西暦三〇XX年。人類の存続は、一本のナノ分子ゲルに委ねられていた。
半年前、世界を揺るがす未曾有の災害が発覚した。火星と木星の間の小惑星帯近傍に超巨大な時空の歪み、通称「エキゾチック・ホール」が確認されたのだ。
それは周囲の質量を貪り食いながら指数関数的に拡大を続けており、計算上、七ヶ月後には地球の公転軌道上に致命的な超重力波が到達する。既存の反物質シールドや重力制御バリアでは、ホールの事象の地平線に接近した瞬間にミクロの塵へと還元されてしまう。
地球全土が絶望の淵に立たされる中、国連最高科学会議が総力を挙げて一つの解へとたどり着いた。それが、極限環境耐性有機高分子ハイブリッド装甲〈E-RINGI〉(Emergency-Resilient Innovative Nano-Gel Insulation)であった。
「レイ。最終のプレッシャー・チェックだ。生体同期率を確認しろ」
量子通信を通じて統括管制室から声が響く。ここは巨大宇宙戦艦の漆黒のドックである。パイロットであるレイは、中央に鎮座するその装甲を見上げていた。
外殻は分子構造を極限まで硬質化した多層防御カーボン・ナノゲルで構成されている。いかなる鋭利なレーザーも弾き返し、熱力学第二法則を一時的に無効化して絶対零度の熱伝導をシャットアウトする。金属の脆弱性を克服するためにあえて有機高分子の結合構造を採用したその装甲は、無駄な凹凸を削ぎ落とした、驚異的な肉厚さを誇っていた。光沢を放つほどの純白。超重力崩壊の圧搾に耐えうる唯一の絶対防壁だった。
「ついに搭乗か」
もともとレイは惑星探査を夢見たパイロットだったが、今回自らこの任務に手を挙げた。急ピッチで進められた適性検査と訓練は厳しく、またその重圧に耐えかねて、共に志願した世界中の仲間たちは次々と脱落していった。この搭乗に至るまでのすべてには、同僚たちの思い、そして全世界の思いが託されているのだ。
右手を伸ばし外壁に触れる。掌に返ってきたのは寸分の狂いもない平滑性と、数万トンの圧力を撥ね退けるであろう圧倒的な質量を感じさせる強固な反発力。極限状態に達する真空と事象の地平線に挑むための、完璧な手応えだった。
「適合完了。レイ、システムを起動せよ」
中央コックピットへとレイは滑り込む。瞬間、視界のすべてが冷徹な戦闘モードへと切り替わった。
E-RINGIの網膜投影システムが起動し、レイの全視野には無数のライトブルーのホログラムウィンドウが目まぐるしく展開された。軌道計算式、熱力学シールドの圧力%、木星軌道周辺の三次元立体マップが確認できる。それらがパイロットとしてのレイの精神を高揚させると同時にさざ波ひとつ立たない平静さを与えるのだった。目を閉じ、つばを飲み込む。
「全神経コンタクト。シナプス接続、安定。システム、ブート」
そう呟くと同時にコックピットを囲む内壁に、淡い光のプログラミング・ラインが走る。
『E-RINGI OS Version 9.04, Launch.』
システムAIの無機質な音声が脳内に直接響いた。
『第一層、外殻耐熱ナノシールド、正常。加圧限界、一万二千ノット』
『第二層、超高密度衝撃吸収ゲル層、充填完了。分子結合度、最大』
『第三層、時空断絶繊維、完全同期』
ホログラムのインジケーターが一斉に鮮やかなグリーンへと点灯していく。無機質で洗徹されたその光は、血の通わない兵器の画面だった。これから向かう絶対死の空間を前に、計器類は淡々と静寂を保っている。
「メインスラスター、臨界点へ。地球の未来はきみにかかっている。リフトオフ!!」
ドックのハッチが開き、無限の闇が広がる。
訓練の通りだった。レイを包んだ純白兵器E-RINGIは爆発的な推進力とともに、一ヶ月後に地球を飲み込む物質の墓場、エキゾチック・ホールへとその身を投じた。
「レイ、これより事象の地平線に突入する。……潮汐力による機体崩……壊……備……え……」
周囲の景色が変化し始めた頃、急に管制室からの音声通信が間延びして低音へと変化していく。空間の歪みが限界を超えたことで、地球側とE-RINGI周辺に致命的な重力時間遅延が生じているのだ。
さらに、ホールの超重力は通信の電磁波そのものの波長すらも強制的に引き伸ばしていた。
『警告、量子通信リンク、重力赤方偏移によりデコード不能。周波数がテラヘルツ帯からミリ波へと減衰。通信維持率、ゼロ』
「管制室! 聞こえるか、管制室!」
慌てて呼びかけるレイの声も地球から切り離され、虚空へと消えた。くそ、予測値を超えた凄まじい重力だ。絶望を加速させるかのようにライトブルーのホログラム計器が激しいエラー音とともにグニャリと螺旋状にねじ曲がり、砂嵐となって弾け飛んだ。
機体がねじ切られる。
そう確信したレイの耳に音が届いた。
ぎゅむ。
それは、金属の悲鳴ではなかった。
きゅ、きゅぅぅ。
絶対零度の真空と時空の引き裂きという極限の中で、E-RINGIの装甲が激しくもみくちゃにされながら悲鳴を上げていた。
超分子ナノゲルが外圧に応じて超高速で伸縮し、歪み、引き伸ばされ、限界まで縮む。その凄まじい摩擦が、コックピットの内部に「きゅっきゅっ」と、どこか健気で生々しい柔らかな音を響かせるのだ。
「な、なんだこの、弾力は……」
レイの四肢にこれまでにない奇妙な感覚が伝わる。時空の歪みに合わせて純白の装甲がレイの身体を愛おしそうに、しかし容赦なく、ぎゅむぎゅむと締め付けてくる。それはまるで、巨大なプレッシャーに耐えかねてパイロットであるレイにすがりついているかのようだった。
外壁のカメラが捉えたE-RINGIの姿を確認する。前後左右から押し寄せる重力の波に、肉厚な白い機体がボコボコに変形しながら耐えている。引きちぎられそうになりながらもそのすべすべした質感を失わず、健気に「きゅっ、ぎゅむっ」と身をよじる。
『警告、機体にかかる剪断応力、限界値を突破。しかし……ナノゲル層が……心地よい硬さを維持しています……』
AIの音声すらも、重力波の影響かどこか艶っぽいトーンに狂い始めていた。
「耐えてくれ、E-RINGI……! お前ならこの極限状態にもその肉厚さで勝てるはずだ」
レイはもみくちゃにされる装甲の、吸い付くような、どこか柔らかい手応えに不思議な高揚感を覚えながら、さらに深淵のコアへと突き進む。
しかしその時、エキゾチック・ホールの最深部からこれまでの重力波とは比較にならない超高温の特異点フラッシュが機体を目がけて一閃した。
「特異点フラッシュ、来るぞ! 反射障壁最大!」
レイの叫びはエキゾチック・ホールの最深部が放つプロトン熱線の渦にかき消された。数万度におよぶ超高温のエネルギーが、光さえ捉える特異点から容赦なく噴出する。通常の宇宙船なら一瞬でプラズマ化し蒸発する絶望の熱波が、レイの視界を真っ白に染め上げた。
どくん、と心臓が跳ねる。
E-RINGIの肉厚なゲル層を通じて、かつて人類が経験したことのない熱量が伝わってきた。
『警告、外部装甲の温度、臨界点を突破。ナノゲル分子が、香ばしく……加熱されています……』
狂ったAIの報告通り、モニターに映し出された外壁の映像は厳かな変態を捉えていた。
凄まじい熱と圧力を受けたことで、E-RINGIの白い装甲軸が、ぎゅぅぅぅっと高密度で圧縮され、太く、力強く凝縮されていく。そして熱線の直撃を受けた最先端部のラウンド・ヘルメットから、じわじわと着実にこんがりと、完璧なグラデーションを伴って褐色へと変色していくのだ。
「これは……何という変化だ……」
レイは息を飲んだ。コックピットのホログラム計器が消失した暗闇の中、外部カメラが映し出す自船のシルエットだけが神々しく輝いている。宇宙そのものが、この装甲を最も完璧な姿へと強制的に進化させたのだ。
上部はふちがこんがりとした茶色のカサ。
下部はどこまでも肉厚ですべすべとした表面にほんのりとした焼き色。
それは宇宙の物理法則が導き出した、究極の最終形態だった。
「美しい……。これが宇宙の意志が求めた真の姿か……!」
極限状態の中で、レイの瞳から一筋の涙が伝う。恐怖は消え去っていた。そこにあるのは、人知を超えた大いなるデザインへの圧倒的な畏怖と感動だけだった。
焼きエリンギの姿となった機体は、あれほど猛威を振るっていた超重力の歪みを完全に無効化し、特異点の中心、あらゆる次元が交差する世界の底へと滑り込んでいく。
光すら届かないその場所で、レイの脳内に直接、宇宙の全知全能なる存在の声が聖なる鐘の音のように響き渡った。
そこは、時間も空間も意味をなさない、静謐な無の領域だった。あれほど荒れ狂っていたエキゾチック・ホールの重力波は完全に消失し、ただ無限の静寂だけが広がっている。こんがりと褐色に焼き上がったE-RINGIは、その絶対の静寂の海にぽつんと浮かんでいた。
「ここは?」
計器はすべて沈黙しているが、不思議と全方向の世界の形が理解できた。
その時、それは彼の脳内に直接流れ込んできた。言葉ではない。宇宙の開闢から終焉までのすべてを包括した概念だった。光、闇、物質、反物質、星々の誕生と死。それらすべての数式と因果律の中心に鎮座していたのは、白く、太く、気高く、縦の繊維がどこまでも美しく整列した真理だった。地球を脅かしていたエキゾチック・ホールすらも、この偉大な真理のひと振りに過ぎない。
「そうか……そういうことだったのか……」
宇宙とは最初から一つの巨大な菌床であり、人類の営みはその表面にかすかに発生した胞子の瞬きに過ぎなかったのだ。レイの目から、堰を切ったように涙があふれ出た。
科学がどれほど進歩しようとも、この真理には到達できなかった。だが今、過酷な試練を経て完璧な姿へ進化したE-RINGIによりレイは世界の根源に触れている。
脳裏に、強烈なイメージが去来する。
包丁を使わず、手で繊維に沿って真っ直ぐに引き裂かれる瞬間。溢れ出す水分。熱々のフライパンの上でバターの香りを纏う肉体。キュッときしむようにして歯を押し返してくる感触。宇宙の全次元と完全に同期する。
レイの心の中で、すべての点と点が繋がった。
突然、眩い光がコックピットを包み込んだ。大いなるエリンギの意志が、地球という名の小さな胞子を守るため、レイの機体を現実の宇宙へと押し戻し始めたのだ。
空間が急速に収縮していく。遠のいていく意識のなかでレイは、全人類が待ち望んだ真理をその胸に深く刻み込んだ。
「――宇宙とは、縦に裂くと歯ごたえが良い」
遥か彼方から、どこか香ばしいバター醤油の香りが漂ってきたような気がした。
※AI使用についてどこかに明記した方がいいかと思いここに。あらかたの本編を書き終わったところでGeminiに読ませ「それっぽいSF用語を足して」と指示。E-RINGIの名称とスペックの説明、起動時の語句あれやこれやをAIで出力しました。
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