心さに最初は驚いていたが、それならと、毎回素敵なお店を提案してくれるようになった。こうして最終決定権をこちらに委ねてくれるところにも、彼の優しさが滲み出ている。
平日朝の独特の焦燥感と苛立ちを、彼のメッセージが帳消しにしてくれた。
会社に着いたらまず、メールとチャットの確認をする。すぐに反応すべき内容には応じ、それ以外は後回しだ。
昨日から引き続いているタスクの確認を終えたら、今度は部署内の備品チェックに向かう。
お茶もあるし、コピー用紙の残量も問題ない。それから……。
少し離れた場所で、シュレッダーが高い機械音を立て始めた。
警告音というよりは、何かしらの通知音だ。音の種類からして、シュレッダーのタンクの容量がいっぱいになったということだろう。
「タンクがいっぱいです」の表示が赤く点滅している。屈んで蓋を開け、タンクを引き出すと、千切りの紙屑が、大盛りの白米みたいにふっくらと山を作っている。
紙屑を手で押して、ある程度凹ませたあと、タンクに設置しているビニール袋ごと取り出す。重たくてなかなか持ち上がらず、力を込めて引き上げる動作を二回ほど繰り返すと、背中と額にじんわりと汗を感じて気持ちが悪い。
「だ、大丈夫?」
営業部の男社員が音を聞きつけて、隣のロッカールームから顔を出してきた。確か彼は、三年くらい上の年次である。
「大丈夫です。ありがとうございます」
どちらかといえば、大丈夫ではない。
思いの外重くて、タンクからビニール袋が持ち上がらない。かといって、「大丈夫じゃないです」などと言うわけにもいかない。
「え、いや、大丈夫じゃないでしょ」
一度ロッカールームへ戻った男社員が、なかなか音が鳴り止まないのを聞いて、再び顔を出してきた。同時に、これまで抜けなかったのが不思議なくらい簡単に、すぽっとビニール袋が引っ張り出された。
「あ、取れたね。持ってくからいいよ、置いておいて」
男社員は、吹き出しそうになるのを噛み殺すように言う。
袋の口を縛る。男社員が部屋から出てくる前に、さっさとゴミ捨て場に行かなければ。
パンパンに膨れ上がったビニール袋を持っているというより、袋に私が持たれているといった方が自然なほどに傾いた体勢になる。誰が見ても滑稽なこの姿を、頼むから誰にも見られたくない。
「重くて持てなーい」「センパーイ、手伝ってください!」「えー! 持ってくれるんですか」「嬉しい、ありがとうございます」こんな言葉を素直に言うことができたら、どんなに楽だろうか。
「だから、俺がやるって言ったでしょ」
さっきの男社員が、小走りで追いかけてきた。追いつくと同時に、手から袋を奪っていく。
私はこの苦笑いに似た笑顔が大嫌いだ。馬鹿にされたようで、率直に悔しいと思う。怒りが湧いてくる。
この怒りは、助けてやったという優越感に浸っている男に対するものか。「女」を利用した自分に対するものか、未だに分かっていない。
「すみません」
情けない思いで、胸が締め付けられるようだ。恥ずかしい。
「いいんだって。重いもの運ぶ時はさ、ほら、女の子なんだから無理しなくていいんだよ」
最悪だ。
祐樹に連れてこられたレストランは、雰囲気のいい二階建てで、吹き抜けの天井には、大きなシャンデリアが煌々と輝いている。
シャンデリアの電球が光っているというよりも、シャンデリアそのものが光の発生源となってキラキラと光を放っているように見える。
「ここ、ドレスコードあるんじゃない?」
「ないない、大丈夫だって。ほら、俺だってこんなよ?」
女性は白や黒などの落ち着いた単色のワンピースに、小脇にスマホ一つも入れられなさそうなサイズのクラッチバッグを抱えている。男性も、ブルーや茶色のスーツを崩した小洒落たセットアップのような服装の人ばかりだった。何も言われなければ、結婚式の二次会会場と間違えてしまいそうなほどだ。
その中で、薄手のトレーナーにカーディガン、レギンスの格好の私は、明らかに浮いてしまっている。
せめてもの抵抗として、肩掛けバッグの紐を外し、小脇に抱えてみたが、どうもしっくりこない。親戚の結婚式に連れて来られた子どもが、親の真似事をしているみたいで、余計に恥ずかしい。こんなにも恥ずかしいのは、店の至る所に鏡があるせいだろう。
天井のシャンデリアの光が反射してキラキラとしているが、そこに映る私は、いつもに増して土管のような体型で、必要以上に余白の広い顔をしている。まるで場違いなガキンチョだ。
「さーて、お腹は? 空いてる?」
席に通されてからも周りからの視線が気になって仕方がない私をよそに、期待を全身に纏ったようなキラキラとした表情の祐樹が、目の前でメニュー表を開く。
「うーん、さっきのハンバーガー、結構ボリュームあったからなぁ」
適当な返事をしながら、片手に収まるサイズの鏡を見ながらルージュを塗り直す。
「あ、それ誕生日の?」
普段はトイレをした後に化粧直しを一緒に済ませてしまうので、祐樹の前でこのルージュを取り出したのは、プレゼントしてもらった時以来かもしれない。
「そうそう。誕生日にくれたやつ」
「だよね? 確か、三年前とかじゃなかった? まだ使ってくれてるんだ」
祐樹は珍しいものでも見るかのように言うが、このルージュはそこそこの値段のするブランドものだ。他の安物と違って、色が合わないから使わないなんてことはしない。
当時の祐樹にとっては、かなり財布に痛い値段だったに違いないのに、すっかり忘れたかのように言っていて、なんだか可笑しい。
「当たり前でしょ、大切に使ってるの」
このルージュは一度塗るだけでもしっかりと色が乗るが、二度塗りをするとラメが目立ってより華やかな印象になる。
今の私の幼さを掻き消してくれるようで、一気にこの場にいることが許された気になれる。
もとより、誰も私のことなど見ていないし、この場にいることを許すも許さないもないのだが。
「ほえぇ」
感心する祐樹から、横文字だらけのメニュー表を受け取る。木でできた額縁の中にメニューが書かれた紙が挟まっている。木製のメニュー表を置く店なんて、びっくりドンキーかここくらいだろう。
「そこに載ってないドリンクもあるみたいだよ。ワインだったかな、店員さんに聞いてくださいだって」
メニュー表にないドリンクとはなんだ。こちらから聞かなければいけないシステムは、一体必要なのだろうか。最初から全てのメニューをわかるように書いておけばいいのに。
本当なら、このことを口に出して祐樹と一緒に笑いたかったが、この店の空気がそうさせてくれない。
「聞かなきゃダメって、なんなんだろうね。最初から書いとけよって思わん?」
祐樹が、食事のメニューが書かれた木製の板から顔の半分をこちらに覗かせ、小声で言う。
あぁ、私は彼のこういうところが好きだ。ユーモラスで、茶目っ気がある。
そのユーモアのセンスが私と近いから、小さなことでも感覚が合って笑い合える。恋人でありながら、友人でもあるようなこの関係性が大好きだ。
「ほんと。私もいまそれ言おうと思ってた」
結局、適当に何品かアペタイザーを注文するに留めた。
本来なら、ここで夕食を摂ろうという計画だったが、昼食のハンバーガーが重たく胃に残っていて、とてもではないが、ワンプレートを食べ切れる気がしない。
「沙子、ほんとに聞いてみなくてよかったの?」
祐樹がいたずらっぽい視線を向けてくる。
「いいに決まってんじゃん。大体さ、メニュー表に書いてないってことは値段もわからないわけでしょ? 怖すぎるって」
「なるほど。店員さんに値段を聞くことを下品なことと捉える日本人の特性を利用して、あえて高いワインをメニュー表に載せないスタイルをとってるのか」
「いや、そこまではわからないけど、そうかもよ」
「ほぼ詐欺じゃんか」
多分、この店でこんな会話をしているのは、過去を遡ってみてもきっと、私たちだけだ。
「いや、しかしよかった」
納得し切ったような顔をした祐樹が、何度も頷く。
「何が?」
「いやね、沙子がここでいくらか分からないようなワインを頼む人じゃなくてさ、俺は安心してるよ」
「何それ! 私のこと子供っぽいとか思ってるんじゃないでしょうね、これでも私の方が年上なんだからね!」
「違うって! そうじゃなくてさ、これからもずっと一緒にいることを考えると、金銭感覚が合ってることって大事じゃん?」
ドクン、と脈が一拍大きく鳴る。
まただ。またしても祐樹は、結婚を匂わせてきている。私は、まだ結婚など考えたくはない。
確かに二十八という年齢を考えれば、もう結婚してもおかしくないし、それどころか子供がいたっておかしくない。
それでも私は、結婚に対して、前向きになれない。誰かのものになる感覚に、どうしても拒否反応が出てしまう。
どれだけ時代が進んでも、こと結婚に関しては、女が男の元に嫁ぎ、その家の人間になる古い考えが根付いている。私は、誰かの所有物に成り下がるような結婚関係にこだわる理由を、この年になっても見出せないでいる。
私が結婚に気持ちを向けられない理由は、それだけではない。結婚によって起こる、不可逆的な変化を受け入れる覚悟が未だにできていないのだ。
そもそも結婚とは、そんな簡単に、当たり前のことのようにしていいものなのだろうか。家族になるということが、そんなに軽いことであっていいのだろうか。
恋人ではなく、家族に関係が変わる。そうなれば自ずと、自分の立場も、相手の見方も多少なり変わるだろう。もっと言えば、それが夫婦という形からさらに、親というものに変わりゆくかもしれない。私はその変化を都度受け入れられる自信がない。
自分が否応なく変わることを迫られることも、愛する人が、今のままの愛する人ではなくなっていくかもしれない可能性も、いずれも私にとっては、受け入れ難いものなのだ。その変化が、必ずしも良いものである保障もないのだから。
ところが目の前にいる大好きな人は、大学生の時に出会った当初から、結婚願望がある人間だった。というより、真っ当な人間が歩む順序の中の一つとして、当然のように組み込まれているのだろう。
義務教育を終え、高校と大学を卒業したら就職をする。数年経ったら結婚し、さらにその数年後に子供をもうけてマイホームを建てて車を買う。一人の立派な男として当然のあるべき姿だと、きっと幼い頃から思ってきたのだ。自身の親を含めた多くの人がその道を進んでいるから、なんの疑いを持つこともなく、そう真っ直ぐ育ったのだ。その点、私の方が少数派で、道から外れていると自覚している。
祐樹と付き合い始めたとき、正直こんなにも長い関係になると思っていなかった。他の元彼たちと同じで、数ヶ月、もしくは一、二年付き合って別れる、そのお決まりの流れだと思っていた。ところが彼とは、時間を共有すればするほど、まだ一緒にいたいと思うようになっていった。
それでも結婚願望が芽生えないことが不思議だが、そもそも男女が恋愛関係に発展したとき、その先に別れか結婚かの二択しか存在しないことがおかしいのだ。私は祐樹と、結婚ではない形で、ずっと一緒にいたいと願っている。
一方の祐樹は、私と付き合ってもうすぐで四年になるので、そろそろと考えているようだった。四年目に突入した年明けから、会うたびに結婚を匂わせてくる。
突然プロポーズせず、こうして匂わせることでこちらの反応を伺ってくれていることが、私にとっては唯一の救いだった。
「そうだね」
私は、必要以上のことは悟られぬよう、言葉短かに答える。
「ぶっちゃけさ、俺との結婚のこと、どう思う?」
「え?」
祐樹の覗き込むような視線が痛い。
「いや、そうだよね。本当はズバッとプロポーズした方がカッコいいんだろうけど、聞いちゃった! 沙子、最近仕事忙しそうだし」
祐樹は繕うように早口で言い、右に流した前髪をクシャッと右手で掴む。
パーマをあてている美容院で、クシュっと下から持ち上げるように髪を掴むと、パーマが多少復活すると教わったらしい。一年半前にパーマをかけ始めてから、この仕草が彼の手癖の一つとなっている。
「うん」
「どう思う?」
「祐樹は?」
これ以上話を広げたくないのに、答える言葉が見つからないのでつい、聞き返してしまった。
「そりゃ、俺は最初から結婚するつもりだったよ。四年目だし、そろそろかなって」
祐樹は、頬を赤らめた顔を横に向け、またしても前髪を鷲掴みする。
「沙子は、どう思う?」
覚悟を決めたようにこちらに向き直り、再び聞いてきた。水晶玉のように丸く澄んだ瞳で、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
私は彼のこの目が時々怖い。くっきりとした幅の広い二重瞼の中に、無邪気で純粋な瞳が綺麗に収まっている。黒目がちなその瞳は、対峙した相手に嘘を付かせない圧が籠っているように思えるのだ。
「私は、まだ、分からない」
「分からないって?」
祐樹は、私の言ったことが、心底理解できないようだ。無意識に、子犬のように首を少し傾け、覗き込むようにして私を見つめ直す。その視線が、チクリと胸を刺す。
「だから、分からないの。私、そもそも結婚したいかどうかも分からないというか。ていうか、その、あまり結婚したいと思わないの」
「え?」
誤解のないよう、ゆっくりと言葉を選んだつもりだったが、想像以上にはっきりと、結婚する意思がないことを口にしてしまっていた。
ドクドクと波打つ鼓動に押され、胃のなかのハンバーガーを吐き出してしまいそうになる。
「あ、いや違う違う! 祐樹とはずっと一緒にいたいと思ってるよ。だけど、それが必ずしも結婚という形でなくてもいいのかなって。私は祐樹と一緒にいられれば、それでいいの」
祐樹の顔から、血の気が引いていくのが分かる。慌てて訂正した言葉も、届いていないようだ。
周りの客の会話の声、店員の声、靴音、食器同士がぶつかる音、ワインをグラスに注ぐ音が、一斉に耳に響いた。
私たちの席だけが、静寂に包まれた。
あの日から一ヶ月が経とうとしているが、一向に祐樹からの連絡はない。付き合い始めてからほぼ毎日、少なくともワンラリーずつメッセージを送り合っていたから、こんなにも連絡が来ないことが気味悪く思える。
とはいえ、私から連絡をすることは憚られた。第一、なんと言えばいいのか分からない。私たちは、あの日を最後に終わったのだろうか。私が、終わらせてしまったのだろうか。
「まあ、前から言ってるからわかると思うけど、私は沙子と同じ意見だよ」
親友の陽麻里(ひまり)は、私と同じく結婚に後ろ向きな考えを持っている。
「結婚にこだわらなくたっていいじゃないか」というのが私たちの主張だ。こういう大事な感覚がピッタリと合うところが、私たちが高校時代から長年親友でいる所以である。どちらかが男だったら一緒になっていたのにねというのが、私たちの常套句だ。
「でもまぁ、沙子も理解している通り、私たちが少数派なのは確実なわけで。それでいうと、世間的には祐樹君の反応が正解なんだよね」
「そうだよね」
こぢんまりとしたカフェには、オルゴール風にアレンジされた流行りの曲が、小さな音量で流れている。
「でもさ、話し合わなきゃ分からないじゃん? 沙子だって、自分の考えをしっかりと伝えたわけじゃないんでしょ?」
陽麻里は、あの日の私の言動を見透かすように言った。
「うん。多分、伝わってないと思う」
「でしょ? だったらまだチャンスがあるっていうか。きちんと話し合った上で音信不通なら正直もう厳しいけど、今ならまだ余地があると思うよ」
やっぱりと言わんばかりに何度か頷き、今度は希望を見出すように目を少し輝かせた。
「うん。話し合いたいって思ってるんだけど、なんてメッセージ送ったらいいか分からなくて」
「そっかぁ。でもそこは正直に、きちんと話し合いたいって言うのがいいんじゃん? 変に回りくどくするよりもさ」
陽麻里の言う通りだ。このまま待っていても連絡が来そうにはないし、だからといって突然全く違う話題を投げかけるのも不自然極まりない。簡単なことだった。
「電話してみようかな。メッセージだと既読無視されたら何もできなくなるし」
「あー、それいいんじゃない? 間違っても家とか職場で待ち伏せすんなよ!」
いたずらっぽく笑う陽麻里の顔は、どこか祐樹と似ている気がする。
「ばか! しないって!」
陽麻里と話していると、本当の自分と話しているような気持ちになる。陽麻里にだけは、全てを嘘偽りなく話せるので、自分でも認めたくない思いすらも、いとも簡単に認めることができる。
考えが煮詰まった時は誰かに相談して、自分にはない意見を取り込むのが良いというが、私の場合は陽麻里に話すことで、本当の自分の考えを知るのだ。ついさっきまで、電話をする考えなど思いつきもしなかった。
「ありがとう陽麻里」
自然と感謝の気持ちが口を衝いて出た。
「え、なになに! 急にそんなしんみりしないでよね、気持ち悪りぃ!」
陽麻里は目を丸くして、大袈裟に体をのけぞらせる。
今日は私が陽麻里に対し、祐樹と別れそうだと相談したことで開かれた会だったので、思えば待ち合わせの時以降、陽麻里はずっと深刻そうな顔つきだった。なんだか久しぶりに陽麻里の笑顔を見た気がした。
「でもなんていうかさ、私たちっていつもこうだよね」
陽麻里は姿勢をもとに戻し、再び瞳に影を湛えた表情をする。
「うん、人と違う意見持ちがちで、それでいて頑固だから」
「そうそう。だから私も、沙子の存在に助けられてる。こんなにも意見が合う人がいるって、安心材料にならない?」
「うん、わかる。だから、ありがとう」
今度は、眉をハの字に下げ、大袈裟に何度も頷きながら、わざとらしく声を高くして言ってみる。
「だからやめてって!」
戯けた私の顔を見るなり、陽麻里は口紅の取れかかった口を縦に大きく開けて笑う。
どれほどの時間、この体勢でいるか定かでない。スマホを握りしめ、ベッドに大の字でうつ伏せになっている。
体温で温まった布団の温度が、微かに動いた足先に触れ、気持ちが悪い。
ここまで関係が続いたのだから、いつかは言わなければならなかったことだった。覚悟していたはずなのに、身体に力が入らない。
数時間前までの祐樹との会話が、頭の中で反芻する。いや、会話というより、彼から受けた言葉たちが断片的に、繰り返されるのだ。
「もう一緒にはいられない」「俺は一生、沙子に振り回されて宙ぶらりんでいなくちゃいけないのか」「正直裏切られた気持ちだ」「もう無理だ」「別れてほしい」……。
話し合いは四時間にも及んだが、ずっと平行線のままだった。そんな中、諦める決心がついた彼からの言葉は、「家庭を持つことが俺の夢だった」というもの。
知っている。知っていながら、私は彼と付き合いを続けた。裏切り者と言われても、私は反論する言葉を持てなかった。なにしろ反論する資格がない。
祐樹と一緒にいたいという気持ちは、純度百パーセントの素直な思いだったが、それは私の我儘だったのだろうか。彼の夢を壊してまで、私は彼と一緒にいられるだろうか。私は、彼の夢の代替になりうる、それに見合う女だろうか。
違う。私は、彼の人生における大事な夢を、壊して良い存在ではない。なにより、もし私の意見を押し通したとして、その先で、彼の人生の責任を取り切れる自信がない。
四年の歳月は、胸に深い傷をつけたが、それでもこのタイミングで話すことができてよかったのだ。このままなかったことにしてさらに時を重ねるよりも、ずっと賢明だ。それは祐樹にとっても同じことが言えるだろう。彼は私と一歳しか違わないが、それでも年下だ。こういう言い方は嫌いだが、男は女より旬でいられる時間が長い。彼はまだまだ先が長いし、私なんかよりも素敵な女性と、絵に描いたように理想的な家庭を築く方が似合っている。
これでよかったのだ。涙すら出てこない。
②へ続くー。
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