父親が人間を辞めて蟹に進化したのは一か月前、冬のボーナスが出た直後だった。進化は長年の夢だったらしく、二百万円かけて武蔵浦和駅前のクリニックで手術した。お母さんは当然カンカンに怒ってリビングで父親を怒鳴りつけ、それを見ていた反抗期まっただ中の弟の裕汰は「親父のは進化じゃなくて変態だろ」と、寝転がったソファーから共通テストの生物の赤本を片手につぶやいた。
朝、いつもどおり蟹の姿の父親は、リビングの扉を横向きの体で押し開けて入ってくる。リビングに磯の香りが漂って、海なし県の埼玉県人のコンプレックスを刺激してくるからこの匂いが大嫌いだ。今日も、父親はまだ歩き慣れていないので、イケアで買ったダイニングテーブルだったり椅子に、トゲだらけの甲羅や、たくさん生えた脚をぶつけたりして、ジタバタしながらようやくわたしの目の前の椅子に座った。まん丸の目をキョロキョロさせて、大きなハサミで丁寧にヤマザキのダブルソフトを器用につかみ父親は朝食を口の中へ運んでいく。ハサミでつかんで切られたダブルソフトの欠片がぼろぼろと床にこぼれた。わたし、いまでも覚えているからね。幼稚園のころ、床にパンをこぼすと「器用にやれよ、バカじゃねえの?」だなんて罵ってきたのを。
うまくハサミを使えない、中途半端な蟹だった。進化に失敗した、甘えた蟹だった。仕事は辞めず、人間の父親は七時には家を出て武蔵野線に乗っていたが、蟹になってから会社の制度を使いずっと在宅勤務をしている。
まだ人間を辞めきれない蟹にはしっかり蟹としての運命を理解させなければいけない。人間を辞めた以上、人間に対してはできない方法で今までの恨みを晴らす。それがわたしと裕汰とお母さんの総意だった。「お父さん、大事な話が」と、わたしの横に座るお母さんがかしこまって言った。蟹は何も反応しなかった。人間だったときもお母さんの言うことは全部無視していた。
お母さんは淡々と言葉を続けた。
「夏のボーナスは裕汰の大学進学に使う予定だったのにお父さんはわたしたちに黙って使って蟹に進化しました。わたしたち、もう、限界です。蟹缶になってもらいます。生命保険が入りますからお父さんの稼ぎがなくても生きていけます」
まだ大学生のわたしは知らなかったが、お母さんいわく、あまり報道されないだけで蟹になった家族が突然「間違えて」蟹缶にされることはよくあるらしい。
蟹はむしゃむしゃパンを食べるだけで、隣に座る裕汰は案の定黙っていた。裕汰は父親に無理やりさせられた野球を辞めてから二年ほど一切会話を交わしたことがない。
父親の後ろ、出窓の向こうの道路に銀色のトラックが停まっていた。トラックの扉が開く乾いた音。玄関のチャイムが鳴り、すぐに作業服姿の男たち――マルハニチロかどこかの社員だろう――が、気持ちのいい笑顔をしながらわらわらと入ってくる。プラスチックの名札をひらめかせて男たちは笑顔で名刺を差しだし、クリップボードに挟んだ契約書を見せた。お母さんがペンでさらさらとサインすると男たちは父親を取り囲み、体を太い綱で縛りあげた。父親は蟹だから蟹のようにジタバタして、わたしを見つめて、巨大なハサミをカチカチと鳴らした。
すぐに気づいた。カチカチという音がモールス信号のSOSだったのを。
わたしは父親、いや、蟹のSOSを無視した。蟹になるなら徹底して蟹になれよと思った。この蟹は人間を辞めるぐらい精神年齢が低く、上場企業の管理職という世間体を保とうとして働きつづけ、わたしたち人間とまだ家族でいて、蟹だから人間に捕食されるのは当たり前なのに捕獲されてもその運命を受け入れない。わたしも、裕汰も、お母さんも、みんな、父親が嫌いだった。わたしは父親に「俺はエリートサラリーマンなのに、なんでお前はバカなんだろ」と小さい頃から罵られた。あんな水族館の蟹の小さい水槽のような、息の詰まる進学校、わたし、行きたくなかった。父親は自分の思い通りにならないとそれこそ人間性を捨てて茹でられる蟹みたく暴れるから、わたしが我慢すればこの家はうまく収まるだなんて思っていた。けど、もう耐えられなかった。お母さんも、裕汰も、同じように父親に責められ、みんな耐えられなかった。
やっと解放された。わたしたちは大宮の甲羅本店でランチのかに釜飯御膳をお祝いに食べた。出された蟹はタラバガニ。父親と同じ種類の蟹にした。
満足して家に帰りわたしが玄関の鍵を開けようとしたら、なぜかすでに鍵が開いていた。急に怖くなった。裕汰は「姉ちゃん、まさか泥棒?」と言って顔面を真っ青にさせる。おそるおそる玄関に入り、リビングへ行くと、なにかがテレビをじっと観ていた。体は茹であがったように真っ赤で、あたり一面は磯の香りがした。蟹缶にされたはずの父親だった。蟹を縛りあげた綱が床にぶちぶちと切られて散乱していた。あまりの恐怖に声を出せず、わたしはただ震えるしかなかった。蟹――人間を辞めた父親は、恨みをこめたような、どろっとした目つきで見つめると、その場に倒れ、姿がみるみる透明になって消えた。側にいた裕汰は、腰を抜かして絶叫した。だけどお母さんだけは平気そうで、裕汰の体を抱きあげながら「ようやく死んでくれたのに化けて帰ってこないでよ」と、いままで見たことのない迷惑そうな表情で文句を言った。
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