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悪くない

曾根崎十三

BFC7予選落ち。でも悪くない話だと思うよ。本当に。

小説

2,751文字

なんで、と思ったけど、やっぱり、とも思って、すぐさまそんな自分が嫌になる。ああ、でも違うんです。違うんです。視界が揺れる。街灯が、ネオンが、流れ星みたいに尾を引く。これは痛みか。冷たいような熱いような。ぼやける、にじむ。全部がゆっくりに見えて。目の前の心春ちゃんもゆっくりに見えて。
心春ちゃんは悪い子じゃない。出会った時から人よりぼーっとしていて、居眠りもしていたけど、悪い子じゃない。笑顔がかわいくて。人の話を聞けて、でもまぁ忘れちゃうんだけど、それでも間違えたらちゃんと謝れるし、感謝もできる。「ごめんなさい」と「ありがとう」が言えない大人も意外といる中、心春ちゃんはそれがちゃんと言えた。だから毎日コツコツやっていけば大丈夫だって、心春ちゃんは大丈夫なんだって思っていた。でも、一年経って、二年経って、後輩が何人できても心春ちゃんは心春ちゃんのままだった。それじゃ駄目だった。私たちは大人だから、社会人だから、会社員だから成長しなければならない。これまで私は三人の新人の教育担当をしてきたが、こんなに成長が遅い子は初めてだった。物覚えが悪くて、気が利かなくて、どんなに忙しい時も心春ちゃんだけはマイペースにぽーっと指示を待っていて、後輩に抜かされたって悔しそうな顔なんて微塵もしなくて、他人事みたいに「すごいねー」なんて言っちゃって。同じことを何度も私に聞きに来るし、何度教えた業務でも「わからないんです。一緒にやってくださいよー」と付きっきりになることを求めた。正直イラついた。冷静に注意はしても、感情的に怒りはしないようにしてきたつもりだった。でも、心春ちゃんにはちょっとキレてしまっていたかもしれない。ヒステリックな私が出ていたかもしれない。怒られる度に心春ちゃんがしゅんとして、私ではなく他の人に「一緒にやってくださいよー」をやる頻度が増えた。それでも私は心春ちゃんを放っておけなかった。「もう何回もやってるよね」と口を挟みに行った。心春ちゃんは何回やっても覚えられない。メモをとってもどこにやったか分からなくなる。それでも信じていた。恥ずかしい話、私だってかつては不出来な新人だった。でも、何年も諦めなかったから、ここまで来られた。だから、心春ちゃんも頑張れば何とかなる。私は諦めずに心春ちゃんに接し続けた。同じことを何度も言って、時には突き放しながら、見守り続けた。出来の悪い子ほどかわいい、というのはこういうことを言うのだろうか。突き放しても、心春ちゃんがどうしているかが気がかりでならなかった。でも、それで心春ちゃんが成長すると思っていた。
部下から心春ちゃんがトイレに籠って吐いているという話を聞いた時は寝耳に水だった。確かに最近トイレに行くとなかなか帰ってこないと思ったら。偶然トイレに行くタイミングの被った部下が声をかけたらしい。ちなみに、その部下は心春ちゃんにとっては後輩であり上司だ。心春ちゃんは、私には言わないでと言っていたそうだ。ここ最近は毎朝体が重く、仕事中いつも腹痛に悩まされ、昼食も喉が通らないのでゼリーばかり食べていると話していたという。私には「ゼリーにハマってるんです」なんて言っていて、愚かにも私はそれを何の疑いもなく信じていた。吐いても吐いても、胃液しか出なくても、吐いてしまうらしい。おっとりして、ぼーっとして、蝶々を追いかけてどこかに行ってしまいそうな心春ちゃんが。
いつもふわふわして苦しみとは無縁そうな心春ちゃんが。衝撃だった。
心春ちゃん。私は心春ちゃんが憎かったことなんて一度もなくて、心春ちゃんに会社を辞めて欲しいなんて思ったことだって一度もなくて。むしろ私は心春ちゃんが保護される不出来な部下じゃなくて、もっと肩を並べて働けるような、頼れる一員になってほしくて。でも、それって私の押し付けだったのかな。心春ちゃんはどうしたかったんだろう。わからない。そういうところだね。そういうところが嫌だったんだね。でも、心春ちゃんも成長したいって言ってたよね。だけどそれは、今すぐの話じゃなくて、ゆくゆくの話で、私は自分のペースを心春ちゃんに押し付けてしまったのかもしれない。分からない。今となってはもう分からない。このまま分からないままなのかな。何だろう。こういう時、他の人ならもっと上手くできたのかな。私が上手くできなかったから、心春ちゃんを傷つけてしまった。心春ちゃんにこんな顔をさせてしまった。見たことのない顔をしている。こんなに泣いている心春ちゃんを見るのは初めてだ。ごめんね。何が悪いかも分かってないのに謝るのやめてよ、って、昔、先輩に言われたっけ。私も駄目な新人だったんだよ。物覚えが悪いって、成長しないって、毎日注意されてばっかりだったんだよ。心春ちゃん。勝手に自己投影しちゃってたのかな。
心春ちゃんから「ご飯に行きましょう」なんて誘ってくれたのは、久しぶりだった。何年ぶりだろう。嬉しかった。舞い上がっちゃった。うきうきしていた私は馬鹿だね。心春ちゃんの気も知らないで。そういうところも嫌だったのかな。
街灯が、ネオンが、流れ星みたいに尾を引く。冷たいような熱いような。包丁の柄が私の腹に生えているみたいに深く刺さっている。私の柄、みたいだ。この柄を持って私を自在に操れたら良かったね。ぼやける、にじむ、のは、私も泣いているからだろうか。ごめんね心春ちゃん。でも、私、心春ちゃんのこと見捨てられなくて、心春ちゃんのこと助けたくて、心春ちゃんだってやればできるって思ってて。ごめんね。心春ちゃんはそんな子じゃないんです。心春ちゃんは犯罪者になっちゃうのかな。捕まっちゃうのかな。ごめん。心春ちゃん。私、全然駄目だったね。「そんな子」なんて私が心春ちゃんを下に見てるから出る言葉なのかな。私、そんなつもりなかったんだけど、心春ちゃんは嫌だったんだね。心春ちゃんは私のこういうところ、ぜんぶ嫌だったのかなあ。
ごめんね。でも、声が出ない。喉から濁った音が漏れ出る。届かない。目の前の心春ちゃんは泣きじゃくっている。そんな顔しないでよ心春ちゃん。ごめんね。こんなことさせて。私の何が悪いのか分からなくても、謝ることを許してほしい。ごめんね、心春ちゃん。だからもうそんなに泣かないで。
でもね、私、がんばったんだけどなぁ。いっぱいがんばったんだよ。よくがんばったね。だからもういいよ。もういいんだ。結局私は心春ちゃんを見てなくて、ずっと心春ちゃんを通して私を見ていて、でも私が私を許せて、それが一番泣けた。自分への「がんばったね」が一番。あーあ。ごめんね。心春ちゃん。最後まで、私、駄目な上司だ。
伸ばした手は空を切る。冷たいアスファルトに私は衝突する。

© 2026 曾根崎十三 ( 2026年1月22日公開

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