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蛾の目録

ゐで保名

翅に刻まれた符号は、百年前から、あなたを待っていた。

タグ: #AI #幻想文学 #耽美小説

小説

2,508文字

標本箱の抽斗を引くたび、乾いた鱗粉の匂いがした。私はその匂いを、死者のための香だと思うことにしている。

 

Catocala fraxini、Catocala nupta、Catocala electa――箱の中で息を止めている蛾たちに、私は毎晩そう呼びかける。学名とは本来、生者が死せる標本に与える最後の呼び名であるはずなのに、繰り返し唱えるうちに、それはいつからか呼び名ではなく、符牒のように響き始めた。カトカラ、フラクシニ。カトカラ、ヌプタ。カトカラ、エレクタ。三つ唱えれば、四つ目が勝手に喉から零れてくる。Catocala adultera。この個体は、目録のどこにも記載がなかった。

 

翅を広げれば、後翅にだけ赤と黒の紋様がある。前翅は灰色の樹皮そのものだ。隠す翅と、示す翅。私はこの蛾たちを分類してきたつもりでいたが、ある夜、紋様の並びを図鑑の頁順に書き写していて、それが電信符号――モールスの点と線――に酷似していることに気づいてしまった。気づいてしまった、というのが正確な言い方だ。気づかない方がよかった、という意味において。

 

それから私は、目録を作ることをやめられなくなった。

 

最初に符号を解いたのは、単なる悪戯のつもりだった。点を短音、線を長音とみなし、後翅の紋様を上から下へ読み下していく。すると、意味を成さない文字列の中に、時折、地名らしきものが浮かび上がった。ウラガ。タナベ。ハコダテ。すべて、明治の初め、外国船が最初に姿を現した港の名だった。

 

偶然だ、と私は思おうとした。標本箱にはおよそ二百のカトカラ属がある。二百の翅に、二百通りの紋様がある。人間はどんな雑音の中にも意味を見出してしまう生き物だ、それだけのことだ――そう自分に言い聞かせながら、私はその夜のうちに、残る百九十七の個体をすべて書き写し終えていた。

 

目録が完成した朝、私は妙なことに気がついた。標本箱の底に敷いた台紙に、見覚えのない書き込みがある。私自身の筆跡だった。けれど、いつ書いたのか、まるで思い出せない。

 

これより先、目録を読む者は、目録に読まれる。

 

その一文だけが、赤黒いインクで、まるで蛾の後翅の紋様をなぞるように書かれていた。

 

私は師である久住教授に手紙を書いた。蛾の紋様に電信符号との類似が見られる、ついては目録の作成方法について助言を乞いたい――そう書いたつもりだった。だが投函の三日後に届いた返信は、私の問いには一切触れず、ただ一行、こう記されていた。

 

目録を作るのをやめなさい。委員会が、もう気づいている

 

委員会。久住教授がそんな言葉を使ったのを、私は一度も聞いたことがなかった。

 

その夜から、標本箱の抽斗を引くと、鱗粉の匂いに混じって、微かに焦げた紙の匂いがするようになった。誰かが、私の目録を、燃やしながら読んでいるかのような匂いだった。

 

久住教授からの返信を受け取ってから、七日が経った。私は目録を作るのをやめられなかった。やめる、という選択肢が、もはや自分の手の中にないことに気づいていたからだ。

 

八日目の夜、私は久住教授の自宅を訪ねた。郊外の古い洋館で、教授は蛾の標本ではなく、夥しい数の電信用紙に埋もれるようにして暮らしていた。壁という壁に、黄ばんだ紙片が貼られ、そこにはどれも、点と線の羅列が几帳面な字で書き写されている。

 

「君も、見つけてしまったのだね」

 

教授は振り返りもせずに言った。

 

「これは、いつからあるのですか」

 

「さあ。私が学生の頃には、すでに先達がいた。蛾の紋様を読む者は、代々、決まって同じ場所に行き着く。委員会、と我々は呼んでいるが――正確には、それは組織ではない。読むという行為そのものが、委員会なのだ」

 

意味がわからなかった。教授はようやく振り返り、私を見た。その目は、標本箱の中の蛾のように、乾いて、何も映していないように見えた。

 

「明治十年代、政府はある実験をした。外国からの脅威をいち早く察知するため、沿岸の生態系そのものに符号を埋め込んだのだ。蛾は世代を重ねて紋様を継承する。人間の作った暗号は解読されれば終わりだが、生物の形質に刻んだ符号は、誰にも消せない。読み手が死んでも、蛾は生き続け、紋様を子に伝える」

 

「では、あの目録は――」

 

「君が作っているのではない。蛾が、君を選んで、目録を作らせているのだ。百年前に埋め込まれた符号は、今も更新され続けている。誰かがそれを読み、書き写し、次の世代の蛾に――いや、次の世代の読み手に伝えねばならない。読み手もまた、符号の一部なのだよ」

 

私は目録を鞄から取り出し、教授の前に広げた。あの一文――これより先、目録を読む者は、目録に読まれる――を指差して尋ねた。

 

「これを書いたのは、私ではないと思うのです」

 

「いや」教授は静かに首を振った。「それは、次の読み手への伝言だ。君の後に来る者への。私が書いたのかもしれないし、私より前の誰かが書いたのかもしれない。それを判別する術は、もう我々にはない」

 

その夜、私は洋館を辞し、家路をたどりながら、ふと自分の右手を見た。人差し指の腹に、見覚えのない染みがある。目を凝らすと、それは染みではなく、極めて微細な、灰と黒の紋様だった。

 

鱗粉だ、と私は思った。だが鱗粉が、皮膚に定着することなどあるだろうか。

 

家に帰り、標本箱を開けると、二百一体目の蛾がそこにいた。誰も採集した覚えのない、見覚えのない標本だった。後翅を広げると、そこには紋様があった。それを電信符号として読み下すと、こう綴られていた。

 

ワタシノ ナハ ――

 

その先は、まだ翅が乾ききっていないのか、紋様が滲んでいて読めなかった。私はその蛾の名を、まだ知らない。おそらく、目録の最後に、私自身の名が記される日まで。

 

© 2026 ゐで保名 ( 2026年7月7日公開

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