妻が小惑星になった。
自宅の屋上に建てた天文台で望遠鏡を覗きながら頬を涙が伝わる。視界は涙でぼやけていたが、大宇宙の漆黒に浮かぶ小惑星の姿は、はっきりとわかった。何千何万回も見た、妻の顔だった。
「どうして」
わたしのつぶやきに、小惑星、いや、妻は微笑んで答えた。
「あなたが望んだからよ」
確かにそうだった。だが、あの時言った言葉は、そういう意味でない。脳裏に、死に際ではないのに走馬灯が鮮明によぎる。
妻と初めて会ったのは高校の廊下だった。乙姫が実在したらこんな子なんだろう。それぐらい綺麗だった。一目惚れした。同じ大学を受けるのを知ったのは三年生の夏、初めてのデートで行った映画館でアルマゲドンを見た後だった。
赤本。センター試験。雪。二次試験。そして桜。入学式は妻と一緒に正門の前で写真を撮った。
理系学部の課題の量は高校の比でない。図書館で、分厚い教科書を広げて一緒に課題を解きながら、妻と宇宙を語りあった。
理学部が就職無理学部と気づき、同級生が行方不明になったり、退学したりするなか、わたしと妻はなんとか生き残った。イオンとパチンコ屋しかない田舎の実家が太く、働く必要がなかったのも幸いしていた。
そのまま博士号を取って特任助教になった。築三十年の四畳半のアパートでプロポーズをした。
「いつか、君を小惑星にしたい。それまで待ってくれる?」
「ええ」
妻は恥ずかしそうにはにかんだ。あの頃は夢があった。野心があった。ただの小惑星に妻の名前をつける気はない。学会を激震させる世紀の大発見をして、その天体につける気だった。
だが、その直後に突然キャリアが絶たれてしまった。家を継ぐはずの兄が事故で死んだ。兄の葬式の直前、寺の廊下で親父から商売を継げと命じられた。
帰宅して、妻に大学を辞めると告げた。妻の放った言葉はただ一言、「がっかりした」。
たまたま才能があったのだろう。ビジネスは上手く軌道に乗った。天文台はアマチュアでもある程度研究できる。わたしは家の天文台にこもり、小惑星や彗星を数え切れないほど発見したが、妻の名前をつけなかった。たいした発見でなかったからだった。
一方、大学に残った妻は研究に行きづまり、正規雇用になれず、社会への呪詛をぶつけるようになった。
そして今日、夕飯を食べたあとに妻と喧嘩した。どんな理由で喧嘩したのか、はっきりと思い出せない。苦しげに眉間に皺を寄せた妻が食卓に手のひらを叩きつけると、突然、はっとした顔になり、「わかった!」と叫んで家を出た。そのまま妻は靴を履かず、裏山の草むらへ走っていった。
妻に向かって叫んだ。
「どこへ行くんだ!」
「遠くまでよ! あなたがたどり着けないほど、ずっと遠く!」
妻の姿は草むらに吸いこまれるように消えていった。
わたしは望遠鏡越しに小惑星へ聞く。
「おい、だからってお前が小惑星になることはないじゃないか」
「あなたが夢を叶えてくれないから、自分で夢を叶えることにしたの」
答える妻は勝ち誇った顔をしていた。マツムシの鳴く音が騒々しかった。夜空に雲がかかって、妻の顔はすっと隠れていった。
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