「丁寧に扱ってください。けっして唇にキスをしてはいけません。もちろん、ペニスを舐めるなんてもってのほかですからね。他のところなら、ふやけるぐらい舐めてもかまいませんが」と、わたしは女たちに釘を刺した。
豊洲のタワマン、2LDKの電気を消したリビング。Minottiの50万円のダイニングテーブルに仰向けで寝かせた全裸のバンドマン――27クラブに入れなかった、可哀想なナツメくん――はもう2週間も死んだように動かない。
わたしはナツメくんのマッシュカットの金髪を触れる。ナツメくんを載せたテーブルには蝶の仮面をつけた女4人がついている。大学生の女は、口に手を当てて目をぱちぱちとさせ、広告代理店の女は、血走った目をギラつかせ、舌舐めずりをしていた。
女たちの熱っぽい息遣い。湿気。恍惚。動物的欲情。
ぞくぞくしてきた。わたしは知っている。ふやけるほどに舐められたバンドマンはきれいな蝶に姿を変えて羽ばたくことを。
ナツメくんはバンド活動での収入が3桁後半くらいあって、けっこうな数のファンもいる。けれどナツメくんは、わたしと結婚したくて正社員になりたいからバンド活動を辞めると、28歳の誕生日に、麻布十番のバーの、目の前に東京タワー、森ビルの高層ビル群が広がるテラスで、滑稽なほど真剣な表情をして宣言した。
失望した。家庭の幸福なんて、ナツメくんには必要ないじゃない。バンドマンのままでいさせたかったのに。だからナツメくんには人間を辞めてもらう。蝶になってもらうの。これはナツメくん、あなたのため。シワだらけで腰の曲がったジジイで死ぬよりも、蝶になったほうが幸せでしょ?
リビングに差す月明かり。隣のタワマンが身に纏う生活の光。窓からさす光たちはナツメくんの白くて痩せた体を照らす。
ナツメくんの肌から香る汗の匂いは、外コンのマネージャーで稼ぐ金を5年分溶かして購入した部屋を、くまなく満たしていた。
わたしが「それではお舐めください」と言うと、女たちは、ナツメくんの体へ頭を埋めて一心不乱に舐めはじめた。
大学生は右腕。広告代理店の女は右足。臍に舌をねじこむのは経産省の女。美容外科経営の女は恥ずかしげに耳を舌でつつく。
犬みたいだと思った。結局、人間は社会性という皮を剥げばただの動物だ。ここに来るような女たちは社会のヒエラルキーの上層にいる。医者、弁護士、大企業の社員、インフルエンサー、議員、その他もろもろ。わたしが「バンドマンを舐めれば美容効果があるし、アンチエイジングも期待できる」とXに課金して宣伝したおかげで、夜な夜な、上級国民の女がこの部屋で、ひたすら全裸のナツメくんを舐めまわすために集まる。
急に、テーブルの上のナツメくんが、むずむずと体を動かした。蛹になった人間はもう動かないはずなのに。
ナツメくんの肌を見る。女の涎にまみれ、鱗粉のように輝く肉体。透き通った皮膚の向こうには、瑠璃色の複雑な模様をした、布のようなものがくるまっていた。
そうか、そろそろ羽化するんだ。いままで舐めさせた女は100人を越す。そろそろ脱皮してもおかしくない。
わたしはナツメくんの顔をのぞきこむ。丸くて小さく、小型犬のような顔。よく見ると皮膚が透け、模様が見えた。わたしは口に唾を溜めると、顔に向かって一気に飛ばした。涎だらけの顔に、泡まみれの唾が乗り、たらーっと垂れる。
女たちは終電間際までナツメくんを舐めると、顔をうっとりさせ帰っていった。
豊洲駅に向かう女たちを窓越しに眺めたあと、わたしはテーブルへ顔を向けた。
ナツメくんは突然もぞもぞと体を揺らす。腹が膨れる。どんどん膨れる。一気に縦に裂ける。顔も裂ける。ペニスも真っ二つ。
さあ、そろそろだ。ナツメくんが脱皮する。その長い裂け目から、白いむくむくと出てきたのは身の丈1メートルの蝶。蝶はわたしを見て首を傾げ、瑠璃色の大きい羽を誇るように、広げた。リビングに鱗粉が舞った。
蝶は上目遣いでわたしを見下ろす。蝶の顔つきは、生意気そうにギブソンのレスポールを背負っていた、人間時代のナツメくんとそっくりだった。
翌朝、人蛹蝶、いや、ナツメくんは、瑠璃色の羽を広げ、タワマンの窓から東京湾の大空へ舞いあがっていった。遠くまで飛んで小さくなったナツメくんを、わたしは手を振って見送ると部屋へ戻った。
テーブルに抜け殻が残る。ナツメくんの皮と毛だった。
さすがに抜け殻はいらないかな。
今日は燃えるゴミの日。わたしはゴミ袋へ突っこむと、出社するため玄関のドアを思い切りあけた。
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