熊さんと八っつぁんがサメに襲われてから一ヶ月が経った。
「馬鹿野郎、お前まで海に行くつもりか!」
大工の与太郎は長屋の大家に叱り飛ばされた。
「大家さん、俺も潮湯治に行きたいんだ。ほら、サメ歌舞伎だと潮湯治の場面がしょっちゅう出てくるだろ? 俺もやりてえんだ」
与太郎は頭をかいてへらへら笑った。
最近の若者はサメ映画に夢中だが、江戸の世にも、サメに襲われて町人が慌てふためくという歌舞伎の演目が存在し、木挽町の芝居小屋は連日大盛況だった。ただ、サメ歌舞伎がサメ映画と異なるのは、海水浴の場面がない点だった。江戸の世にはまだ、海で遊ぶという概念はなく、海は湯治のように体を治療するために入る場所であった。これを潮湯治と呼んでいた。
大家は与太郎の耳を引きちぎれそうになるまでひっぱった。与太郎の耳をひっぱるのは与太郎の「教育係」の熊さんと八っつぁんの役割だったが、二人がいなくなってから与太郎は急にシャキッとしだし、耳をひっぱられたのはこれが久しぶりだった。
「お前は熊と八のようにサメの餌になりたいのか!」
「俺はあの二人とは違って食べられねえ。サメ歌舞伎だと、美男美女しか食べられないから。俺はブ男だ。大丈夫だ」
「ふざけるな。サメが人間の顔なんてわかるもんか!」
大家が顔を真っ赤にしても、与太郎は笑い続けていた。すると隣から油問屋の若旦那がニヤニヤしながら話に加わった。
「いいじゃないですか、大家さん。私も行きますよ。サメなら与太郎よりも私を食べるでしょう。さすがにサメも馬鹿の肉は食べませんから」
「つったって、本当に大丈夫なのか?」
怪訝そうな表情を浮かべる大家をよそに、与太郎は若旦那の裾を引っ張りながら「というわけで、海に浸からなきゃサッパリしないですし、潮湯治に行ってきます」と大家へ言って、長屋を出ていった。
長屋の木戸を跳ね上げ、与太郎と若旦那は夕立の間に吹く風のように江戸の町を駆けていき、昼前には潮湯治場のある高輪に到着した。幅が六間もある東海道は江戸の海の縁に円弧を描くよう走っていて、海の水面は、時折大きな黒い影が現れるがすぐに消え去っていった。
「アカエイの化け物かなんかだな」と与太郎が海を眺めて呑気につぶやくと、若旦那は鼻で笑いながら「馬鹿。アカエイの化け物はもっと大きいんだ。体が三里もあるってんだからな。日本橋から品川まででも二里だ。あの影なんて、人の背丈の二人分じゃねえか。俺みたいに黄表紙をたくさん読めば賢くなれる」とぴしゃりと与太郎の頭を叩いた。
高輪の海の岸は石で舗装されているが、江戸の町と外を仕切る大木戸のそばに、真新しい桟橋が沖へ向かって伸びていた。
与太郎と若旦那は桟橋のたもとにやってきた。たもとには掘っ立て小屋があり、軒下に吊り下げられた看板には「しおゆ」の字が見せつけるように書かれていた。
「やってきましたよ、高輪潮湯治場!」
与太郎がはしゃぐと若旦那は「俺が銭を出すんだからありがたく思えよ」と、恩着せがましそうに与太郎の肩を叩いた。
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